母親は二人もいらない

おきた

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本編

あなたは大人

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わたしは肯の分もまとめて会計を済ませると、出入口である扉を開けた。
肯は律儀に猫型配膳ロボットに会釈してから、少し遅れてファミレスを出た。
「じゃあな、ねえさん。健康には気をつけて」
「……ええ、さようなら」
気まずい沈黙を破るように当たり障りない別れの挨拶をして、久しぶりの姉弟水入らずの外食は微かな不穏さを残しながらもお開きとなった。
夕陽は燃え立つような赤さを放ち街を包み込んでいる。
苛立ちを胸に抱えたまま、寄り道もせず帰宅した。
玄関で靴を脱ぎ、薄暗い廊下を歩いていると、リビングの扉から見て右側に存在する洋室から白い光が漏れていることに気づく。

普段なら開かずの間と化しているその部屋は、逢瀬くんの自室である。
いつもなら固く閉じられた逢瀬くんの自室の扉が、開いていた。
咄嗟に嫌な予感がして、扉を開けて部屋に入る。
フローリングの床には睡眠薬の空瓶がいくつも転がっていて、左手首から血を流した逢瀬くんはぐったりとした様子で壁側に背を向けるように横たわっていた。
左手首の下には赤い水溜まりが出来ていて、右手首の近くにはカッターナイフが転がっている。
彼の顔は穏やかに青ざめ、生きることを諦めてしまったような深い静けさがそこには存在した。
結婚してからもう何度見たか分からない、大切な人のショッキングな光景。

わたしの心でブツンと何かがちぎれる音がした。
「言いたいことがあるなら、ハッキリ言ったらどうなんだよ!」
自分の耳がガンとするほど大きな声で、怒鳴りつける。
こんなに憤りが抑えられなくなったのは、初めてのことだ。
逢瀬くんは何の返事もせず、硝子玉のような虚ろな目つきでじいっと視線を据えて、顔面の筋肉は微動だにせず、血の気の失せた唇をキュッと結んでいる。
何とも知れない憎さと恐ろしさとうつくしさに駆り立てられたわたしは、もう一度叫んだ。
「お前はずっとずっとずっとずっと!黙っていることが正解だとでも思っているのか!わたしがそんなに憎いなら!恨んでいるなら!恨んでいると、そうハッキリ言えよッ!」

わたしは夢中で彼の首に掴みかかると、そのまま絞め殺してやろうかと喉仏に親指を添える。逢瀬くんの大きく見開かれた目の中には変に歪んだわたし自身が映って、怒りに満ちた悪鬼のような顔つきだと思った。
逢瀬くんは例のハリボテのような空っぽの笑顔を浮かべながら、乾いた唇を動かす。
「恨む?まさか……だれも恨めないからつらいんですよ」
先程までわたしを突き動かしていた激情は確かに怒りだった。
しかし、逢瀬くんの疲弊しきった表情を見た途端、わたしの脳髄を焦がした怒りの火は氷水を掛けられたようにしゅんと萎んで黒煙を名残とする他ない。

首筋から手を離して、彼の隣に倒れ込んだ。
「もう、疲れたわ……」
意気消沈したわたしの言葉にも黙って、生気の抜けたような顔で見つめ返すだけだった。
落ち着いて室内を見てみると、壁には数年前まで寝室にあったはずの仕掛け時計が掛けられている。
カチカチと秒針の進む音だけがただ響いていた。
「ねえ、逢瀬くん、何か……何でもいいの、あなたにやりたいことはないの?」
わたしの問いかけに、逢瀬くんはごろんと仰向けになると、天井を眺めながら奇妙なほど舌足らずな声で、たった一言。
「プラネタリウム……」
「え?」

「……星を見に行きたいんだ……あの日、テストの点数が悪くて、父さんと母さんと一緒に見に行けなかった、星。……今更、プラネタリウムなんていつでも行けるはずなのに、どうして行けないんだろうな……?」
涙でひっくり返ったような声が聞こえる。
青白い横顔を見ると、両目からボロボロと落ちる水分がフローリングに水の玉を作っていた。
「……行けないなんてへんだよなあ。俺って、なんでこんなへんなんだろ。どうして、普通ならきっと簡単なことなのに……なんで俺は、普通の人みたいになれないんだろ……」
彼は絶望に打ちひしがれたようにしくしく泣き続けている。
彼末逢瀬を形作るのは、きっといつだって誰かからの視線だった。

ああ、そうだ、彼末逢瀬という人間は、本当にどこまでも愚直で不器用で、どうしようもなくうつくしい人だ。
出会った時から変わらずに、その本心は真面目で柔らかくて真っ直ぐで純粋、だからわたしは彼に幸せになって欲しかった。
でも、彼の幸せは、わたしの考える彼の幸せとは違っていて、わたしは彼を幸せにしたかったけど、きっとそれは的外れなことだったのだ。
逢瀬くんはきっと、自分の在り方があまり普通では無いことにわたしが思うよりずっと自覚的で、普通の……というか、周りが……いや、わたしが求める幸せの形に適応できるようにずっと頑張っていた。
でも、それは彼の幸福ではなかったのだ。
どうして気づかなかったんだろう。

彼を幸せを本当に願うなら、わたしに出来ること、それは。
「……あなたが、……。あなたがもし、自分を消耗しないと安心が得られないというのなら、そうやって生きて死ぬのも別に悪いことじゃないよ。それでも、あなたは自由にどこへ行ったって良いんだよ」
彼の黒髪を撫で、涙に濡れた頬を親指で拭う。
逢瀬くんが、本心を出すことが苦痛で、他人の視線に沿って生きる方が楽だと言うのならば、そうやって生きれば良い。
しょっちゅう死にたがるのは心配だけど、今はまだ死んでいないのなら良いじゃないか。
心が擦り切れるほど消耗する生き方だって、それが彼にとって一番息がしやすい方法だというのなら、ただ見守って、きっとそれで良かったのだ。

逢瀬くんはアルビノ兎のように充血した虚ろな目で、わたしを見つめると泣き過ぎて頬を痙攣させながら答えた。
「……理想の旦那さん、ずっと上手く出来なくて、本当にごめんね。甘奈ちゃんは、俺に変わるきっかけをくれたのに」
「違う。わたしは結局、逢瀬くんに何も……」
「俺ね、甘奈ちゃんがアイドルの道に誘ってくれたこと、今も感謝してるんだよ。だって嬉しかったし、楽しかった。俺は本当に楽しかったんだ」
なんだ、とわたしは思った。
逢瀬くんは、ちゃんと、仕事で楽しい時があったのだ。
それがわたし達の関係において何かの免罪符になるわけではないけれど、自らに課された役割に喜びを感じられる瞬間があったのなら、それは多分、少しは良いことだ。
それからわたしと逢瀬くんは抱き合って、声を上げて泣いた。
まるで産まれたばかりの赤子のように、泣いたのだ。
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