扉をあけて

渡波みずき

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 黄色いスニーカーを履いた小学校低学年くらいの男の子だ。何かに夢中になっているらしく、こちらに背をむけて、道にしゃがみこんでいる。
 手を洗うあいまも気にしていると、男の子のいる道にむかってくるファミリーカーが見えた。キャンプ場内は徐行とは言え、ブレーキをかけることなく走ってくる車に、胃の腑が冷える。翠は思わず駆けだした。
 大きく腕を振り、車にむかってとまるように合図をする。車はすぐに気がついて、翠の指示に従った。

「何かありました?」
「すみません、道の先に子どもがしゃがんでいるのが見えたものですから、危ないと思って」

 言いながら、そちらを見遣る。

 ──いない。

 この一瞬で逃げだしたのだろう。合点して、いなくなったことを告げ、とまってくれたことに礼を述べる。運転手はいぶかしそうな顔をしながらも、会釈をして車を再発進させる。
 客の車を見送っていると、うしろから戻ってきた中村に声をかけられた。
 事情を説明し、さっさと管理棟のなかに入ろうとする翠に反して、中村は真面目な顔つきになっていた。

「その子の顔、見た?」
「いいえ、見てませんけど」

 翠の返答に中村は少しがっかりしたようだった。管理棟のスタッフカウンターの奥、ついたてのむこうにまわって、声を低くする。

「牧本さん。あのね、実はココ、出るんだ」
「……ええ? 何がですか?」

 すっとぼけてみようとしたが、動揺はしっかりと声に出ていた。

「この手の目撃談は、スタッフのあいだじゃ有名なヤツ。去年いたバイトさんはね、車とめただけじゃなくて、引きずってんじゃないかって車の下まで確かめさせてもらって、大目玉くらってたよ」
「中村さんも、見たんですか?」
「見てない」

 食い気味の即答だった。あまりの早さに面食らう。

「だれも、いままで顔を見てない。でも、名前は昔からわかってる」

 中村はついたての外を指さす。ロビー内の利用者向け掲示板のある方向だ。
 翠はついたての端から顔を覗かせた。掲示板には、近隣のアミューズメント施設や美術館などのイベントポスターが貼られている。

「左上の隅」

 そこにはA4程の大きさの紙が一枚あるのが見えた。

「あとで近くで見てごらん」

 それだけ言うと、中村はついたての外に出る。話題を避けたのかと思って追いかけると、さにあらず、利用客が宿泊手続きをしに管理棟に入ってくるところだった。
 中村の案内のしかたを真似ようと、側で必死になっているうちに、就業時間はあっという間に過ぎていった。



 業務の終わりに、当番のロビー清掃を行いながら、翠はそういえばと、掲示板の前で立ち止まった。少し仰向かないと見えない位置に貼られた紙は、遠目ではわからなかったが、かなり黄ばみ、全体に湿気でたわんでいた。
 「探しています」のタイトルの下には、褪せた写真があるが、セピアに染まってしまい、目鼻立ちが判別できないほど色が飛んでいる。読めるのは、やはり文字だけだった。

「顔がわからないって、そういうこと」

 つぶやいて、翠は文字を目で追った。
 杉浦勇気斗(すぎうら・ゆきと)、7歳、男、黒髪、短髪、行方不明当日の服装は、胸元に赤いスポーツカーの描かれた白のTシャツ、灰色と白の細い縦縞柄の半ズボン、白い靴下、黄色いスニーカー。
 行方不明の日付は、五年以上前だった。

 情報提供を呼びかける貼り紙にしては、状態が悪すぎる。それでも剥がせないのは、ある一文のせいだと、すぐ思いいたる。
『○○キャンプ場で友達と遊んでいる最中に、姿が見えなくなりました』
 それは、このキャンプ場の名称だった。

 翠は、うすら寒い気持ちになった。掃除を終えて、管理棟の二階、割り当てられた個室に戻ろうとドアノブに手をかけて、よした。
 すぐ向かいのドアをノックする。
 出迎えてくれた中村は、風呂上がりと見え、金髪はしっとりと光っている。ピアスも外されている。スタッフの制服ではなくジャージ姿で、まさにこれから休もうという格好だ。

「あ、あの、お休みのところ……」
「いいよ、そんな堅苦しい。どうしたの?」

 問われて、翠は教えられた貼り紙を見たことを告げ、その先を言いよどんだ。

「もしかして、怖くなっちゃった?」

 笑って、中村は部屋を出てくると、断りなく翠の個室のドアを開け放った。そうして、灯りをつけ、ふりかえる。

「ほら、だいじょうぶだよ。──あ、そうか、風呂のほう?」

 女性スタッフは他にもいるが、泊まり込みでの勤務は翠ひとりだ。シャワー室はひとりで使うことになる。

「んー……、じゃあ、外で待っていようか」

 呆れたようすの中村の申し出に、翠は是非にと、なりふり構わずうなずいた。
 シャワー室は、管理棟の外に離れて設けられている。男女同じ棟だが、ドアをひとつ入ると二手に分かれてドアがあり、脱衣スペースを経て、シャワー用の簡易個室が設けられている。
 中村は女性用脱衣スペースの引き戸に鍵がかかることを確認すると、その前で待っていてくれると約束した。

 中村の流すラジオアプリの音が心強い。翠は大急ぎで服を脱ぐと、個室のひとつに飛びこんだ。髪とからだを洗って、すすいでいる最中のことだ。
 ラジオの音が急に途絶えた。音量が小さくなったか、中村が操作を誤ったのだろう。無音が耳に迫る。
 はじめは、聞き間違いだと思った。

「……て」

 語尾だけが耳に届いた。ラジオのDJの声かなと考えながら、シャンプーを流す。洗い髪を後ろになでつけ、水気を軽く絞る。

「……けて」

 再びの声がして、そこで気がついた。
 声は、引き戸のむこうではなく、こちら側から聞こえている。

 ──だれかが脱衣スペースに入ってきたのかしら。

 そんなはずはなかった。だって、さっき、引き戸に内側から鍵をかけたのは、翠なのだ。
 いやな気分になって、翠はシャワーを止め、からだを拭いて脱衣スペースに戻った。手早く服を纏い、タオルで髪を乾かそうと、うつむいたタイミングだった。
 背後に何かを感じた。

 ひたり、ひたり、近づいてくる足音があった。
 ふ……、と、耳の産毛が吐息でゆれる。

「見つけて」
「────ッ」

 ささやかれて、翠は声もあげられず、荷物も持たずに引き戸に走った。鍵を開け、もどかしく引き戸を引く。
 濡れ髪を振り乱して飛びだしてきた翠に、さすがの中村も驚いたらしく抱きとめるように手をさしのべた。

「声、声が」
「ラジオじゃなくて?」

 言われて、中村の手元を確かめる。ラジオは流れ続けている。音も決して小さくない。

「これ、さっき、一回止まりました?」
「はあ? いや、ずっと爆音だったけど」

 言いながら、音量を下げ、ラジオを切った。翠に聞かせるために大音量にしていたのだ。気づいて、礼を言う。何に対してとも言わなかったのに、中村は決まり悪そうにした。

「ごめん、逆に怖かった?」
「そうじゃなくて」

 否定しながら、うしろを確かめる。煌々と明かりのついたままの脱衣スペースに、荷物を残してきていた。
 翠の視線の先を見て、中村は諦めたようだった。自分から翠の手を取り、ぎゅっと握りしめる。そうして、靴を脱いで引き戸の奥に足を踏み入れた。
 近くについていてもらいながら慌てて荷物をまとめ、きびすを返す。その手をまた、中村が握った。

「俺が悪かった。なんか出るとか、冗談でも女の子に話す話じゃなかった」
「中村さんも、聞いたことあるんですか、『見つけて』って」

 答えは沈黙で返された。
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