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一年後 (前)
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昼餐会のない水曜の午後は、ひさしぶりのことだ。静かな昼下がりが訪れていた。
外せない用事で兄君がお出かけとあっては、しかたのないことである。しかしながら、お嬢様はいささかご気分を害されているようで、さきほどから何度もため息をつかれている。
「ひどいわ、わたくしは水曜の午後にわざわざ予定など入れたことがないのに!」
「お兄様も初めてのことでございましょう」
切りかえして、私は今日がルクレツィアの命日であることと、兄君と交わした約束を思いおこした。
狂言を暴いた私は、ルクレツィアのためとの大義名分をかかげて、ふたつの要求をした。
ひとつは『苦しみなく死を迎えられる毒を用意すること』。もうひとつは『ルクレツィアの一年目の命日に、墓所を訪れること』。
ルクレツィアへの愛を貫いているという自己欺瞞に、とうとう一年間、当人は気がつきもしなかったらしい。恋人を殺す毒を平然と用意し、一年も経たずに愛妾を囲っておきながら、どの口が愛をささやくのだろう。
しかし、なんと律儀な男だったことか。そのことを意外に思いこそすれ、感心するこころはあいにく持ち合わせがない。
「ねえ、わたくしも次の水曜の午後、昼餐会をよして、何か予定を入れたいわ」
「……観劇などはいかがでしょうか」
うわのそらで応えながら、お嬢様のためにお茶のご用意をして、私はさりげなく窓辺に近づく。馬車の音がしたのだ。
見れば、屋敷から二頭立ての馬車が出ていくところだった。修道院にむかうのだろう。
この一年で、修道院には新しい尼僧がひとり増えている。その尼僧はきっと、ルクレツィアによく似た面差しをしている。
棺に入れた手紙には、子細にできごとを綴った。兄君と交わした約束。私が飲ませたのは兄君が用意した毒ではなく、麻痺を起こす貝毒であり、やがて麻痺は消えること。そして、兄君の暴言がいかなるものであったか。
手紙を読んだ彼女が、何を思って一年を過ごしたか、私にはわからない。
あのとき、ルクレツィアにと父がよこした青い小瓶は捨てた。どうせ、中身はほんものの美酒だったに違いない。よく考えてみれば、嫡子の暗殺を疑った男が、私に毒酒などという武器を与えるはずがなかった。
私は、どこまでも愚かだった。
だが──
目を伏せて、胸元を押さえる。
「観劇! すてきね。わたくし、せっかくならシェイクスピア劇を観たいわ。ね、アリーチェ、空席があるか調べさせてちょうだい」
手を打ってすばらしい思いつきだと喜んでいらっしゃるお嬢様のご様子に、私は微笑んでうなずいた。
「かしこまりました」
冷たい硝子瓶の手触りを、指先でたどる。
──兄君が用意した毒薬はいまも、ここにある。
外せない用事で兄君がお出かけとあっては、しかたのないことである。しかしながら、お嬢様はいささかご気分を害されているようで、さきほどから何度もため息をつかれている。
「ひどいわ、わたくしは水曜の午後にわざわざ予定など入れたことがないのに!」
「お兄様も初めてのことでございましょう」
切りかえして、私は今日がルクレツィアの命日であることと、兄君と交わした約束を思いおこした。
狂言を暴いた私は、ルクレツィアのためとの大義名分をかかげて、ふたつの要求をした。
ひとつは『苦しみなく死を迎えられる毒を用意すること』。もうひとつは『ルクレツィアの一年目の命日に、墓所を訪れること』。
ルクレツィアへの愛を貫いているという自己欺瞞に、とうとう一年間、当人は気がつきもしなかったらしい。恋人を殺す毒を平然と用意し、一年も経たずに愛妾を囲っておきながら、どの口が愛をささやくのだろう。
しかし、なんと律儀な男だったことか。そのことを意外に思いこそすれ、感心するこころはあいにく持ち合わせがない。
「ねえ、わたくしも次の水曜の午後、昼餐会をよして、何か予定を入れたいわ」
「……観劇などはいかがでしょうか」
うわのそらで応えながら、お嬢様のためにお茶のご用意をして、私はさりげなく窓辺に近づく。馬車の音がしたのだ。
見れば、屋敷から二頭立ての馬車が出ていくところだった。修道院にむかうのだろう。
この一年で、修道院には新しい尼僧がひとり増えている。その尼僧はきっと、ルクレツィアによく似た面差しをしている。
棺に入れた手紙には、子細にできごとを綴った。兄君と交わした約束。私が飲ませたのは兄君が用意した毒ではなく、麻痺を起こす貝毒であり、やがて麻痺は消えること。そして、兄君の暴言がいかなるものであったか。
手紙を読んだ彼女が、何を思って一年を過ごしたか、私にはわからない。
あのとき、ルクレツィアにと父がよこした青い小瓶は捨てた。どうせ、中身はほんものの美酒だったに違いない。よく考えてみれば、嫡子の暗殺を疑った男が、私に毒酒などという武器を与えるはずがなかった。
私は、どこまでも愚かだった。
だが──
目を伏せて、胸元を押さえる。
「観劇! すてきね。わたくし、せっかくならシェイクスピア劇を観たいわ。ね、アリーチェ、空席があるか調べさせてちょうだい」
手を打ってすばらしい思いつきだと喜んでいらっしゃるお嬢様のご様子に、私は微笑んでうなずいた。
「かしこまりました」
冷たい硝子瓶の手触りを、指先でたどる。
──兄君が用意した毒薬はいまも、ここにある。
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