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五
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ふっと耳元に息がふきかかるような感覚があった。数日前そうしたように、翠の耳の側で、だれかが囁く。
「見つけて」
次の瞬間、中村は行動を起こしていた。翠をふりきって、声をはりあげる。
「見つけた! 見つけたよ! いま行くから!」
そう呼びかけながら、溺れ続ける男の子にむかって駆けだす。迷うことなく川面に足を踏み入れ、ざぶざぶと一直線に歩いていく。
それは、直感だった。
「中村さん、ダメ、戻ってきて! 違う、その子じゃないッ」
「えっ?」
中村がゆったりとふりかえる。ふりかえりざま、足を一歩踏みだす。そのとたん、彼の姿は音もなく川に飲まれていった。
「中村さん!」
悲鳴をあげる翠を嘲笑うように、溺れていたはずの男の子はにやりと笑い、姿を消した。
「中村さんっ、中村さん! 返事して!」
声をかけても、返る声はない。
翠は足元から震えが走るのを感じた。膝が崩れる。
「嘘……」
涙があふれた。
だが、こんなところで時間をムダにするわけにはいかなかった。
勇気を奮い立たせる。中村を、『三度目』にされてなるものか。
翠は真っ暗な階段を這うように登った。管理棟に飛びこみ、カウンター奥の事務所の電話に飛びつく。泥だらけの指で一一九を押す。
『火事ですか? 救急ですか?』
無機質なまでの声を耳にし、くちびるをかみしめ、あふれてくるものをこらえると、翠は救助依頼を口にした。
レスキュー隊に状況を説明し、後を任せて、翠は管理棟のロビーで惚けていた。
他の泊まりのスタッフも、心配そうにロビーのあちこちでたたずみ、あるいはしゃがみこんでいる。時折、宿泊客が何事かと訪ねて来るほかは、沈黙が場を支配している。
なぜ、こんな夜中に川になど近づいたのか。翠は何度も聞かれたが、幽霊のことなど口にできようはずもなく、中村と散歩をしていたのだと答えるほかなかった。
涙が頬を伝う。拭う気も起きずにいるところへ、電話が鳴った。鳴り続けるベルにしびれを切らし、スタッフのひとりが電話を取った。
話の内容から、相手がオーナーだとわかる。漫然と泣いていると、電話に出たスタッフから、電話口に来るようにと告げられた。
受話器を耳に押しあてる。保留を解除され、押しよせることばの波に、翠は「はい」としか言えなかった。何を言われたのか、ほとんど覚えてはいない。
ただ、最後のことばだけが胸を刺した。
「近づくなと言ったばかりでしょう」
「『三度目』になんか、なりません。中村さんは、助かります」
泣きじゃくりながら、翠は言い張る。オーナーは苛立ったような声をあげ、「いまから戻る」と一方的に怒鳴ると、電話を切った。
管理棟の外には、やじうまが集まりつつあった。テントやコテージの宿泊客が次々に起きてきたのだ。彼らをさばくため、スタッフが外に出る。翠も涙を拭って続こうとして、ぴたりと足が止まった。
いる。
人だかりのむこうに見え隠れする子どもの影があった。彼だけは、まっすぐに翠を見ていた。
スタッフの呼びかけで、やじうまが散り出す。人波の隙間に、黄色い靴が、Tシャツの赤いスポーツカーが見えた。
翠は、影をつかまえようと一目散に走った。
「ゆきとくん!」
大声に、客がちらほらふりかえる。影は身を翻して、さきほど同様、コンテナの正面に駆けていく。
意地になって追いかけて、コンテナの正面に回りこむ。影はやはり、元来た道を戻って、川のほうへむかう軌跡をたどった。
いったい、何の真似なの!
翠は中村が心配で、不安で胸が張り裂けそうで、それなのに、影にふりまわされる自分に苛々と無力感が募った。
川にむかう道はレスキュー隊がふさいでいる。しかたなく足を止め、どうしたものかとふりかえったときだった。
「え……?」
影がまた、コンテナの正面に向かって走っていた。どうしてだろう。川にむかったのではないのだろうか。それとも、もう三週目の追いかけっこが始まっているのか。
翠はよろよろと影を追いかけて正面に走り出て、その光景に立ち止まった。
影は、翠を待っていた。
あと数メートルの距離で向かいあう。電灯が彼を照らす。服装はわかるのに、やはり面立ちは判然としなかった。
「ゆきとくん! ねえ」
話しかけようとしたとき、また影はぱっと背をむけた。そうして、ゆっくりとコンテナと林の斜面との隙間に入っていく。
隙間に道などないことを、翠は知っている。そこにあるのは、不法投棄されたゴミばかりだ。翠は小走りに影を追いかけたが、いま一歩間に合わなかった。辿っていた影は、また見えなくなっていた。
川のほうにもう一度抜けていったのだろうか? いや、そうではないことを、翠はもはや悟っていた。
電灯を背に立つと、細い隙間はすぐに暗くなる。懐中電灯やスマホのライトを使おうという頭も無かった。翠は横倒しになった洗濯機の前に屈み、中を検めた。冷蔵庫の引き出しを引いた。淡々と、いくつもの家電に触れ、奥に進み、やがて、それを見つけた。
斜面に背を向けたひとつの冷蔵庫の前に、もう一台の冷蔵庫が立ちふさがるようにして倒れている。
翠は、手前の冷蔵庫を確かめ、そして、喉を鳴らした。
渾身の力で手前の冷蔵庫をどかす。わずかにできた隙間に足を入れ、蹴る。そうして、ふさがれていた冷蔵庫の扉をあけた。
そこには、男の子が膝を抱えて座っていた。がたがたと震えながら、泣いていた。
黄色い靴が見えた。白いTシャツが汗でじっとりと湿っていた。
翠は膝をつき、男の子に手をさしのべた。
「怖かったね。つらかったね。……もう、だいじょうぶだから」
抱きつかれて、ぎゅうっとその背を抱きしめる。頭を撫でてやる。やわらかな子どもの髪の毛の手触りがした。
「お名前は?」
「すぎうらゆきと」
そう、つぶやいたとたんのことだった。
男の子は意識を失ったように、かくんと体勢を崩した。そうして、翠に抱きついていた腕はだらんと垂れ下がり、もたれるままになった。
「──ゆきとくん?」
呼びかけたときには、翠は黒ずんだ液体にまみれて、小さな骨を抱いていた。
「見つけて」
次の瞬間、中村は行動を起こしていた。翠をふりきって、声をはりあげる。
「見つけた! 見つけたよ! いま行くから!」
そう呼びかけながら、溺れ続ける男の子にむかって駆けだす。迷うことなく川面に足を踏み入れ、ざぶざぶと一直線に歩いていく。
それは、直感だった。
「中村さん、ダメ、戻ってきて! 違う、その子じゃないッ」
「えっ?」
中村がゆったりとふりかえる。ふりかえりざま、足を一歩踏みだす。そのとたん、彼の姿は音もなく川に飲まれていった。
「中村さん!」
悲鳴をあげる翠を嘲笑うように、溺れていたはずの男の子はにやりと笑い、姿を消した。
「中村さんっ、中村さん! 返事して!」
声をかけても、返る声はない。
翠は足元から震えが走るのを感じた。膝が崩れる。
「嘘……」
涙があふれた。
だが、こんなところで時間をムダにするわけにはいかなかった。
勇気を奮い立たせる。中村を、『三度目』にされてなるものか。
翠は真っ暗な階段を這うように登った。管理棟に飛びこみ、カウンター奥の事務所の電話に飛びつく。泥だらけの指で一一九を押す。
『火事ですか? 救急ですか?』
無機質なまでの声を耳にし、くちびるをかみしめ、あふれてくるものをこらえると、翠は救助依頼を口にした。
レスキュー隊に状況を説明し、後を任せて、翠は管理棟のロビーで惚けていた。
他の泊まりのスタッフも、心配そうにロビーのあちこちでたたずみ、あるいはしゃがみこんでいる。時折、宿泊客が何事かと訪ねて来るほかは、沈黙が場を支配している。
なぜ、こんな夜中に川になど近づいたのか。翠は何度も聞かれたが、幽霊のことなど口にできようはずもなく、中村と散歩をしていたのだと答えるほかなかった。
涙が頬を伝う。拭う気も起きずにいるところへ、電話が鳴った。鳴り続けるベルにしびれを切らし、スタッフのひとりが電話を取った。
話の内容から、相手がオーナーだとわかる。漫然と泣いていると、電話に出たスタッフから、電話口に来るようにと告げられた。
受話器を耳に押しあてる。保留を解除され、押しよせることばの波に、翠は「はい」としか言えなかった。何を言われたのか、ほとんど覚えてはいない。
ただ、最後のことばだけが胸を刺した。
「近づくなと言ったばかりでしょう」
「『三度目』になんか、なりません。中村さんは、助かります」
泣きじゃくりながら、翠は言い張る。オーナーは苛立ったような声をあげ、「いまから戻る」と一方的に怒鳴ると、電話を切った。
管理棟の外には、やじうまが集まりつつあった。テントやコテージの宿泊客が次々に起きてきたのだ。彼らをさばくため、スタッフが外に出る。翠も涙を拭って続こうとして、ぴたりと足が止まった。
いる。
人だかりのむこうに見え隠れする子どもの影があった。彼だけは、まっすぐに翠を見ていた。
スタッフの呼びかけで、やじうまが散り出す。人波の隙間に、黄色い靴が、Tシャツの赤いスポーツカーが見えた。
翠は、影をつかまえようと一目散に走った。
「ゆきとくん!」
大声に、客がちらほらふりかえる。影は身を翻して、さきほど同様、コンテナの正面に駆けていく。
意地になって追いかけて、コンテナの正面に回りこむ。影はやはり、元来た道を戻って、川のほうへむかう軌跡をたどった。
いったい、何の真似なの!
翠は中村が心配で、不安で胸が張り裂けそうで、それなのに、影にふりまわされる自分に苛々と無力感が募った。
川にむかう道はレスキュー隊がふさいでいる。しかたなく足を止め、どうしたものかとふりかえったときだった。
「え……?」
影がまた、コンテナの正面に向かって走っていた。どうしてだろう。川にむかったのではないのだろうか。それとも、もう三週目の追いかけっこが始まっているのか。
翠はよろよろと影を追いかけて正面に走り出て、その光景に立ち止まった。
影は、翠を待っていた。
あと数メートルの距離で向かいあう。電灯が彼を照らす。服装はわかるのに、やはり面立ちは判然としなかった。
「ゆきとくん! ねえ」
話しかけようとしたとき、また影はぱっと背をむけた。そうして、ゆっくりとコンテナと林の斜面との隙間に入っていく。
隙間に道などないことを、翠は知っている。そこにあるのは、不法投棄されたゴミばかりだ。翠は小走りに影を追いかけたが、いま一歩間に合わなかった。辿っていた影は、また見えなくなっていた。
川のほうにもう一度抜けていったのだろうか? いや、そうではないことを、翠はもはや悟っていた。
電灯を背に立つと、細い隙間はすぐに暗くなる。懐中電灯やスマホのライトを使おうという頭も無かった。翠は横倒しになった洗濯機の前に屈み、中を検めた。冷蔵庫の引き出しを引いた。淡々と、いくつもの家電に触れ、奥に進み、やがて、それを見つけた。
斜面に背を向けたひとつの冷蔵庫の前に、もう一台の冷蔵庫が立ちふさがるようにして倒れている。
翠は、手前の冷蔵庫を確かめ、そして、喉を鳴らした。
渾身の力で手前の冷蔵庫をどかす。わずかにできた隙間に足を入れ、蹴る。そうして、ふさがれていた冷蔵庫の扉をあけた。
そこには、男の子が膝を抱えて座っていた。がたがたと震えながら、泣いていた。
黄色い靴が見えた。白いTシャツが汗でじっとりと湿っていた。
翠は膝をつき、男の子に手をさしのべた。
「怖かったね。つらかったね。……もう、だいじょうぶだから」
抱きつかれて、ぎゅうっとその背を抱きしめる。頭を撫でてやる。やわらかな子どもの髪の毛の手触りがした。
「お名前は?」
「すぎうらゆきと」
そう、つぶやいたとたんのことだった。
男の子は意識を失ったように、かくんと体勢を崩した。そうして、翠に抱きついていた腕はだらんと垂れ下がり、もたれるままになった。
「──ゆきとくん?」
呼びかけたときには、翠は黒ずんだ液体にまみれて、小さな骨を抱いていた。
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