扉をあけて

渡波みずき

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 夜、ロビーの清掃が終わったころあいを見計らい、翠は貼り紙の前に立った。
 この二日、オーナーはたたずむ翠を横目に帰宅していくばかりで、特に話しかけられることはなかった。
 今日も空振りだろうか。考えながら、貼り紙の文字を目でなぞる。

 筋肉痛がじんわりと太腿を襲う。登山道具を買いたくてアルバイトをしている人間が、川べりや沢を少々くだったくらいで、この有様とは情けない。
 こぶしでとんとんと太腿の脇を叩いていると、隣にふっと気配を感じた。

「あの川は上流で死亡事故も起きている急流ですから、くれぐれも気をつけてください」
「え? あ、はい」

 隣には、恰幅のよい初老の紳士がいた。翠と同じように掲示板に目を向けている。翠が待ちわびていたオーナーだった。

「中村君は行動力のある子ですが、思慮はいささか足りません。こうした山間の町の消防団は、遭難者捜しのプロフェッショナルです。プロが探した後をいくら辿ったとて、得られるものはないでしょう」
「そういうものですか?」
「ええ。特に、川は素人が太刀打ちできるものではありません。川に落ちると、岩にひっかからない限り、下流にどんどん流されて、湖にむかいます。溺れたひとの服は脱げて、素っ裸で傷だらけになり、湖に浮かぶんです。数日して、体内で発生したガスが抜けてしまえば、今度は湖底に沈んでしまう」

 克明に語られて、翠はぎょっとした。オーナーは真面目な顔で翠をふりかえった。

「このキャンプ場は、あの川のせいで二度、危機に瀕したのです。一度目は、林間学校に訪れた中学生と教師が川で溺れ、教師が死にました。二度目は、ゆきとくんの失踪です」

 ことばを切り、オーナーは翠の目を見た。

「三度目にならないでいただきたい。川べり歩きは、もうおよしなさい。できないのなら、辞めていただきます」

 翠は声を失い、オーナーを見返した。くちびるが震えた。でも、いま言わねばならないと思った。

「ゆきとくんも、川に流されたと、どうして思うんですか」
「目撃者がありました。川にむかって走っていったのを見たひとがいた。彼はマスコミの記者にも警察にも追いかけまわされて、犯人扱いまでされていましたっけ」
「川に行く子なんて、たくさんいたでしょうに。なんで、それがゆきとくんだってわかるんですか?」
「見かけた男の子は、ご自分のお子さんと同じメーカーの黄色い靴を履いていたそうで、記憶に残っていたんです。ゴミ捨て場のコンテナの近くで見かけて、危ないからよそで遊ぶように声をかけたと。彼には、いまでも会うたびに文句を言われています、あんたのトコのせいで酷い目に遭ったって」

 確実に相手を見知っているのに、オーナーは目撃者がだれとは決して言わなかった。口にしないようにと、気をつけたのだろう。
 帰り際、再度、川に近づかないように念を押し、オーナーは管理棟を出て行った。
 駐車場から車が一台出ていくところまでを窓から見送って、翠は部屋に戻ろうときびすを返そうとした、そのときだ。

「川べりがダメなら、どこを探せばいいんだよ! って思わない?」

 中村が廊下の角からひょこっと顔を出し、もういなくなったオーナーに向かって、べええっと舌を出した。その子どもっぽい仕草につい微笑むと、中村はむくれてみせた。

「俺、このためにわざわざココに掃除しに来てやってんだぜ? 文句ぐらい言わせてよ」
「掃除しに、って、私も思ってた!」

 笑いあい、今度こそ部屋に帰ろうとして、翠はからだを走った感覚に立ちすくんだ。
 視線を感じる。

 ──どこから?

 翠のようすに気がついて、先を歩いていた中村も戻ってきた。

「どうしたの」
「……見られてる。私たち、見られてるの」

 ことば少なに訴える。からだがこわばる。中村は翠のかわりに周囲を見回してくれる。

「だれもいないけど」

 ほんとうにそうだろうか。翠はこわばった首筋をほぐすように、ゆっくりとロビーや廊下に視線をむける。確かに、人影は見当たらない。と、外が気になってくる。
 窓や正面玄関に目をむけたときだった。

「──ひっ」

 翠は思わず声を漏らした。
 場内には、外灯が少ない。煌々と明かりがついているのは、この管理棟とトイレくらいのものだ。それなのに、くっきりと浮かびあがるものがある。

 それは、黄色い靴だった。靴だけではない。ぼんやりと、小さな影がある。影の着る白いTシャツには、赤いスポーツカーが描かれている。白っぽい半ズボン。それなのに、肝心の顔は見えない。
 見られていることだけが、はっきりとわかっていた。

「何か、見えるの?」

 問われて、翠はうなずいた。
 翠の視線を辿って見当を付けたのだろう。正面玄関のガラス戸を開け、中村は呼びかける。

「なあ! おまえ、どこにいんの? 教えろよ、ちゃんと見つけてやるからさあ!」

 切ない。中村には彼が見えないのか。あんなに同情しているのに。そのためにアルバイト先を決めたくらいなのに。
 呼びかけに応じるように、影はぱっと身を翻した。コンテナの正面に回りこむかたちで走りだす。
 中村は追いかけもしない。戸口に立ったまま、近くの地面を必死に見つめている。

「中村さんッ、むこう! コンテナの前!」

 翠は叫んで、指さしながら管理棟を飛びだす。中村の反応は早かった。翠を追い抜くと、ゴミ捨て場のコンテナの前に躍りでて、左右を見回す。翠も遅れて到着し、影の行方を捜そうと暗がりに目をこらす。
 視界の端を白いものが動いた。翠たちを翻弄するように元来た道を戻って駆けていく。

「いた! 裏に回った!」

 コンテナに視界をさえぎられ、またも影を見失いながら、翠は必死に影の軌跡を辿ろうとした。
 指で経路をつなぐ。すうっと、指が前を向く。ひたりと指さした先には、川辺へと下りる階段があった。
 中村が翠の手元を見て、示す先を確かめた。何も言わずに走りだす。階段のあたりには、何の電灯も設置されていない。夜に川辺へ向かうことなんて、常識的に考えて、あり得ないことだった。

 中村は走っている間に器用にスマホを取りだすと、ライトをつけて足元を照らした。丸太を模した石が配置された階段は、手すりも何もない。翠は自分もスマホを持ってこなかったことを悔いながら、中村の照らす光だけを頼りに階段を駆け下りた。
 小石の転がる川べりに下りて、翠はあたりを注視した。

 ──いない? どうしてだろう。

 怖くなって、中村の服の裾をつかんだ。中村は励ますように翠の手を取り、それから、下流に目をむけて、ハッとした顔になった。

「溺れてる」

 男の子だ。助けを求めるように川面から腕を伸ばし、もがいているのが目に入る。面差しすら、しっかりと見える。
 暗闇のなか浮かびあがる光景に寒気を感じた。だが、中村は違うようだった。
 これまで、中村はゆきとくんを探し続けていたが、姿を見たことはなかった。なのに、いま、中村にも男の子の姿が見えている。

「あれが、ゆきとくん……?」

 翠が呟いたとたんだった。
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