塩の価値はなくなってみないとわからない

おきたワールド

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本編

あなたであること

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たらり、と娘から落ちたのは涙ではなく鼻血だった。
鼻血をポタポタとゆるやかに落としながら、娘は信じられないとばかりに呟く。
「なんで、なんで、そんな酷いこと言うの?」
涙を流されるよりずっと高度かつ罪悪感を煽られる光景に、俺は慌ててティッシュを探した。
「そうじゃなくて……きみはいつから学校に行けるのって聞いただけだよ」
敵意さえ含んだように物凄い瞳を据えて、俺の顔を穴の空くほど睨みつける。
「それが嫌だって言ってんじゃん!ずっと言ってる!わ、私が普通じゃないのが悪いって知ってるから!なんで急にそんな怖い話するの!私が死ねばいいの?!なら!今からでも死ぬから!この部屋の窓から落ちてやるからッ!」

半分パニックになった娘を見るのは、残念ながら俺にとってこれが初めてではない。
ティッシュを箱ごと渡したら、床に叩き落とされた。
俺は娘の手を取り、しっかりと握る。
これは宥める為でもあったし、瓦解する思考を現実に押し留める為のコーピングでもあった。
日に当らず不健康な腕は傷跡だらけで、手首からハンコ注射の跡の辺りまで、長さがバラバラの横線が連続していてカサブタになっている。
「そんなに酷いか?別に怖くないだろ。ただ俺は現実の話をしただけなんだけど……まあ、いいよ。もうしばらくは好きにしようね。明日は水族館にでも行こうか?きみはシロイルカが好きでしょ」
意識して穏やかに話しかけてみても、娘は鼻血を垂らしながら強情に押し黙ったまま、真っ青な顔の口元にただ泣くような薄笑いを浮べていた。

娘の唇は普通よりもずっと赤い。
娘の日常的な自傷行為の一つに、ささくれや唇の皮を剥がすという悪癖があったからだった。
昼の十二時をすぎる前には、昨晩のヒステリーで疲れ果てぐったりと泥のように眠っていた娘を叩き起こして、無理矢理にでも顔を洗わせてから、オレンジの髪をポニーテールにくくってやる。
それでもまだ寝ぼけたままの娘を、半ば背負うようにしてリビングに連れて行って、朝食を摂らせる。
小学校に行けなくなっても定期的に外出させるようにしたいから、約束通り今日は水族館に連れていく予定だ。
苺ジャムを塗りたくったトーストを完食した後、やっと完全に目を覚ました娘はクローゼットから洋服を何度も出し入れして、一人ファッションショーを始める。

一時間くらい悩んだ末に、Vネックのシャツワンピースに着替える。
色はやっぱり白だった。
白みたいな汚れやすい色をどうして娘がそこまで好むのか、俺は知らない。
特にたずねたこともなかった。
娘の一挙一動の全てに理由をつけなければならないとすれば、それだけで俺の人生が終わってしまう。
平日の昼間なこともあって、水族館は心配していたよりも人が少ない。
全体的に青味がかって見える館内の、ぽわりと淡い光の中で、娘の白い服が反射して不思議な色をしている。

二人で水槽を回って、クラゲを見て、サメも見て、デカいシロイルカのぬいぐるみを買って、バニラアイスを食べて、イルカショーが終わってから、少し先まで歩いていってメンチカツ食べて、綺麗なものを山ほど見て、珍しく楽しそうな娘の笑顔を見て、車で帰る。
久しぶりの外出で、散々動き回って疲れたのだろう。
助手席で死んだように眠る娘の頬をそっとなぞれば、睫毛がふるりと揺れた。
そんな娘を見て、どうして彼女はまだ生きているんだろう、だなんて父親として最低最悪なことを心の底から思う。
娘にとって、安寧の時は寝ている時だけなら、もう永遠に眠らせていてあげられたら良かったのに。

それから数年後、あらゆるビョーキが治る時代が来た。
人類の進歩スゲーと思いつつ、もっと早くにこうなっていたら妻は病死しなかったのにとモヤモヤしていたら、娘が完全に別人になっていてビックリする。
娘の感情の起伏が激しい性質や、睡眠不順に自傷癖のあるところ、俺への怒りが止められなくなれば当てつけのように窓から飛び降りようとする危ない部分、諸々の社会的に欠点と区分されるそれらが消え去って、ようやく俺は娘がビョーキだったことに気づいた。
勿論、精神病院に連れて行って、精神薬を処方するように医者に頼み込んだのは俺だから、娘にいくつかの診断名がついていたのは知っている。
それでも、いざそう判定すると変な感じがした。

娘の全ては、マトモになってしまったらしい。
今まであんなに不機嫌だった娘は、最近はニコニコと笑顔のままリビングで大人しく座ってテレビを見ている。
イライラしながら頭を壁に打ちつけたり、フローリングの床に転がったりしながら突然気分が悪い!と叫びながら下着姿になろうともしない。
一定のご機嫌を保ったまま、お父さん、お父さん、と俺を呼んだ。
「聞いてるー?ねぇねぇ、今日の夕飯は?」
「……何がいいんだ。食べたいものはある?」
「何があるのー?私は麺類がいいなー。あと、昨日食べた大根のサラダ!ドレッシングかけたらすごくすごーく美味しかったんだけど、もう無いの?」
「麺類か。生ラーメンならあるかな。あと蕎麦か」

「えー、カルボナーラは?」
「ベーコンがない。買ってこないと。どのみち、この時間から解凍しても間に合わないよ。サラダはまだあるけど、あのドレッシングそんなに気に入ったのか?」
「うん。美味しかった。あると嬉しい」
「へえ。じゃあ、また買ってくるよ」
「やったー!お父さん、大好きっ!」
いつもと変わらない話をしていただけなのに、何故か娘は妙に嬉しそうな顔のまま、俺に抱きついてきた。
きっとマトモになった彼女は、素直に喜んでくれているのだろう。
櫛をもっていなかったので、両手の指を使って、娘の髪を梳くようにする。

そんな娘との生活はあまりに穏やかで物足りなくなった俺は、娘をマンションの屋上に連れて行って、そのまま突き落とした。
その瞬間、バチンッと弾ける音がして俺の頭にも治療が施される。
マトモに治った頭で、自分もビョーキだったことに気づいて安堵する。
人間は誰もがビョーキで、皆がそれぞれ病んでいる。
それに気づいたり気づかなかったりしながら、生活をしているだけで。
そんなことをぼんやり思考していたら、地面に叩きつけられて潰れた娘の肉体が完璧に復活したのが見えた。
俺に突き落とされても笑っている娘は、一周まわって彼女らしい気もしてくる。
内心では、めちゃくちゃ怒り狂っている可能性だってある訳だから。

▼ E N D
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