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八
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とてもすてきな縁談のはずなのに、なぜか不安で、けれども何が不安なのかわからない。
そのようなことを告白できる相手は、アメリカにいる親友アリスか、もしくはもうひとりの友、梅子しかいない。しかしながら、広く深い太平洋を隔てたアメリカの地は果てしなく遠く、アリスにむけた手紙の返事は、今日明日に届くものではないのだった。
「……それで、うちに来たの?」
梅子は年上の友人を立って出迎えることもせず、椅子にもたれ、肘をつき、足を組んだ。そうして、目を細める。
「ひとつ、確認していいかな。相手は神田乃武で間違いない?」
個人名は告げずにおいたが、いつもそばにいた梅子には無意味なことだった。あっさりと看破され、かえって捨松は恥ずかしくなった。
確認を終えると、梅子は生意気なまでの態度で小首をかしげた。
「スティマツは、きれいな男のひとと、おままごとがしたいの?」
「ままごとなんかじゃないわ」
「へえ?」
人差し指を一本ふりかざし、梅子は小馬鹿にした調子で、くちびるの片端をあげた。
「神田様と住むのはどんな家?」
「洋館よ。二階建ての木造で、外壁は白く塗られているの」
理想を口にしてはみたものの、実際は平屋の日本家屋だろうと思った。
「神田様は大学で英語の先生。じゃあ、スティマツはどんな仕事をするの?」
「──女学校の講師、かしら」
日本語の読み書きさえできるようになれば、先だって文部省から連絡のあったような教師の口は、すぐにも見つかるはずだ。考える間にも、梅子の追及の手はやまない。
「毎日?」
「いいえ、週に何度か。空いた時間には自宅に希望者を呼んでお教えするわ」
「ふぅん、すてきね。きっと、才気溢れる若いかたがたくさん集まるよ。まるでサロンだね、──シゲの家みたい」
冷ややかで平板な声音だった。梅子は捨松の思い描く結婚生活を鼻で笑い、こちらをギッとねめつけた。
「シゲがうらやましいのはよくわかったよ。でもね、スティマツ。たかが週二、三度教えるだけの講師に何ができるの。理解ある夫がいて、ちょっと女学生に教えていたら、それでわたしたち、満足できるのかな? 週に何度かあなたに習うだけの女学生が、この国を変えてくれるの?」
そこまで一息に言って、興奮しすぎたことに気づいたらしく、梅子は深く息を吐き、目を伏せ、それから、落ち着いた声に戻った。
「わたし、ずっと考えてた。そりゃ、ステレオタイプな女の幸せをつかむなら、ぜひともシゲを真似するべきだよ。だけど、考えてもみて。わたしやスティマツの一挙手一投足が、未来の日本女性の生きかたを左右するのよ。賢いあなたなら、わかるよね?」
梅子のことばがそこで仕舞いでないことも、捨松にはよくわかっていた。みなまでは指摘しない梅子に、うなずきを返す。
『あなたなら、わかるよね? 神田様の手を取るべきではないことくらい』
梅子の声は、まるでほんとうに発されたかのように、胸に響いてきていた。
その夜、捨松は寝付けずに、寝間着の胸で指を組み、ひたすらに祈っていた。ロザリオを繰りながら祈りのことばをささやくと、こころは自然に凪いで、静まる。同じクリスチャンの神田といっしょになれば、ともにこうした穏やかなひとときを持つこともあったかもしれない。
あの紳士──大山にやりこめられ、いままた梅子に手ひどく叱られて、捨松には、自分の歩むべき道を見出していた。そして、その道は、伴侶を得た先にある。繁子の真似でも、梅子の言いなりでもない、自分だけの第三の道。日本人と同じことばを話し、同じ境遇にいながらにして、日本を変えることのできる道。
捨松のあげる声に耳を傾けてもらうためには、このまま独り身でいてはいけない。けれど、相手が神田ではダメなのだ。留学生同士、年の近い同士の結婚に浮かれて、ぬるま湯につかるように、心地よさに身を沈めて、何もかも忘れ去ってしまえたらよかったのに。
ついさきほど、捨松は神田にあてた手紙を書き終えていた。求婚を断るためのものだ。神田にはきっと、もっとふさわしい縁談があるだろう。捨松は、神田の手は取れない。
梅子に言われたからではない。彼と過ごすぬるま湯の心地よさのなかでは、捨松は傲り高ぶった考えしか持てなかった。梅子に高尚な理想を語られて、それに憧れる一方で、捨松はそのような自分でありたくなかった。アメリカにいたときの捨松はもっと純粋に、日本にはない素晴らしいことを多くのひとに知って欲しいと、ただそう考えていた。そのための学校設立を夢見ていたはずなのに。
祈りを唱えるうちに、無心になっていた。捨松はこの、神がかるような、こころが澄みきる感覚を懐かしく思った。
子どものころ、よく覚えた感じだった。遊びに熱中して、疲れて足が立たなくなるまではしゃぎまわって、草原へ倒れこむと、会津の空が青々と晴れ渡り、自分たちを迎えてくれる。空に飲みこまれるようにして、ぼうっと時を過ごし、しばらくして、また遊ぶ。
留学してすぐのころは、とにかく会津が恋しかった。母や兄姉が住むのは、もう会津の地ではないのを知っていたけれど、それでも、捨松が見たいのは会津の空だった。
だが、思いだす空には、いつも凧が舞う。
徳川家に忠誠をつくした会津藩は賊軍となり、帝を擁した薩摩藩や長州藩は官軍となった。八つだった捨松は家族とともに鶴ヶ城に籠もり、大砲の弾が降るときは、焼き玉押さえに追われていた。飛びこんできた弾に濡れた布団を被せて鎮火する危険な役目だ。実際、兄嫁は焼き玉押さえに失敗して死んだ。捨松も他の砲弾のかけらで、首にけがを負った。
籠城の前に自刃した親戚もあった。捨松自身も、自害のしかたを母に習った。膝を組んでしばり、水を飲んでから刀を引く。いざというときに、できる自信は無かった。
籠城が続くと食料も武器も乏しくなる。その生活のなか、城壁の外の敵に会津の意地を思い知らせるため、用いられたのが凧だった。
大人の言いつけで、子どもはみんな競い合って凧を揚げ、ひさしぶりに大笑いした。城壁のなかはまだ、凧揚げに興じるほどの余裕があるぞと、敵軍に見せつけたのだ。
捨松にとって、凧は、敵に容易には屈さぬ会津魂の象徴だった。
明治の世にあって、表面上、出自は問われず、みながみな日本人だと言われるが、ならばなぜ、男子留学生と女子留学生に待遇の差異があるのか。なぜ、女性は結婚せねば半人前なのか。なぜ、相手が薩摩者だから長州の出だからと、憎しみを持ち続けねばならないのか。
ロザリオを繰る手が止まる。指に触れたメダイを手に握り込み、捨松はくちびるを引き結んだ。
──凧を揚げるのだ。敵軍に包囲された城のなかにあっても、悠然と微笑みながら、高々と凧を揚げる。自らの信じるところを行うとき、矜恃はだれにも脅かせない。
翌朝、朝餉を済ませてすぐに捨松は兄と母とに、神田へ断りの手紙を出すと伝えた。母は大いに悲しみ、良縁を惜しんだが、捨松の決意は変わらなかった。
それから程なくして、大山巌陸軍卿から、二度目の結婚の申し入れがあった。
そのようなことを告白できる相手は、アメリカにいる親友アリスか、もしくはもうひとりの友、梅子しかいない。しかしながら、広く深い太平洋を隔てたアメリカの地は果てしなく遠く、アリスにむけた手紙の返事は、今日明日に届くものではないのだった。
「……それで、うちに来たの?」
梅子は年上の友人を立って出迎えることもせず、椅子にもたれ、肘をつき、足を組んだ。そうして、目を細める。
「ひとつ、確認していいかな。相手は神田乃武で間違いない?」
個人名は告げずにおいたが、いつもそばにいた梅子には無意味なことだった。あっさりと看破され、かえって捨松は恥ずかしくなった。
確認を終えると、梅子は生意気なまでの態度で小首をかしげた。
「スティマツは、きれいな男のひとと、おままごとがしたいの?」
「ままごとなんかじゃないわ」
「へえ?」
人差し指を一本ふりかざし、梅子は小馬鹿にした調子で、くちびるの片端をあげた。
「神田様と住むのはどんな家?」
「洋館よ。二階建ての木造で、外壁は白く塗られているの」
理想を口にしてはみたものの、実際は平屋の日本家屋だろうと思った。
「神田様は大学で英語の先生。じゃあ、スティマツはどんな仕事をするの?」
「──女学校の講師、かしら」
日本語の読み書きさえできるようになれば、先だって文部省から連絡のあったような教師の口は、すぐにも見つかるはずだ。考える間にも、梅子の追及の手はやまない。
「毎日?」
「いいえ、週に何度か。空いた時間には自宅に希望者を呼んでお教えするわ」
「ふぅん、すてきね。きっと、才気溢れる若いかたがたくさん集まるよ。まるでサロンだね、──シゲの家みたい」
冷ややかで平板な声音だった。梅子は捨松の思い描く結婚生活を鼻で笑い、こちらをギッとねめつけた。
「シゲがうらやましいのはよくわかったよ。でもね、スティマツ。たかが週二、三度教えるだけの講師に何ができるの。理解ある夫がいて、ちょっと女学生に教えていたら、それでわたしたち、満足できるのかな? 週に何度かあなたに習うだけの女学生が、この国を変えてくれるの?」
そこまで一息に言って、興奮しすぎたことに気づいたらしく、梅子は深く息を吐き、目を伏せ、それから、落ち着いた声に戻った。
「わたし、ずっと考えてた。そりゃ、ステレオタイプな女の幸せをつかむなら、ぜひともシゲを真似するべきだよ。だけど、考えてもみて。わたしやスティマツの一挙手一投足が、未来の日本女性の生きかたを左右するのよ。賢いあなたなら、わかるよね?」
梅子のことばがそこで仕舞いでないことも、捨松にはよくわかっていた。みなまでは指摘しない梅子に、うなずきを返す。
『あなたなら、わかるよね? 神田様の手を取るべきではないことくらい』
梅子の声は、まるでほんとうに発されたかのように、胸に響いてきていた。
その夜、捨松は寝付けずに、寝間着の胸で指を組み、ひたすらに祈っていた。ロザリオを繰りながら祈りのことばをささやくと、こころは自然に凪いで、静まる。同じクリスチャンの神田といっしょになれば、ともにこうした穏やかなひとときを持つこともあったかもしれない。
あの紳士──大山にやりこめられ、いままた梅子に手ひどく叱られて、捨松には、自分の歩むべき道を見出していた。そして、その道は、伴侶を得た先にある。繁子の真似でも、梅子の言いなりでもない、自分だけの第三の道。日本人と同じことばを話し、同じ境遇にいながらにして、日本を変えることのできる道。
捨松のあげる声に耳を傾けてもらうためには、このまま独り身でいてはいけない。けれど、相手が神田ではダメなのだ。留学生同士、年の近い同士の結婚に浮かれて、ぬるま湯につかるように、心地よさに身を沈めて、何もかも忘れ去ってしまえたらよかったのに。
ついさきほど、捨松は神田にあてた手紙を書き終えていた。求婚を断るためのものだ。神田にはきっと、もっとふさわしい縁談があるだろう。捨松は、神田の手は取れない。
梅子に言われたからではない。彼と過ごすぬるま湯の心地よさのなかでは、捨松は傲り高ぶった考えしか持てなかった。梅子に高尚な理想を語られて、それに憧れる一方で、捨松はそのような自分でありたくなかった。アメリカにいたときの捨松はもっと純粋に、日本にはない素晴らしいことを多くのひとに知って欲しいと、ただそう考えていた。そのための学校設立を夢見ていたはずなのに。
祈りを唱えるうちに、無心になっていた。捨松はこの、神がかるような、こころが澄みきる感覚を懐かしく思った。
子どものころ、よく覚えた感じだった。遊びに熱中して、疲れて足が立たなくなるまではしゃぎまわって、草原へ倒れこむと、会津の空が青々と晴れ渡り、自分たちを迎えてくれる。空に飲みこまれるようにして、ぼうっと時を過ごし、しばらくして、また遊ぶ。
留学してすぐのころは、とにかく会津が恋しかった。母や兄姉が住むのは、もう会津の地ではないのを知っていたけれど、それでも、捨松が見たいのは会津の空だった。
だが、思いだす空には、いつも凧が舞う。
徳川家に忠誠をつくした会津藩は賊軍となり、帝を擁した薩摩藩や長州藩は官軍となった。八つだった捨松は家族とともに鶴ヶ城に籠もり、大砲の弾が降るときは、焼き玉押さえに追われていた。飛びこんできた弾に濡れた布団を被せて鎮火する危険な役目だ。実際、兄嫁は焼き玉押さえに失敗して死んだ。捨松も他の砲弾のかけらで、首にけがを負った。
籠城の前に自刃した親戚もあった。捨松自身も、自害のしかたを母に習った。膝を組んでしばり、水を飲んでから刀を引く。いざというときに、できる自信は無かった。
籠城が続くと食料も武器も乏しくなる。その生活のなか、城壁の外の敵に会津の意地を思い知らせるため、用いられたのが凧だった。
大人の言いつけで、子どもはみんな競い合って凧を揚げ、ひさしぶりに大笑いした。城壁のなかはまだ、凧揚げに興じるほどの余裕があるぞと、敵軍に見せつけたのだ。
捨松にとって、凧は、敵に容易には屈さぬ会津魂の象徴だった。
明治の世にあって、表面上、出自は問われず、みながみな日本人だと言われるが、ならばなぜ、男子留学生と女子留学生に待遇の差異があるのか。なぜ、女性は結婚せねば半人前なのか。なぜ、相手が薩摩者だから長州の出だからと、憎しみを持ち続けねばならないのか。
ロザリオを繰る手が止まる。指に触れたメダイを手に握り込み、捨松はくちびるを引き結んだ。
──凧を揚げるのだ。敵軍に包囲された城のなかにあっても、悠然と微笑みながら、高々と凧を揚げる。自らの信じるところを行うとき、矜恃はだれにも脅かせない。
翌朝、朝餉を済ませてすぐに捨松は兄と母とに、神田へ断りの手紙を出すと伝えた。母は大いに悲しみ、良縁を惜しんだが、捨松の決意は変わらなかった。
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