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走る阿呆。
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岳人は走っていた。
チームのロゴ入りスウェットウェアは走る度に擦れて、カシャカシャ鳴った。
前後半60分かけて汚したラグビージャージや、
一切合切を丸めて詰め込んだスポーツバッグを、
襷掛けで抱え込み走るのは骨が折れた。
他の者がやっているようにバッグをケツの方に回し、
襷をキュっと短く絞り上げると、体に密着して暴れなくなったので随分走りやすくなった。
走列は総勢で51人になる。
ラグビー部員全員だ。
なぜこうなったのか…あのバカ共の所為だ。
試合自体は圧勝だった。
72対3。しかし、この3点がいけない。
プレースキックを決められたのだ。
30分ハーフの後半31分目に。
72対0の場面で。
確かに反則は犯した。岳人がノットリリースザボールを犯したのだ。
自陣ゴール前、密集から自身の前に転がり出たボールを確保したまでは良かった。
後は外に蹴り出せばノーサイドだ。
それは分かっていたし、そうするつもりでいた。
が、そうはならなかった。疲れからかボールが思うように手につかず、前に零しそうになったので抱え込み直したところ、タックルを食らってしまい引きずり倒され、ボールを離すのが遅れたのだ。
レフェリーから直ちにボールを離さず相手の攻撃展開を妨げたとして反則を宣告された。
相手にボールを渡すまい、と意固地になったのかもしれない。すこし粘り過ぎた。反則は納得だ。
しかし、アレはない。
ラガーマンとしての矜持ってもんがあるだろう。
もう点差からいって逆転の見込みはない。ならば最後の瞬間までダメもとでもトライを奪いに行く気骨を示す。
観客に、相手に、いや自分自身に。それがラガーマンだ。
しかし、あろう事かあのバカ共はキックを選択した。ゴール前中央。そりゃ決まるよ。
だが何の意味がある?
完封負けしたくなかった。
全国優勝を目指す岳人達のチームから得点を奪う。
いい思い出になるかもしれんが、こっちはいい迷惑だ。
プレースキックが二本のゴールポストの中央を抜けたと同時にノーサイドの笛が鳴った。
岳人はいつもなら他のチームメイト以上に念入りに対戦相手と健闘を称え合うタイプなのだが、この日ばかりはおざなりに済ましてしまった。
矜持よりも3点を選んだ元ラガーマン達(敢えてそう表現する)を称える気にならなかったからだ。
試合後のロッカールームで監督も、あそこでキックは無い。と言ってくれた。
しかし、それはそれ。
逆に今日の試合の課題はなんだった? と岳人に聞いてきた。
岳人は「無失点に抑える。です」と答え、目の前が暗くなった。
監督が口角を上げ、こう言い放つ事が容易に想像できたからだ。
「じゃあ課題をクリアできなかったな」
その結果、走っている。
京都市街の北端、宝ヶ池球技場から南端の伏見区にある学校まで。
一体、何駅分走るんだ?
叡電で修学院、一乗寺、茶山…と駅名を諳んじ、
京阪電車との乗り換えの出町柳に到達する前に考えるのを止めた。
詮無い。
とにかく長い道のりなのを再確認したからだ。
明確にする必要はない。市街縦断走は待ったなし。もう始まっている。
走り始めて直ぐ、球技場のある運動公園の出口付近で、あのバカ共を追い抜く事になった。
緩くカーブの付いた遊歩道をダラダラと歩いてやがる。
我々が長い試合後のミーティングと称される監督からの説教ともダメ出しとも一線を画する結局は、
いつもと同じ話を聞かされていた間に制服に着替え、髪型も整えて。色気づきやがって。
全部で30人程だろうか、マネージャーと思われる女子も3名いる。
奴らはこの後、女連れで前の北山通り沿いにある駅から地下鉄に乗り、繁華街の烏丸へ。
そこで阪急電車に乗り換え帰路に着く。
おそらく高校最後の試合を終えた彼らは、ご苦労さん会などを開催しやがるのであろう。
これではどちらが勝者か分からない。
仲間の誰かが、殊更大きな掛け声を上げ始めた。
振り返るあのバカ共に走路を開けさせたのだ。
その意図を読み取った部員全員で掛け声を上げ、奴らを抜き去る。
できるだけ雄々しく。
勝者がどちらか分からせる為に。
脇に避けた奴らを眉間に皺を寄せ睨みつけ。
工業高校の本領発揮だ。
岳人はしかし、女生徒の顔を覗き込むことも忘れなかった。
いつもとは違い、できるだけ不細工であることを願った。
それでこそ溜飲が下げられるってもんだ。
しかし,その願いは叶わず、3人ともそれなりの容姿であった。そのうちの一人は美少女と呼んで差し支えのない容貌。
なんか悔しい。
ますます敗北感を味わう羽目になった。圧勝したはずなのに…。
なので、抜き去り切るまで柄にも無く眉間に皺を寄せ大声をあげ続けた。
走列のペースも上がる。運動公園の出口も近い。
部員51人全員が公園を出る前にバカ共を完全に抜き切らねばならないからだ。
前のおしゃれなブティックやケーキ屋の並ぶ北山通りの並木の舗道を、掛け声をあげ走るのは格好が悪すぎる。チームメイトの誰かにでも、
そのような恥ずかしめを受けさせる訳にはいかぬ、と気の利く先頭付近の者が主将にペースアップを促したのであろう。
流石は強豪校。
万事、チームとして機能している。
これが勝者だ。と、試合上の敗者を抜き切り悦に入る事にした岳人に
「おい、真ん中の娘、バリ可愛いなかった?」
断ち切ったのに、と思いながら、この益荒男感の一つもない下世話だが至極まっとう正直な感想を述べる声の方を向くと、やはり声の主はフォワード第二列を担当する迫田である。
「岳人、お前も見てたやろ」
「見てたけど…」
「何点や?」
しょうがなく答える。
「87」
「厳しいねえ。どう見ても88点はあったぞ」
その一点の違いは、なんやねん。とは突っ込まない。いつものパターンだからだ。
で、いつもの様に握手を求めてくる。
とにかく同意が得られた時、冗談が受けた時など事あるごとに握手を求める性質の男なのだ。
こいつとも入学式の日以来の仲である。
もう三年前になる入学式。式典の最後、新入生歓迎の挨拶に在校生代表として壇上に現れた生徒会長が宣った。
「チョウコウには一歩も退くな」
この一言だけ言い残し壇上を後にした最上級生に、ポカンと呆気にとられた新入生の岳人ではあったが、帰りの京阪四条駅でその意味を知ることになった。
阪急電車に乗り換えるため、繁華街に近いその地下駅で降りた岳人は自動改札の手前に溜まる今日から同級生になった者達の一団を見とめ、その異様な様子に近づいた。
「どしたん?」
「チョウコウや」
と顎を振る先、自動改札を挟んだ向こうに朝鮮高校の見るからにイカついゴンタ学生が7、8人いる。
彼らに震いはしたが、
この人数で?
考えれば中々のド根性である。
確かにこの駅で降りるのは平和主義者の多い阪急電車乗り換え組が主であり、
荒っぽい地域に帰る奴はこの先の三条駅まで乗るから降りない。とはいえ次の電車、その次の電車と到着すれば人数的にはかなり不利になるであろうに眉間に皺を寄せ、こちらを睨みつけている。
改札潜りゃ容赦しねえぞ、と。
我が方は我が方で、今現在でも人数的には互角以上なのに誰も改札を越えようとはしない。
阪急沿線住民たる所以と言えようか。
改札を挟んで睨み合う形の両陣営。
岳人は年に数回は見る動物番組の定番シーンを思い出した。
サバンナを大移動するヌーの群れが河を渡る、あの場面である。
岳人はこのシーンが好きだ。と言うか、このシーンを見たくて動物番組がある度、1時間なり2時間なり見続けているとまで言い切っても差し支えはない。
河の手前、なかなか渡河できずに数が増えてゆくヌーの群れ。
もちろん河にはヌーを喰らおうと獰猛なナイルワニ達が待ち構えている。
何千、何万と増え続けるヌーの群れ。
もう河の手前には喰む草も無くなる…といったところで勇気ある若いヌーが意を決しワニの待つ河へ入水してゆく。
堰を切り、それに続くヌー達。そして大群は河を渡る。それはワニの食事の始まりでもある。
しかしワニたちは最初に入った若き勇気あるヌーには歯を立てないそうだ。
何度も見ているだけに岳人もよく知っている。
動物学者が言うには最初に入水する若く体力のあるヌーを狩るのは骨が折れる。
わざわざ彼らを相手にする必要は無く、
他にも餌はいくらでもいる。と現実的な判断で彼らを歯牙にもかけない。
そしてワニたちの餌食になるのは、
後から続いた爺さんヌーや婆さんヌー、赤ちゃんヌーなのだ。
しかし岳人は思う。そうではない、と。
ワニたちも敬意を払っているのだ。最初に飛び込んだ勇気ある若きヌーに。
大した漢だ。お前はまだここで死ぬべきではない、と。
そして若きヌーは河を渡り切り、安住の地で子孫を残す。その栄誉を勝ち取る。
こう考える方がいい。自然だ。自然賛美だ。
ということは、差し詰め今、岳人が置かれている状況は役割としてはヌーという事になる。
そして河の代わりに改札口があって、ワニの代わりに朝校生がいる。
当然、岳人の選ぶ道は若きヌーになることである。
なれるかどうかの体力的問題はさておいて、彼の思考回路にはそれ以外の選択は浮かばなかった。
そのために動物番組を見続けていたのであるから、ワニに喰われる老いたヌーになるわけにはいかない。
が、あの名も知れぬ若きヌーに人間の自分がこれほど畏敬の念を感じるとは思わなかった。
市井のヌーと同じく、やはり河を渡るのは怖い。
もうちょっとコチラの人数が増えてから、みんなで一緒に…と日和る心が彼の背中を押してくれず、
改札の手前で立ち止まったままだったからだ。
ここまでヌーとナイルワニの話を脱線して続けてきたが、ここはサバンナではなく京阪四条駅だ。
サバンナには現れなかった新たな野生生物が登場した。
百獣の王とも称されるライオンだ。
その偉丈夫。制服をパンパンに張らせた胸板。
真新しい詰襟と首元に輝く擦れていない我が工業高校の校章から岳人の新しい同級生と見受けられるその漢は、ヌーの群れを掻き分け悠然と改札を超えて行く。
ただし動物番組とは違いワニたちは殺到した。ライオンに。
まずは7人のボス格であろう男がライオンを睨みつけながら口上を述べる。
自分がドコのダレで、これからの三年間の生活の仕方などを伝えようとしているのは分かったが、
それは最後まで伝えられる事はなかった。
この日に限らず三年間に渡ってなかった。
というより聞く必要が無くなった。
ライオンが口上の途中で睨みをきかす眉間に頭突きをめり込ませたからだ。
そして腰から崩れ落ちるボスワニの襟首を掴み、
払い腰でリノリウムの床に叩きつけ、のびるボスワニを一瞥。
その他ワニ共に迫田は咆哮した。
「次は、どのガキじゃッ!」
サバンナの王者に抗うワニは居なかった。
野生の食物連鎖の序列というものを金輪際、理解せしめたのだ。
道が開き、悠然と渡河する事が出来た。不本意ながら後から続くヌーになってしまったが‥。また、動物学者の見解にも同意せざるを得ない。確かに初めに渡る者を襲ってはならない。
身を持って知った。
今日ばかりはワニでなくヌーであった事も快哉すべきであろう。
地上出口への階段を殊更ガニ股で登ってゆくライオンの同級生とは思えない広い背中に、他のヌーが言う
「宮川中の迫田や…あいつウチに入ったんや…」
そのヌーが言うには市外の阪急沿線に住む岳人は知り得なかったが市内の中学総番なる前近代的な玉座に就く、市内の中学生なら皆が知る有名人なのだそうだ。
岳人のヌーなりの野生の勘が働いた。こいつとは友達になっておかねば、と。
階段を追いかけて駆け上り、地上に出て直ぐ、四条大橋の袂で迫田に追いついた。
そして他のヌー達と共に迫田懇親会の開催を申し出た。
迫田も新しい学友の申し出を二つ返事で快諾してくれ、
橋を渡った先、木屋町の芸大生や半分京都人を気取る女子旅狂いなどが好みそうなステンドグラスを張り付けすぎ昼間でも薄暗い、女性誌などが主たる世間の評判では、恐らくお洒落とされる喫茶店でお茶をしばく事となった。
(往時は喫茶店に行く事を『茶をしばく』。ケンタッキーフライドチキンを食す事を『鶏いわす』。また、剛毅な者は牛丼を喰らうことを『牛どつく』と称した)
若年層の女性まみれの店内では、詰襟の集団は完全に浮いた存在ではあったが迫田は構わず独演会の如く話し続けた。
せっかく全国屈指の強豪校に入ったのだから、高校ではラグビーに精を出すつもりである事。
ゴンタは中学で卒業し、大人の男の振る舞いを是とし、公序良俗を尊び、暴力に訴えるなど厳禁である旨を高らかに表明した。
その禁はつい数分前、入学初日に破られているではないか。と岳人は思ったが、
まだ突っ込む勇気は持ち合わせてはいなかった。
なにせまだ、ライオンとヌーの関係であるからしてしょうがない。
そしてヌーの群れは漏れ無く迫田からラグビー部への勧誘を受け、その分厚い掌と握手を交わした。
今もなおサバンナに残っているヌーは岳人一人だ。
が、入学初日以来、三年間共に汗を流してきたかというと、そうではない。
部員歴では岳人の方が一週間先輩となってしまったからだ。入学初日、特急停車駅の改札で瞬殺とは言え、立ち回りを演じれば、いくらゴンタの扱いに馴れた工業高校と言えど何らかの処罰を与えねばならず迫田は翌日より一週間の停学処分を受けてしまった。
彼の居なかったこの一週間は激動で、
工業高校のご他聞に漏れずトーナメント戦の開催の運びとなり、
ヌーたる岳人は参加を表明しなかったが肉食獣たちの激烈な生存争いが展開された。
休み時間の度にトイレには門番が立ち封鎖され、
膀胱の破裂を阻止するため教師の許しを請い授業中にトイレを伺うと敗れ去った肉食獣の死骸が転がっているという有様で、
この伏見区のサバンナにおいても食物連鎖の序列というものは明確に反映され、
官報において発布されずとも、
トーナメント不参加者の岳人にも一回戦敗退者から決勝進出者まで自然に知られる事になった。
そしてトーナメント制覇者が決した頃合で、シード選手がサバンナに帰還した。ノコノコと。
登校するや鞄を教室に置く暇も与えられずトーナメント制覇者に屋上へと誘(いざな)われた迫田は新入生のほとんどが観覧していると思われる立錐の余地もない、このそこらに罅の入った煤けたコンクリートのリングでモハメド・アリと人間機関車ジョー・フレージャーが演じたスリラー・イン・マニラの様な打撃戦を展開する事になる。
(独裁者マルコス大統領が自国首都に招致し実現したアリ対フレージャー一勝一敗の第三戦。ボクシング史に残る激戦とされる)
最後はチェーンまで持ち出し善戦した制覇者ではあったが、
アリと同じく最後まで立ち続けたのは迫田であり、アリと同じく王者に戴冠したのも迫田であった。
どこで見ていたのか、終了ゴングと共に絶妙のタイミングで介入した教師達により、
迫田は教室に鞄を置く暇も与えられず、今度は職員室に誘われる事になり、
そして此処で彼は退学するか、ラグビー部に入部するかの二者択一を迫られ、
元々ラグビー部に入部するつもりだった彼は渡りに船、と入部を希望する。
勿論たっぷり焦らした末にである。
よって彼は遅ればせながらの入部初日から特待生の様に振舞う事を許され、
一般入部の岳人とは違う特別扱いを享受する事になった。
しかし、これに関しては誰にも異存はなかった。
彼は玉座に座る男であり、監督からの怒られ役のパイプ椅子に座る男にも就任したからだ。
と同時にトーナメント上位者も漏れ無く入部した。
ゴンタの扱いに馴れた工業高校たる所以。
トーナメント自体がラグビー部員選抜装置になっていたのだ。
これで教師達が新入生達に勝手気ままに喧嘩をさせていた事もストンと腑に落ちた。そしてこの後、学内にはこの一週間の喧騒が嘘の様に平和がおとずれる。
パクス・ロマーナの様に。
顕然たる王が統治すると、どうもこうなる様である。
北山通り、走る岳人の前をデカいケツが上下する。
豆タンクを思わせる愛嬌のある後ろ姿だが、前に回ると獰猛なブルドックが突進してくる様に見えることだろう。トーナメント制覇者にしてフォワード第一列プロップを担う大宮のケツだ。
「艶かしいか?」迫田が聞いてきた。
「は?」
「大宮のケツや」
暇つぶしの迫田の問いに先に大宮が反応した。
「見とれてたんけ? 俺の後家殺しのセクシーヒップに」
この後家殺しというフレーズは彼の中で、彼の中でだけ、ずっと流行っている。
本人曰く字画がいいそうである。
が、あながちでもなく14歳で早々に果たした初体験の相手が未亡人だったそうで、
校内で後家殺しを一人挙げよ、となると真っ先に彼が推挙されるのは明白だからだ。
「何点や?」
と迫田に大宮のケツの得点を問われた岳人は0点と答えてしまった。
愛想もクソも無い、面白みも何も無い答えである。
勿論、迫田からは
「どう見ても一点あるやろ」とは言われず、握手も求められなかった。
これではいけない。チーム内での役割としては。
岳人はどう考えても腕っ節の強い方では無かったが、
入学初日に迫田と友人関係になったからか、この迫田を含むトーナメント上位者の相手役、猛獣使いの役割をチームから仰せつかっていた。
監督や主将に頼まれた、という訳ではなく、自然とそうなった。
彼自身、迫田や大宮の様に試合で八面六臂の活躍ができる訳ではない一軍半という身空であるからして、
この役割をこなす事にアイデンティティーを感じてもいた。
その上、今日の市街縦断走は岳人の犯したミスによりチーム全員に課してしまっているのであるからして、あの答えは無い。
「訂正する。二点」
唐突に発言した岳人に迫田が聞き返してくれた。
「其の心は?」
「二つに割れてるから…」
「お前の答えが二点じゃ。それにお前、大宮のケツ三つに割れてたら、どうすんねん」
「誰のケツが三つやねん」
大宮の突っ込みに、すかさず迫田が答える。
「お前、ケツ三つに割れたから背番号も3付けてんのと違たんか?」
「アホか。ポジションで付けとんねん。ほなら、お前はケツ5つに割れとんのか?」
「おう。そうじゃ」
と迫田は言い放ち、自分がフルバックのポジションに就けない理由とした。
(フルバックの背番号は15番)
この後、北山通りを、松ヶ崎橋を渡るまでこの二人はケツを見せろ、お見せするようなものでない論争を繰り広げた。
大宮も丸くなったものだ。
体が、ではない。それは元からだ。
入学当時ならほぼ間違いなく今ので殴り合いになっていた筈だ。彼は王座決定戦の後も何度かリターンマッチを挑んでいる。岳人が把握しているだけで四度。両者が同日に顔を腫らして登校して来た事が数度あったから、あれもカウントして憚らないだろう。
いずれも勝者は迫田である。
府南部、近鉄沿線では連戦連勝だった男である。
田園とバイパス道路が主な産業といった土地ではあるが絶対的地域王者であったのだ。
平凡な中学生活しか送らなかった岳人では其の傷心たるや如何許りかと慮りようもない。
が、それを癒してくれたのはラグビーだった。
迫田と同じく一年時からスタメンに名を連ね、たった一試合ではあるが迫田より先に試合出場の機会も得た。
ラグビーでは負けていないぞ、と彼の自尊心もレコンキスタされた事であろう。
このあたりの監督の人心掌握術の巧さには舌を巻かざるを得ない。
そして大宮もこの心意気に応え、誰よりも精力的に試合に挑んだ。
彼の担当するプロップというポジションは試合中、ボールを触ることはほとんど無い。
スクラムの最前列で相手を押し込み、ボールが溢れれば、誰より真っ先に駆けつけボールを確保する。
密集が出来れば頭から突っ込み、ボールを掻き出す。
そしてボールを動かすのは背番号の数字の大きなバックスと呼ばれる選手たちだ。
彼らがタックルに倒れれば、またプロップがボールをチームメイトたちの為に掻き出しに奮闘する。
女性にモテるのは華々しくボールを展開し、トライを決めるバックス陣だが、彼の欲求を満たしたのはトライではなく密集の中で嗅ぐ湧き上がる血の匂いだったのかもしれない。
結局、三年間、彼が常にチームの最前線でボールを掻き出し続け、チームメイト全員が彼のケツの後ろでプレイし続けた、という格好になる。
三年間、皆は彼のケツを見ながら走り続け、彼は皆にケツを見せつけ続けた。
彼のケツは、そういうケツなのだ。
後家殺しのセクシーヒップかは扠置いて。
そしておそらく二つに割れている。
北山通りを東行し、高野川に架かる松ヶ崎橋を渡った一行は、此処でようやく進路を南にとった。
ここから川沿いを賀茂川と合流して名を鴨川と革める出町柳まで出て、学校近くまで下るコースを取るようだ。
随分、遠回りだな。と岳人は思った。
運動公園から下鴨本通りを行けば、下鴨神社の裏手に出て、ほぼ真っ直ぐ出町柳まで南下できた。
が、コース取りは先頭を走る主将の長谷部に一任しているので、致し方ない。
練習メニューも試合でのトライかキックか等の作戦の選択も彼がチームから最終決定権を託されていた。
『統べる』という能力に於いては迫田がチーム一なのは間違いないが、
本人の生来のムラっ気と高校選抜チーム入りした事により学校を留守にする事も多くなった為。
またムラッ気では負けていない、もう一人のボス格大宮も学校を留守にする事が多かった。
尤もこっちは一年時に三度、二年時に二度の停学によるものであったが…。
そのため、我が建築科の俊英でもある長谷部が主将に任命される運びとなった。
真面目臭いのが玉に瑕だが、
建築科80名中70番台の岳人とは違い成績優秀。顔もまずまず。
50mのタイムも6秒2と履歴書的には非の打ち所が無く、
将来の夢もはっきりしている男で、将来は一級建築士になり、
大手建設会社にて停滞している京都駅前の再開発を断行するのだそうだ。
駅前を自分色に染めるなど若者らしい素晴らしい夢だが、
有象無象の魑魅魍魎が巣食うバブル期ですら開発出来なかった永遠の更地が点在するあの界隈を点眼液一滴分でも自分色に染めるのは背骨が折れる程の辛苦が想像される。
果たしてクソが付くほど真面目な彼にやり遂げられる諸行であろうか。
彼もそこは危惧しているようで、そのリハーサルを今、行っているのではないか、と思わせる節がある。
工業高校のゴンタ位、手懐けられなくてどうする、と。
ただゴンタ相手ですら彼の杓子定規なチーム運営では侭ならぬ事も多かった。
が、とにかくチームの為に我を殺し、文字通り滅私奉公を思わす彼の姿勢に岳人とて心動かさざるを得ず、
出来る事は、と考え猛獣使いとして彼のチーム運営のアシストをしているのだ。
彼の方もそれに感謝してくれ、何かと岳人に気を使ってくれた。
結局、彼により多くの気苦労を与えてしまう羽目になっている事に岳人は気付いていないし、
恐らく長谷部本人も気付いていない。
彼の夢を叶えるのが先か、
その前に衰弱死するのが先か、
今のところは後者の気が強く出ているのは否めない。
しかし彼もまだ若い。
うまく転がり迫田や大宮のムラっ気が伝染すれば良いのだが…そうもいかないのが世の常であろうか。
川沿いを行く。と決めた長谷部の選択を見透かしていた様に少し南に下った御蔭橋の袂で監督が待ち構えていた。
「気張っとるやないか」
気張らしとるのはお前やろ。と50人の部員全員が思った。
岳人でさえ、この縦断走を産みだした引け目から他の者より0コンマ数秒遅れたが思ったぐらいだ。
しかし監督は意に介さず
「ジュース飲めや」
と先回りして買い込んだ50数本のジュースをスーパー袋ごと差し出した。
この人たらしめ、と岳人は思わずにはいられなかった。
公立高校の教員の月給が幾らかは知らないが、
安売りスーパーとはいえ、50数本買い込んだのだから、それなりの出費である。
しかし、それを?にも出さず事も無げに差し出したのだ。
両手一杯に抱えこんだジュースを。少し重そうに。大儀であることを暗に示すように。
齢50を幾ばくか過ぎてはいるが今もなお迫田とほぼ同格の体躯を有する、名うてのラガーマンであった彼の腕力を鑑みる者は居なかった。
それ位、絶妙の匙加減であったのだろう。皆「あのオッサン分かっとる」と、ありがたく頂戴した。
都合、ここで小休止する事になり、
先頭を切っていた長谷部が迫田らと殿(しんがり)軍を務めていた岳人の許へ神妙な顔で近づいてきた。
「キツイねえ」
「おう」とだけ岳人は答えた。
長谷部は何か別の事が言いたそうである。そして言った。
「あの反則(ノットリ)気にすんなよ」
チームメイトの誰も口にしなかった事を。試合中の事だから仕方ない、と思っていた事を事も無げに口にした。
「ドンマイ」
とまで付け加えた。
がん宣告をした直後の担当医が「手術、頑張りましょね」とほざく、あの声のトーンで。
これでは傷が癒え始めていた岳人も浮かばれない。
が、彼は岳人の事を思っての好意全開で宣(のたま)っているのだから咎めるわけにもいかない。
これで免罪符を得たのか、大宮が
「なんやお前、ノットリしたんか?」
とニヤケ面で白々しく聞いてきたので
「お前のケツの横でしたんじゃ」と応え、一人ウケる迫田と岳人は握手を交わした。
この時も手加減してくれていても、まだなお痛いラリアートを食らったが、大宮の体格の事をチーム内でいじれるのは岳人と迫田の二人だけである。
勿論、大宮もタダでは済まさず、いじられると岳人には軽い暴力で、迫田にはドギツイ悪罵の仕返しを施す。
こういう関係になってからゴンタ両雄は喧嘩をしなくなった。
岳人という緩衝帯を介すことで、お互い開戦勃発ギリギリの領有権を見出すことが出来たようで、
監督も「お前の人徳による手柄だ」と褒めてくれ、
本気であったかは定かではないが、
実は長谷部が着任する前に内々に主将就任の打診があったほどだ。
ただ生来の体格的不利、運動神経の無さ等を鑑みて、平に辞退し、
三人目の副主将という名誉職を戴いていた。
今日も予選3回戦、相手との実力差等を加味し、
絶対的支柱の迫田、大宮以外は飛車角抜きの布陣で挑んだ試合の為、出場の栄誉を得た、といった塩梅だったので、この判断は間違いではなかったと思う。
その上、なにせ注目を浴びる強豪校であったから地元紙やラグビー雑誌へのメディア対応も主将の専権事項とされたので、岳人よりも、また風紀上問題のある迫田、大宮よりも見るからに優等生然とした長谷部の方がより適任と言えよう。
この長谷部にとっても岳人が一番の話し相手で、この時もジュースを飲みながら、その銘柄のCMに出ているかの様な爽やかさで、
「いいトレーニングになるわ」
と彼以外の者は嫌味としてしか発さないであろう前向き発言を岳人に発した。
やはり、これに反応したのは岳人でなくゴンタ二人の方で
「おうホンマや。岳人のおかげで、ええトレーニングになるわ」と大宮が言い
「おい大宮見てみい。こんなゲッソリ痩せてしもてるやないか」と迫田が被せた。
こちらは嫌味である事を正式に表明し、岳人をいじる振りして長谷部を茶化していたのだが、
長谷部は当然気づかず、こう続けた。
「これまっすぐ行ったら出町柳に出るやろ。そっから丸太町、三条、四条、五条、七条、東福寺、鳥羽街道…で伏見稲荷。もうちょっとや」
どこが、もうちょっとやねん。と彼の声が聞こえてしまった部員達は皆、思った事だろう。まだ半分も来てへんやんけ、と。
しかし、そこを指折り数えながら諳んじれるのが長谷部なのだ。
きっと皆を勇気付けようとか、奮起を促そうとか思って発している。
岳人も長谷部の折った指の数から、あと8駅分走らなければならない事を知ってしまった。
駅間の短い事で知られる京阪電車とはいえ、8駅分だ。
駅から肉眼で見える次の駅のホームに
「あれなら走った方が速い」
などと放言した事もある岳人だが、
8駅分となると、遥か彼方を遠望するしかない。
そんな岳人を見て、責任を感じ参っている、と捉えたのか長谷部は喉を鳴らしてジュースを飲み干し、白く整った歯を見せ、岳人にだけ微笑んだ。
『大丈夫。気にすんな。俺がお前を守ってやる』の意が込められている事に岳人は残念ながら気付いてしまった。
ここまで来ると、もはや蛮勇とも言える彼のビスの外れたリーダー気質に辟易せざるを得ないが、
神輿担いだってるのは俺らの方じゃ。と言うものは一人も居なかった。
むしろこれ位の、おそらく無意識的で盲目的な強心臓の者が主将の任に就いていてくれた方が、
皆、かえってやり易かった。
ある程度無視さえすれば害はない、と。
ラグビー標語で言うところの
『ワン・フォー・オール』が長谷部で
『オール・フォー・ワン』が長谷部を取り巻く他の部員という図式が成り立っていた。
だがこれは残酷な構図ではなく、お互いの生息域を表した構図と言う方が的を得ている。
互いに心地いい関係であったのだから。
「ほな、先に学校帰ってるから、お前らも早よ戻ってこいよ」
と言い残し、監督は路肩に停めた愛車に乗り込んだ。彼が乗ると、より小さく見えるそのハッチバックは新車の頃より随分カン高くなったエンジン音を咳込む様に響かせ、走り去った。
「あの車、いつか朝一でエンジンバラして、そのまま置いといたんねん」
と大宮が機械科らしい殊勝な計画を口にした。
実習だけは熱心に勤しむ彼の事だから本当に実行しそうで怖い。
迫田も廃車になる前に実行せよ。と囃したて、
タイムリミットは残りわずか。
↓
いやそもそも、もうすでにエンジンは止まっているのではないか?
↓
二年前からオッサンが足で漕いでいる。
↓
エンジン無い方が早よ走る。
↓
付いているナンバープレートの数字はタックルをして殺した男の数だ。
と展開し、
「あの車自体が俺たちが見ている幻だ」という結論(トライ)に達した。
「じゃあ陸運局に問い合わせてみろよ」
と長谷部が本人はしたつもりもなく、やはり無意識に素直な意見として述べたのだろうが、出色の突っ込みを入れた。
珍しく迫田から握手を求められた長谷部は、おざなりに応じ、
「こんなとこで油売ってないで、早く行こうぜ」
と自らの発言が思いもよらぬ評価を得た事に恥ずかしくなったのか、早々の行軍の再開を宣言した。
一行は橋の袂から土手下に降り、河川敷へと繰り出した。
長谷部は皆の為に景色のいい気持ちいい道を走っている。という感覚だったのだろうが、
川沿いの遊歩道はアスファルト舗装の道より走りづらかった。
何より均しきっていないので大きな石が所々に顔を出し、ゴツゴツして足元は危うく、襷掛けのバッグも随分踊った。
そんな事もあって嫌気も差し、付き合いきれなくなったのも理解できる。
岳人にしても嫌気が差した程だ。過去の傾向や行動パターンの分析から、監督は真っ直ぐ帰ったであろうと、もうこれ以上の休憩所は無い。と踏んだ迫田は、
殿(しんがり)から先頭を風切って走る長谷部に行軍全員に聞こえるように大声で「出町柳から電車を使おう」と提案をした。
当然、長谷部が了承する事はなく。簡易裁判所長の様に却下した。
しかし下級裁判所の官吏の催告書ぐらいで引っ込む道理など持ち合わせていないのがゴンタである。
控訴手続きをする事もなく離脱する旨を公告し、迫田と聞くまでもなく離脱顔の大宮は岳人にも同道を促した。
が、岳人としては、この行軍の原因分子の為、已むなく辞退せざるを得なく。
また彼とは違い従軍義務感の薄い幾人かの下級生達が迫田らに同行を希望したが、
これには手前(てめえ)の事はかなりの高棚に置き、
「お前らには、まだ早い」とはねつけ、「キャプテンに従え。チームの和を乱すな」とほざき上げた。
この二人に抗える後輩などは勿論、皆無で鮮やかに転向せざるを得ず。
迫田らに付いて離脱を夢見た事など白昼夢であり、現実的に標榜した事はない。との態度を示し、
長谷部に恭順した。
従って離脱実行者は迫田と大宮の二人のみとなった。
迫田と大宮は彼らなりに献身的チーム精神とはなんたるか、を後輩たちに説き、それを置き土産に高野川と賀茂川が合流し、鴨川となる直前に行軍から離れて土手を駆け上がった。
そして彼らは川を並行して走る川端通りを横断歩道の存在意義を無視するように渡り、駅前のこじんまりしたバスターミナルを突っ切って、その先の奥まった所にある京阪電車の地下改札へ続く階段へと向かった。
「やっぱり来たか」
階段横のハンバーガーチェーン店から出てきた少女は、こう続けた。
「先生の言う通りや。メンツまで当てはった」と。
「お前、なんで此処おんねん」
と発したのは迫田だったか、大宮だったか。
しかし理由はハッキリしているし、藤原詩織はその問いに答える事もしなかった。
ただ首をかしげ、小悪魔的に微笑んだ。
傍から見れば可愛い仕草だったろうが、二人には補導前提で微笑みかける少年課刑事以上の暗黒的風景と言えた。
「オッサン、何て言うてたんや?」大宮が聞いた。
ケツの位置は撤退戦へ向かう下り坂。
「アンタら二人が来るやろうって。今日は岳ちゃんは入らんやろから、大宮、迫田の二名のみやなって言うてはったわ」
自分の半分以下の体重の小柄な少女になんとか、ひり出したゴンタの問いに詩織は答えた。
ズバリ的中である。
「藤原…さんは、いつから居たんや?」
「アンタらジュース貰てた時、マネージャーみんな居てたか?」詩織は迫田の問いにもニヤリと微笑み答えた。
確かに一人も居なかった。部の女子マネージャーは全部で5人になる。
それが一人もあの現場に居なかったのだ。
「そういうこっちゃ」と迫田にも,さん付けで呼ばせる女傑は高らかに勝利宣言をした。
ここで身を躱せても、あと4人のゲシュタポがどこかで暗躍していることを明示し、抗う事の無益さを理解せしめたからだ。
「さあ戻ろか」
監督の全権委任者は有無を言わせなかった。
名うてのゴンタ二人に格の違いを見せつけ、頭蓋を鷲掴みに抑え付けたのだ。
彼らとて平素でも、さん付けを強要されている身であるからして、悪事を暴かれた今日などは口頭による抗議一つも発せれる筈もなかった。
まだ底冷えする時期ではない。
川を吹き抜ける風は秋風の呼べるもので、心地よかった。
以前は川沿いを走っていた京阪電車が地下に潜った事で出来たこの川端通りは歩道も綺麗に整備され走りやすかったので、自然、詩織のペダルを漕ぐ足の回転も早くなった。
詩織とて十代の多感な少女であるからしてそれなりの感傷もあったろうが、風を沢山感じたくて、というよりは次の検問所までに隊列を整える事に腐心しての事だったろう。
速度的に多少の無理強いをしている罪悪感から後ろをチラリと振り返ったが、付いて来ているゴンタ二人を見て、よしッ、ともう一段階深くペダルを踏み込んだ。
川端通りを詩織の自転車に引っ張られる形で猛ダッシュを強要されたゴンタ二人と詩織は、程なく眼下の土手下の遊歩道を進軍するチームメイト達の後ろ姿を捉えた。
「なんであんな草むら走ってんの?」
この道幅の広い川端通りでもなければ、遊歩道として整備された西岸でもなく草の生い茂る団体行軍には不適格な東岸を行く自軍選手に素直な感想を述べた詩織であったが、先頭を切る男の姿を見て得心した。
―将が見誤れば、兵が死ぬ―
八甲田山を征く北大路欣也を一言で表すと、こうなるだろう。
この時の詩織も舌打ち気味に吐き捨てた。
「どこ行っとんねん」
兵法家ではない彼女だが、そろばん塾に通う小学生にも分かる理屈だ。
なぜそれが我がチームの主将には分からない、と。
「ええトレーニングになる言うとったぞ」大宮が喘ぎながら言った。
「トレーニング? 大会中やで。ちゃっちゃと帰ってきたら、ええものをッ」
後ろに従うゴンタに不満をぶつけた詩織は土手下へと続くスロープを立ち漕ぎで、
ただでさえ学内一短く仕立てているスカートを下着が見えるのもお構い無しにひらつかせ、
スピードを込めて駆け下りた。
土手のスロープを詩織の自転車が、
ハンス・ルーデル大佐の操るスツーカ爆撃機の様に急降下してきた。
従軍兵たちにはそう見えた。
そして、行軍の鼻先を抑える形で自転車を切り込ませ、行く手を遮った少女は、
土手上を指差して「上がれ」と命じた。
「なんやねん」長谷部は憤った。
彼なら当然のリアクションであったが、詩織は意に介さず素直な質問を浴びせた。
「どこ向かってんの?」
「何処て、学校やろ」
「で、こんなトコ走ってんの?」
「何がや。方向は間違ってないやろ」
「方向性が間違っとる」
ここまで言われても尚、ゴンタとは違い罪悪感の欠片もない無垢な使命感の塊は、
「俺は監督にチーム任されとんねん」と食ってかかったが、
その次の瞬間には長谷部の腿に蹴りが入っていた。
勿論、殴り返すわけには行かず、彼の前進妄動は止まる。
「アンタ見てみい」
諭す様に詩織に指摘された長谷部は、自身のズボン膝下に無数のオナモミの果実が付いているのに気が付いた。
「これ誰が洗濯する思てんの?」
「いや…藤原…」
「藤原さん。な」
「藤原さん…」
うん。と深く頷き、
「キャプテンやねんから、マネージャーの仕事も考えて、やってくれな」と事態を敢えてキャプテン対マネージャーという図式に矮小化させて治める事も抜かりなく施した。
勿論、この心配りに長谷部が気付くことは無かったが、
素直に詩織の進言を受け入れ、行軍部隊は迫田と大宮が高みの見物を決め込んでいた土手上の舗装路へ歩みだした。
「おかえり」
向迎の立場を逆転させた迫田のおもてなしの言葉に皆、疲れきっていたのだろう返答する者は居なかったので、仕方なく岳人が応じた。
「ただいま」
「無事、帰還できたな」
「どっちが?」
「お前らが。遭難しかけとったぞ」
「お前らも汗だくやんけ」
「青春の息吹と雪中行軍は違うんや」
と同じ山でも青い山脈と八甲田山は違う事を伝えたかったのだろうが、
中学生の頃から夜遊びし深夜映画館通いをしていた迫田とは違い、岳人は世代的に両方の映画ともに観ていなかったので、ピンと来なかった。
「俺らのは青春で、お前らは…」
「もうええ」
説明を加えようとした迫田を詩織はピシャリと一喝し
「岳ちゃんはアンタらと違て、サボらんかったんやから、偉い」と岳人を、ちゃん付けで愛玩動物の様に愛でた。
この人には形無しである。
とは言え、それは小柄で平素から軽んじられる風貌の岳人だけではなく、
本人たち曰く「爽やかなゴンタ」を標榜する迫田と大宮とて同じで、
この直接暴力に訴えることの出来ない女生徒には好きにやられ、領空権を侵犯され続けた。
ただの眉目秀麗で愛想のよい目立つ女子だからではなく、
ラグビー部の母的な世話焼き精神と、ゴンタ共は元より監督にすら直言を厭わない肝っ玉具合のハーモニーの絶妙さ、勿論、そう振舞う際の加減に自分の見た目のアドバンテージを加味する如才無さも兼ね備えていた。
故に最強であり、彼女は特別であり、してやられる事を彼らも面白がっていた節がある。
そして、詩織によって整えられた隊列はさらに南へ下った。
長谷部を先頭に、殿に岳人とゴンタ二人。
その後ろに詩織の自転車が続いた。
岳人は後ろが気になった。
これでは隊列に付いてゆく、と言うよりは、後ろから追い立てられている、という感覚が強い。
「岳ちゃん、なにチラチラ見てんの」
「いや…」
チラリと一瞥しただけなのに、すぐさま指摘された。
「どうせパンチラやろ?」
などと言う無粋極まりない大宮にも
「ちょっとアンタッ」とやり、「岳ちゃんやったら、見てもいいよ」と返す。それぞれの操縦法を弁えている。詩織はやり手の看守だった。
正に青空の下の軟禁状態である。
「ちょっと気付いてんけど、お守り、岳ちゃんしか付けてないやん」詩織が岳人のバッグにぶさ下がり左右に揺れるフェルト地の物体を見て言った。
マネージャー達お手製のお守り。
チームのユニフォームを着た三頭身のラガーマンを模した物で大会前に彼女達が人数分作ってくれた製作者曰く霊験あらたかな代物だ。
戦争映画か何かで見たのであろう。
戦時中、特攻隊員に無事還って来てと、私が傍に付いているわ、と恋仲の女性が自分の陰毛をお守りの中にそっと入れた、という故事の存在を知っていた大宮が貰ったそばから本人たちの目の前で中身を穿り返し、女子一同の逆鱗に触れた例の代物だ。
実は岳人も期待して家でそっと腹を破ってみたのだが…。
よく見るとチームメイトの誰も付けていない。
「こういうトコやねん」
お前らが女に相手されないのは…と心の中では付け加えながら詩織は嘆き憤った。
「でも縁起悪いやろ?」と迫田。
「呪いのお守りや」大宮が続いた。
「何がよ?」詩織は更に憤たが、
「付けてる奴、やらかしたやろ」と迫田が禁忌を述べた。
「ちょっと、アンタッ」岳人の方をチラリと見て、今、言うことではない、と詩織は咎めた。
「ええんや。もう解禁になったんや」大宮が部員の中では織り込み済みだ、と告げた。
キャプテンによって、とは言わなかったが、大宮に言われなくとも詩織にも理解できた。
「ほな私がノットリさせたみたいやん」
詩織は先程までの岳人への気遣いが嘘の様に、すぐさま解禁に応じ、禁忌を口にした。「いつまでも、しょげんなよ」と自転車の前輪を岳人のケツに回したバックに当て、軽く轢きもした。
「しょげんなよ」と大宮のラリアートが続き、
「じゃあ俺も」と迫田の蹴りが入った。
岳人は、やっと楽になった気がした。
はじめから気を遣って貰わず直截にやって貰えば良かったんだ、と。
皆にも、俺の為に走ってくれや。と言って、ロッカールームの段階で小突いて貰えば、もっと早くに気が晴れていたろう、と思った。
三年も同じ釜の飯を食っている間柄なのに手前勝手に遠慮していた自分に猛省を促したい気分になった。
「でも反省せえよ」すぐさま迫田が釘を刺した。
前言撤回する。
岳人の気配を察してか、迫田が握手を求めてきた。
「なんの握手や?」
思わず聞いた岳人に代わりに大宮が答える。
「キック供給友の会やろ」
「なんでや?」
「皆、やってる」
差し出された迫田の握手に応じた岳人は、
「俺もやってる」と大宮に掌を奪われる様に握られた。
「ほな私も」
ゴンタ二人に「お前関係ないやろ」と突っ込まれる詩織にも奪われた。
迫田と大宮の直後だったからか、彼女の手の平は今まで触った物の中で最も柔らかく瑞々しかった。
ふにゃっとしていて、でも吸いつく感じで、手の平のシワの中にも入り込む様な感じで、手を離した後も感覚が名残惜しそうに消えなかった。
役得だ。
反則を犯したのにこの感触を享受した。
忘れたくない、と岳人は強く思った。
他の仲間たちには背徳感を感じもしたが、夜までこの感覚を維持し、陰茎をこの右手で握ろう、と岳人は決めた。
詩織を見る。
今まで以上に可憐に見えた。勿論、彼女とも三年間、一緒にいたのだから性的に見たことが無いとは言わないし、性的欲求を、彼女を想像し果たした事も何度もあった。
が、なんだ? あの手の平は…?
もう詩織の顔をまともに見られなかった。こんな日に。
アホだ…。サルだ…。ろくでなしだ…。
が、自身への嫌悪感など忘却の彼方へ放り出す以上の感覚があの手の平にはあったという事だろう。
まるで…
チームメイト達だって、こんな思いをしていたのだろうか…? いや、しているのだろうか? 迫田も。大宮も。あの長谷部だって…。
と考えると、なんだこの集団は?
アホで…。サルで…。ろくでなしで…。
古来より男は、洋の東西を問わず女性を原因として生きとし生きている。
世界史に出てくる英雄など女性が原因で戦争をし、国を潰す者まで居たくらいだ。
カエサル…アントニウス…あと誰だっけ…? 唐の玄宗皇帝もそうだ。
結局、男は皆、
アホで…。サルで…。ろくでなしだ。
手を握ったくらいで、ここまで妄想が膨らんでしまった。
自戒しようと思った岳人は、もう反則(ノットリ)の事など完全に吹き飛んでいる自分に気が付いた。
ひょっとして藤原さんは、ここまで見越して手を握ってくれたのか?
彼女に振り返る。
大宮が透かさず言う。
「パンチラやな」
大宮に睨みを飛ばした彼女はニコリと岳人に微笑んだ。
穿ち過ぎか?
下着も絶妙な按配で見えなかった。
男を生かし殺す、計算し尽くされたスカート丈と足の角度の虜であることを再度、確認出来たのみであった。
分かりそうで分からない。手が届きそうで届かない。
これこそが我がチームの究極のアフロディーテたりえた彼女の処世術であったのだろうか…。
一介の女子高生を謎多き女に仕立て上げてしまう岳人であった。
(ギリシア神話上、アフロディーテは美、恋愛、豊穣の女神であり、エロスの母である)
隊列は三条から四条へと続く人通りの多い地域に繰り出していった。
通りの東側は祇園界隈。通りの西側は鴨川を挟んで市内一の繁華街へと繋がる。
川端通りは所謂、目抜き通りではなかったが、紅葉の季節だ。いつもよりも人も多かった。
できれば走りたくないシュチュエーションだ。
特に揃いの格好で隊列組んで、では。
が、先頭の男は違ったようである。俺を見てくれ、とばかりに張り切った。
揃いの格好も誇らしかったのだろう。
引っかかってしまった三条通りの信号でもずっと足踏みをやめなかったくらいだ。
「アンタらも足踏みしたら? 笛吹いたげよか」
「アホか」
迫田は詩織の提案を一蹴し、交差点の対角を見やった。岳人も目を送る。
視線の先の京阪三条駅前にある土下座像も長谷部の張り切りぶりには頭を抱え、平伏しているように見えた。
この銅像、江戸後期に諸国を行脚して尊王論を説き、幕末の志士達にも影響を与えたとされる、他の二人は誰かも知らないし、知りたくもない『寛政の三奇人』の一人、高山彦九郎なる人物の像で、御所に拝礼している様を模した物なのだが、どう見ても失敗を犯し土下座しているようにしか見えないため、土下座像と呼ばれていた。
大宮曰く
「後家に手を出し、婚意を求められ詫びるに詫びている図」だそうで、後家殺しの聖地とされている、との事だった。
長谷部は、そんな後家殺しも畏敬の念を抱くほどの奇譚製作者だったのだろう。
岳人は心の中で少し心苦しい面もあったが勝手に長谷部を『平成の三奇人』の一人に列しておいた。
いつか彼の銅像が建った暁には題字を揮毫する旨を決意し、
これを彼との友情の証とする事にした。
友情か…。
岳人は長谷部を見やった。奴は懸命だ。なにをやるにしても。
それに比べ自分はどうだろう。彼を諧謔のネタにできる立場の人間か?
自分がひどくちっぽけで見窄らしい、所謂、矮小なモノに見えてきた。
自己嫌悪に陥る。
これではいけない。俺も男だ。
下らん事にかまけている自分が、岳人は恥ずかしくなった。
俺もチョケてる場合じゃない。
そんな気になった。なんだか張り合いたくなった。この長谷部という男に。
勉強も負けていた。運動も負けていた。今、ここでも負けるのか?
嫌だ。
岳人は足踏みを始めた。
「お前、何しとるんや?」
「なんか走りたなったんや」と友人の突然の乱心を訝しむ迫田に、岳人は答えた。
「その発露はなんや?」
「今日は俺が原因や。そやから…」
「弱い動機やな」
「弱ない。長谷部に任せっきりではアカンかったんや。俺がもっと率先しな…」
「急に何や? 熱出たんか?」大宮が聞いてきた。
「違う。思い立ったんや」
「思い立った?」
「吉日や。俺、走る」
「走る、て。散々走ってるやないか。宝ヶ池から此処まで」
「走らされるん違て、走るんや」
「衆議院議員並みの言葉遊びやな」
「遊び違う。走んねん」
長かった信号が青に変わった。
「俺、走る」
カーレースのスタートの様に岳人は信号の色が変わると同時に踏み込んだ。
ゆっくり走り出したチームメイト達を、予選レースを回避した顎のしゃくれたドイツ人の駆る赤い跳ね馬のように牛蒡抜きにした
。一人を抜き、二人を抜き。チームメイト達も訳が分からない。急にどうした? そう思った事だろう。
だけど構わない。と岳人はぐんぐん加速した。
自転車のベルの音が聞こえた。
後ろから詩織が追いかけてきてくれたのだ。
迫田と大宮を引き連れて。彼女はチームメイトの群れに引っかかり前に出れなくなった岳人を追い越し、隊列の中にベルを鳴らし続け割って入って、群れを蹴散らした。
走路が開く。
開いた走路を岳人は詩織を追って走り続けた。
迫田と大宮が追いついた。
「どうなってんねんッ?」と聞いた大宮に、
迫田が答える。「知るかッ」
「俺が何をしたんやッ?」
「俺に聞くなッ。俺も走っとんねんッ」
「同じアホなら、走らな損てか?」
「そうや」と岳人はゴンタ二人に応えた。「走らな損やったんや」
スピードを上げる。皆を追い抜き先頭の長谷部に並んだ。
そして追い抜いた。今度は長谷部がスピードを上げる。
詩織を先導に走った。二人は張り合ってスピードを上げた。
「どうしたッ?」長谷部が肩を並べ言った。
「俺が先頭切るんやッ」
「させるかッ」
長谷部はニヤリと笑い、ブッちぎり岳人を置き去りにした。
長谷部に追いつかれた詩織が振り返って、檄を飛ばす。
「こらァ岳人ッ、気張らんかいッ!」
「負けるかッ」
岳人は力一杯、腕を振った。
隊列と二人の差はグングン広まる。
「おい迫田ッ、止めさせろ!」結局、出町柳から巨体を揺らし全速力で走り詰めの大宮が断末魔の前に一言申し上げます、とばかりに懇願した。
「止まるとお思いか?」
「それを止めろッ…」
もう息絶え絶えだ。
「大宮ッ、まだ行けるか?」
「行けん言うたら、おぶってくれんのか?」
「冗談は平素の生活態度だけにしろ」
「お前も大概、後家殺しやな…」
「うるさい」と言った後、迫田はペースの遅れた集団に振り返り檄を飛ばした。「おら~ッ。お前らも続かんかいッ」
迫田に急き立てられ、49人の部員全員が長谷部と岳人を追いかけた。
最後尾を大宮が追った。試合とは違い、皆のケツを見て走る羽目になりながら。
アホになった一団は川端通りを駆け抜けた。
ラグビー部の面目躍如とばかりに人波を躱しながら三条から四条…そして五条へと。
きっと、いつも最後に追い抜かれるイカンガーが本当にやりたかった事はこれだ。
岳人と長谷部は誰にも先頭を譲らなかった。
横っ腹が疼いたが、構わず駆け抜けた。
行けるところまで。
運良く国道一号線を兼ねる五条通りの信号を引っかからず渡り切り、
流行らない六条を知らぬ間に抜け、
七条通りに達した頃には、もう隊列の体は為していなかった。
冗長に伸びた敗残兵の群れの様になりながら大きな七条通りを越えると、
ガラリと空気の匂いが変わった。
雅な都の匂いから伏見区の匂いに。
建物が低く、小さく、せわしない。
色で言うなら、ねずみ色に変わった。
ボロ雑巾のようになった一団は、ようやくスピードを緩めた。
いや、緩めたのではない。もう走れなかったのだ。
秋風が身に沁みる? どこ吹く風だ。
岳人はそんな感傷には浸らなかったし、浸る余裕も無かった。
ただただ、這々の体で伏見までたどり着いたのみであった。
皆が天下の公道の歩道脇にへたりこんだ。
ガードレールに手を付いて、鴨川と並行するドブ川に、
吐き気をもよおし反吐とも言える唾を吐いた岳人は、
後ろから首ごと捩じ切らんが如くのヘッドロックを喰らった。
流石の大宮である。
あれほど集団から引き離されたのに最後まで食らいつき追いかけ、
そして今、岳人の首を捩じ切ろうとしている。
「このボケェ…」
言葉より荒い息遣いの方が目立った。全身湯気立つ男が、なんとか発せたのはこの一言だけだった。
「このボケェ…」
確かもう一回発したようにも思うが、その後、岳人と同じくドブ川に嘔吐きながら唾を吐き、へたり込んだ。
「キャハ。おでんの具みたい。ウケる」
並んで嘔吐く湯気立つ二人の背を見て詩織が発した一言に笑う者は居なかった。
皆が皆、笑う余裕が無かったし、自分自身がおでんの具状態であったのであるからして笑い様が無かった。
ただただハードブローを鳩尾に喰らっただけで終わった。
「どうしたんアンタら?」
ノーリアクションに臍を曲げた彼女は暴君と化した。
「とっとと立ちいな」
誰も反応しない。
「アンタら、ドブにゲエ吐く為にラグビーやっとったんか? だらしない」
ここで長谷部が反応してしまった。
「マネージャーの言う通りや。俺らまだゴールしてない」
彼は、すっくと立ち上がり、
「さあ行こうぜ」とキャプテン面をした。キャプテンなのにキャプテン面をした。と言われる程のキャプテン面だった。
反応は無かった。
誰も応じなかった。誰も…
ん? 迫田が居ない。
誰も気付いていないが、岳人だけが気付いてしまった。迫田が居ない。
何処へ行った?
あんな目立つ男が隠れられる場所など在るはずが…と思慮を巡らし腑に落ちた。
此処ら一帯は迫田の地元だ、と。
いくらでも隠れる場所はある。匿う者もいる。
そして彼は協力者の庇護のもとレジスタンス活動さながらに学校近くまで移動する気だ、と。
上手くやりやがってという感慨よりも先に、途中でバックれる。という初志貫徹をした友人に、岳人は快哉の声を上げたくなった。
勿論、ここで声は上げない。
それは無粋というものだ。岳人だって、それくらいは弁えている。
あとは皆に迫田が消えた事を悟られない様にするだけだ。
こうなると早々の行軍の再開を促さなければならない。
しょうがなく岳人も三人目の副キャプテン面をした。
「キャプテンが言ってるぞ。さあ行こうぜ」と。
部員たちは重い腰を上げ、ぐだぐだと立ち上がった。
長谷部を先頭に歩みだした先発陣に岳人は、まだ愚図る後輩たちのケツを叩いて起こし、送り出した。総勢は一人減って50人である。
図らずも、また殿の岳人に詩織が近づき言う
「サコタが居いひんけど」
彼女はやはり気付いていたか…。
そして大宮が言う。
「俺は誘われたけど、行かんかっただけやからな」
なんと殊勝な…。なぜ一緒に行かなかった…?
大宮はニヤリと笑い
「お前に付き合ったったんや。グフフ」
と友情全開とも、地獄への誘いとも取れる言葉を発した。
地獄の番犬ケルベロスもきっとこんな顔だろう。と岳人は想像した。
たしかケルベロスは三つ首の猛犬だったはず。
そして大宮の背番号は3。
なんの因果か…。
閑話休題。
迫田はその時、
地元の友人の駆る雑なクラッチ操作の軽乗用車の後部座席で身を屈めていた。
ギヤチェンジの度に大きな体はその小さな車体のどこかにぶつける有様で、
恐らくこの友人の運転は免許取り立ての今だから、でなくこの十年後もこんな雑な運転をし続けるのであろうと迫田は苛つきながら思った。
協力者でなければ疾うの昔に路肩に停めさせ、注意喚起を促している筈だ、と。
そして軽乗用車は、運転手の裏道を使わねば、という心配りもあったのであろう。
一方通行の多い伏見区内の狭い路地を何度も右折、左折を繰り返し走り去った。
何人たりとも落書きする事を許されない煤けたブロック塀の壁の先に校門が見えてきた。
ラグビー部は帰還したのだ。長駆はるばると。我が母校に。
もう誰も走ってはいなかった。ただ何とか、たどり着いた。
まじまじと校塀を見やる。
普段は凝視することなど、まるでないこの塀も、よく見ると落書きが無いだけで風雨に晒されカビだらけで汚らしい。
工業高校らしい壁だ。と三年生の今になって岳人は思った。
進学校だと白いペンキなんかで彩るか、タイルなんかを貼り付けるだろうに、そのままブロックむき出しの壁である。
どうぞ落書きして下さいと言わんばかりの壁だが、
岳人の在校中にも落書きされたのは、たった一度きりだ。
『魅伽怒 参上』と書されていた。
伏見区に隣接する八幡あたりを根城にする暴走族によって書された物であったが、
もうこのグループは存在しない。
真相は定かではないが、ラグビー部脱落組のゴンタたちの手によって血祭りに上げられたらしい。
落書きの翌日、
学食の掲示板に魅伽怒総長なる人物による手書きの解散届が掲示されてあった事から察する他ないが、
しかし文字が歪み、血糊付く文面から皆が断定した。
迫田、大宮による解説も同様の物だったように記憶している。
そして一行は校門を潜った。
学校としての体裁を整える為に春先にパンジーを植えたきりの形だけの花壇の前を抜け、中庭に入る。
教師達の愛車が並んでいた。
監督のハッチバックも停まっている。
当然ながら、もう帰ってきているようだ。
フーフー言いながら大宮も立ち止まって監督の愛車を見つめていた。
監督の無事の帰還を確認してなのか、分解計画を練っての事なのか判別し兼ねる。
が、このまま無縁仏になるまで立ち止まり続けさせるわけにもいかないので、岳人は動こうとしない大宮を押し出すように校舎と学食棟の間の通路を抜け、グランドへと誘(いざな)った。
岳人に背中を預けるので彼の体重を目一杯受け止める事になったが、
最後の最後くらい楽をさせてやってもいい、と大宮の短いコンパスに歩幅を合わせて最終目的地まで押し切った。
帰ってきた。ただそれだけだ。達成感よりも疲労感が先に来た。
大宮はその場で大の字になった。
長谷部も、やっと状況に比例する笑顔を浮かべた。
ほかの部員と同様に岳人もバッグを放り投げ寝転がった。
このまま眠りこけたい気分に駆られた。
が、
夕焼け空の下、ガランとしたグランドには練習用具一式が既に整えられていた。
おそらく監督が一人で用意したのだろう。
手持ち無沙汰から一人で、昔は鳴らしたプレースキックを蹴り込んでいた彼は、
部員達の到着に気付いて、振り向き言った。
「おう、お前ら遅かったな。待ちくたびれたぞ。取り敢えずダッシュ10本いこか」
監督はグランドの北端を指さした。
この四週間後の十一月の最終週、
ラグビー部創部以来最強FW陣を擁した同チームは、
府予選決勝で府内唯一のライバルと言える古豪校相手に1トライ差の惜敗を喫し全国行きの切符を逃した。
この古豪校も年が明けてすぐ、全国大会準決勝で、
この年の優勝校相手に抽選負けを喫し、涙を飲んだ。
(高校ラグビーでは選手の健康面、体力面等を鑑み、延長戦は行われず同点、同トライ、同ゴール数の場合、両チームの主将による籤引きで、トーナメント上位進出チームを決定する)
秋風が身に沁みる。
と感じたのは、年が明けてからの事だった。
もう吹く風は冬の風になっていた。
秋風が心地よい。
なんぞ思いもしなかった。
最後に追記しておく。
プレースキックを蹴る監督の足元で迫田が腕立て伏せをしていた事を。
彼の掛け声から察するに154回目と155回目の間であった。
1
チームのロゴ入りスウェットウェアは走る度に擦れて、カシャカシャ鳴った。
前後半60分かけて汚したラグビージャージや、
一切合切を丸めて詰め込んだスポーツバッグを、
襷掛けで抱え込み走るのは骨が折れた。
他の者がやっているようにバッグをケツの方に回し、
襷をキュっと短く絞り上げると、体に密着して暴れなくなったので随分走りやすくなった。
走列は総勢で51人になる。
ラグビー部員全員だ。
なぜこうなったのか…あのバカ共の所為だ。
試合自体は圧勝だった。
72対3。しかし、この3点がいけない。
プレースキックを決められたのだ。
30分ハーフの後半31分目に。
72対0の場面で。
確かに反則は犯した。岳人がノットリリースザボールを犯したのだ。
自陣ゴール前、密集から自身の前に転がり出たボールを確保したまでは良かった。
後は外に蹴り出せばノーサイドだ。
それは分かっていたし、そうするつもりでいた。
が、そうはならなかった。疲れからかボールが思うように手につかず、前に零しそうになったので抱え込み直したところ、タックルを食らってしまい引きずり倒され、ボールを離すのが遅れたのだ。
レフェリーから直ちにボールを離さず相手の攻撃展開を妨げたとして反則を宣告された。
相手にボールを渡すまい、と意固地になったのかもしれない。すこし粘り過ぎた。反則は納得だ。
しかし、アレはない。
ラガーマンとしての矜持ってもんがあるだろう。
もう点差からいって逆転の見込みはない。ならば最後の瞬間までダメもとでもトライを奪いに行く気骨を示す。
観客に、相手に、いや自分自身に。それがラガーマンだ。
しかし、あろう事かあのバカ共はキックを選択した。ゴール前中央。そりゃ決まるよ。
だが何の意味がある?
完封負けしたくなかった。
全国優勝を目指す岳人達のチームから得点を奪う。
いい思い出になるかもしれんが、こっちはいい迷惑だ。
プレースキックが二本のゴールポストの中央を抜けたと同時にノーサイドの笛が鳴った。
岳人はいつもなら他のチームメイト以上に念入りに対戦相手と健闘を称え合うタイプなのだが、この日ばかりはおざなりに済ましてしまった。
矜持よりも3点を選んだ元ラガーマン達(敢えてそう表現する)を称える気にならなかったからだ。
試合後のロッカールームで監督も、あそこでキックは無い。と言ってくれた。
しかし、それはそれ。
逆に今日の試合の課題はなんだった? と岳人に聞いてきた。
岳人は「無失点に抑える。です」と答え、目の前が暗くなった。
監督が口角を上げ、こう言い放つ事が容易に想像できたからだ。
「じゃあ課題をクリアできなかったな」
その結果、走っている。
京都市街の北端、宝ヶ池球技場から南端の伏見区にある学校まで。
一体、何駅分走るんだ?
叡電で修学院、一乗寺、茶山…と駅名を諳んじ、
京阪電車との乗り換えの出町柳に到達する前に考えるのを止めた。
詮無い。
とにかく長い道のりなのを再確認したからだ。
明確にする必要はない。市街縦断走は待ったなし。もう始まっている。
走り始めて直ぐ、球技場のある運動公園の出口付近で、あのバカ共を追い抜く事になった。
緩くカーブの付いた遊歩道をダラダラと歩いてやがる。
我々が長い試合後のミーティングと称される監督からの説教ともダメ出しとも一線を画する結局は、
いつもと同じ話を聞かされていた間に制服に着替え、髪型も整えて。色気づきやがって。
全部で30人程だろうか、マネージャーと思われる女子も3名いる。
奴らはこの後、女連れで前の北山通り沿いにある駅から地下鉄に乗り、繁華街の烏丸へ。
そこで阪急電車に乗り換え帰路に着く。
おそらく高校最後の試合を終えた彼らは、ご苦労さん会などを開催しやがるのであろう。
これではどちらが勝者か分からない。
仲間の誰かが、殊更大きな掛け声を上げ始めた。
振り返るあのバカ共に走路を開けさせたのだ。
その意図を読み取った部員全員で掛け声を上げ、奴らを抜き去る。
できるだけ雄々しく。
勝者がどちらか分からせる為に。
脇に避けた奴らを眉間に皺を寄せ睨みつけ。
工業高校の本領発揮だ。
岳人はしかし、女生徒の顔を覗き込むことも忘れなかった。
いつもとは違い、できるだけ不細工であることを願った。
それでこそ溜飲が下げられるってもんだ。
しかし,その願いは叶わず、3人ともそれなりの容姿であった。そのうちの一人は美少女と呼んで差し支えのない容貌。
なんか悔しい。
ますます敗北感を味わう羽目になった。圧勝したはずなのに…。
なので、抜き去り切るまで柄にも無く眉間に皺を寄せ大声をあげ続けた。
走列のペースも上がる。運動公園の出口も近い。
部員51人全員が公園を出る前にバカ共を完全に抜き切らねばならないからだ。
前のおしゃれなブティックやケーキ屋の並ぶ北山通りの並木の舗道を、掛け声をあげ走るのは格好が悪すぎる。チームメイトの誰かにでも、
そのような恥ずかしめを受けさせる訳にはいかぬ、と気の利く先頭付近の者が主将にペースアップを促したのであろう。
流石は強豪校。
万事、チームとして機能している。
これが勝者だ。と、試合上の敗者を抜き切り悦に入る事にした岳人に
「おい、真ん中の娘、バリ可愛いなかった?」
断ち切ったのに、と思いながら、この益荒男感の一つもない下世話だが至極まっとう正直な感想を述べる声の方を向くと、やはり声の主はフォワード第二列を担当する迫田である。
「岳人、お前も見てたやろ」
「見てたけど…」
「何点や?」
しょうがなく答える。
「87」
「厳しいねえ。どう見ても88点はあったぞ」
その一点の違いは、なんやねん。とは突っ込まない。いつものパターンだからだ。
で、いつもの様に握手を求めてくる。
とにかく同意が得られた時、冗談が受けた時など事あるごとに握手を求める性質の男なのだ。
こいつとも入学式の日以来の仲である。
もう三年前になる入学式。式典の最後、新入生歓迎の挨拶に在校生代表として壇上に現れた生徒会長が宣った。
「チョウコウには一歩も退くな」
この一言だけ言い残し壇上を後にした最上級生に、ポカンと呆気にとられた新入生の岳人ではあったが、帰りの京阪四条駅でその意味を知ることになった。
阪急電車に乗り換えるため、繁華街に近いその地下駅で降りた岳人は自動改札の手前に溜まる今日から同級生になった者達の一団を見とめ、その異様な様子に近づいた。
「どしたん?」
「チョウコウや」
と顎を振る先、自動改札を挟んだ向こうに朝鮮高校の見るからにイカついゴンタ学生が7、8人いる。
彼らに震いはしたが、
この人数で?
考えれば中々のド根性である。
確かにこの駅で降りるのは平和主義者の多い阪急電車乗り換え組が主であり、
荒っぽい地域に帰る奴はこの先の三条駅まで乗るから降りない。とはいえ次の電車、その次の電車と到着すれば人数的にはかなり不利になるであろうに眉間に皺を寄せ、こちらを睨みつけている。
改札潜りゃ容赦しねえぞ、と。
我が方は我が方で、今現在でも人数的には互角以上なのに誰も改札を越えようとはしない。
阪急沿線住民たる所以と言えようか。
改札を挟んで睨み合う形の両陣営。
岳人は年に数回は見る動物番組の定番シーンを思い出した。
サバンナを大移動するヌーの群れが河を渡る、あの場面である。
岳人はこのシーンが好きだ。と言うか、このシーンを見たくて動物番組がある度、1時間なり2時間なり見続けているとまで言い切っても差し支えはない。
河の手前、なかなか渡河できずに数が増えてゆくヌーの群れ。
もちろん河にはヌーを喰らおうと獰猛なナイルワニ達が待ち構えている。
何千、何万と増え続けるヌーの群れ。
もう河の手前には喰む草も無くなる…といったところで勇気ある若いヌーが意を決しワニの待つ河へ入水してゆく。
堰を切り、それに続くヌー達。そして大群は河を渡る。それはワニの食事の始まりでもある。
しかしワニたちは最初に入った若き勇気あるヌーには歯を立てないそうだ。
何度も見ているだけに岳人もよく知っている。
動物学者が言うには最初に入水する若く体力のあるヌーを狩るのは骨が折れる。
わざわざ彼らを相手にする必要は無く、
他にも餌はいくらでもいる。と現実的な判断で彼らを歯牙にもかけない。
そしてワニたちの餌食になるのは、
後から続いた爺さんヌーや婆さんヌー、赤ちゃんヌーなのだ。
しかし岳人は思う。そうではない、と。
ワニたちも敬意を払っているのだ。最初に飛び込んだ勇気ある若きヌーに。
大した漢だ。お前はまだここで死ぬべきではない、と。
そして若きヌーは河を渡り切り、安住の地で子孫を残す。その栄誉を勝ち取る。
こう考える方がいい。自然だ。自然賛美だ。
ということは、差し詰め今、岳人が置かれている状況は役割としてはヌーという事になる。
そして河の代わりに改札口があって、ワニの代わりに朝校生がいる。
当然、岳人の選ぶ道は若きヌーになることである。
なれるかどうかの体力的問題はさておいて、彼の思考回路にはそれ以外の選択は浮かばなかった。
そのために動物番組を見続けていたのであるから、ワニに喰われる老いたヌーになるわけにはいかない。
が、あの名も知れぬ若きヌーに人間の自分がこれほど畏敬の念を感じるとは思わなかった。
市井のヌーと同じく、やはり河を渡るのは怖い。
もうちょっとコチラの人数が増えてから、みんなで一緒に…と日和る心が彼の背中を押してくれず、
改札の手前で立ち止まったままだったからだ。
ここまでヌーとナイルワニの話を脱線して続けてきたが、ここはサバンナではなく京阪四条駅だ。
サバンナには現れなかった新たな野生生物が登場した。
百獣の王とも称されるライオンだ。
その偉丈夫。制服をパンパンに張らせた胸板。
真新しい詰襟と首元に輝く擦れていない我が工業高校の校章から岳人の新しい同級生と見受けられるその漢は、ヌーの群れを掻き分け悠然と改札を超えて行く。
ただし動物番組とは違いワニたちは殺到した。ライオンに。
まずは7人のボス格であろう男がライオンを睨みつけながら口上を述べる。
自分がドコのダレで、これからの三年間の生活の仕方などを伝えようとしているのは分かったが、
それは最後まで伝えられる事はなかった。
この日に限らず三年間に渡ってなかった。
というより聞く必要が無くなった。
ライオンが口上の途中で睨みをきかす眉間に頭突きをめり込ませたからだ。
そして腰から崩れ落ちるボスワニの襟首を掴み、
払い腰でリノリウムの床に叩きつけ、のびるボスワニを一瞥。
その他ワニ共に迫田は咆哮した。
「次は、どのガキじゃッ!」
サバンナの王者に抗うワニは居なかった。
野生の食物連鎖の序列というものを金輪際、理解せしめたのだ。
道が開き、悠然と渡河する事が出来た。不本意ながら後から続くヌーになってしまったが‥。また、動物学者の見解にも同意せざるを得ない。確かに初めに渡る者を襲ってはならない。
身を持って知った。
今日ばかりはワニでなくヌーであった事も快哉すべきであろう。
地上出口への階段を殊更ガニ股で登ってゆくライオンの同級生とは思えない広い背中に、他のヌーが言う
「宮川中の迫田や…あいつウチに入ったんや…」
そのヌーが言うには市外の阪急沿線に住む岳人は知り得なかったが市内の中学総番なる前近代的な玉座に就く、市内の中学生なら皆が知る有名人なのだそうだ。
岳人のヌーなりの野生の勘が働いた。こいつとは友達になっておかねば、と。
階段を追いかけて駆け上り、地上に出て直ぐ、四条大橋の袂で迫田に追いついた。
そして他のヌー達と共に迫田懇親会の開催を申し出た。
迫田も新しい学友の申し出を二つ返事で快諾してくれ、
橋を渡った先、木屋町の芸大生や半分京都人を気取る女子旅狂いなどが好みそうなステンドグラスを張り付けすぎ昼間でも薄暗い、女性誌などが主たる世間の評判では、恐らくお洒落とされる喫茶店でお茶をしばく事となった。
(往時は喫茶店に行く事を『茶をしばく』。ケンタッキーフライドチキンを食す事を『鶏いわす』。また、剛毅な者は牛丼を喰らうことを『牛どつく』と称した)
若年層の女性まみれの店内では、詰襟の集団は完全に浮いた存在ではあったが迫田は構わず独演会の如く話し続けた。
せっかく全国屈指の強豪校に入ったのだから、高校ではラグビーに精を出すつもりである事。
ゴンタは中学で卒業し、大人の男の振る舞いを是とし、公序良俗を尊び、暴力に訴えるなど厳禁である旨を高らかに表明した。
その禁はつい数分前、入学初日に破られているではないか。と岳人は思ったが、
まだ突っ込む勇気は持ち合わせてはいなかった。
なにせまだ、ライオンとヌーの関係であるからしてしょうがない。
そしてヌーの群れは漏れ無く迫田からラグビー部への勧誘を受け、その分厚い掌と握手を交わした。
今もなおサバンナに残っているヌーは岳人一人だ。
が、入学初日以来、三年間共に汗を流してきたかというと、そうではない。
部員歴では岳人の方が一週間先輩となってしまったからだ。入学初日、特急停車駅の改札で瞬殺とは言え、立ち回りを演じれば、いくらゴンタの扱いに馴れた工業高校と言えど何らかの処罰を与えねばならず迫田は翌日より一週間の停学処分を受けてしまった。
彼の居なかったこの一週間は激動で、
工業高校のご他聞に漏れずトーナメント戦の開催の運びとなり、
ヌーたる岳人は参加を表明しなかったが肉食獣たちの激烈な生存争いが展開された。
休み時間の度にトイレには門番が立ち封鎖され、
膀胱の破裂を阻止するため教師の許しを請い授業中にトイレを伺うと敗れ去った肉食獣の死骸が転がっているという有様で、
この伏見区のサバンナにおいても食物連鎖の序列というものは明確に反映され、
官報において発布されずとも、
トーナメント不参加者の岳人にも一回戦敗退者から決勝進出者まで自然に知られる事になった。
そしてトーナメント制覇者が決した頃合で、シード選手がサバンナに帰還した。ノコノコと。
登校するや鞄を教室に置く暇も与えられずトーナメント制覇者に屋上へと誘(いざな)われた迫田は新入生のほとんどが観覧していると思われる立錐の余地もない、このそこらに罅の入った煤けたコンクリートのリングでモハメド・アリと人間機関車ジョー・フレージャーが演じたスリラー・イン・マニラの様な打撃戦を展開する事になる。
(独裁者マルコス大統領が自国首都に招致し実現したアリ対フレージャー一勝一敗の第三戦。ボクシング史に残る激戦とされる)
最後はチェーンまで持ち出し善戦した制覇者ではあったが、
アリと同じく最後まで立ち続けたのは迫田であり、アリと同じく王者に戴冠したのも迫田であった。
どこで見ていたのか、終了ゴングと共に絶妙のタイミングで介入した教師達により、
迫田は教室に鞄を置く暇も与えられず、今度は職員室に誘われる事になり、
そして此処で彼は退学するか、ラグビー部に入部するかの二者択一を迫られ、
元々ラグビー部に入部するつもりだった彼は渡りに船、と入部を希望する。
勿論たっぷり焦らした末にである。
よって彼は遅ればせながらの入部初日から特待生の様に振舞う事を許され、
一般入部の岳人とは違う特別扱いを享受する事になった。
しかし、これに関しては誰にも異存はなかった。
彼は玉座に座る男であり、監督からの怒られ役のパイプ椅子に座る男にも就任したからだ。
と同時にトーナメント上位者も漏れ無く入部した。
ゴンタの扱いに馴れた工業高校たる所以。
トーナメント自体がラグビー部員選抜装置になっていたのだ。
これで教師達が新入生達に勝手気ままに喧嘩をさせていた事もストンと腑に落ちた。そしてこの後、学内にはこの一週間の喧騒が嘘の様に平和がおとずれる。
パクス・ロマーナの様に。
顕然たる王が統治すると、どうもこうなる様である。
北山通り、走る岳人の前をデカいケツが上下する。
豆タンクを思わせる愛嬌のある後ろ姿だが、前に回ると獰猛なブルドックが突進してくる様に見えることだろう。トーナメント制覇者にしてフォワード第一列プロップを担う大宮のケツだ。
「艶かしいか?」迫田が聞いてきた。
「は?」
「大宮のケツや」
暇つぶしの迫田の問いに先に大宮が反応した。
「見とれてたんけ? 俺の後家殺しのセクシーヒップに」
この後家殺しというフレーズは彼の中で、彼の中でだけ、ずっと流行っている。
本人曰く字画がいいそうである。
が、あながちでもなく14歳で早々に果たした初体験の相手が未亡人だったそうで、
校内で後家殺しを一人挙げよ、となると真っ先に彼が推挙されるのは明白だからだ。
「何点や?」
と迫田に大宮のケツの得点を問われた岳人は0点と答えてしまった。
愛想もクソも無い、面白みも何も無い答えである。
勿論、迫田からは
「どう見ても一点あるやろ」とは言われず、握手も求められなかった。
これではいけない。チーム内での役割としては。
岳人はどう考えても腕っ節の強い方では無かったが、
入学初日に迫田と友人関係になったからか、この迫田を含むトーナメント上位者の相手役、猛獣使いの役割をチームから仰せつかっていた。
監督や主将に頼まれた、という訳ではなく、自然とそうなった。
彼自身、迫田や大宮の様に試合で八面六臂の活躍ができる訳ではない一軍半という身空であるからして、
この役割をこなす事にアイデンティティーを感じてもいた。
その上、今日の市街縦断走は岳人の犯したミスによりチーム全員に課してしまっているのであるからして、あの答えは無い。
「訂正する。二点」
唐突に発言した岳人に迫田が聞き返してくれた。
「其の心は?」
「二つに割れてるから…」
「お前の答えが二点じゃ。それにお前、大宮のケツ三つに割れてたら、どうすんねん」
「誰のケツが三つやねん」
大宮の突っ込みに、すかさず迫田が答える。
「お前、ケツ三つに割れたから背番号も3付けてんのと違たんか?」
「アホか。ポジションで付けとんねん。ほなら、お前はケツ5つに割れとんのか?」
「おう。そうじゃ」
と迫田は言い放ち、自分がフルバックのポジションに就けない理由とした。
(フルバックの背番号は15番)
この後、北山通りを、松ヶ崎橋を渡るまでこの二人はケツを見せろ、お見せするようなものでない論争を繰り広げた。
大宮も丸くなったものだ。
体が、ではない。それは元からだ。
入学当時ならほぼ間違いなく今ので殴り合いになっていた筈だ。彼は王座決定戦の後も何度かリターンマッチを挑んでいる。岳人が把握しているだけで四度。両者が同日に顔を腫らして登校して来た事が数度あったから、あれもカウントして憚らないだろう。
いずれも勝者は迫田である。
府南部、近鉄沿線では連戦連勝だった男である。
田園とバイパス道路が主な産業といった土地ではあるが絶対的地域王者であったのだ。
平凡な中学生活しか送らなかった岳人では其の傷心たるや如何許りかと慮りようもない。
が、それを癒してくれたのはラグビーだった。
迫田と同じく一年時からスタメンに名を連ね、たった一試合ではあるが迫田より先に試合出場の機会も得た。
ラグビーでは負けていないぞ、と彼の自尊心もレコンキスタされた事であろう。
このあたりの監督の人心掌握術の巧さには舌を巻かざるを得ない。
そして大宮もこの心意気に応え、誰よりも精力的に試合に挑んだ。
彼の担当するプロップというポジションは試合中、ボールを触ることはほとんど無い。
スクラムの最前列で相手を押し込み、ボールが溢れれば、誰より真っ先に駆けつけボールを確保する。
密集が出来れば頭から突っ込み、ボールを掻き出す。
そしてボールを動かすのは背番号の数字の大きなバックスと呼ばれる選手たちだ。
彼らがタックルに倒れれば、またプロップがボールをチームメイトたちの為に掻き出しに奮闘する。
女性にモテるのは華々しくボールを展開し、トライを決めるバックス陣だが、彼の欲求を満たしたのはトライではなく密集の中で嗅ぐ湧き上がる血の匂いだったのかもしれない。
結局、三年間、彼が常にチームの最前線でボールを掻き出し続け、チームメイト全員が彼のケツの後ろでプレイし続けた、という格好になる。
三年間、皆は彼のケツを見ながら走り続け、彼は皆にケツを見せつけ続けた。
彼のケツは、そういうケツなのだ。
後家殺しのセクシーヒップかは扠置いて。
そしておそらく二つに割れている。
北山通りを東行し、高野川に架かる松ヶ崎橋を渡った一行は、此処でようやく進路を南にとった。
ここから川沿いを賀茂川と合流して名を鴨川と革める出町柳まで出て、学校近くまで下るコースを取るようだ。
随分、遠回りだな。と岳人は思った。
運動公園から下鴨本通りを行けば、下鴨神社の裏手に出て、ほぼ真っ直ぐ出町柳まで南下できた。
が、コース取りは先頭を走る主将の長谷部に一任しているので、致し方ない。
練習メニューも試合でのトライかキックか等の作戦の選択も彼がチームから最終決定権を託されていた。
『統べる』という能力に於いては迫田がチーム一なのは間違いないが、
本人の生来のムラっ気と高校選抜チーム入りした事により学校を留守にする事も多くなった為。
またムラッ気では負けていない、もう一人のボス格大宮も学校を留守にする事が多かった。
尤もこっちは一年時に三度、二年時に二度の停学によるものであったが…。
そのため、我が建築科の俊英でもある長谷部が主将に任命される運びとなった。
真面目臭いのが玉に瑕だが、
建築科80名中70番台の岳人とは違い成績優秀。顔もまずまず。
50mのタイムも6秒2と履歴書的には非の打ち所が無く、
将来の夢もはっきりしている男で、将来は一級建築士になり、
大手建設会社にて停滞している京都駅前の再開発を断行するのだそうだ。
駅前を自分色に染めるなど若者らしい素晴らしい夢だが、
有象無象の魑魅魍魎が巣食うバブル期ですら開発出来なかった永遠の更地が点在するあの界隈を点眼液一滴分でも自分色に染めるのは背骨が折れる程の辛苦が想像される。
果たしてクソが付くほど真面目な彼にやり遂げられる諸行であろうか。
彼もそこは危惧しているようで、そのリハーサルを今、行っているのではないか、と思わせる節がある。
工業高校のゴンタ位、手懐けられなくてどうする、と。
ただゴンタ相手ですら彼の杓子定規なチーム運営では侭ならぬ事も多かった。
が、とにかくチームの為に我を殺し、文字通り滅私奉公を思わす彼の姿勢に岳人とて心動かさざるを得ず、
出来る事は、と考え猛獣使いとして彼のチーム運営のアシストをしているのだ。
彼の方もそれに感謝してくれ、何かと岳人に気を使ってくれた。
結局、彼により多くの気苦労を与えてしまう羽目になっている事に岳人は気付いていないし、
恐らく長谷部本人も気付いていない。
彼の夢を叶えるのが先か、
その前に衰弱死するのが先か、
今のところは後者の気が強く出ているのは否めない。
しかし彼もまだ若い。
うまく転がり迫田や大宮のムラっ気が伝染すれば良いのだが…そうもいかないのが世の常であろうか。
川沿いを行く。と決めた長谷部の選択を見透かしていた様に少し南に下った御蔭橋の袂で監督が待ち構えていた。
「気張っとるやないか」
気張らしとるのはお前やろ。と50人の部員全員が思った。
岳人でさえ、この縦断走を産みだした引け目から他の者より0コンマ数秒遅れたが思ったぐらいだ。
しかし監督は意に介さず
「ジュース飲めや」
と先回りして買い込んだ50数本のジュースをスーパー袋ごと差し出した。
この人たらしめ、と岳人は思わずにはいられなかった。
公立高校の教員の月給が幾らかは知らないが、
安売りスーパーとはいえ、50数本買い込んだのだから、それなりの出費である。
しかし、それを?にも出さず事も無げに差し出したのだ。
両手一杯に抱えこんだジュースを。少し重そうに。大儀であることを暗に示すように。
齢50を幾ばくか過ぎてはいるが今もなお迫田とほぼ同格の体躯を有する、名うてのラガーマンであった彼の腕力を鑑みる者は居なかった。
それ位、絶妙の匙加減であったのだろう。皆「あのオッサン分かっとる」と、ありがたく頂戴した。
都合、ここで小休止する事になり、
先頭を切っていた長谷部が迫田らと殿(しんがり)軍を務めていた岳人の許へ神妙な顔で近づいてきた。
「キツイねえ」
「おう」とだけ岳人は答えた。
長谷部は何か別の事が言いたそうである。そして言った。
「あの反則(ノットリ)気にすんなよ」
チームメイトの誰も口にしなかった事を。試合中の事だから仕方ない、と思っていた事を事も無げに口にした。
「ドンマイ」
とまで付け加えた。
がん宣告をした直後の担当医が「手術、頑張りましょね」とほざく、あの声のトーンで。
これでは傷が癒え始めていた岳人も浮かばれない。
が、彼は岳人の事を思っての好意全開で宣(のたま)っているのだから咎めるわけにもいかない。
これで免罪符を得たのか、大宮が
「なんやお前、ノットリしたんか?」
とニヤケ面で白々しく聞いてきたので
「お前のケツの横でしたんじゃ」と応え、一人ウケる迫田と岳人は握手を交わした。
この時も手加減してくれていても、まだなお痛いラリアートを食らったが、大宮の体格の事をチーム内でいじれるのは岳人と迫田の二人だけである。
勿論、大宮もタダでは済まさず、いじられると岳人には軽い暴力で、迫田にはドギツイ悪罵の仕返しを施す。
こういう関係になってからゴンタ両雄は喧嘩をしなくなった。
岳人という緩衝帯を介すことで、お互い開戦勃発ギリギリの領有権を見出すことが出来たようで、
監督も「お前の人徳による手柄だ」と褒めてくれ、
本気であったかは定かではないが、
実は長谷部が着任する前に内々に主将就任の打診があったほどだ。
ただ生来の体格的不利、運動神経の無さ等を鑑みて、平に辞退し、
三人目の副主将という名誉職を戴いていた。
今日も予選3回戦、相手との実力差等を加味し、
絶対的支柱の迫田、大宮以外は飛車角抜きの布陣で挑んだ試合の為、出場の栄誉を得た、といった塩梅だったので、この判断は間違いではなかったと思う。
その上、なにせ注目を浴びる強豪校であったから地元紙やラグビー雑誌へのメディア対応も主将の専権事項とされたので、岳人よりも、また風紀上問題のある迫田、大宮よりも見るからに優等生然とした長谷部の方がより適任と言えよう。
この長谷部にとっても岳人が一番の話し相手で、この時もジュースを飲みながら、その銘柄のCMに出ているかの様な爽やかさで、
「いいトレーニングになるわ」
と彼以外の者は嫌味としてしか発さないであろう前向き発言を岳人に発した。
やはり、これに反応したのは岳人でなくゴンタ二人の方で
「おうホンマや。岳人のおかげで、ええトレーニングになるわ」と大宮が言い
「おい大宮見てみい。こんなゲッソリ痩せてしもてるやないか」と迫田が被せた。
こちらは嫌味である事を正式に表明し、岳人をいじる振りして長谷部を茶化していたのだが、
長谷部は当然気づかず、こう続けた。
「これまっすぐ行ったら出町柳に出るやろ。そっから丸太町、三条、四条、五条、七条、東福寺、鳥羽街道…で伏見稲荷。もうちょっとや」
どこが、もうちょっとやねん。と彼の声が聞こえてしまった部員達は皆、思った事だろう。まだ半分も来てへんやんけ、と。
しかし、そこを指折り数えながら諳んじれるのが長谷部なのだ。
きっと皆を勇気付けようとか、奮起を促そうとか思って発している。
岳人も長谷部の折った指の数から、あと8駅分走らなければならない事を知ってしまった。
駅間の短い事で知られる京阪電車とはいえ、8駅分だ。
駅から肉眼で見える次の駅のホームに
「あれなら走った方が速い」
などと放言した事もある岳人だが、
8駅分となると、遥か彼方を遠望するしかない。
そんな岳人を見て、責任を感じ参っている、と捉えたのか長谷部は喉を鳴らしてジュースを飲み干し、白く整った歯を見せ、岳人にだけ微笑んだ。
『大丈夫。気にすんな。俺がお前を守ってやる』の意が込められている事に岳人は残念ながら気付いてしまった。
ここまで来ると、もはや蛮勇とも言える彼のビスの外れたリーダー気質に辟易せざるを得ないが、
神輿担いだってるのは俺らの方じゃ。と言うものは一人も居なかった。
むしろこれ位の、おそらく無意識的で盲目的な強心臓の者が主将の任に就いていてくれた方が、
皆、かえってやり易かった。
ある程度無視さえすれば害はない、と。
ラグビー標語で言うところの
『ワン・フォー・オール』が長谷部で
『オール・フォー・ワン』が長谷部を取り巻く他の部員という図式が成り立っていた。
だがこれは残酷な構図ではなく、お互いの生息域を表した構図と言う方が的を得ている。
互いに心地いい関係であったのだから。
「ほな、先に学校帰ってるから、お前らも早よ戻ってこいよ」
と言い残し、監督は路肩に停めた愛車に乗り込んだ。彼が乗ると、より小さく見えるそのハッチバックは新車の頃より随分カン高くなったエンジン音を咳込む様に響かせ、走り去った。
「あの車、いつか朝一でエンジンバラして、そのまま置いといたんねん」
と大宮が機械科らしい殊勝な計画を口にした。
実習だけは熱心に勤しむ彼の事だから本当に実行しそうで怖い。
迫田も廃車になる前に実行せよ。と囃したて、
タイムリミットは残りわずか。
↓
いやそもそも、もうすでにエンジンは止まっているのではないか?
↓
二年前からオッサンが足で漕いでいる。
↓
エンジン無い方が早よ走る。
↓
付いているナンバープレートの数字はタックルをして殺した男の数だ。
と展開し、
「あの車自体が俺たちが見ている幻だ」という結論(トライ)に達した。
「じゃあ陸運局に問い合わせてみろよ」
と長谷部が本人はしたつもりもなく、やはり無意識に素直な意見として述べたのだろうが、出色の突っ込みを入れた。
珍しく迫田から握手を求められた長谷部は、おざなりに応じ、
「こんなとこで油売ってないで、早く行こうぜ」
と自らの発言が思いもよらぬ評価を得た事に恥ずかしくなったのか、早々の行軍の再開を宣言した。
一行は橋の袂から土手下に降り、河川敷へと繰り出した。
長谷部は皆の為に景色のいい気持ちいい道を走っている。という感覚だったのだろうが、
川沿いの遊歩道はアスファルト舗装の道より走りづらかった。
何より均しきっていないので大きな石が所々に顔を出し、ゴツゴツして足元は危うく、襷掛けのバッグも随分踊った。
そんな事もあって嫌気も差し、付き合いきれなくなったのも理解できる。
岳人にしても嫌気が差した程だ。過去の傾向や行動パターンの分析から、監督は真っ直ぐ帰ったであろうと、もうこれ以上の休憩所は無い。と踏んだ迫田は、
殿(しんがり)から先頭を風切って走る長谷部に行軍全員に聞こえるように大声で「出町柳から電車を使おう」と提案をした。
当然、長谷部が了承する事はなく。簡易裁判所長の様に却下した。
しかし下級裁判所の官吏の催告書ぐらいで引っ込む道理など持ち合わせていないのがゴンタである。
控訴手続きをする事もなく離脱する旨を公告し、迫田と聞くまでもなく離脱顔の大宮は岳人にも同道を促した。
が、岳人としては、この行軍の原因分子の為、已むなく辞退せざるを得なく。
また彼とは違い従軍義務感の薄い幾人かの下級生達が迫田らに同行を希望したが、
これには手前(てめえ)の事はかなりの高棚に置き、
「お前らには、まだ早い」とはねつけ、「キャプテンに従え。チームの和を乱すな」とほざき上げた。
この二人に抗える後輩などは勿論、皆無で鮮やかに転向せざるを得ず。
迫田らに付いて離脱を夢見た事など白昼夢であり、現実的に標榜した事はない。との態度を示し、
長谷部に恭順した。
従って離脱実行者は迫田と大宮の二人のみとなった。
迫田と大宮は彼らなりに献身的チーム精神とはなんたるか、を後輩たちに説き、それを置き土産に高野川と賀茂川が合流し、鴨川となる直前に行軍から離れて土手を駆け上がった。
そして彼らは川を並行して走る川端通りを横断歩道の存在意義を無視するように渡り、駅前のこじんまりしたバスターミナルを突っ切って、その先の奥まった所にある京阪電車の地下改札へ続く階段へと向かった。
「やっぱり来たか」
階段横のハンバーガーチェーン店から出てきた少女は、こう続けた。
「先生の言う通りや。メンツまで当てはった」と。
「お前、なんで此処おんねん」
と発したのは迫田だったか、大宮だったか。
しかし理由はハッキリしているし、藤原詩織はその問いに答える事もしなかった。
ただ首をかしげ、小悪魔的に微笑んだ。
傍から見れば可愛い仕草だったろうが、二人には補導前提で微笑みかける少年課刑事以上の暗黒的風景と言えた。
「オッサン、何て言うてたんや?」大宮が聞いた。
ケツの位置は撤退戦へ向かう下り坂。
「アンタら二人が来るやろうって。今日は岳ちゃんは入らんやろから、大宮、迫田の二名のみやなって言うてはったわ」
自分の半分以下の体重の小柄な少女になんとか、ひり出したゴンタの問いに詩織は答えた。
ズバリ的中である。
「藤原…さんは、いつから居たんや?」
「アンタらジュース貰てた時、マネージャーみんな居てたか?」詩織は迫田の問いにもニヤリと微笑み答えた。
確かに一人も居なかった。部の女子マネージャーは全部で5人になる。
それが一人もあの現場に居なかったのだ。
「そういうこっちゃ」と迫田にも,さん付けで呼ばせる女傑は高らかに勝利宣言をした。
ここで身を躱せても、あと4人のゲシュタポがどこかで暗躍していることを明示し、抗う事の無益さを理解せしめたからだ。
「さあ戻ろか」
監督の全権委任者は有無を言わせなかった。
名うてのゴンタ二人に格の違いを見せつけ、頭蓋を鷲掴みに抑え付けたのだ。
彼らとて平素でも、さん付けを強要されている身であるからして、悪事を暴かれた今日などは口頭による抗議一つも発せれる筈もなかった。
まだ底冷えする時期ではない。
川を吹き抜ける風は秋風の呼べるもので、心地よかった。
以前は川沿いを走っていた京阪電車が地下に潜った事で出来たこの川端通りは歩道も綺麗に整備され走りやすかったので、自然、詩織のペダルを漕ぐ足の回転も早くなった。
詩織とて十代の多感な少女であるからしてそれなりの感傷もあったろうが、風を沢山感じたくて、というよりは次の検問所までに隊列を整える事に腐心しての事だったろう。
速度的に多少の無理強いをしている罪悪感から後ろをチラリと振り返ったが、付いて来ているゴンタ二人を見て、よしッ、ともう一段階深くペダルを踏み込んだ。
川端通りを詩織の自転車に引っ張られる形で猛ダッシュを強要されたゴンタ二人と詩織は、程なく眼下の土手下の遊歩道を進軍するチームメイト達の後ろ姿を捉えた。
「なんであんな草むら走ってんの?」
この道幅の広い川端通りでもなければ、遊歩道として整備された西岸でもなく草の生い茂る団体行軍には不適格な東岸を行く自軍選手に素直な感想を述べた詩織であったが、先頭を切る男の姿を見て得心した。
―将が見誤れば、兵が死ぬ―
八甲田山を征く北大路欣也を一言で表すと、こうなるだろう。
この時の詩織も舌打ち気味に吐き捨てた。
「どこ行っとんねん」
兵法家ではない彼女だが、そろばん塾に通う小学生にも分かる理屈だ。
なぜそれが我がチームの主将には分からない、と。
「ええトレーニングになる言うとったぞ」大宮が喘ぎながら言った。
「トレーニング? 大会中やで。ちゃっちゃと帰ってきたら、ええものをッ」
後ろに従うゴンタに不満をぶつけた詩織は土手下へと続くスロープを立ち漕ぎで、
ただでさえ学内一短く仕立てているスカートを下着が見えるのもお構い無しにひらつかせ、
スピードを込めて駆け下りた。
土手のスロープを詩織の自転車が、
ハンス・ルーデル大佐の操るスツーカ爆撃機の様に急降下してきた。
従軍兵たちにはそう見えた。
そして、行軍の鼻先を抑える形で自転車を切り込ませ、行く手を遮った少女は、
土手上を指差して「上がれ」と命じた。
「なんやねん」長谷部は憤った。
彼なら当然のリアクションであったが、詩織は意に介さず素直な質問を浴びせた。
「どこ向かってんの?」
「何処て、学校やろ」
「で、こんなトコ走ってんの?」
「何がや。方向は間違ってないやろ」
「方向性が間違っとる」
ここまで言われても尚、ゴンタとは違い罪悪感の欠片もない無垢な使命感の塊は、
「俺は監督にチーム任されとんねん」と食ってかかったが、
その次の瞬間には長谷部の腿に蹴りが入っていた。
勿論、殴り返すわけには行かず、彼の前進妄動は止まる。
「アンタ見てみい」
諭す様に詩織に指摘された長谷部は、自身のズボン膝下に無数のオナモミの果実が付いているのに気が付いた。
「これ誰が洗濯する思てんの?」
「いや…藤原…」
「藤原さん。な」
「藤原さん…」
うん。と深く頷き、
「キャプテンやねんから、マネージャーの仕事も考えて、やってくれな」と事態を敢えてキャプテン対マネージャーという図式に矮小化させて治める事も抜かりなく施した。
勿論、この心配りに長谷部が気付くことは無かったが、
素直に詩織の進言を受け入れ、行軍部隊は迫田と大宮が高みの見物を決め込んでいた土手上の舗装路へ歩みだした。
「おかえり」
向迎の立場を逆転させた迫田のおもてなしの言葉に皆、疲れきっていたのだろう返答する者は居なかったので、仕方なく岳人が応じた。
「ただいま」
「無事、帰還できたな」
「どっちが?」
「お前らが。遭難しかけとったぞ」
「お前らも汗だくやんけ」
「青春の息吹と雪中行軍は違うんや」
と同じ山でも青い山脈と八甲田山は違う事を伝えたかったのだろうが、
中学生の頃から夜遊びし深夜映画館通いをしていた迫田とは違い、岳人は世代的に両方の映画ともに観ていなかったので、ピンと来なかった。
「俺らのは青春で、お前らは…」
「もうええ」
説明を加えようとした迫田を詩織はピシャリと一喝し
「岳ちゃんはアンタらと違て、サボらんかったんやから、偉い」と岳人を、ちゃん付けで愛玩動物の様に愛でた。
この人には形無しである。
とは言え、それは小柄で平素から軽んじられる風貌の岳人だけではなく、
本人たち曰く「爽やかなゴンタ」を標榜する迫田と大宮とて同じで、
この直接暴力に訴えることの出来ない女生徒には好きにやられ、領空権を侵犯され続けた。
ただの眉目秀麗で愛想のよい目立つ女子だからではなく、
ラグビー部の母的な世話焼き精神と、ゴンタ共は元より監督にすら直言を厭わない肝っ玉具合のハーモニーの絶妙さ、勿論、そう振舞う際の加減に自分の見た目のアドバンテージを加味する如才無さも兼ね備えていた。
故に最強であり、彼女は特別であり、してやられる事を彼らも面白がっていた節がある。
そして、詩織によって整えられた隊列はさらに南へ下った。
長谷部を先頭に、殿に岳人とゴンタ二人。
その後ろに詩織の自転車が続いた。
岳人は後ろが気になった。
これでは隊列に付いてゆく、と言うよりは、後ろから追い立てられている、という感覚が強い。
「岳ちゃん、なにチラチラ見てんの」
「いや…」
チラリと一瞥しただけなのに、すぐさま指摘された。
「どうせパンチラやろ?」
などと言う無粋極まりない大宮にも
「ちょっとアンタッ」とやり、「岳ちゃんやったら、見てもいいよ」と返す。それぞれの操縦法を弁えている。詩織はやり手の看守だった。
正に青空の下の軟禁状態である。
「ちょっと気付いてんけど、お守り、岳ちゃんしか付けてないやん」詩織が岳人のバッグにぶさ下がり左右に揺れるフェルト地の物体を見て言った。
マネージャー達お手製のお守り。
チームのユニフォームを着た三頭身のラガーマンを模した物で大会前に彼女達が人数分作ってくれた製作者曰く霊験あらたかな代物だ。
戦争映画か何かで見たのであろう。
戦時中、特攻隊員に無事還って来てと、私が傍に付いているわ、と恋仲の女性が自分の陰毛をお守りの中にそっと入れた、という故事の存在を知っていた大宮が貰ったそばから本人たちの目の前で中身を穿り返し、女子一同の逆鱗に触れた例の代物だ。
実は岳人も期待して家でそっと腹を破ってみたのだが…。
よく見るとチームメイトの誰も付けていない。
「こういうトコやねん」
お前らが女に相手されないのは…と心の中では付け加えながら詩織は嘆き憤った。
「でも縁起悪いやろ?」と迫田。
「呪いのお守りや」大宮が続いた。
「何がよ?」詩織は更に憤たが、
「付けてる奴、やらかしたやろ」と迫田が禁忌を述べた。
「ちょっと、アンタッ」岳人の方をチラリと見て、今、言うことではない、と詩織は咎めた。
「ええんや。もう解禁になったんや」大宮が部員の中では織り込み済みだ、と告げた。
キャプテンによって、とは言わなかったが、大宮に言われなくとも詩織にも理解できた。
「ほな私がノットリさせたみたいやん」
詩織は先程までの岳人への気遣いが嘘の様に、すぐさま解禁に応じ、禁忌を口にした。「いつまでも、しょげんなよ」と自転車の前輪を岳人のケツに回したバックに当て、軽く轢きもした。
「しょげんなよ」と大宮のラリアートが続き、
「じゃあ俺も」と迫田の蹴りが入った。
岳人は、やっと楽になった気がした。
はじめから気を遣って貰わず直截にやって貰えば良かったんだ、と。
皆にも、俺の為に走ってくれや。と言って、ロッカールームの段階で小突いて貰えば、もっと早くに気が晴れていたろう、と思った。
三年も同じ釜の飯を食っている間柄なのに手前勝手に遠慮していた自分に猛省を促したい気分になった。
「でも反省せえよ」すぐさま迫田が釘を刺した。
前言撤回する。
岳人の気配を察してか、迫田が握手を求めてきた。
「なんの握手や?」
思わず聞いた岳人に代わりに大宮が答える。
「キック供給友の会やろ」
「なんでや?」
「皆、やってる」
差し出された迫田の握手に応じた岳人は、
「俺もやってる」と大宮に掌を奪われる様に握られた。
「ほな私も」
ゴンタ二人に「お前関係ないやろ」と突っ込まれる詩織にも奪われた。
迫田と大宮の直後だったからか、彼女の手の平は今まで触った物の中で最も柔らかく瑞々しかった。
ふにゃっとしていて、でも吸いつく感じで、手の平のシワの中にも入り込む様な感じで、手を離した後も感覚が名残惜しそうに消えなかった。
役得だ。
反則を犯したのにこの感触を享受した。
忘れたくない、と岳人は強く思った。
他の仲間たちには背徳感を感じもしたが、夜までこの感覚を維持し、陰茎をこの右手で握ろう、と岳人は決めた。
詩織を見る。
今まで以上に可憐に見えた。勿論、彼女とも三年間、一緒にいたのだから性的に見たことが無いとは言わないし、性的欲求を、彼女を想像し果たした事も何度もあった。
が、なんだ? あの手の平は…?
もう詩織の顔をまともに見られなかった。こんな日に。
アホだ…。サルだ…。ろくでなしだ…。
が、自身への嫌悪感など忘却の彼方へ放り出す以上の感覚があの手の平にはあったという事だろう。
まるで…
チームメイト達だって、こんな思いをしていたのだろうか…? いや、しているのだろうか? 迫田も。大宮も。あの長谷部だって…。
と考えると、なんだこの集団は?
アホで…。サルで…。ろくでなしで…。
古来より男は、洋の東西を問わず女性を原因として生きとし生きている。
世界史に出てくる英雄など女性が原因で戦争をし、国を潰す者まで居たくらいだ。
カエサル…アントニウス…あと誰だっけ…? 唐の玄宗皇帝もそうだ。
結局、男は皆、
アホで…。サルで…。ろくでなしだ。
手を握ったくらいで、ここまで妄想が膨らんでしまった。
自戒しようと思った岳人は、もう反則(ノットリ)の事など完全に吹き飛んでいる自分に気が付いた。
ひょっとして藤原さんは、ここまで見越して手を握ってくれたのか?
彼女に振り返る。
大宮が透かさず言う。
「パンチラやな」
大宮に睨みを飛ばした彼女はニコリと岳人に微笑んだ。
穿ち過ぎか?
下着も絶妙な按配で見えなかった。
男を生かし殺す、計算し尽くされたスカート丈と足の角度の虜であることを再度、確認出来たのみであった。
分かりそうで分からない。手が届きそうで届かない。
これこそが我がチームの究極のアフロディーテたりえた彼女の処世術であったのだろうか…。
一介の女子高生を謎多き女に仕立て上げてしまう岳人であった。
(ギリシア神話上、アフロディーテは美、恋愛、豊穣の女神であり、エロスの母である)
隊列は三条から四条へと続く人通りの多い地域に繰り出していった。
通りの東側は祇園界隈。通りの西側は鴨川を挟んで市内一の繁華街へと繋がる。
川端通りは所謂、目抜き通りではなかったが、紅葉の季節だ。いつもよりも人も多かった。
できれば走りたくないシュチュエーションだ。
特に揃いの格好で隊列組んで、では。
が、先頭の男は違ったようである。俺を見てくれ、とばかりに張り切った。
揃いの格好も誇らしかったのだろう。
引っかかってしまった三条通りの信号でもずっと足踏みをやめなかったくらいだ。
「アンタらも足踏みしたら? 笛吹いたげよか」
「アホか」
迫田は詩織の提案を一蹴し、交差点の対角を見やった。岳人も目を送る。
視線の先の京阪三条駅前にある土下座像も長谷部の張り切りぶりには頭を抱え、平伏しているように見えた。
この銅像、江戸後期に諸国を行脚して尊王論を説き、幕末の志士達にも影響を与えたとされる、他の二人は誰かも知らないし、知りたくもない『寛政の三奇人』の一人、高山彦九郎なる人物の像で、御所に拝礼している様を模した物なのだが、どう見ても失敗を犯し土下座しているようにしか見えないため、土下座像と呼ばれていた。
大宮曰く
「後家に手を出し、婚意を求められ詫びるに詫びている図」だそうで、後家殺しの聖地とされている、との事だった。
長谷部は、そんな後家殺しも畏敬の念を抱くほどの奇譚製作者だったのだろう。
岳人は心の中で少し心苦しい面もあったが勝手に長谷部を『平成の三奇人』の一人に列しておいた。
いつか彼の銅像が建った暁には題字を揮毫する旨を決意し、
これを彼との友情の証とする事にした。
友情か…。
岳人は長谷部を見やった。奴は懸命だ。なにをやるにしても。
それに比べ自分はどうだろう。彼を諧謔のネタにできる立場の人間か?
自分がひどくちっぽけで見窄らしい、所謂、矮小なモノに見えてきた。
自己嫌悪に陥る。
これではいけない。俺も男だ。
下らん事にかまけている自分が、岳人は恥ずかしくなった。
俺もチョケてる場合じゃない。
そんな気になった。なんだか張り合いたくなった。この長谷部という男に。
勉強も負けていた。運動も負けていた。今、ここでも負けるのか?
嫌だ。
岳人は足踏みを始めた。
「お前、何しとるんや?」
「なんか走りたなったんや」と友人の突然の乱心を訝しむ迫田に、岳人は答えた。
「その発露はなんや?」
「今日は俺が原因や。そやから…」
「弱い動機やな」
「弱ない。長谷部に任せっきりではアカンかったんや。俺がもっと率先しな…」
「急に何や? 熱出たんか?」大宮が聞いてきた。
「違う。思い立ったんや」
「思い立った?」
「吉日や。俺、走る」
「走る、て。散々走ってるやないか。宝ヶ池から此処まで」
「走らされるん違て、走るんや」
「衆議院議員並みの言葉遊びやな」
「遊び違う。走んねん」
長かった信号が青に変わった。
「俺、走る」
カーレースのスタートの様に岳人は信号の色が変わると同時に踏み込んだ。
ゆっくり走り出したチームメイト達を、予選レースを回避した顎のしゃくれたドイツ人の駆る赤い跳ね馬のように牛蒡抜きにした
。一人を抜き、二人を抜き。チームメイト達も訳が分からない。急にどうした? そう思った事だろう。
だけど構わない。と岳人はぐんぐん加速した。
自転車のベルの音が聞こえた。
後ろから詩織が追いかけてきてくれたのだ。
迫田と大宮を引き連れて。彼女はチームメイトの群れに引っかかり前に出れなくなった岳人を追い越し、隊列の中にベルを鳴らし続け割って入って、群れを蹴散らした。
走路が開く。
開いた走路を岳人は詩織を追って走り続けた。
迫田と大宮が追いついた。
「どうなってんねんッ?」と聞いた大宮に、
迫田が答える。「知るかッ」
「俺が何をしたんやッ?」
「俺に聞くなッ。俺も走っとんねんッ」
「同じアホなら、走らな損てか?」
「そうや」と岳人はゴンタ二人に応えた。「走らな損やったんや」
スピードを上げる。皆を追い抜き先頭の長谷部に並んだ。
そして追い抜いた。今度は長谷部がスピードを上げる。
詩織を先導に走った。二人は張り合ってスピードを上げた。
「どうしたッ?」長谷部が肩を並べ言った。
「俺が先頭切るんやッ」
「させるかッ」
長谷部はニヤリと笑い、ブッちぎり岳人を置き去りにした。
長谷部に追いつかれた詩織が振り返って、檄を飛ばす。
「こらァ岳人ッ、気張らんかいッ!」
「負けるかッ」
岳人は力一杯、腕を振った。
隊列と二人の差はグングン広まる。
「おい迫田ッ、止めさせろ!」結局、出町柳から巨体を揺らし全速力で走り詰めの大宮が断末魔の前に一言申し上げます、とばかりに懇願した。
「止まるとお思いか?」
「それを止めろッ…」
もう息絶え絶えだ。
「大宮ッ、まだ行けるか?」
「行けん言うたら、おぶってくれんのか?」
「冗談は平素の生活態度だけにしろ」
「お前も大概、後家殺しやな…」
「うるさい」と言った後、迫田はペースの遅れた集団に振り返り檄を飛ばした。「おら~ッ。お前らも続かんかいッ」
迫田に急き立てられ、49人の部員全員が長谷部と岳人を追いかけた。
最後尾を大宮が追った。試合とは違い、皆のケツを見て走る羽目になりながら。
アホになった一団は川端通りを駆け抜けた。
ラグビー部の面目躍如とばかりに人波を躱しながら三条から四条…そして五条へと。
きっと、いつも最後に追い抜かれるイカンガーが本当にやりたかった事はこれだ。
岳人と長谷部は誰にも先頭を譲らなかった。
横っ腹が疼いたが、構わず駆け抜けた。
行けるところまで。
運良く国道一号線を兼ねる五条通りの信号を引っかからず渡り切り、
流行らない六条を知らぬ間に抜け、
七条通りに達した頃には、もう隊列の体は為していなかった。
冗長に伸びた敗残兵の群れの様になりながら大きな七条通りを越えると、
ガラリと空気の匂いが変わった。
雅な都の匂いから伏見区の匂いに。
建物が低く、小さく、せわしない。
色で言うなら、ねずみ色に変わった。
ボロ雑巾のようになった一団は、ようやくスピードを緩めた。
いや、緩めたのではない。もう走れなかったのだ。
秋風が身に沁みる? どこ吹く風だ。
岳人はそんな感傷には浸らなかったし、浸る余裕も無かった。
ただただ、這々の体で伏見までたどり着いたのみであった。
皆が天下の公道の歩道脇にへたりこんだ。
ガードレールに手を付いて、鴨川と並行するドブ川に、
吐き気をもよおし反吐とも言える唾を吐いた岳人は、
後ろから首ごと捩じ切らんが如くのヘッドロックを喰らった。
流石の大宮である。
あれほど集団から引き離されたのに最後まで食らいつき追いかけ、
そして今、岳人の首を捩じ切ろうとしている。
「このボケェ…」
言葉より荒い息遣いの方が目立った。全身湯気立つ男が、なんとか発せたのはこの一言だけだった。
「このボケェ…」
確かもう一回発したようにも思うが、その後、岳人と同じくドブ川に嘔吐きながら唾を吐き、へたり込んだ。
「キャハ。おでんの具みたい。ウケる」
並んで嘔吐く湯気立つ二人の背を見て詩織が発した一言に笑う者は居なかった。
皆が皆、笑う余裕が無かったし、自分自身がおでんの具状態であったのであるからして笑い様が無かった。
ただただハードブローを鳩尾に喰らっただけで終わった。
「どうしたんアンタら?」
ノーリアクションに臍を曲げた彼女は暴君と化した。
「とっとと立ちいな」
誰も反応しない。
「アンタら、ドブにゲエ吐く為にラグビーやっとったんか? だらしない」
ここで長谷部が反応してしまった。
「マネージャーの言う通りや。俺らまだゴールしてない」
彼は、すっくと立ち上がり、
「さあ行こうぜ」とキャプテン面をした。キャプテンなのにキャプテン面をした。と言われる程のキャプテン面だった。
反応は無かった。
誰も応じなかった。誰も…
ん? 迫田が居ない。
誰も気付いていないが、岳人だけが気付いてしまった。迫田が居ない。
何処へ行った?
あんな目立つ男が隠れられる場所など在るはずが…と思慮を巡らし腑に落ちた。
此処ら一帯は迫田の地元だ、と。
いくらでも隠れる場所はある。匿う者もいる。
そして彼は協力者の庇護のもとレジスタンス活動さながらに学校近くまで移動する気だ、と。
上手くやりやがってという感慨よりも先に、途中でバックれる。という初志貫徹をした友人に、岳人は快哉の声を上げたくなった。
勿論、ここで声は上げない。
それは無粋というものだ。岳人だって、それくらいは弁えている。
あとは皆に迫田が消えた事を悟られない様にするだけだ。
こうなると早々の行軍の再開を促さなければならない。
しょうがなく岳人も三人目の副キャプテン面をした。
「キャプテンが言ってるぞ。さあ行こうぜ」と。
部員たちは重い腰を上げ、ぐだぐだと立ち上がった。
長谷部を先頭に歩みだした先発陣に岳人は、まだ愚図る後輩たちのケツを叩いて起こし、送り出した。総勢は一人減って50人である。
図らずも、また殿の岳人に詩織が近づき言う
「サコタが居いひんけど」
彼女はやはり気付いていたか…。
そして大宮が言う。
「俺は誘われたけど、行かんかっただけやからな」
なんと殊勝な…。なぜ一緒に行かなかった…?
大宮はニヤリと笑い
「お前に付き合ったったんや。グフフ」
と友情全開とも、地獄への誘いとも取れる言葉を発した。
地獄の番犬ケルベロスもきっとこんな顔だろう。と岳人は想像した。
たしかケルベロスは三つ首の猛犬だったはず。
そして大宮の背番号は3。
なんの因果か…。
閑話休題。
迫田はその時、
地元の友人の駆る雑なクラッチ操作の軽乗用車の後部座席で身を屈めていた。
ギヤチェンジの度に大きな体はその小さな車体のどこかにぶつける有様で、
恐らくこの友人の運転は免許取り立ての今だから、でなくこの十年後もこんな雑な運転をし続けるのであろうと迫田は苛つきながら思った。
協力者でなければ疾うの昔に路肩に停めさせ、注意喚起を促している筈だ、と。
そして軽乗用車は、運転手の裏道を使わねば、という心配りもあったのであろう。
一方通行の多い伏見区内の狭い路地を何度も右折、左折を繰り返し走り去った。
何人たりとも落書きする事を許されない煤けたブロック塀の壁の先に校門が見えてきた。
ラグビー部は帰還したのだ。長駆はるばると。我が母校に。
もう誰も走ってはいなかった。ただ何とか、たどり着いた。
まじまじと校塀を見やる。
普段は凝視することなど、まるでないこの塀も、よく見ると落書きが無いだけで風雨に晒されカビだらけで汚らしい。
工業高校らしい壁だ。と三年生の今になって岳人は思った。
進学校だと白いペンキなんかで彩るか、タイルなんかを貼り付けるだろうに、そのままブロックむき出しの壁である。
どうぞ落書きして下さいと言わんばかりの壁だが、
岳人の在校中にも落書きされたのは、たった一度きりだ。
『魅伽怒 参上』と書されていた。
伏見区に隣接する八幡あたりを根城にする暴走族によって書された物であったが、
もうこのグループは存在しない。
真相は定かではないが、ラグビー部脱落組のゴンタたちの手によって血祭りに上げられたらしい。
落書きの翌日、
学食の掲示板に魅伽怒総長なる人物による手書きの解散届が掲示されてあった事から察する他ないが、
しかし文字が歪み、血糊付く文面から皆が断定した。
迫田、大宮による解説も同様の物だったように記憶している。
そして一行は校門を潜った。
学校としての体裁を整える為に春先にパンジーを植えたきりの形だけの花壇の前を抜け、中庭に入る。
教師達の愛車が並んでいた。
監督のハッチバックも停まっている。
当然ながら、もう帰ってきているようだ。
フーフー言いながら大宮も立ち止まって監督の愛車を見つめていた。
監督の無事の帰還を確認してなのか、分解計画を練っての事なのか判別し兼ねる。
が、このまま無縁仏になるまで立ち止まり続けさせるわけにもいかないので、岳人は動こうとしない大宮を押し出すように校舎と学食棟の間の通路を抜け、グランドへと誘(いざな)った。
岳人に背中を預けるので彼の体重を目一杯受け止める事になったが、
最後の最後くらい楽をさせてやってもいい、と大宮の短いコンパスに歩幅を合わせて最終目的地まで押し切った。
帰ってきた。ただそれだけだ。達成感よりも疲労感が先に来た。
大宮はその場で大の字になった。
長谷部も、やっと状況に比例する笑顔を浮かべた。
ほかの部員と同様に岳人もバッグを放り投げ寝転がった。
このまま眠りこけたい気分に駆られた。
が、
夕焼け空の下、ガランとしたグランドには練習用具一式が既に整えられていた。
おそらく監督が一人で用意したのだろう。
手持ち無沙汰から一人で、昔は鳴らしたプレースキックを蹴り込んでいた彼は、
部員達の到着に気付いて、振り向き言った。
「おう、お前ら遅かったな。待ちくたびれたぞ。取り敢えずダッシュ10本いこか」
監督はグランドの北端を指さした。
この四週間後の十一月の最終週、
ラグビー部創部以来最強FW陣を擁した同チームは、
府予選決勝で府内唯一のライバルと言える古豪校相手に1トライ差の惜敗を喫し全国行きの切符を逃した。
この古豪校も年が明けてすぐ、全国大会準決勝で、
この年の優勝校相手に抽選負けを喫し、涙を飲んだ。
(高校ラグビーでは選手の健康面、体力面等を鑑み、延長戦は行われず同点、同トライ、同ゴール数の場合、両チームの主将による籤引きで、トーナメント上位進出チームを決定する)
秋風が身に沁みる。
と感じたのは、年が明けてからの事だった。
もう吹く風は冬の風になっていた。
秋風が心地よい。
なんぞ思いもしなかった。
最後に追記しておく。
プレースキックを蹴る監督の足元で迫田が腕立て伏せをしていた事を。
彼の掛け声から察するに154回目と155回目の間であった。
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