彼の足元には屍体が埋まっている

おきた

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本編

君ほど嫌いな人はいないけど、君ほど愛しい人もいない

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「大丈夫ですよ。はい、はい……傘の心配?いや、あれ去年の誕生日プレゼントでしょ。食洗機も届いたし、これなら家事も出来そう……え、いやまあ、仕事?……そうだね。うん、うん。はーい、くれぐれも夜は遅くならないようにしまーす。うん、あの子も会いたがってるし、ちゃんと近いうち遊びに行きます。……じゃあ、また。何かあればこっちからも連絡するから。おやすみなさい」
ここ数年、両親から定期的に電話がかかってくるようになった。
そんなに心配しなくても、と言いたいところだけれど無理な話だろう。
実際のところ、気に掛けてくれる人間は一人でも多い方が心強かった。

旦那と再び出会ったとき、わたしがなんと話しかけられたかは、酔いが回っていたせいもあってよく覚えていない。
けれど、彼の落ち着いた声と形の良い唇に薄ら浮かぶ笑み。それは今も覚えている。
わたしは、まだ子供である彼に色々と甘えてしまったと思う。
はーちゃんは、誰よりもわたしに優しかった。
前の職場や今の職場の浅い愚痴を親身に頷いて聞いてくれて、酔い潰れたら背中をさすって、毛布をかけて朝まで傍にいてくれる。
いつもわたしが勝手に話して、彼がそれに頷いて、宥めて慰めて、わたしはそれで満足して終わり。

わたしは最初から彼のことをよく分かっていなかったし、コミュニケーションらしいことをしたことは一度もないかもしれない。
あれほど怖かったはずの子ども体温はいつの間にか冷たくなっていて、はーちゃんの低めの体温に触れられると安心してしまう。
丁度、アルコールと睡眠薬を一緒に摂取した時と同じように、頭がぼんやりして何が起きても構わないような心持ちになるのだ。
はーちゃんは温かい深鉢を持って、大振りに切った肉と大根の煮つけを箸で摘んで、わたしに差し出す。
安いところのだが、時間をかけて煮込んだのでやわらかく味もいい。
あの人とよく似た青い瞳にじっと見つめれて、わたしは戸惑いながらも唇を開いて、はむりと口に含んで咀嚼した。

湯気の立つ味噌汁は白出汁で、具は葱と豆腐とわかめ。
味噌の甘い香りが漂っていて、わたしの鼻がひくりと動いて、良い匂いに誘われるように一口を啜る。
ほっとするような優しい味に、わたしは顔を綻ばせた。
金色に輝く出し巻き卵、焼き鮭は皮がパリッとして塩からくて白飯によく合う。
白米はふっくらつやつやとしていて、はーちゃんはそれらを手ずからわたしに食べさせて甲斐甲斐しく世話をする。
「ごはんおいしいーです!えへ、えへっ!はーちゃん、らいしゅきー」
わたしの言葉に、ぱっと表情を明るくしてはーちゃんは嬉しさを隠さずに笑う。

「よかった、よかったです。ありがとう、ァー……うん、俺はアンタが喜んでくれて嬉しいですよ」
はーちゃんの笑顔は、ときどき巨大な意味の塊であるように感じられる。
しかし、わたしにはその内部に踏み込むことはできなかった。
本当だったら、はーちゃんは自分のことを『僕』って言うし、わたしに敬語を使わない。
でもいいの、これは全部が夢だから。
「……ねえ、はーちゃん」
「どうかしました?」
「うにゃん、やっぱり……なんでもなーい!にゃふ!」
「……不満があったら言ってくださいね、俺は咲璃さんの為なら何でもしますよ」
はーちゃんは、やや不安げに首を傾げる。

彼が目を覚ますのに必要なものは、何だ?
わたしの人生は酷いモノで、特に小学校時代のわたしは毎日のように恐ろしい目に遭っていた。
大人になった今はそう振り返っているけれど、実際どのような災厄があったのかと聞かれると、何故だかうまく答えることが出来ない。
わたしの感じていた恐怖は結局のところ、わたし自身の問題でもあった為である。
もしも今、わたしたちのやっている茶番が本物の恋だと誰かが保証してくれたら、わたしは安堵のあまりその人の足元に跪くだろう。
夕焼けが広がり尽くすあの日の教室で、知ったはずだった。
愛してる、と、泣きそうなわたしに向かってはーちゃんが無表情で囁く。これは長い夢だ。

そこにあったのは紛れもない幸福の形だった。
オレンジの百合の花が、花畑が目の前を埋め尽くしている。
その真ん中にえーちゃんがいた。
彼は膝を抱えて外敵から身を守るように身体を小さくして、蝶がキラキラとした粒子を撒き散らしながら飛び回る様子を見ている。
多幸感。幸福に埋め尽くされていたのだ。
窒息しそうなほどの高揚を胸に、わたしはえーちゃんのところまで歩いて行く。
足元の花が、わたしに踏まれて潰れていく。
でも、気にすることはない。
これは実体の無いもので、わたしの幻覚だから。
風が吹き、百合の花が激しく揺れた。

その中心にいる彼の元へ、わたしは歩いていく。
刹那。引っ張られるように腕を掴まれて、身体が傾きバランスを崩しそうになった。
わたしは足を止めて、振り返る。
そこには中学時代の制服姿でシニカルな笑みを浮かべるあの人がいて、紺碧の瞳は氷のように冷え切っていた。
「自分勝手だなぁ、お前も」
うるさいな。そう言い返す前に、あの人は風に吹かれ全身は赤い花びらとなりパラパラと崩れ去る。
いつの間にか目の前にいたえーちゃんは、周囲に興味を示さないまま、じっとわたしだけを見上げていた。

えーちゃんの白い肌の上は無数の赤い花びらが張り付いている。
辺りはひっそりと、段々冷めたくなっていく。
「かあさん、おれのせい?おれがぜんぶわるいの?おれがしねばいいの?」
悲愴な響きを持つボーイソプラノ。
突然ドッと冷めたい風が四方から吹き寄せられた。
えーちゃんの背後はひっそりと無限の虚空が満ちている。
わたしの呼吸は止まり、目は霞んでいた。
ワッと泣き伏したくなる気持ちをすんでのところで堪えるが、恐らくずっと押し殺していた言葉は自然に漏れてしまう。

「ちが……これはゆめだから……」
「良いじゃないですか。アンタと俺だけが幸せならそれでも」
目の前の彼は、石神井羽色とよく似ていた。
いつの間にか変声期を終えていて、声だって電話越しならきっと聞き分けがつかない。
仄暗さに開いた瞳孔がじっとりと、わたしを捉える。
大人になった彼は、身体をビクリッと震わせるわたしのことを、真上から心底慈しむような目で見下ろしていた。
「石神井って、誰ですか?ねえ、だってそうでしょ?俺と、アンタを捨てた男なんて、どうだっていいじゃないですか」
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