静寂の園

渡波みずき

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三度目

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 二度目の退場は、写本師たちの目についたらしく、その晩の食事では、こちらから言いだすより先に、酒の肴にされてしまった。
 一度目のときは再入場をしなかったが、今回は午後になってから再入場したため、多くの者の興味を引いたのだ。あれだけの寄進をするからにはと、見学者も皆、時間を有効に使うため、昼前には修道院を訪れる。午後の来訪者は、それだけで目立つ存在なのだった。

 私はふてくされながらも適当に話を合わせ、笑われるがままにした。一期一会だ。彼らにこの先、出会うことがそうあるはずもない。うっかり者という印象を打ち消す必要があるとは思えなかった。
 舌に慣れぬ甘い酒をあおり、私はふと、思い立って懐を探った。そこには、あの青白い手の主から渡された紙切れが入ったままになっていた。断りを入れて席を立ち、物陰で内容を確かめる。

 古びた装飾写本だった。だが、異郷のことばで記された古語を解読するのに少々時間を要す。書かれていたのは、次のような一節だった。

『先にあったことは、また後にもある。先になされたことは、また後にもなされる』

 嫌がらせか! まるで、私が魔術によって修道院から二度も追い出されたことを示唆しているような一節だった。二度あることは三度あるとでも言いたげな文句に苛立ちを募らせて席に戻り、それでも好奇心から隣の写本師に水を向ける。
 答えは案外、すぐに返ってきた。

「それは聖典の一節だな。たしか、『コヘレトの言葉』だ。ああ、間違いない」

 彼が言うには、この一節は、私の考えているような意味ではなく、万物が巡るようすを示したことばなのだそうだ。日は昇り、沈み、また昇る。川は海へ注ぐが、海は満ちることなく、川は注ぎ続ける。

「俺たちの仕事も同じさ。書き写した写本がいつか正本となって、だれかに書き写される。いつか正本は朽ち、そのまた写本が正本に取って代わる。そうやって、聖なることばは生き延びるし、繋がっていく。新たな装飾文字を生み出したと思っても、それがほんとうに新しいかなんて、だれにもわかりゃしない」

 その労苦はむなしいだろうか。いや、むなしいとは思わない。少なくとも私はそうして生まれたひとつの写本を求めてさまよっているし、この広い世のなか、他にもそうした人間はあるだろう。決して、貴族ひとりが喜ぶのではなく、他にほんとうの価値なるものを見いだす者があるのだ。多分。
 私は、『コヘレトの言葉』という単語を胸に刻んで、食堂をあとにした。



 あとのない最終日というのは、存外、重苦しいものでもなかった。
 私は午前中のうちに残りの写本を見て、祖父の手によるものがないと断定し、好奇心を満たすことにした。
 懐の紙切れの出所を探りあてるのだ。

 少なくとも、これまで読んだ聖典の写本にはちぎれたものはなかった。ということは、別の書架だ。
 聖典の抜粋だけがまとめられた本のなか、それらしきものを見つけては読みあさる。
 その本は、無造作に置かれていた。最下段の本の上部、棚との僅かな隙間に、まるで隠すように横にして差し入れられていた。通りがかりであれば、屈まずには見つけられない場所だったが、本の抜き差しをすれば、すぐに見つけられる場所でもあった。

 私は書見台のうえで該当箇所を見つけ、周囲を伺いながら懐に手を伸ばした。あてがうと、思ったとおり、ぴたりとあう。この本だ。
 一枚めくって、裏側の文章からも確かめようとして、はたと手がとまった。
 また別の紙切れが挟まっていたのである。だが、今度は本の切れ端ではなさそうだった。

 肖像画だ。木炭で描かれた若い娘の憂い顔。絵の隅には、ジュセッピーナと書かれている。この娘の名だろうか。
 だが、私が驚いたのは、そこではなかった。

 はたして、その肖像画は、祖父の手によるものとわかるものだったのだ。女性のやわらかな肢体と、服の布地の質感、こぼれかかるおさげ髪のなめらかさ。描かれた娘は、私が昨日目にしたように、窓辺から外を見ている。だいぶ近くからの描写のせいで、場所がわかりにくいが、おそらく、あの塔の窓辺だろう。

 メッセージだ。会ったこともない祖父が、私にメッセージを送っているのだ。そう、思えてならない。
 いったい、私に何を伝えようというのだ?

 私は、切れ端によく目を通した。それから、離れたほうも読み込んだ。かたちに意味があるとは考えられない。──ほんとうに、そうだろうか。見直してみると、不自然だ。ただちぎったにしては、文字が一文字残されていたり、途中で中に入りこむように切れ目が入っていたりする。勢いよく引きちぎったのではなく、ゆっくりと慎重に切ったのだ。
 切られている文章には、こうあった。

 Nihil sub sole novusニヒル・スブ・ソーレ・ノウム
『何ものも太陽の下に新しいものはない』

 いや、違う。切り取られて残った文字だけを拾えば、別の短い文章ができあがる。
 私は、息をのんだ。


 sub soli スブ・ソーリ 
『土の下』

 立ち上がった拍子に、ガタリと椅子が鳴る。静寂を破って、音は反響していく。だが、気にならなかった。まろびでるように図書館を飛び出す。回廊を少し戻り、中庭を目指す。
 中庭には、早めの昼を食べにきたとおぼしき人影があった。彼は私の血相に驚いたようすだったが、私はひとにらみでその脇を通り過ぎた。

 尖塔だ。あの尖塔の下、土の露出した場所。
 仰ぎ見た今日の窓辺に、人影はない。私は腹を減らした犬のように、固くなった土に爪を立てた。道具を使うことなど、念頭にもなかった。指に力をこめて掘り進める。日陰にもかかわらず、顎から汗がしたたる。

 気づけば、周囲に人だかりがしていた。
 昨晩、一昨晩と軽口をたたき合った写本師たちは、しかしながら、私とは関わりあいを持ちたくないとでも言うように、回廊から遠巻きにこちらを見ていた。
 彼らの後ろに、修道士の黒いローブが現れたのを認め、私は焦った。

 そのときだ。がり、と、指先に確かな感触があった。
 感触のあったあたりの土を急いで剥ぎ取る。
 周囲から、声なき声がもれた。

 白い骨だった。足の骨だろう、太い骨がはじめに見つかり、続いて、骨盤が見えた。もはや疑いようもなく、人骨であった。
 修道士が複数名、私の肩を掴む。引き立たされながら、私は土まみれの両手を広げ、天を仰いだ。塔の窓辺を見上げる。そこにいた娘の姿は、私にだけ見えたものだったのだろうか。いまになって見ると、わからない。

 おいで。安心させるようにうなずいた私にむかって、娘は飛んだ。あの高い三階の窓辺から、私にむかって、飛んだのだ。
 髪の短い、ジュセッピーナとは似ても似つかない娘だった。
 私は彼女をどうにか受けとめて中庭の地面にしたたか背を打ち付け、ささやいた。

「家へおかえり、アーダ」

 そして、気づけば、三度の門扉の外だった。私は土にまみれた手で顔を拭いながら、石畳に座り込んでむせび泣いた。
 門衛はもう、私には声をかけなかった。

 私はしばらくして落ち着くと腰をあげ、宿への道を辿った。息苦しさを感じる。あばらでも折ったかと胸を押さえると、そこには持ち去ったつもりもなかった肖像画があった。
 絵のなかの娘は憂い顔のようでいて、ほんのりと微笑んでいるようにも見えた。
 こうして、世に知られぬ祖父の絵は、確かに私の手元に残ることとなった。



 その晩、私は写本師たちと顔を合わせるのを避けるため、宿とは別の酒場で軽い夕食をとっていた。
 食事をほぼ終えようというときだ、隣席の噂話が聞くともなしに耳に入った。
 修道院で女性の人骨が見つかったこと。塔に囚われ、暴行を受けていたと訴える農夫の娘がいること。どうやら、どちらも見つけたのは一介の観光客であること。
 私は勘定を済ませ、席を立った。

 明日には、この町をたつつもりだった。
 結局、祖父の写本は見つからなかったが、期間を延長する気も起きなかったし、今日のことがあったあとで、入場が許可されるとも考えにくかった。
 だが、満足だった。

 万物は巡る。私が傾けていた写本への情熱もきっと、このときのためにあったのだ。そう、感じられてならなかったのだ。
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