彼の足元には屍体が埋まっている

おきた

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本編

最後に一言、嫌いでした

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彼はとても優しい人で、わたしが約束を忘れても、不機嫌に喚いても、声を荒らげることもなく静かに聞いてくれる。
そうだな、アンタの言う通りにしようか、と落ち着いた平坦な声色で言って全てわたしの希望通りにしてくれた。
その度に、わたしはこんなにも愛されているのだと嬉しくなる。
彼との出会いは、まるで漫画のようだった。
今思い出しても、甘いため息が漏れる。
あれは月の綺麗な夜のことだ。
大学の人間関係に嫌気がさしてヤケ酒をしていたら、財布を落としてしまい、彼はそれを拾って、わたしの元まで走って届けに来てくれた。

その時の彼はまさに、ガラスの靴の持ち主を探すシンデレラに登場する王子様のようで。
翳りのある紺碧の瞳に見つめられた瞬間。
「あ」
と思わず、声が漏れた。
二人を遮る邪魔な通行人や雑踏の音は、どこか遠くに行ってしまったかのような錯覚に陥る。
驚いて、感動して、泣きたくなるほどの衝撃に手が震えた。
あなた以上の人なんて世界の何処にも居ない。彼こそがわたしの運命の人である。
明け透けに言えば、一目惚れだったのだ。
というか、人生のどん底にいる時に顔の綺麗な男に無償の優しさを向けられれば誰だって絆されるだろう。

どうにか接点を持ちたくて、わたしは後日お礼をしたいと言って連絡先を交換し、会う約束を取りつけたのだ。
凡そ一時間の流れである。
誤解なきように言っておくが、普段のわたしはもっと異性と距離を詰めることに慎重だ。
すんなり連絡先を渡してしまった理由は、彼が理解と共感性のある非常に聞き上手な男だったせいである。
彼は、価値がある人間としての特殊な香りがするのだ。
一生懸命仕事をしている様子もなく、夜の繁華街をフラフラしているだけで生活が成り立っているのは、つまりそういうことだろう。
かく言うわたしも彼を援助した女の一人だった。

「食わねーの?」
薄手の毛布に包まっているわたしに、マスカットを盛ったガラスの器を差し出して、彼は首を傾げる。
わたしは起き上がって、マスカットを一粒摘んだ。
水滴をつけた果実は、さっきまで肌を濡らしていた自分を想像させる。
大丈夫、怖くないからね。我慢しないで声出して、窒息死しちゃうよ。
彼の甘ったるい囁きを思い出して、わたしは顔を火照らせた。
「はーちゃん、わたしのこと好き?」
ベッドに腰を下ろした彼は、マスカットの粒で片頬を膨らませて、にっこりと笑う。

「すきだよ。俺好みにわざわざ髪伸ばしてくれてるし」
「……にゃ!?気づいていたのか」
「そりゃあもう。服装もスカート増えたよな。さっき履いてたの、あれすきだよ。かわいい」
言って、彼は摘んだマスカットをわたしの口元に差し出した。
「これさ、甘くておいしいよ」
「じゃあ、はーちゃんが全部食べていいよ」
「ふーん、マスカット嫌い?」
「違うけど、はーちゃんって一人だとインスタントで済ませようとするじゃん。野菜とか果物も食え」
わたしは、彼の過去や昔の女について何も知らない。必要が無かったのだ。
妙な対抗意識や嫉妬心を抱くのも嫌だし、彼が話したいようにも見えなかったから聞かなかった。

「是枝(これえだ)ちゃん、その男に騙されてるんじゃないの?」
「いや、これはわたしのお姉の話だから!」
現実へと引き戻す同級生の言葉に、わたしは慌てて反論する。
掻い摘んで話していたのに、日見(ひみ)ちゃんはなかなかに鋭い。
彼女は購買で買った200mlの紙パック牛乳を持っていた。
ストローを唇に挟んで、こちらを試すようにじぃっと見つめている。
窓から明るい光が差し込んで、食堂のテーブルを輝かせていた。
「ふうん……でも、大変そう。是枝ちゃんのお姉さんってたしか昔起きた殺人事件の犯人と中学同じクラスだったんだよね?縁切り神社行けば?周りの人間やばい人しかいないじゃんか」

「ははは……うちの地元であったね、そんなの。お祓いとか勧めてみようかな」
「悪霊退散ー!悪縁対策ー!」
空になった紙パックを振り回して、日見ちゃんはきゃらきゃらと笑った。 
わたしは小袋を破ってワッフルにかぶりつく。彼の前では決して出来ない食べ方だ。
世界で一番美味しい格子柄が口内でばらっと砕けて、幸せな甘味がじゅわっと広がった。幸せな気持ちになる。
日見ちゃんの忠告は話半分に聞くことにした。
たしかに将来の約束をするには不安要素の多い相手だけど、わたしは彼を愛していたし、互いの運命だと信じていたからだ。

しかし、ある日。見知らぬ女と照れたように連絡先を交換する彼の姿を見た瞬間、わたしの恋心はベクトルを別方向へと変えてしまったのだ。
まるで、身体が斬りつけられたようだった。
痛くて苦しくて。自らを憐れだと嘆いたわたしは彼の為に多額のお金を費やした。
本人から頼まれた訳では無いけど、彼の衣食住を保証すれば、ずっと傍に居てくれると考えたからである。
同棲を持ちかけて、わたしは彼の生活を全て管理しようとした。気が触れていたのだ。
奨学金にまで手をつけて、必修授業にも出ずに、彼を身体で必死に繋ぎ留める。
彼を奪う社会から何日も逃げ出して、遮光カーテンで窓の隙間を埋めて時間の感覚を消して、睡魔が来たら眠る退廃的な生活を送っていた。

しかし、世界の終焉ごっこはそう長くは続かない。
人間は息をしてるだけでもお腹は減るし、生命を維持する為のお金が必要なのだ。
ある日、彼はわたしの元に届いた借金の催促状と大学の書類を眺めていた。
焦って隠そうとするわたしに彼は驚いた様子もなく、元の場所にポンと紙を戻して、煙草に火をつけたのだ。
どうして何も聞かないの。わたしが問いかけても、彼は心底不思議そうな表情で。
「どうして?」
と言ったのだ。
わたしは頭から冷水を浴びせられたような思いを味わった。そして気づいてしまったのだ。

この男は、わたしのことを愛していなかった。
いいや、これっぽっちも興味が無いのだ。
結局、奨学金を使い込んだことは両親にバレてしまい、わたしは大学は辞めることになり、実家に連れ戻された。自業自得である。
それから、わたしは彼と一度だけ会った。
春の日のことだ。桜の花はほんのりと色づいていて、わたしと彼を見下ろしていた。
紺碧の双眸がわたしを捉え、風が吹いて、彼の香色の髪に桜の花びらが落ちる。
彼はわたしの顔を見ると指を七回折って何かを数えた、そして。
「ナナバンメノサクリ」
と、ひどく落ち着いた平坦な声で、呟いた。

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