母親は二人もいらない

おきた

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本編

あなたはアイドル

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次の日、わたしと逢瀬くんは離婚したのだ。
夫婦生活の終わりとは存外呆気ないもので、わたしは彼末甘奈から雪下甘奈に戻り、お互い書類上のバツが一つ付いただけだった。
そんなことよりも張間流星の再デビューの準備でてんてこ舞いである。
わたしは彼末逢瀬の配偶者から張間流星の専属マネージャーに戻り、乙野プロデューサーやスカウトマン時代の相方をはじめとする様々な関係者に頭を下げて回って、うちの事務所を丸ごと巻き込む形でアイドル界のステージに張間流星を押し上げる運びとなった。
無論、最初はわたしとの交際事情をゴシップされて炎上したりとそれはもう大変だったが、所詮芸能界は新陳代謝の早い世界である。

話題作りの一環として動画配信サービスを利用し、張間流星を引退している間の逢瀬くんの心の病についてのトーク動画を投稿してみたところ、精神疾患に悩んでいる若者世代を中心に沢山の共感を呼び、リスナーのSNS投稿をきっかけにバズってくれた。
当の逢瀬くんはプライベートの人格である彼末逢瀬とプロフェッショナルの人格である張間流星の境界を曖昧にすることで精神の安定をはかっているようだ。
うちの事務所に所属するアイドルが歌う楽曲の作詞作曲のほとんどを一人で行い続け、五十代も後半に差し掛かっていた乙野プロデューサー。
彼が人生で手掛けた楽曲は千本以上で、若さ故の衝動を数多の音楽にメッセージとして載せることで発散してきた。
世間に言いたいことはとっくに吐き出し尽くしてしまい、既に書きたい物が無くなったとつい先月までボヤいていたというのに、再デビュー後の初ライブで逢瀬くんの新曲が必要になった瞬間、簡単にクリエイター魂に火がついたらしい。

張間流星という偶像は、クリエイターに物語を連れてこさせる。
アマチュアやプロなどは関係なく、彼と出会ってしまえば、うつくしいものを見たと、何かを作る適性がある人間は何かを生み出したくなってしまう。
それほど見知らぬ誰かを打ちのめし、魅了する力がある。
逢瀬くんが張間流星として、再びドーム会場の舞台に立ったのは、再デビューからわずか一年半後のことだった。
無論、血反吐を吐きそうになるほど多忙で大変な時もあるけど、仕事上の出来事として割愛出来るくらいには張間流星との仕事は順調だ。
彼は数年ぶりに訪れたドーム会場の楽屋にあるヘアメイク用の大きな鏡の前に座った。
わたしは張間流星の休止中も仕事で他のアイドルのマネージャーをしていた時期があったので、ドーム会場の楽屋を使うのは久しぶりでもなんでもないけど、鏡に反射する彼には思わず見蕩れてしまう。

夜空のような髪は一部が耳にかかるように編み込まれて、鮮やかな光を蓄えた花束のような瞳、一番星の煌めきを宿すかんばせ。
ちゃちくて安っぽい布の塊を、とびきりゴージャスで洗練されたステージ衣装へと変える。
やっぱり、彼はこの世界が誰よりも似合う。
「結婚したら幸せになれる」なんて古典的な価値観で、何年も彼を縛り続けたことへの後悔が激しい波となって胸中に押し寄せた。
わたしは嫌悪で叫び出しそうになる。
腕を組みながら俯くわたしに、彼は随分と穏やかな声色で話しかけた。
「マネージャー、貴女を散々振り回しておいて、今更こんなこと言うのは狡いのかもしれないけど……そんなに気負わないで大丈夫だよ。心配しなくても、俺はずっと……ちゃんと幸せな時もあるよ。俺は昔からよく不安になったり、死にたくなったりするから、分かりにくいかもしれないけど……」

「うん。あのね、……逢瀬くんは、逢瀬くんが生きやすいようにしたらいいよ。わたしが見てきた誰よりも、あなたが一番この仕事に向いているわ」
世辞や口説ではなく、腐っても芸能界で働いてきた一業界人としての評価だ。
わたしは結婚することで名前が変わったけど、彼はスポットライトで照らされたステージに立つことでその名を変える。
わたしは彼のことを変えたかったし、変えられると思っていた。
でも、それは大きな間違いだ。
他人の目を気にするあまり、身を壊すような生きづらさを抱えるプロフェッショナル。
彼はきっと一生このままだろう。

離婚して、ただの仕事仲間に戻ってから、わたしは一人暮らしの為にマンションを借りた。
引越し以降、もうずっと彼の家には行っていないし、今後仕事以外で一緒に過ごすことは無いのだろう。
開演時間が近づいて、彼は楽屋から出ていく。
すれ違った瞬間、懐かしい香りがした。
わたしはこの匂いを、流れ星の匂いだと思うことにしている。
夜空で一際強い光を放ち、誰もが目を奪われるが、決して手に届かない存在。
ステージ上で楽しく歌い踊り、愛を降らせる彼は、人間臭さが欠落している。
彼末逢瀬という人間は、わたしが思っていたよりずっと虚飾で満ちていて、本心なんてどこにもなくて、そのくせ寂しがり屋で、そういった性質を自覚して生きていた。

結局、わたしに出来ることは大してなくて、彼を信じて仕事を取ってくることくらい。
張間流星をしていれば、沢山の他人が喜ぶから、彼はファンに向けて「愛してる」を歌い、ニッコリ笑って楽しく踊る。
SNSの鳴り止まないハートの通知音の裏側で、彼は今でも思考が歪んで自分が誰かわからなくなる度に、手首を切って睡眠薬をオーバードーズしているという。
それでも彼は今も昔もファンの前で張間流星をしている時は、ずっと嬉しそうな笑みを崩さない。
選ばれた人間として、一番星の煌めきを届ける。
夫婦生活をしていた時によく見せていたハリボテのような虚ろな笑顔が、彼末逢瀬という人間の一番取り繕わない表情なのだと、今更気づいた。

彼は天性の嘘吐きで、他者の視線を軸に生きている。
きっと彼自身も、何が嘘の自分で何が本当の自分かは分かってない。
でも、それでいい。
彼という人間の幸せがそれだというなら、わたしは従おう。
アナタにとってただ一人のアイドル、それが張間流星だ。
ステージに強い光が灯って、ライブが始まる。
沢山のサイリウムが絶えず星のようにキラキラ光る観客席に向かい、くるくるとステージを走る逢瀬くんは誰も彼も虜にする無敵の笑顔を浮かべながら叫ぶ。
「皆ー!さっそく最高の星空を見せてくれてありがとう!今日の星のこと、俺、忘れないからねー!」
さあ、張間流星。
光の瞬く偶像の世界に舞戻れ。
いつかの星を見に行ける、その日まで。

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