4 / 6
四
しおりを挟む
夜、ロビーの清掃が終わったころあいを見計らい、翠は貼り紙の前に立った。
この二日、オーナーはたたずむ翠を横目に帰宅していくばかりで、特に話しかけられることはなかった。
今日も空振りだろうか。考えながら、貼り紙の文字を目でなぞる。
筋肉痛がじんわりと太腿を襲う。登山道具を買いたくてアルバイトをしている人間が、川べりや沢を少々くだったくらいで、この有様とは情けない。
こぶしでとんとんと太腿の脇を叩いていると、隣にふっと気配を感じた。
「あの川は上流で死亡事故も起きている急流ですから、くれぐれも気をつけてください」
「え? あ、はい」
隣には、恰幅のよい初老の紳士がいた。翠と同じように掲示板に目を向けている。翠が待ちわびていたオーナーだった。
「中村君は行動力のある子ですが、思慮はいささか足りません。こうした山間の町の消防団は、遭難者捜しのプロフェッショナルです。プロが探した後をいくら辿ったとて、得られるものはないでしょう」
「そういうものですか?」
「ええ。特に、川は素人が太刀打ちできるものではありません。川に落ちると、岩にひっかからない限り、下流にどんどん流されて、湖にむかいます。溺れたひとの服は脱げて、素っ裸で傷だらけになり、湖に浮かぶんです。数日して、体内で発生したガスが抜けてしまえば、今度は湖底に沈んでしまう」
克明に語られて、翠はぎょっとした。オーナーは真面目な顔で翠をふりかえった。
「このキャンプ場は、あの川のせいで二度、危機に瀕したのです。一度目は、林間学校に訪れた中学生と教師が川で溺れ、教師が死にました。二度目は、ゆきとくんの失踪です」
ことばを切り、オーナーは翠の目を見た。
「三度目にならないでいただきたい。川べり歩きは、もうおよしなさい。できないのなら、辞めていただきます」
翠は声を失い、オーナーを見返した。くちびるが震えた。でも、いま言わねばならないと思った。
「ゆきとくんも、川に流されたと、どうして思うんですか」
「目撃者がありました。川にむかって走っていったのを見たひとがいた。彼はマスコミの記者にも警察にも追いかけまわされて、犯人扱いまでされていましたっけ」
「川に行く子なんて、たくさんいたでしょうに。なんで、それがゆきとくんだってわかるんですか?」
「見かけた男の子は、ご自分のお子さんと同じメーカーの黄色い靴を履いていたそうで、記憶に残っていたんです。ゴミ捨て場のコンテナの近くで見かけて、危ないからよそで遊ぶように声をかけたと。彼には、いまでも会うたびに文句を言われています、あんたのトコのせいで酷い目に遭ったって」
確実に相手を見知っているのに、オーナーは目撃者がだれとは決して言わなかった。口にしないようにと、気をつけたのだろう。
帰り際、再度、川に近づかないように念を押し、オーナーは管理棟を出て行った。
駐車場から車が一台出ていくところまでを窓から見送って、翠は部屋に戻ろうときびすを返そうとした、そのときだ。
「川べりがダメなら、どこを探せばいいんだよ! って思わない?」
中村が廊下の角からひょこっと顔を出し、もういなくなったオーナーに向かって、べええっと舌を出した。その子どもっぽい仕草につい微笑むと、中村はむくれてみせた。
「俺、このためにわざわざココに掃除しに来てやってんだぜ? 文句ぐらい言わせてよ」
「掃除しに、って、私も思ってた!」
笑いあい、今度こそ部屋に帰ろうとして、翠はからだを走った感覚に立ちすくんだ。
視線を感じる。
──どこから?
翠のようすに気がついて、先を歩いていた中村も戻ってきた。
「どうしたの」
「……見られてる。私たち、見られてるの」
ことば少なに訴える。からだがこわばる。中村は翠のかわりに周囲を見回してくれる。
「だれもいないけど」
ほんとうにそうだろうか。翠はこわばった首筋をほぐすように、ゆっくりとロビーや廊下に視線をむける。確かに、人影は見当たらない。と、外が気になってくる。
窓や正面玄関に目をむけたときだった。
「──ひっ」
翠は思わず声を漏らした。
場内には、外灯が少ない。煌々と明かりがついているのは、この管理棟とトイレくらいのものだ。それなのに、くっきりと浮かびあがるものがある。
それは、黄色い靴だった。靴だけではない。ぼんやりと、小さな影がある。影の着る白いTシャツには、赤いスポーツカーが描かれている。白っぽい半ズボン。それなのに、肝心の顔は見えない。
見られていることだけが、はっきりとわかっていた。
「何か、見えるの?」
問われて、翠はうなずいた。
翠の視線を辿って見当を付けたのだろう。正面玄関のガラス戸を開け、中村は呼びかける。
「なあ! おまえ、どこにいんの? 教えろよ、ちゃんと見つけてやるからさあ!」
切ない。中村には彼が見えないのか。あんなに同情しているのに。そのためにアルバイト先を決めたくらいなのに。
呼びかけに応じるように、影はぱっと身を翻した。コンテナの正面に回りこむかたちで走りだす。
中村は追いかけもしない。戸口に立ったまま、近くの地面を必死に見つめている。
「中村さんッ、むこう! コンテナの前!」
翠は叫んで、指さしながら管理棟を飛びだす。中村の反応は早かった。翠を追い抜くと、ゴミ捨て場のコンテナの前に躍りでて、左右を見回す。翠も遅れて到着し、影の行方を捜そうと暗がりに目をこらす。
視界の端を白いものが動いた。翠たちを翻弄するように元来た道を戻って駆けていく。
「いた! 裏に回った!」
コンテナに視界をさえぎられ、またも影を見失いながら、翠は必死に影の軌跡を辿ろうとした。
指で経路をつなぐ。すうっと、指が前を向く。ひたりと指さした先には、川辺へと下りる階段があった。
中村が翠の手元を見て、示す先を確かめた。何も言わずに走りだす。階段のあたりには、何の電灯も設置されていない。夜に川辺へ向かうことなんて、常識的に考えて、あり得ないことだった。
中村は走っている間に器用にスマホを取りだすと、ライトをつけて足元を照らした。丸太を模した石が配置された階段は、手すりも何もない。翠は自分もスマホを持ってこなかったことを悔いながら、中村の照らす光だけを頼りに階段を駆け下りた。
小石の転がる川べりに下りて、翠はあたりを注視した。
──いない? どうしてだろう。
怖くなって、中村の服の裾をつかんだ。中村は励ますように翠の手を取り、それから、下流に目をむけて、ハッとした顔になった。
「溺れてる」
男の子だ。助けを求めるように川面から腕を伸ばし、もがいているのが目に入る。面差しすら、しっかりと見える。
暗闇のなか浮かびあがる光景に寒気を感じた。だが、中村は違うようだった。
これまで、中村はゆきとくんを探し続けていたが、姿を見たことはなかった。なのに、いま、中村にも男の子の姿が見えている。
「あれが、ゆきとくん……?」
翠が呟いたとたんだった。
この二日、オーナーはたたずむ翠を横目に帰宅していくばかりで、特に話しかけられることはなかった。
今日も空振りだろうか。考えながら、貼り紙の文字を目でなぞる。
筋肉痛がじんわりと太腿を襲う。登山道具を買いたくてアルバイトをしている人間が、川べりや沢を少々くだったくらいで、この有様とは情けない。
こぶしでとんとんと太腿の脇を叩いていると、隣にふっと気配を感じた。
「あの川は上流で死亡事故も起きている急流ですから、くれぐれも気をつけてください」
「え? あ、はい」
隣には、恰幅のよい初老の紳士がいた。翠と同じように掲示板に目を向けている。翠が待ちわびていたオーナーだった。
「中村君は行動力のある子ですが、思慮はいささか足りません。こうした山間の町の消防団は、遭難者捜しのプロフェッショナルです。プロが探した後をいくら辿ったとて、得られるものはないでしょう」
「そういうものですか?」
「ええ。特に、川は素人が太刀打ちできるものではありません。川に落ちると、岩にひっかからない限り、下流にどんどん流されて、湖にむかいます。溺れたひとの服は脱げて、素っ裸で傷だらけになり、湖に浮かぶんです。数日して、体内で発生したガスが抜けてしまえば、今度は湖底に沈んでしまう」
克明に語られて、翠はぎょっとした。オーナーは真面目な顔で翠をふりかえった。
「このキャンプ場は、あの川のせいで二度、危機に瀕したのです。一度目は、林間学校に訪れた中学生と教師が川で溺れ、教師が死にました。二度目は、ゆきとくんの失踪です」
ことばを切り、オーナーは翠の目を見た。
「三度目にならないでいただきたい。川べり歩きは、もうおよしなさい。できないのなら、辞めていただきます」
翠は声を失い、オーナーを見返した。くちびるが震えた。でも、いま言わねばならないと思った。
「ゆきとくんも、川に流されたと、どうして思うんですか」
「目撃者がありました。川にむかって走っていったのを見たひとがいた。彼はマスコミの記者にも警察にも追いかけまわされて、犯人扱いまでされていましたっけ」
「川に行く子なんて、たくさんいたでしょうに。なんで、それがゆきとくんだってわかるんですか?」
「見かけた男の子は、ご自分のお子さんと同じメーカーの黄色い靴を履いていたそうで、記憶に残っていたんです。ゴミ捨て場のコンテナの近くで見かけて、危ないからよそで遊ぶように声をかけたと。彼には、いまでも会うたびに文句を言われています、あんたのトコのせいで酷い目に遭ったって」
確実に相手を見知っているのに、オーナーは目撃者がだれとは決して言わなかった。口にしないようにと、気をつけたのだろう。
帰り際、再度、川に近づかないように念を押し、オーナーは管理棟を出て行った。
駐車場から車が一台出ていくところまでを窓から見送って、翠は部屋に戻ろうときびすを返そうとした、そのときだ。
「川べりがダメなら、どこを探せばいいんだよ! って思わない?」
中村が廊下の角からひょこっと顔を出し、もういなくなったオーナーに向かって、べええっと舌を出した。その子どもっぽい仕草につい微笑むと、中村はむくれてみせた。
「俺、このためにわざわざココに掃除しに来てやってんだぜ? 文句ぐらい言わせてよ」
「掃除しに、って、私も思ってた!」
笑いあい、今度こそ部屋に帰ろうとして、翠はからだを走った感覚に立ちすくんだ。
視線を感じる。
──どこから?
翠のようすに気がついて、先を歩いていた中村も戻ってきた。
「どうしたの」
「……見られてる。私たち、見られてるの」
ことば少なに訴える。からだがこわばる。中村は翠のかわりに周囲を見回してくれる。
「だれもいないけど」
ほんとうにそうだろうか。翠はこわばった首筋をほぐすように、ゆっくりとロビーや廊下に視線をむける。確かに、人影は見当たらない。と、外が気になってくる。
窓や正面玄関に目をむけたときだった。
「──ひっ」
翠は思わず声を漏らした。
場内には、外灯が少ない。煌々と明かりがついているのは、この管理棟とトイレくらいのものだ。それなのに、くっきりと浮かびあがるものがある。
それは、黄色い靴だった。靴だけではない。ぼんやりと、小さな影がある。影の着る白いTシャツには、赤いスポーツカーが描かれている。白っぽい半ズボン。それなのに、肝心の顔は見えない。
見られていることだけが、はっきりとわかっていた。
「何か、見えるの?」
問われて、翠はうなずいた。
翠の視線を辿って見当を付けたのだろう。正面玄関のガラス戸を開け、中村は呼びかける。
「なあ! おまえ、どこにいんの? 教えろよ、ちゃんと見つけてやるからさあ!」
切ない。中村には彼が見えないのか。あんなに同情しているのに。そのためにアルバイト先を決めたくらいなのに。
呼びかけに応じるように、影はぱっと身を翻した。コンテナの正面に回りこむかたちで走りだす。
中村は追いかけもしない。戸口に立ったまま、近くの地面を必死に見つめている。
「中村さんッ、むこう! コンテナの前!」
翠は叫んで、指さしながら管理棟を飛びだす。中村の反応は早かった。翠を追い抜くと、ゴミ捨て場のコンテナの前に躍りでて、左右を見回す。翠も遅れて到着し、影の行方を捜そうと暗がりに目をこらす。
視界の端を白いものが動いた。翠たちを翻弄するように元来た道を戻って駆けていく。
「いた! 裏に回った!」
コンテナに視界をさえぎられ、またも影を見失いながら、翠は必死に影の軌跡を辿ろうとした。
指で経路をつなぐ。すうっと、指が前を向く。ひたりと指さした先には、川辺へと下りる階段があった。
中村が翠の手元を見て、示す先を確かめた。何も言わずに走りだす。階段のあたりには、何の電灯も設置されていない。夜に川辺へ向かうことなんて、常識的に考えて、あり得ないことだった。
中村は走っている間に器用にスマホを取りだすと、ライトをつけて足元を照らした。丸太を模した石が配置された階段は、手すりも何もない。翠は自分もスマホを持ってこなかったことを悔いながら、中村の照らす光だけを頼りに階段を駆け下りた。
小石の転がる川べりに下りて、翠はあたりを注視した。
──いない? どうしてだろう。
怖くなって、中村の服の裾をつかんだ。中村は励ますように翠の手を取り、それから、下流に目をむけて、ハッとした顔になった。
「溺れてる」
男の子だ。助けを求めるように川面から腕を伸ばし、もがいているのが目に入る。面差しすら、しっかりと見える。
暗闇のなか浮かびあがる光景に寒気を感じた。だが、中村は違うようだった。
これまで、中村はゆきとくんを探し続けていたが、姿を見たことはなかった。なのに、いま、中村にも男の子の姿が見えている。
「あれが、ゆきとくん……?」
翠が呟いたとたんだった。
0
お気に入りに追加
1
あなたにおすすめの小説
忍び寄る者
渡波みずき
ホラー
ネットサーフィンを趣味とする芙美は、ちかごろもっぱら、短文投稿型のSNS チャッターにハマっている。チャッターで不審な投稿をする者を見つけた芙美は、好奇心から、こっそりとその人物の動きをストーキングしはじめるのだが。
真夜中の訪問者
星名雪子
ホラー
バイト先の上司からパワハラを受け続け、全てが嫌になった「私」家に帰らず、街を彷徨い歩いている内に夜になり、海辺の公園を訪れる。身を投げようとするが、恐怖で体が動かず、生きる気も死ぬ勇気もない自分自身に失望する。真冬の寒さから逃れようと公園の片隅にある公衆トイレに駆け込むが、そこで不可解な出来事に遭遇する。
※発達障害、精神疾患を題材とした小説第4弾です。
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
短な恐怖(怖い話 短編集)
邪神 白猫
ホラー
怪談・怖い話・不思議な話のオムニバス。
ゾクッと怖い話から、ちょっぴり切ない話まで。
なかには意味怖的なお話も。
※完結としますが、追加次第更新中※
YouTubeにて、怪談・怖い話の朗読公開中📕
https://youtube.com/@yuachanRio
十三怪談
しんいち
ホラー
自分が収集した実際にあった話になります。同時に執筆している「幽子さんの謎解きレポート」の元ネタになっている話もあります。もしよろしければこちらの方もよろしくお願いいたします。
没考
黒咲ユーリ
ホラー
これはあるフリーライターの手記である。
日頃、オカルト雑誌などに記事を寄稿して生計を立てている無名ライターの彼だが、ありふれた都市伝説、怪談などに辟易していた。
彼独自の奇妙な話、世界を模索し取材、考えを巡らせていくのだが…。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる