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目が覚めたとき、ヴィオレータは奥庭の芝生のうえだった。からだの下に敷物として、外套が広げられている。身を起こすと、そばには見知らぬ女官と年若い紳士の姿があった。この紳士の外套だと、身なりでわかった。
紳士はヴィオレータの視線を受けて、ほっとしたように表情をゆるめ、その場に片膝をつく。うしろに撫で付けてあった榛色の柔らかそうな髪が、かがみこんだ拍子にほつれ、幾筋か額にかかる。そうすると、一気に顔立ちの幼さが増した。同年輩かもしれない。
「大事ないようですね。いま、医師を呼びに行かせていますから、そのままお待ちを」
「どうか、おおごとにはなさらないでくださいませ」
彼に騒がれては、何のために窓から飛んだのか、わからなくなってしまう。説明もろくにせぬまま、親切からの行動を拒否するヴィオレータに、紳士は気を悪くした風もなくうなずいた。
「わかっています。何があってあのようなことになったかは伺いませんし、できれば、すべてをなかったことにしたほうがよいでしょう。こちらの女官を証人に呼んだとは言え、ご令嬢を男の私が介抱したのも、外聞がよろしくないですから」
窓からの脱走劇を一部始終、ぜんぶ見られていたらしい。ヴィオレータは恥じ入りながらも礼を述べ、せめてもと頭を下げた。まさか、地面に降りたった衝撃で気を失ってしまうとは思わなかった。けれども、手も足も奇跡的に無事だし、ドレスにも目立った損傷はなさそうだ。
そんなことを考えていると、紳士は近くに転がっていたヴィオレータの靴に手を伸ばした。
「──失礼」
ひとこと断ってから、足に履かせてくれる。
「っつ……」
ヴィオレータの口から、小さく声が漏れた。無傷かと思っていたが、足首を痛めていたらしい。動かすと、鈍痛があった。しかし、歩けないほどではない。
紳士の手を借りて、その場に立たせてもらうと、足首の痛みと、踏みしめた芝の心許なさにぐらついた。紳士は手を引いて、ヴィオレータを庭の小径まで誘導すると、女官に引き渡す。
女官がドレスの汚れをさっと払う間に、紳士は芝生へ戻って外套を拾い上げ、腕にかけた。それを見て、ヴィオレータはとっさに口を開いていた。
「後日、新しいものを贈らせてくださいませ」
「お気になさらず。埃を払えば、問題なく着られますから」
あっさりと言われて、そうではないと首を小さく振る。ヴィオレータは贈りものを口実に紳士の名を聞き出そうとしたのだ。だが、紳士はこちらの真意を知ってか知らずか、にこやかにはぐらかし、立ち去ろうとする。
──何か、手がかりはないかしら。
紳士の容貌は整っているものの、際立って容色が優れているわけではない。髪は榛色、瞳は緑。色合いも平凡だ。いかにも真面目そうで、浮ついた噂話のタネにはなりそうもない。服の仕立ては上等だが、王都の店の品ではなさそうだ。……と、ここまで見て、彼の手元に目が行った。
左手の小指に指輪が見えた。かたちから推しはかるに、紋章入りのものだ。繊細な細工は、この暗さでは見て取れない。しかし、相手が十八歳以上で未婚だということはわかった。貴族の男子が印章指輪を身につけるのは、そのくらいからだし、既婚者は結婚指輪とともに薬指につけかえるものだ。
既婚ならよかったのにと、ヴィオレータはほぞを噛んだ。未婚の男性にこちらから名を問うなんて、うかつな真似はできないではないか。
「もう、夜会は始まっているでしょうか」
ヴィオレータのことばに、紳士は空を見上げ、何かを探すようなしぐさをした。それから、うなずく。
「そうですね、きっともう刻限でしょう」
そのことばに釣られて、ヴィオレータも空を見る。何を見たのだろうかと不思議に思っていると、紳士は少し笑って、腕を上げた。
「星を見たのですよ。あのひとつ星を中心に、星の動きを読めば、だいたいの時刻がわかります」
「そんなことができるのですか!」
「ええ。領地を見てまわると、さまざまなことを教わる機会があるのです。先日などは、孤児院の子らに混じって、粥の炊きかたを教わりました」
そのときのことを思い出したのか、楽しそうにする紳士に、ヴィオレータは微笑み、時間も無いというのに、つい、話を展開させる。
「大麦ですか? 燕麦ですか?」
「燕麦でしたね」
「安価ですが、食べるまでに手間がかかると聞きますけれども、そちらも子どもたちが?」
ヴィオレータが話題につられて執務モードに切り替わると、紳士は顔を輝かせ、これまでの距離を取った姿勢をかなぐり捨てた。
「そうなんですよ! 脱穀から、蒸して押し麦にするまで、すべての工程を自分たちで行うそうで、次の夏にはそちらの工程にも参加させてもらおうかと」
「素晴らしいですね。ぜひわたくしも参加したいわ! 研究をかねて、伺っても?」
「構いませんが……」
我に帰った紳士に、ヴィオレータはニコニコして手を打った。
「ありがとう存じます! 燕麦は我が国でも栽培されているものの、自家利用が多く、なかなか調理方法の調査が進まなかったんですの。大麦同様に押し麦にする方法もあるのですね、参考になりましたわ」
「燕麦に、ご興味がおありで?」
控えめな問いかけに、ヴィオレータは首を横に振る。
「救荒食物全般に興味がございます。わたくしの最も推しておりますのは、じゃがいもです」
「ああ!」
目の前の相手が社交界の笑い者、じゃがいも令嬢だと、紳士も気づいたらしい。だが、彼の態度は大きくは変わらなかった。
「名乗り遅れました。私はカルティベ伯爵が長子アンヘルと申します。以後お見知りおきを、エストレラ公爵令嬢」
「こちらこそ、カルティべ伯爵子息さま」
「弟が三人もおりますので、紛らわしいことでしょう。どうぞ、私のことはアンヘルとお呼びください」
アンヘルは建物まで付き添ってくれたが、そこからは人目をはばかり、ついてこなかった。ヴィオレータは王太子の婚約者なのだし、誤解を避けるためにはしかたのないことだが、夜会の席で再会できたら、もうちょっと他の話もしてみたかった。
ヴィオレータは痛む足をこらえて公爵家の部屋へ向かい、父と合流すると、遅れを取り戻すべく、宴会場へと急いだ。
紳士はヴィオレータの視線を受けて、ほっとしたように表情をゆるめ、その場に片膝をつく。うしろに撫で付けてあった榛色の柔らかそうな髪が、かがみこんだ拍子にほつれ、幾筋か額にかかる。そうすると、一気に顔立ちの幼さが増した。同年輩かもしれない。
「大事ないようですね。いま、医師を呼びに行かせていますから、そのままお待ちを」
「どうか、おおごとにはなさらないでくださいませ」
彼に騒がれては、何のために窓から飛んだのか、わからなくなってしまう。説明もろくにせぬまま、親切からの行動を拒否するヴィオレータに、紳士は気を悪くした風もなくうなずいた。
「わかっています。何があってあのようなことになったかは伺いませんし、できれば、すべてをなかったことにしたほうがよいでしょう。こちらの女官を証人に呼んだとは言え、ご令嬢を男の私が介抱したのも、外聞がよろしくないですから」
窓からの脱走劇を一部始終、ぜんぶ見られていたらしい。ヴィオレータは恥じ入りながらも礼を述べ、せめてもと頭を下げた。まさか、地面に降りたった衝撃で気を失ってしまうとは思わなかった。けれども、手も足も奇跡的に無事だし、ドレスにも目立った損傷はなさそうだ。
そんなことを考えていると、紳士は近くに転がっていたヴィオレータの靴に手を伸ばした。
「──失礼」
ひとこと断ってから、足に履かせてくれる。
「っつ……」
ヴィオレータの口から、小さく声が漏れた。無傷かと思っていたが、足首を痛めていたらしい。動かすと、鈍痛があった。しかし、歩けないほどではない。
紳士の手を借りて、その場に立たせてもらうと、足首の痛みと、踏みしめた芝の心許なさにぐらついた。紳士は手を引いて、ヴィオレータを庭の小径まで誘導すると、女官に引き渡す。
女官がドレスの汚れをさっと払う間に、紳士は芝生へ戻って外套を拾い上げ、腕にかけた。それを見て、ヴィオレータはとっさに口を開いていた。
「後日、新しいものを贈らせてくださいませ」
「お気になさらず。埃を払えば、問題なく着られますから」
あっさりと言われて、そうではないと首を小さく振る。ヴィオレータは贈りものを口実に紳士の名を聞き出そうとしたのだ。だが、紳士はこちらの真意を知ってか知らずか、にこやかにはぐらかし、立ち去ろうとする。
──何か、手がかりはないかしら。
紳士の容貌は整っているものの、際立って容色が優れているわけではない。髪は榛色、瞳は緑。色合いも平凡だ。いかにも真面目そうで、浮ついた噂話のタネにはなりそうもない。服の仕立ては上等だが、王都の店の品ではなさそうだ。……と、ここまで見て、彼の手元に目が行った。
左手の小指に指輪が見えた。かたちから推しはかるに、紋章入りのものだ。繊細な細工は、この暗さでは見て取れない。しかし、相手が十八歳以上で未婚だということはわかった。貴族の男子が印章指輪を身につけるのは、そのくらいからだし、既婚者は結婚指輪とともに薬指につけかえるものだ。
既婚ならよかったのにと、ヴィオレータはほぞを噛んだ。未婚の男性にこちらから名を問うなんて、うかつな真似はできないではないか。
「もう、夜会は始まっているでしょうか」
ヴィオレータのことばに、紳士は空を見上げ、何かを探すようなしぐさをした。それから、うなずく。
「そうですね、きっともう刻限でしょう」
そのことばに釣られて、ヴィオレータも空を見る。何を見たのだろうかと不思議に思っていると、紳士は少し笑って、腕を上げた。
「星を見たのですよ。あのひとつ星を中心に、星の動きを読めば、だいたいの時刻がわかります」
「そんなことができるのですか!」
「ええ。領地を見てまわると、さまざまなことを教わる機会があるのです。先日などは、孤児院の子らに混じって、粥の炊きかたを教わりました」
そのときのことを思い出したのか、楽しそうにする紳士に、ヴィオレータは微笑み、時間も無いというのに、つい、話を展開させる。
「大麦ですか? 燕麦ですか?」
「燕麦でしたね」
「安価ですが、食べるまでに手間がかかると聞きますけれども、そちらも子どもたちが?」
ヴィオレータが話題につられて執務モードに切り替わると、紳士は顔を輝かせ、これまでの距離を取った姿勢をかなぐり捨てた。
「そうなんですよ! 脱穀から、蒸して押し麦にするまで、すべての工程を自分たちで行うそうで、次の夏にはそちらの工程にも参加させてもらおうかと」
「素晴らしいですね。ぜひわたくしも参加したいわ! 研究をかねて、伺っても?」
「構いませんが……」
我に帰った紳士に、ヴィオレータはニコニコして手を打った。
「ありがとう存じます! 燕麦は我が国でも栽培されているものの、自家利用が多く、なかなか調理方法の調査が進まなかったんですの。大麦同様に押し麦にする方法もあるのですね、参考になりましたわ」
「燕麦に、ご興味がおありで?」
控えめな問いかけに、ヴィオレータは首を横に振る。
「救荒食物全般に興味がございます。わたくしの最も推しておりますのは、じゃがいもです」
「ああ!」
目の前の相手が社交界の笑い者、じゃがいも令嬢だと、紳士も気づいたらしい。だが、彼の態度は大きくは変わらなかった。
「名乗り遅れました。私はカルティベ伯爵が長子アンヘルと申します。以後お見知りおきを、エストレラ公爵令嬢」
「こちらこそ、カルティべ伯爵子息さま」
「弟が三人もおりますので、紛らわしいことでしょう。どうぞ、私のことはアンヘルとお呼びください」
アンヘルは建物まで付き添ってくれたが、そこからは人目をはばかり、ついてこなかった。ヴィオレータは王太子の婚約者なのだし、誤解を避けるためにはしかたのないことだが、夜会の席で再会できたら、もうちょっと他の話もしてみたかった。
ヴィオレータは痛む足をこらえて公爵家の部屋へ向かい、父と合流すると、遅れを取り戻すべく、宴会場へと急いだ。
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