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本編
マイワシ
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きっと、わたしは一人では生きていけない人間なのだろう。
人として生まれたからには、生きるからには必要なモノが足りない。
何が出来ないとか下手だとかそういうのではなく、ただ単に一人では到底この世を生きていけないと思った。
それはわたしが弱いせいかもしれない。
でも、強くなんてなれなかった。
豚が空を飛べないように、強くなるなんて不可能だ。
「君は、本当は舟橋雪緒のことが嫌いなんじゃないか?」
かみみ先輩がわたしにそう尋ねたのはいつだったか、高校一年生のときで、金木犀の香りの強い季節だった気がする。
かみみ先輩から聞いた話を反芻して帰り道を歩いていたら、あの粘っこく甘い香りが全身にまとわりついて離れなかったのだ。
五万冊以上が蔵書されている図書室で、わたしとかみみ先輩は図書委員の仕事をしていた。
ピピッという電子音を鳴らしながら、バーコードを読み込んで、蔵書点検をする。
わたしが本棚から本を出していると、かみみ先輩は何の前触れもなく、ごく自然のようにそう言ってのけた。
わたしは答えない。
ただ黙って、この男と対峙するかのように向かい合ったのだ。
「彼は君と出会わなければ、今より少しくらいはマシな人生を歩めただろうからね。でも、君は彼から離れない。むしろ、このまま一緒に破滅してしまえば良いとさえ思っている。彼の人間関係の築き方は酷く極端だ。ほとんどの人間は初手で遠ざけるし、近寄って来た人間は破壊するか同化するしかない。何故だかわかる?」
わたしは言い返さずに、かみみ先輩の言葉に耳を傾ける。
「他人が怖いんだよ。人間不信ってやつなのかな。それもかなり重度だ。その癖、他者との親密な触れ合いに飢えている。家庭環境に起因しているのか、なんなのか……まあ、よくある話だね。彼の試しの行為は猜疑心の強さと他者への過度な期待の裏返しだ」
びゅうと激しい風が吹いて、図書室の古びた窓ガラスを激しく揺らした。
ガタガタと大きな音がする。
「そして君も、彼を好きだと言いながら利用してるよね?自らの弱さを他者を使って補強している。一人が嫌なのかな。でもさ、人間は死ぬまで独りぼっちだよ。君らってば、妄執と愛を履き違えているんじゃないの?」
そこでパチンと、目を開けた。
いつの間にか気絶していたらしい。
窓から見える青白い月が、わたしの頬を照らしている。
寝ぼけた眼で白々とした月光とその中に浮かんだ、ゆっくりと揺れ続けるモミジを眺めた。
線香の煙と庭先から聴こえてくる鈴虫の声が、不思議とわたしの心を落ち着かせる。
のそのそ身体を起こすと、肩から薄手の毛布が滑り落ちた。
ふゆくんは、薄暗い部屋で真っ直ぐテレビを見ている。
液晶の強い光に照らされて、黒髪がカラスのように艶やかに輝いていた。
わたしは画面の中の男性俳優と、ふゆくんの横顔をすぅっと見比べる。
画面の登場人物たちは、真剣そうな表情で女性の写真を見ながら話しあっていた。
一体、どういう状況なんだろうか。
どういう流れでこのようなシチュエーションに至ったのだ。
流れる言語は外国語で、音声だけでは何を言っているか全く分からない。
わたしは目を眇めて字幕を追いかける。
やがて、ヒロインらしき人物は主人公に遺書を送り、どうか自分とは身も心も縁を切ってほしいと締めくくって、死んだ。
春から主人公と一緒に住もうとしている部屋もあったのに、終わればなんともあっけないものだった。
「女の人、死んじゃった」
「死んじゃったな」
「これ、どういう話……?」
ふゆくんはこちらを見ずに口を開いて、ぼんやりと喋る。
「愛することに疲れたのだと言ったら、あの人はきっと私を軽蔑するだろうね。否、もうとっくにあの人は私のことを見限っているのだ」
「え?」
「この映画の名台詞だってさ。動画サイトのCMで見て興味あったから借りてきたけど、つまんないストーリーだったから依未ちゃんは見なくて良いよ」
そう言ったきり、ふゆくんは固まってしまう。
しばらくして、暗くなった画面から目を逸らしてこちらを見た。
憔悴しきったような陰が瞳にかかっている。
まるで、撃たれたような人の顔をしていた。
「ふゆくん、どうかしたの?」
「依未ちゃん」
「ふゆくん?」
「依未ちゃん。依未ちゃんは、本当に僕のことが好き?今度こそ、信じていいんだよね?依未ちゃんには僕しかいないよね?」
「ど、どうしたの……?」
「ずっと不安なんだよ。依未ちゃんも僕を見捨てるんじゃないかって……安心させてくれよ。頼むよ。僕はどうしたら安心出来るんだよ……あなたと一緒にいると自分がどんどんおかしくなっていく気がするんだ。苦しいよ、どうしたらいいんだよ……」
線香の交じる、夏の草木の匂い。
ふゆくんは顔を片腕で覆って、声を出さずに肩を細かく震わせて静かに泣いている。
自分が泣いていることを、認めたくないかのようだった。
「……、…」
雨でも降ってくれれば、この痛みを伴う沈黙も少しは緩和されるかもしれないのに、闇夜に浮かぶ満月は憎いくらいにくっきり見える。
ただ、冷房の稼働音が、微かに聞こえた。
「ごめんね……ごめんね……やっぱり僕っておかしいのかな。今日だって、ピアスを開けてキズモノにして、責任を取るって。そうしたら安心できるかと思ってたんだ。意地悪して、酷いって分かってるのに……」
自分が何を言っていて、本当は何が言いたいのか、彼自身も良く分かっていないのだろう。
まるで高い場所から低い場所へ水が流れるように、ふゆくんの言葉は止まらない。
少しだけ、呼吸が苦しくなった。
目の前の男は、とても可哀想な人だと思う。
一見すると恵まれていてしっかりしているけれど、根っこの部分が栄養不足で、どこかで致命的な欠落がある人間だ。
きっと持っている性質として、この男はそうなのだ。
わたしが元来、どうしたってどうしようもない人間であるように。
「……わたし達の愛を、死は分かつことができるかな?」
わたしの言葉に、ふゆくんはのろのろと顔を上げる。
翡翠の瞳には、惨忍な好奇心がうねっていた。
予想通りの反応に、わたしは耐えようにも耐え切れず、笑みが口角に浮かんでしまう。
「わたしはね、ふゆくんのためにいつだって死ねるんだよ。試してみようか?」
「好奇心だけど。それは、嘘だろ……?」
「好奇心でもいいよ。わたしはきみのために飛び降りるから、そしたらわたしのことを、あいしてね」
人として生まれたからには、生きるからには必要なモノが足りない。
何が出来ないとか下手だとかそういうのではなく、ただ単に一人では到底この世を生きていけないと思った。
それはわたしが弱いせいかもしれない。
でも、強くなんてなれなかった。
豚が空を飛べないように、強くなるなんて不可能だ。
「君は、本当は舟橋雪緒のことが嫌いなんじゃないか?」
かみみ先輩がわたしにそう尋ねたのはいつだったか、高校一年生のときで、金木犀の香りの強い季節だった気がする。
かみみ先輩から聞いた話を反芻して帰り道を歩いていたら、あの粘っこく甘い香りが全身にまとわりついて離れなかったのだ。
五万冊以上が蔵書されている図書室で、わたしとかみみ先輩は図書委員の仕事をしていた。
ピピッという電子音を鳴らしながら、バーコードを読み込んで、蔵書点検をする。
わたしが本棚から本を出していると、かみみ先輩は何の前触れもなく、ごく自然のようにそう言ってのけた。
わたしは答えない。
ただ黙って、この男と対峙するかのように向かい合ったのだ。
「彼は君と出会わなければ、今より少しくらいはマシな人生を歩めただろうからね。でも、君は彼から離れない。むしろ、このまま一緒に破滅してしまえば良いとさえ思っている。彼の人間関係の築き方は酷く極端だ。ほとんどの人間は初手で遠ざけるし、近寄って来た人間は破壊するか同化するしかない。何故だかわかる?」
わたしは言い返さずに、かみみ先輩の言葉に耳を傾ける。
「他人が怖いんだよ。人間不信ってやつなのかな。それもかなり重度だ。その癖、他者との親密な触れ合いに飢えている。家庭環境に起因しているのか、なんなのか……まあ、よくある話だね。彼の試しの行為は猜疑心の強さと他者への過度な期待の裏返しだ」
びゅうと激しい風が吹いて、図書室の古びた窓ガラスを激しく揺らした。
ガタガタと大きな音がする。
「そして君も、彼を好きだと言いながら利用してるよね?自らの弱さを他者を使って補強している。一人が嫌なのかな。でもさ、人間は死ぬまで独りぼっちだよ。君らってば、妄執と愛を履き違えているんじゃないの?」
そこでパチンと、目を開けた。
いつの間にか気絶していたらしい。
窓から見える青白い月が、わたしの頬を照らしている。
寝ぼけた眼で白々とした月光とその中に浮かんだ、ゆっくりと揺れ続けるモミジを眺めた。
線香の煙と庭先から聴こえてくる鈴虫の声が、不思議とわたしの心を落ち着かせる。
のそのそ身体を起こすと、肩から薄手の毛布が滑り落ちた。
ふゆくんは、薄暗い部屋で真っ直ぐテレビを見ている。
液晶の強い光に照らされて、黒髪がカラスのように艶やかに輝いていた。
わたしは画面の中の男性俳優と、ふゆくんの横顔をすぅっと見比べる。
画面の登場人物たちは、真剣そうな表情で女性の写真を見ながら話しあっていた。
一体、どういう状況なんだろうか。
どういう流れでこのようなシチュエーションに至ったのだ。
流れる言語は外国語で、音声だけでは何を言っているか全く分からない。
わたしは目を眇めて字幕を追いかける。
やがて、ヒロインらしき人物は主人公に遺書を送り、どうか自分とは身も心も縁を切ってほしいと締めくくって、死んだ。
春から主人公と一緒に住もうとしている部屋もあったのに、終わればなんともあっけないものだった。
「女の人、死んじゃった」
「死んじゃったな」
「これ、どういう話……?」
ふゆくんはこちらを見ずに口を開いて、ぼんやりと喋る。
「愛することに疲れたのだと言ったら、あの人はきっと私を軽蔑するだろうね。否、もうとっくにあの人は私のことを見限っているのだ」
「え?」
「この映画の名台詞だってさ。動画サイトのCMで見て興味あったから借りてきたけど、つまんないストーリーだったから依未ちゃんは見なくて良いよ」
そう言ったきり、ふゆくんは固まってしまう。
しばらくして、暗くなった画面から目を逸らしてこちらを見た。
憔悴しきったような陰が瞳にかかっている。
まるで、撃たれたような人の顔をしていた。
「ふゆくん、どうかしたの?」
「依未ちゃん」
「ふゆくん?」
「依未ちゃん。依未ちゃんは、本当に僕のことが好き?今度こそ、信じていいんだよね?依未ちゃんには僕しかいないよね?」
「ど、どうしたの……?」
「ずっと不安なんだよ。依未ちゃんも僕を見捨てるんじゃないかって……安心させてくれよ。頼むよ。僕はどうしたら安心出来るんだよ……あなたと一緒にいると自分がどんどんおかしくなっていく気がするんだ。苦しいよ、どうしたらいいんだよ……」
線香の交じる、夏の草木の匂い。
ふゆくんは顔を片腕で覆って、声を出さずに肩を細かく震わせて静かに泣いている。
自分が泣いていることを、認めたくないかのようだった。
「……、…」
雨でも降ってくれれば、この痛みを伴う沈黙も少しは緩和されるかもしれないのに、闇夜に浮かぶ満月は憎いくらいにくっきり見える。
ただ、冷房の稼働音が、微かに聞こえた。
「ごめんね……ごめんね……やっぱり僕っておかしいのかな。今日だって、ピアスを開けてキズモノにして、責任を取るって。そうしたら安心できるかと思ってたんだ。意地悪して、酷いって分かってるのに……」
自分が何を言っていて、本当は何が言いたいのか、彼自身も良く分かっていないのだろう。
まるで高い場所から低い場所へ水が流れるように、ふゆくんの言葉は止まらない。
少しだけ、呼吸が苦しくなった。
目の前の男は、とても可哀想な人だと思う。
一見すると恵まれていてしっかりしているけれど、根っこの部分が栄養不足で、どこかで致命的な欠落がある人間だ。
きっと持っている性質として、この男はそうなのだ。
わたしが元来、どうしたってどうしようもない人間であるように。
「……わたし達の愛を、死は分かつことができるかな?」
わたしの言葉に、ふゆくんはのろのろと顔を上げる。
翡翠の瞳には、惨忍な好奇心がうねっていた。
予想通りの反応に、わたしは耐えようにも耐え切れず、笑みが口角に浮かんでしまう。
「わたしはね、ふゆくんのためにいつだって死ねるんだよ。試してみようか?」
「好奇心だけど。それは、嘘だろ……?」
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