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アンヘルは膝の土を払うと、軽く咳払いして、顔を引き締める。そのようすがヴィオレータにはなんだかかわいらしいしぐさに思えて、笑いそうになるのをこらえる。
彼は改めて挨拶を述べ、ていねいに名乗った。
「お話は伺っています。私はカルティべ伯爵が長子、アンヘルと申します。エストレラ公爵令嬢でいらっしゃいますか?」
「はい。ヴィオレータと申します」
両手が塞がったままではカーテシーができない。困ったが、軽く膝を曲げて礼にかえる。その細腕からキャベツを取り返して、アンヘルは自身を追ってきた年かさの研究員を見返った。
「せっかく時間を取っていただいたのに、申し訳ない。また、次の機会に参ります」
「とんでもない! アンヘルさまなら、いつでも大歓迎ですよ。よろしければ、そちらのキャベツもお預かりしますが?」
親しげなやりとりを目にして、アンヘルがこの研究所に通い詰めているらしいと悟る。キャベツのせいでたがが外れたヴィオレータは、好奇心が鎌首をもたげるのを抑えきれなかった。
「そちらにおいでのウゴ先生は、物質科学がご専門でいらっしゃいますよね? アンヘルさまも共同でご研究していらっしゃるのですか?」
直接、何を研究しているのかと聞きたいところを我慢して、迂遠に尋ねたヴィオレータに、ふたりは目を丸くした。
「いやぁ、お嬢様がわたくしめをご存知とは、畏れ多いことです。当研究所には、初めてお運びいただいたはずですが、どちらかでお目にかかっておりましたでしょうか」
そういえば、ウゴに会ったのは、王太子と婚約してからだ。今世では初対面である。
「──先生の論文を何本か拝見いたしましたの」
失敗に気づいて、微笑みながら詳細を濁したヴィオレータに、ウゴは嬉しそうな顔をした。その笑顔につられて、感想を述べたくなって、慎重に論文の執筆年代を思いおこす。またうっかり未来の話をしてはいけない。
「『ドゥルセトリゴとブエノステスにおける麦畑の土壌比較』は、たいへん興味深かったです。山がちなブエノステスでは、我が国ほど広い耕作地が得られないために用いられにくい農業用家畜が、結果として収穫量にまで影響している可能性があるだなんて、驚きました」
「ああ、それなら私も読みました。厩肥と草木灰の肥料としての有効性に裏付けがなされたものですよね?」
厩肥とは、家畜のフンを発酵させた肥料のことだ。論文中に出てきた畑では、主にドゥルセトリゴで用いられていた。
気象条件を揃えるために各地から土を譲り受け、施肥をする土地、しない土地を用意し、それぞれの収穫前後の土壌の成分を分析し、両者の収穫量を地域ごとに記録した論文だ。どちらの国も土質は同じ黒土だと知って、びっくりしたのを覚えている。
特産品が違うのは、地形や文化、気象条件などが原因で、元の土は変わらないというのが、ヴィオレータに意外で面白かった。
「──アンヘルさま。差し出がましいようですがね、こちらのお嬢様なら、ご一緒にお話しても差し支えないのでは? なるべく手短に済ませますから」
「……しかし」
「ええ、お気になさらず、どうぞご用事をお済ませくださいませ。お邪魔をしたのはわたくしのほうですもの」
まだ、神殿に駆け込む前にゆっくりとお茶ができるだけの時間の余裕はある。にこりと請け合っても、アンヘルは少し踏ん切りがつかないようすだ。無理もない。救荒作物の話をひとにしただけのヴィオレータがじゃがいも令嬢と呼ばれるくらいだ。婚約破棄までされたアンヘルは、「例の牛のひと」くらい言われていてもおかしくない。どんなにこころの強い者でも、信念があろうとも、めげるときはめげるものだ。
ヴィオレータは彼を安心させるように、ことばで背を押してやった。
「わたくしもウゴ先生のご講義を受けられたら素敵ですけれど、今日は準備が足りませんわね。気兼ねなくおふたりでお話しになってください」
そう言って、声は聞こえる程度の距離で畑を見てまわりはじめる。アンヘルがウゴと話しはじめるのを聞きながら、彼をどう口説き落とそうかと悩む。
いかにも真面目で裏表もなく、純朴そのもの。陽光に照らされた榛色の髪は、黄金にきらめく。まっすぐだが、彼が動くたびにふわりと揺れる。一本一本が細くやわらかい髪質なのだろう。背の低いウゴと目を合わせるためにうつむきがちになった横顔は、真剣そのものだ。
女性としては長身のヴィオレータよりも、アンヘルは頭ひとつぶんは高い。王太子と婚約していたときは、背伸びしたら同じくらいの目線になるからと、履く靴に気をつけていたが、彼にはそうした気遣いは要らないだろう。
──パウラ叔母さまにも打ち明けていないけれど、素直にすべて話す?
妙なことを言った挙句に断られれば、叔母の顔を潰すことになる。けれど、効果的に自分を売り込もうにも、ヴィオレータの押し出す要素は、伯爵家には効いても、アンヘル本人には通じない気がした。
迷ううちに話が終わったらしい。アンヘルがこちらをふりかえった。目が合う。緑の瞳は何の思惑もなく澄んでいて、好ましい。考えていると、とつぜん、アンヘルはさっと目を逸らした。
不躾に見つめすぎたかと反省しつつ近づいていくと、アンヘルはヴィオレータにおもむろに手をさしだした。
「お待たせしました」
強張った顔つきで出された手に、みずからの手を重ねてから、手袋を着け忘れていたことを知る。家族以外の男性に直接触れたのは、初めてだった。
彼は改めて挨拶を述べ、ていねいに名乗った。
「お話は伺っています。私はカルティべ伯爵が長子、アンヘルと申します。エストレラ公爵令嬢でいらっしゃいますか?」
「はい。ヴィオレータと申します」
両手が塞がったままではカーテシーができない。困ったが、軽く膝を曲げて礼にかえる。その細腕からキャベツを取り返して、アンヘルは自身を追ってきた年かさの研究員を見返った。
「せっかく時間を取っていただいたのに、申し訳ない。また、次の機会に参ります」
「とんでもない! アンヘルさまなら、いつでも大歓迎ですよ。よろしければ、そちらのキャベツもお預かりしますが?」
親しげなやりとりを目にして、アンヘルがこの研究所に通い詰めているらしいと悟る。キャベツのせいでたがが外れたヴィオレータは、好奇心が鎌首をもたげるのを抑えきれなかった。
「そちらにおいでのウゴ先生は、物質科学がご専門でいらっしゃいますよね? アンヘルさまも共同でご研究していらっしゃるのですか?」
直接、何を研究しているのかと聞きたいところを我慢して、迂遠に尋ねたヴィオレータに、ふたりは目を丸くした。
「いやぁ、お嬢様がわたくしめをご存知とは、畏れ多いことです。当研究所には、初めてお運びいただいたはずですが、どちらかでお目にかかっておりましたでしょうか」
そういえば、ウゴに会ったのは、王太子と婚約してからだ。今世では初対面である。
「──先生の論文を何本か拝見いたしましたの」
失敗に気づいて、微笑みながら詳細を濁したヴィオレータに、ウゴは嬉しそうな顔をした。その笑顔につられて、感想を述べたくなって、慎重に論文の執筆年代を思いおこす。またうっかり未来の話をしてはいけない。
「『ドゥルセトリゴとブエノステスにおける麦畑の土壌比較』は、たいへん興味深かったです。山がちなブエノステスでは、我が国ほど広い耕作地が得られないために用いられにくい農業用家畜が、結果として収穫量にまで影響している可能性があるだなんて、驚きました」
「ああ、それなら私も読みました。厩肥と草木灰の肥料としての有効性に裏付けがなされたものですよね?」
厩肥とは、家畜のフンを発酵させた肥料のことだ。論文中に出てきた畑では、主にドゥルセトリゴで用いられていた。
気象条件を揃えるために各地から土を譲り受け、施肥をする土地、しない土地を用意し、それぞれの収穫前後の土壌の成分を分析し、両者の収穫量を地域ごとに記録した論文だ。どちらの国も土質は同じ黒土だと知って、びっくりしたのを覚えている。
特産品が違うのは、地形や文化、気象条件などが原因で、元の土は変わらないというのが、ヴィオレータに意外で面白かった。
「──アンヘルさま。差し出がましいようですがね、こちらのお嬢様なら、ご一緒にお話しても差し支えないのでは? なるべく手短に済ませますから」
「……しかし」
「ええ、お気になさらず、どうぞご用事をお済ませくださいませ。お邪魔をしたのはわたくしのほうですもの」
まだ、神殿に駆け込む前にゆっくりとお茶ができるだけの時間の余裕はある。にこりと請け合っても、アンヘルは少し踏ん切りがつかないようすだ。無理もない。救荒作物の話をひとにしただけのヴィオレータがじゃがいも令嬢と呼ばれるくらいだ。婚約破棄までされたアンヘルは、「例の牛のひと」くらい言われていてもおかしくない。どんなにこころの強い者でも、信念があろうとも、めげるときはめげるものだ。
ヴィオレータは彼を安心させるように、ことばで背を押してやった。
「わたくしもウゴ先生のご講義を受けられたら素敵ですけれど、今日は準備が足りませんわね。気兼ねなくおふたりでお話しになってください」
そう言って、声は聞こえる程度の距離で畑を見てまわりはじめる。アンヘルがウゴと話しはじめるのを聞きながら、彼をどう口説き落とそうかと悩む。
いかにも真面目で裏表もなく、純朴そのもの。陽光に照らされた榛色の髪は、黄金にきらめく。まっすぐだが、彼が動くたびにふわりと揺れる。一本一本が細くやわらかい髪質なのだろう。背の低いウゴと目を合わせるためにうつむきがちになった横顔は、真剣そのものだ。
女性としては長身のヴィオレータよりも、アンヘルは頭ひとつぶんは高い。王太子と婚約していたときは、背伸びしたら同じくらいの目線になるからと、履く靴に気をつけていたが、彼にはそうした気遣いは要らないだろう。
──パウラ叔母さまにも打ち明けていないけれど、素直にすべて話す?
妙なことを言った挙句に断られれば、叔母の顔を潰すことになる。けれど、効果的に自分を売り込もうにも、ヴィオレータの押し出す要素は、伯爵家には効いても、アンヘル本人には通じない気がした。
迷ううちに話が終わったらしい。アンヘルがこちらをふりかえった。目が合う。緑の瞳は何の思惑もなく澄んでいて、好ましい。考えていると、とつぜん、アンヘルはさっと目を逸らした。
不躾に見つめすぎたかと反省しつつ近づいていくと、アンヘルはヴィオレータにおもむろに手をさしだした。
「お待たせしました」
強張った顔つきで出された手に、みずからの手を重ねてから、手袋を着け忘れていたことを知る。家族以外の男性に直接触れたのは、初めてだった。
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