5 / 10
相田さんと現地調査
しおりを挟む
朝、新聞を取りに外に出ると、家の前に黒い大型車が停まっていた。見かけない車だ。近くまで行って、無人なのを確認する。『1212』というナンバーが覚えやすかったので、なおさら、見たことがないと確信した。
「おばあちゃん、うちの前にでっかい車が停まってるんだけど」
「田中さんのトコのせがれでしょ。戻ってきてるのよ。また無職してるんですってよ」
口悪く言い、祖母は風呂上がりの若葉の前に朝食を並べていく。焼き目の付いた塩鮭に箸を入れると、立ちのぼる香りに食欲が増す。
「自分トコに止められないらしくって、あちこち路駐してるの。こないだも、おとうさんが出かけるときに、車が出せなくって」
愚痴の続きに耳を傾けながら口に運ぶ朝食は、シンプルだが、とても美味しい。やはり、適度な運動は最高のスパイスだ。
「青空駐車は警察が取り締まってくれるよ。直接やりとりしちゃだめだよ、危ないから」
知った風な口をきいて、米の甘みを堪能していると、めずらしく祖父が口を開いた。
「あっちゃんとは、役所で会えたのか」
「有利おじさん? まだまだ。ぜんぜん会う機会なんかなくって」
「それもそうか」
納得したふうの祖父を見ながら、そういえば、と若葉はふりかえる。有利大叔父は、どこの部署にいるのだろう。川島課長のように、どこかで非常勤をしているに違いないが、そうなると、庁内LANの職員名簿には載っていないだろう。
──ていうか、苗字はなんだっけ……。
大叔父は、祖母の弟だ。祖母の実家の苗字が思い出せずにいるうちに、身支度のタイムリミットがせまってくる。箸をせかせかと動かしているあいだに、いくつかの些細な疑問はすっかりと頭から消え去っていた。
三峯はコーヒーにこだわりがある。知ったのは、ゴールデンウィーク明けのことだ。
十時ごろ、喉が渇く頃合いで、若葉は机のうえの水筒が空であることに気づき、今朝は寝坊したことを思い出した。慣れてきた時期なうえ、休み明けは気が緩む。お湯を入れる時間すら惜しくて、水筒にはお茶のパックだけを放り込んであったのだ。
給湯室は、まだ使ったことがない。場所は知っているし、掃除当番もいずれは回ってくるだろうが、なんだか新人には近寄りがたい。
背に腹は代えられず、水筒を片手に足を踏み入れると、ちょうど市民課の女性が電気ポットからマグカップに湯を注いでいるところだった。インスタントコーヒーらしい。
「ごめんね、いまお湯が切れたところなの。沸かしなおすわね。……仕事には慣れた?」
「ええ、おかげさまで、なんとかやってます」
「三峯くんは何でもこだわるほうだから、やりづらいときもあるかもしれないけど、川島元課長もいるしね、なんとかなるわよ」
「やりづらいですか?」
三峯は、若葉の思い描く公務員像と、さほどかけ離れた存在では無い。堅苦しくて、真面目で、融通が利かない。むしろ、課長の緩さのほうが逸脱していると思っていた。
「そうよぉ。わたし、二十年勤めてるけど、給湯室に私物のコーヒーセット持ち込んだひとは初めて見たわ」
手回しのミルと、ステンレスのコーヒードリッパー、ドリップポットが戸棚に置かれている。豆は冷凍庫に保管され、毎朝始業前に挽いていると言う。ドリッパーはフィルタも兼ねていてゴミが少ないというご高説を以前に直接聞かされたという彼女は、かなりの変人だというニュアンスをにじませて笑った。
「道具は自由に使っていいんですってよ。ミルまで使ったひとは見たことないけどね」
世間話を切り上げ、女性はカップ片手に給湯室を出て行く。若葉は湧き上がった湯を水筒に注ぎ、茶が出るまで待ちながら、これまで方々で聞いた三峯の評判を振りかえった。
三峯は、仕事ができる。固い。法令に詳しい。市民の長話に馬鹿正直につきあう。つるまない。飲み会、食事会の類いは拒否、歓送迎会にしか顔を出さないが、酒は飲まない。どんな評価を下した人物であっても、最後にはみんな『大変だね』と、若葉に同情を示す。
若葉には、いまひとつ、それがなぜなのかがわからない。
水筒を手に自席に戻ると、三峯は電話に出ていた。課長は決裁文書の山と格闘している。若葉が席につこうとしたときだ、もう一台の電話が鳴った。
課長は動かない。若葉は三峯のフォローが得られないことに躊躇したが、しかたなく受話器を取った。名乗った途端に、役所の電話交換手が一方的に告げ、外線が繋がる。
「交換です。三峯さんにお電話です。どうぞ」
「三峯さん? 相田ですけど」
その切り出しを聞いて、緊張がほぐれた。
「お客様センター篠原です。相田さん、すみません、三峯はいま、別の電話に出ておりまして」
「そうなの。じゃあ、あなたで良いわ」
相田は毎日、三峯を相手に世間話をしようとして電話してくる常連のおばあちゃんだ。若葉もすでに何度かお相手しているが、いっこうに名前を覚えてもらえていない。ご指名は、いつでも三峯だ。
今日はいったい、何の話をしてくれるのだろう。相田の話はとりとめがないぶん、役所として何かの対応を求められることは少ない。親戚の集まりで、年配者の思い出話に耳を傾ける気分でいられるから、気楽なものだ。
「実はね、ここしばらく店子がなかったウチのアパートに入居者があったのよ」
「そうなんですか。相田さんのアパートって、どちらにあるんでしたっけ」
「岩浦三丁目十五の十五。かねまるさんのお隣に、二階建て四戸で持ってるのよ」
かねまる。観光客向けの魚屋のはずだ。現地のようすが脳裏に浮かぶ。だが、アパートなんてあっただろうか。相槌を打ちながら、カウンターまで腕を伸ばして、若葉は地図を手に取る。要所要所でメモを取りつつ、場所を確認すると、かねまるの隣には確かに、なにがしかの建物の表記がある。
裏を取るあいだに話は進む。店子は朴訥な感じのする青年で、つい、家賃を五千円も値引きしてしまったこと。家賃は三万円であること。若葉は単語を抜き出して書き取り、こちらが話を聞いているとアピールする目的で、ひとつの質問を返してみた。
「店子さん、どうやって見つけたんですか?」
「それがね、ウチによく営業にくる保険屋さんが紹介してくだすったの。そのかた、梶田さんって仰るんだけど、とっても親切で話し上手でね、ウチの屋根が雨漏りしたときも、業者を手配してくれたことがあるのよ」
立て板に水と話し続け、相田は不動産会社を介さずに店子と個人で賃貸契約を交わした際の子細を若葉相手に披露しはじめる。
「梶田さんが何から何まで用意してくれて、書類まで作ってくれたのよ」
ん? 若葉はひっかかりを覚えた。
「梶田さんって、保険の外交員さんなんですよね? 不動産屋さんじゃなくって」
「さっき言ったじゃない。やっぱりダメねえ、三峯さんなら、ちゃあんと聞いてくれるのに」
がっかりされたことよりも、もしかしたらいまの世間話が大事なサインかもしれないことに動揺する。
「三峯さんの電話はまだ終わらないの?」
目をあげる。三峯が同じタイミングでこちらを見た。訴えかけたのがわかったのだろう。だが、彼も彼で電話対応中だ。こちらの話に巻きこむことはできない。
「申し訳ありません。長引いておりまして」
「そう、じゃあ、また明日かけ直すわ。聞いてくれてありがとうね」
おざなりな礼を述べ、相田は電話を切る。若葉は会話の終わった余韻に囚われて、受話器を持ったまま呆けた。
何をすればいいか、わからない。相田を訪問する『梶田』の素性なんて調べようが無い。では、アパートは?
受話器を置き、端末に触れる。検索エンジンに住所を打ち込むと、周辺の画像が出てくる。相田が教えてくれた場所は、二年前には、荒れ果てたアパートが建っていたことがわかる。階段が抜け、屋根が落ち、蔦の這いまわる建物は、錆びたトタンで覆われている。
ひとが住める状態ではない。建て替えたのか。見に行きたくて、気持ちが疼く。現地は歩いていっても、十分程度の距離だ。
三峯の電話は終わらない。若葉は課長にむきなおった。
「現場って、ひとりで行っちゃダメですか」
「基本は、二人一組だんべぇな。若葉チャン、何しに行くんだ」
問われて、若葉は相田の電話を要約した。課長は、ははぁという顔をして、若葉がよこした地図をのぞき込む。
「よし、じゃあ、出かけんべ」
膝をぱぁんと打って、課長は立ち上がる。三峯がこちらを目で追っている。受話器を持っていないほうの手が、何かのジェスチャーをしていた。
ものを挟むような四指と、一本だけ立ち上がり、ぴこぴこと上下する人差し指。
「あっ。カメラ!」
若葉は個人端末から設備予約をして、急いでデジタルカメラを借りてくると、課長とふたり、現地調査という名の散歩に出かけた。
デジカメをケーブルで個人端末と繋ぐ。映し出されたのは、ネットで調べた画像と大差ない廃墟だった。違いはといえば、蔓草がさらに繁茂しているくらいのものだ。
「三峯さぁん。相田さんって、アパート何棟か持ってるんですかね」
先程の長電話の報告書をしたためていた三峯は、キーボードを打つ手を止め、こちらにむきなおる。
「聞いた覚えがありません。いままで話題に出てきたのは、一棟だけです。報告書にしたことがあります」
また端末にむかう彼にそっけなさを感じていると、課長がペンの尻でこめかみをかいた。視線は書類に落としたまま、若葉に教えるように言う。
「固定じゃなけりゃあ、わかりようがねえべ」
「税務課固定資産担当」
課長が口にした略称に、若葉が質問する間もなく補足を入れて、三峯が立ち上がる。カウンターの下から一冊の綴りを取った。見出し紙ごとにめくりながら、若葉の机で開く。
「記載があるのは、この案件のみです」
端末で報告書履歴を探してくれたのか。内容にざっと目を通す。若葉が入る前の話だ。報告先は、景観まちづくり課空家対策担当。相田のアパートの登録についての相談だ。空家対策担当で入居者を斡旋できるのは、基本的に戸建ての空き家であって即時入居可能な状態の建物のみであると回答されている。
──相田さんのアパートに住めるのは、野良ねこくらいのもんだもんねえ。
苦笑して、若葉は席に戻った三峯を見やる。
「三峯さんは、どう思います?」
「一点、訂正はできます。保険外交員の梶田というのは、相田さんの思い込みと聞き違いで、ヘルパーの鍛冶さんのことだということが、これまでのやりとりのなかで判明しています。また、相田さんの要介護度は存じませんが、認知症らしき症状と、妄想が少々出ているようです。真実を見極めるのは、電話の情報だけでは困難です」
忙しいから、これで話はおしまいだとでも言うように、打鍵音が再開する。
しゅんと、やる気がしぼむ。出してもらった綴りを元に戻しつつ、若葉はしゃがみこんだままぼんやりと、並んだ綴りの背を撫でた。
『平成三十年度報告書』と書かれた昨年度の綴りは、全部で五分冊にもなっている。報告書ナンバーは、六百超。たった一年度で、だ。開庁日は、約二百四十日。課長と三峯がそれぞれ毎日一件以上報告書を書く計算だ。
翻って、自分はこのひとつきで何件処理しただろうと、若葉はふりかえる。きっと、両手の指で足りてしまうはずだ。
ふがいなさに顔を覆いたくなった。剣道なら防具で多少顔が隠れるのに、化粧という女の防具は、表情を隠してなんかくれない。
若葉は三峯にも課長にも顔を見せずに立ち上がると、行き先を告げる。
「別館のポスト、行ってきます」
「はいよー」
課長が気のない返事をする。三峯なんか、顔もあげずに、小さく「はい」と言うのみだ。若葉は低いパンプスの踵をことことと鳴らして、早足でカウンターを抜け出した。
「おばあちゃん、うちの前にでっかい車が停まってるんだけど」
「田中さんのトコのせがれでしょ。戻ってきてるのよ。また無職してるんですってよ」
口悪く言い、祖母は風呂上がりの若葉の前に朝食を並べていく。焼き目の付いた塩鮭に箸を入れると、立ちのぼる香りに食欲が増す。
「自分トコに止められないらしくって、あちこち路駐してるの。こないだも、おとうさんが出かけるときに、車が出せなくって」
愚痴の続きに耳を傾けながら口に運ぶ朝食は、シンプルだが、とても美味しい。やはり、適度な運動は最高のスパイスだ。
「青空駐車は警察が取り締まってくれるよ。直接やりとりしちゃだめだよ、危ないから」
知った風な口をきいて、米の甘みを堪能していると、めずらしく祖父が口を開いた。
「あっちゃんとは、役所で会えたのか」
「有利おじさん? まだまだ。ぜんぜん会う機会なんかなくって」
「それもそうか」
納得したふうの祖父を見ながら、そういえば、と若葉はふりかえる。有利大叔父は、どこの部署にいるのだろう。川島課長のように、どこかで非常勤をしているに違いないが、そうなると、庁内LANの職員名簿には載っていないだろう。
──ていうか、苗字はなんだっけ……。
大叔父は、祖母の弟だ。祖母の実家の苗字が思い出せずにいるうちに、身支度のタイムリミットがせまってくる。箸をせかせかと動かしているあいだに、いくつかの些細な疑問はすっかりと頭から消え去っていた。
三峯はコーヒーにこだわりがある。知ったのは、ゴールデンウィーク明けのことだ。
十時ごろ、喉が渇く頃合いで、若葉は机のうえの水筒が空であることに気づき、今朝は寝坊したことを思い出した。慣れてきた時期なうえ、休み明けは気が緩む。お湯を入れる時間すら惜しくて、水筒にはお茶のパックだけを放り込んであったのだ。
給湯室は、まだ使ったことがない。場所は知っているし、掃除当番もいずれは回ってくるだろうが、なんだか新人には近寄りがたい。
背に腹は代えられず、水筒を片手に足を踏み入れると、ちょうど市民課の女性が電気ポットからマグカップに湯を注いでいるところだった。インスタントコーヒーらしい。
「ごめんね、いまお湯が切れたところなの。沸かしなおすわね。……仕事には慣れた?」
「ええ、おかげさまで、なんとかやってます」
「三峯くんは何でもこだわるほうだから、やりづらいときもあるかもしれないけど、川島元課長もいるしね、なんとかなるわよ」
「やりづらいですか?」
三峯は、若葉の思い描く公務員像と、さほどかけ離れた存在では無い。堅苦しくて、真面目で、融通が利かない。むしろ、課長の緩さのほうが逸脱していると思っていた。
「そうよぉ。わたし、二十年勤めてるけど、給湯室に私物のコーヒーセット持ち込んだひとは初めて見たわ」
手回しのミルと、ステンレスのコーヒードリッパー、ドリップポットが戸棚に置かれている。豆は冷凍庫に保管され、毎朝始業前に挽いていると言う。ドリッパーはフィルタも兼ねていてゴミが少ないというご高説を以前に直接聞かされたという彼女は、かなりの変人だというニュアンスをにじませて笑った。
「道具は自由に使っていいんですってよ。ミルまで使ったひとは見たことないけどね」
世間話を切り上げ、女性はカップ片手に給湯室を出て行く。若葉は湧き上がった湯を水筒に注ぎ、茶が出るまで待ちながら、これまで方々で聞いた三峯の評判を振りかえった。
三峯は、仕事ができる。固い。法令に詳しい。市民の長話に馬鹿正直につきあう。つるまない。飲み会、食事会の類いは拒否、歓送迎会にしか顔を出さないが、酒は飲まない。どんな評価を下した人物であっても、最後にはみんな『大変だね』と、若葉に同情を示す。
若葉には、いまひとつ、それがなぜなのかがわからない。
水筒を手に自席に戻ると、三峯は電話に出ていた。課長は決裁文書の山と格闘している。若葉が席につこうとしたときだ、もう一台の電話が鳴った。
課長は動かない。若葉は三峯のフォローが得られないことに躊躇したが、しかたなく受話器を取った。名乗った途端に、役所の電話交換手が一方的に告げ、外線が繋がる。
「交換です。三峯さんにお電話です。どうぞ」
「三峯さん? 相田ですけど」
その切り出しを聞いて、緊張がほぐれた。
「お客様センター篠原です。相田さん、すみません、三峯はいま、別の電話に出ておりまして」
「そうなの。じゃあ、あなたで良いわ」
相田は毎日、三峯を相手に世間話をしようとして電話してくる常連のおばあちゃんだ。若葉もすでに何度かお相手しているが、いっこうに名前を覚えてもらえていない。ご指名は、いつでも三峯だ。
今日はいったい、何の話をしてくれるのだろう。相田の話はとりとめがないぶん、役所として何かの対応を求められることは少ない。親戚の集まりで、年配者の思い出話に耳を傾ける気分でいられるから、気楽なものだ。
「実はね、ここしばらく店子がなかったウチのアパートに入居者があったのよ」
「そうなんですか。相田さんのアパートって、どちらにあるんでしたっけ」
「岩浦三丁目十五の十五。かねまるさんのお隣に、二階建て四戸で持ってるのよ」
かねまる。観光客向けの魚屋のはずだ。現地のようすが脳裏に浮かぶ。だが、アパートなんてあっただろうか。相槌を打ちながら、カウンターまで腕を伸ばして、若葉は地図を手に取る。要所要所でメモを取りつつ、場所を確認すると、かねまるの隣には確かに、なにがしかの建物の表記がある。
裏を取るあいだに話は進む。店子は朴訥な感じのする青年で、つい、家賃を五千円も値引きしてしまったこと。家賃は三万円であること。若葉は単語を抜き出して書き取り、こちらが話を聞いているとアピールする目的で、ひとつの質問を返してみた。
「店子さん、どうやって見つけたんですか?」
「それがね、ウチによく営業にくる保険屋さんが紹介してくだすったの。そのかた、梶田さんって仰るんだけど、とっても親切で話し上手でね、ウチの屋根が雨漏りしたときも、業者を手配してくれたことがあるのよ」
立て板に水と話し続け、相田は不動産会社を介さずに店子と個人で賃貸契約を交わした際の子細を若葉相手に披露しはじめる。
「梶田さんが何から何まで用意してくれて、書類まで作ってくれたのよ」
ん? 若葉はひっかかりを覚えた。
「梶田さんって、保険の外交員さんなんですよね? 不動産屋さんじゃなくって」
「さっき言ったじゃない。やっぱりダメねえ、三峯さんなら、ちゃあんと聞いてくれるのに」
がっかりされたことよりも、もしかしたらいまの世間話が大事なサインかもしれないことに動揺する。
「三峯さんの電話はまだ終わらないの?」
目をあげる。三峯が同じタイミングでこちらを見た。訴えかけたのがわかったのだろう。だが、彼も彼で電話対応中だ。こちらの話に巻きこむことはできない。
「申し訳ありません。長引いておりまして」
「そう、じゃあ、また明日かけ直すわ。聞いてくれてありがとうね」
おざなりな礼を述べ、相田は電話を切る。若葉は会話の終わった余韻に囚われて、受話器を持ったまま呆けた。
何をすればいいか、わからない。相田を訪問する『梶田』の素性なんて調べようが無い。では、アパートは?
受話器を置き、端末に触れる。検索エンジンに住所を打ち込むと、周辺の画像が出てくる。相田が教えてくれた場所は、二年前には、荒れ果てたアパートが建っていたことがわかる。階段が抜け、屋根が落ち、蔦の這いまわる建物は、錆びたトタンで覆われている。
ひとが住める状態ではない。建て替えたのか。見に行きたくて、気持ちが疼く。現地は歩いていっても、十分程度の距離だ。
三峯の電話は終わらない。若葉は課長にむきなおった。
「現場って、ひとりで行っちゃダメですか」
「基本は、二人一組だんべぇな。若葉チャン、何しに行くんだ」
問われて、若葉は相田の電話を要約した。課長は、ははぁという顔をして、若葉がよこした地図をのぞき込む。
「よし、じゃあ、出かけんべ」
膝をぱぁんと打って、課長は立ち上がる。三峯がこちらを目で追っている。受話器を持っていないほうの手が、何かのジェスチャーをしていた。
ものを挟むような四指と、一本だけ立ち上がり、ぴこぴこと上下する人差し指。
「あっ。カメラ!」
若葉は個人端末から設備予約をして、急いでデジタルカメラを借りてくると、課長とふたり、現地調査という名の散歩に出かけた。
デジカメをケーブルで個人端末と繋ぐ。映し出されたのは、ネットで調べた画像と大差ない廃墟だった。違いはといえば、蔓草がさらに繁茂しているくらいのものだ。
「三峯さぁん。相田さんって、アパート何棟か持ってるんですかね」
先程の長電話の報告書をしたためていた三峯は、キーボードを打つ手を止め、こちらにむきなおる。
「聞いた覚えがありません。いままで話題に出てきたのは、一棟だけです。報告書にしたことがあります」
また端末にむかう彼にそっけなさを感じていると、課長がペンの尻でこめかみをかいた。視線は書類に落としたまま、若葉に教えるように言う。
「固定じゃなけりゃあ、わかりようがねえべ」
「税務課固定資産担当」
課長が口にした略称に、若葉が質問する間もなく補足を入れて、三峯が立ち上がる。カウンターの下から一冊の綴りを取った。見出し紙ごとにめくりながら、若葉の机で開く。
「記載があるのは、この案件のみです」
端末で報告書履歴を探してくれたのか。内容にざっと目を通す。若葉が入る前の話だ。報告先は、景観まちづくり課空家対策担当。相田のアパートの登録についての相談だ。空家対策担当で入居者を斡旋できるのは、基本的に戸建ての空き家であって即時入居可能な状態の建物のみであると回答されている。
──相田さんのアパートに住めるのは、野良ねこくらいのもんだもんねえ。
苦笑して、若葉は席に戻った三峯を見やる。
「三峯さんは、どう思います?」
「一点、訂正はできます。保険外交員の梶田というのは、相田さんの思い込みと聞き違いで、ヘルパーの鍛冶さんのことだということが、これまでのやりとりのなかで判明しています。また、相田さんの要介護度は存じませんが、認知症らしき症状と、妄想が少々出ているようです。真実を見極めるのは、電話の情報だけでは困難です」
忙しいから、これで話はおしまいだとでも言うように、打鍵音が再開する。
しゅんと、やる気がしぼむ。出してもらった綴りを元に戻しつつ、若葉はしゃがみこんだままぼんやりと、並んだ綴りの背を撫でた。
『平成三十年度報告書』と書かれた昨年度の綴りは、全部で五分冊にもなっている。報告書ナンバーは、六百超。たった一年度で、だ。開庁日は、約二百四十日。課長と三峯がそれぞれ毎日一件以上報告書を書く計算だ。
翻って、自分はこのひとつきで何件処理しただろうと、若葉はふりかえる。きっと、両手の指で足りてしまうはずだ。
ふがいなさに顔を覆いたくなった。剣道なら防具で多少顔が隠れるのに、化粧という女の防具は、表情を隠してなんかくれない。
若葉は三峯にも課長にも顔を見せずに立ち上がると、行き先を告げる。
「別館のポスト、行ってきます」
「はいよー」
課長が気のない返事をする。三峯なんか、顔もあげずに、小さく「はい」と言うのみだ。若葉は低いパンプスの踵をことことと鳴らして、早足でカウンターを抜け出した。
0
お気に入りに追加
3
あなたにおすすめの小説
ナマズの器
螢宮よう
キャラ文芸
時は、多種多様な文化が溶け合いはじめた時代の赤い髪の少女の物語。
不遇な赤い髪の女の子が過去、神様、因縁に巻き込まれながらも前向きに頑張り大好きな人たちを守ろうと奔走する和風ファンタジー。
これもなにかの縁ですし 〜あやかし縁結びカフェとほっこり焼き物めぐり
枢 呂紅
キャラ文芸
★第5回キャラ文芸大賞にて奨励賞をいただきました!応援いただきありがとうございます★
大学一年生の春。夢の一人暮らしを始めた鈴だが、毎日謎の不幸が続いていた。
悪運を祓うべく通称:縁結び神社にお参りした鈴は、そこで不思議なイケメンに衝撃の一言を放たれてしまう。
「だって君。悪い縁(えにし)に取り憑かれているもの」
彼に連れて行かれたのは、妖怪だけが集うノスタルジックなカフェ、縁結びカフェ。
そこで鈴は、妖狐と陰陽師を先祖に持つという不思議なイケメン店長・狐月により、自分と縁を結んだ『貧乏神』と対峙するけども……?
人とあやかしの世が別れた時代に、ひとと妖怪、そして店主の趣味のほっこり焼き物が交錯する。
これは、偶然に出会い結ばれたひととあやかしを繋ぐ、優しくあたたかな『縁結び』の物語。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
あまりさんののっぴきならない事情
菱沼あゆ
キャラ文芸
強引に見合い結婚させられそうになって家出し、憧れのカフェでバイトを始めた、あまり。
充実した日々を送っていた彼女の前に、驚くような美形の客、犬塚海里《いぬづか かいり》が現れた。
「何故、こんなところに居る? 南条あまり」
「……嫌な人と結婚させられそうになって、家を出たからです」
「それ、俺だろ」
そーですね……。
カフェ店員となったお嬢様、あまりと常連客となった元見合い相手、海里の日常。
裏切りの代償
中岡 始
キャラ文芸
かつて夫と共に立ち上げたベンチャー企業「ネクサスラボ」。奏は結婚を機に経営の第一線を退き、専業主婦として家庭を支えてきた。しかし、平穏だった生活は夫・尚紀の裏切りによって一変する。彼の部下であり不倫相手の優美が、会社を混乱に陥れつつあったのだ。
尚紀の冷たい態度と優美の挑発に苦しむ中、奏は再び経営者としての力を取り戻す決意をする。裏切りの証拠を集め、かつての仲間や信頼できる協力者たちと連携しながら、会社を立て直すための計画を進める奏。だが、それは尚紀と優美の野望を徹底的に打ち砕く覚悟でもあった。
取締役会での対決、揺れる社内外の信頼、そして壊れた夫婦の絆の果てに待つのは――。
自分の誇りと未来を取り戻すため、すべてを賭けて挑む奏の闘い。復讐の果てに見える新たな希望と、繊細な人間ドラマが交錯する物語がここに。
おにぎり屋さんの裏稼業 〜お祓い請け賜わります〜
瀬崎由美
キャラ文芸
高校2年生の八神美琴は、幼い頃に両親を亡くしてからは祖母の真知子と、親戚のツバキと一緒に暮らしている。
大学通りにある屋敷の片隅で営んでいるオニギリ屋さん『おにひめ』は、気まぐれの営業ながらも学生達に人気のお店だ。でも、真知子の本業は人ならざるものを対処するお祓い屋。霊やあやかしにまつわる相談に訪れて来る人が後を絶たない。
そんなある日、祓いの仕事から戻って来た真知子が家の中で倒れてしまう。加齢による力の限界を感じた祖母から、美琴は祓いの力の継承を受ける。と、美琴はこれまで視えなかったモノが視えるようになり……。
第8回キャラ文芸大賞にて奨励賞をいただきました。
式鬼のはくは格下を蹴散らす
森羅秋
キャラ文芸
陰陽師と式鬼がタッグを組んだバトル対決。レベルの差がありすぎて大丈夫じゃないよね挑戦者。バトルを通して絆を深めるタイプのおはなしですが、カテゴリタイプとちょっとズレてるかな!っていう事に気づいたのは投稿後でした。それでも宜しければぜひに。
時は現代日本。生活の中に妖怪やあやかしや妖魔が蔓延り人々を影から脅かしていた。
陰陽師の末裔『鷹尾』は、鬼の末裔『魄』を従え、妖魔を倒す生業をしている。
とある日、鷹尾は分家であり従妹の雪絵から決闘を申し込まれた。
勝者が本家となり式鬼を得るための決闘、すなわち下剋上である。
この度は陰陽師ではなく式鬼の決闘にしようと提案され、鷹尾は承諾した。
分家の下剋上を阻止するため、魄は決闘に挑むことになる。
夢接ぎ少女は鳳凰帝の夢を守る
遠野まさみ
キャラ文芸
夢を見ることが出来なかった人に、その人が見る筈だった夢を見せることが出来る異能を持った千早は、夢を見れなくなった後宮の女御たちの夢を見させてみろと、帝に命令される。
無事、女御たちに夢を見せることが出来ると、帝は千早に夢に関する自らの秘密を話し・・・!?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる