石鹸箱のうら

おきた

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本編

幸福なあい

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おれにとってヱリカはずっと子供のまま時が止まって夢を見ているような、そんな存在だ。
夏は尋常ではない速度で暑さを増して、「真夏日で熱中症に気をつけるように」というアナウンサーの声が連日流れた。
スマホのメッセージアプリを開けば、公式アカウントから熱中症による死亡者についてのニュースが届いている。
ヱリカは三面鏡のドレッサーの引き出しから、ママの使いかけの化粧品を取り出しておれで遊んでいた。
彼女は見覚えがあるコンパクトを開いて、パフを手に取るとファンデーションをおれの頬に塗りたくる。
銀色のキャップを取って、口紅をおれの唇に引いた。
勢い余ったピンク色は顎のあたりまではみ出てしまう。

ドレッサーの鏡を見れば、漂白された肌も相まってホラー映画に出てくる不気味なピエロのようだ。
ヱリカはくすくすと笑いながら、口紅でおれの頬に渦巻きを描く。
愉快な化粧を施されたおれの肌は微かに甘い匂いがした。
毛穴が息苦しく塞がれたような違和感を感じて、そわそわしながら唇を何度も舐めてしまう。
おれは数分前にママから届いたメッセージの返信をしてから、スマホの電源を落とす。
「ママが今の仕事を辞めるって言ってる。しばらくこの家に戻ってくるみたいです」
ルビーの大きな瞳が、ピエロのおれを映している。
目を合わせた途端に、凪が訪れた。

「わたし、そろそろ行かなきゃ行けないところがあるの」
その言葉に、彼女の気持ちが全くわからなくなる。
もしかしたら、知らぬ間に彼女に嫌われたんじゃないだろうか、だとしたらどうしたらいい?
おれは、ヱリカからも捨てられてしまうのだろうか。
顔が歪んで、涙が込み上げそうになる。
「そう、なんですか……」
でもおれは、行かないで欲しいですとか、どこに行くつもりなんですかとか、おれのどこが悪かったんですかとか、そんな事を言う権利はなくて、ただ本音を押し殺すように口角を上げてみせた。
静かな視線は、世界に対するぼんやりとした不満を感じさせる。

「それでね、西鬼くんにしか頼めないお願いがあるの」
「いいですよ」
食い気味に遮って、頷いた。
ヱリカの唇は硬く緊張を孕むように結ばれて、開かれる。
それから、何かを諦めたように小さく笑って、溜息に乗せた台詞を春風に吹かれる桜の花弁のように吐き出した。
「わたしね、寂しいのはイヤ。絶対にイヤ。愛じゃなくてもいいよ。むしろ、怨みでいいの。憎まれたい。もっと、もっと、沢山の怨念が欲しい。いっぱい集めて、痛みの境界が無くなるくらい」
「おれは、ヱリカの為に何をしたらいいですか」
ヱリカは純真無垢な少女のような目を伏せて、絞り出すような声で呟く。

「殺してよ」
「うん……うん?」
おれは頷いてから黙考して、首を傾げる。
彼女のスカイブルーの髪が窓辺の陽射しに透けていた。
先程とは打って変わって穏やかな眼差しをしたヱリカは、安堵したように微笑む。
「人間を殺して欲しいの。沢山、沢山、憎まれるように、怨まれるように、傷つくように、痛くなるように。ねえ、お願い。もう、寂しくなりたくないよ……」
彼女の縋るような声が、甘い毒となって雨のように降り注ぎ、全身が浸っていく。
心臓が壊れて、細胞が歓喜して、おれの身体がぶるりと震える。
「ヱリカ。おれは、ずっと誰かに必要とされたくて、一番になりたかったんです」

「そんなの、知ってるよ」
「そうですか?……うん。おれは、ヱリカの望みを叶えます。ヱリカの空っぽを満たすことがおれの幸福なんです。ヱリカ、おれが狂おしいほど抱き寄せたいのは、おれの孤独に装飾された幻想の貴女なのかもしれないです。ヱリカ、ヱリカ、貴女とおれはこの先もずっと、片時も離れられないのですね」
「ごめんなさい……」
ヱリカは蚊の鳴くような声で、途端にしおらしくなるが、おれの全身を巡るのはお願いされた内容に対する叫び出したい程の興奮だった。
目の前の少女に腕を伸ばして、かじりつくように抱きしめる。
うれしい、うれしい、うれしい!

本当に嬉しくて、もう死んでもいい、いっそのこと満ち足りた気持ちの今この瞬間に死にたいくらいだけど、ずっと求めていた存在を自ら手放すような馬鹿な真似はしたくない。
おれは飼い主に甘える猫のように喉をゴロゴロと鳴らさんばかりの上機嫌だった。
だってこれでおれはヱリカの唯一になれるのだ。
彼女の為に人間を殺して、世界に蔓延るその他大勢から脱出して、どんな形であれおれの初恋は火傷のように刻みついて世間から忘れられないものになる。
「今、最高にワクワクしてます」
おれの答えを聞いてヱリカは、一瞬だけ戸惑ったような顔をして、花束のように笑った。
おれは夕食の後、こっそり窓から外に出る。
蝉の声と夏祭りの放送の声が、かすかに風で運ばれてくるのが聞こえた。
夏祭りは、確か午後九時までだ。

「おれは彼女が寂しくないように、ずっと一緒にいるんだ」
おれは、月明かりに照らされる神社の石段を急ぎ足で登っていた。
手には、血に染まった中華包丁が握られている。
牛鳴神社の境内は夏祭りの最中で、多くの人間がおれを視界に捉えた。
目が合った来場客の首筋に向けて、次々と刃物を突き立てていく。
遠くから次第に近づいてくるサイレンの音、つんざく悲鳴、男性の怒号、僅かな笑い声。
一心不乱に手近な歩行者の肉体に刃を潜らせる。
浴びた返り血は胎内のように温かく、記憶の中のヱリカは「たのしいね」と可愛らしく笑う。
乾いた風に交じりサイレンの音が耳の横を唸っても、おれは手当り次第に人間を殺傷して走り続けた。

「ヱリカが一人で寂しくないように、もっと怨念を集めるんだ!」
サイレンの音にも風の音にも負けじと高らかに叫ぶ、月夜の下でおれの頭の中は多幸感に満ちている。
このまま人生が終わっても良いと本気で思えた。
いつかヱリカが、この街におれがいることも忘れて、おれの居場所がヱリカの脳内から消えてしまう日が来ても、いつかふと思い出せるくらい好きになって欲しい。
おれは、例え終焉の空が世界中を覆ったとしても、ずーっと、ずっと、ヱリカが、大好きだ!警察官に取り押さえられて、赤い回転灯に囲まれても、おれは蹂躙の後遺症のような全能感に浸りながら笑っていた。
「あひゃひゃひゃひゃひゃ!」
ヱリカとおれの為にしたことに後悔なんてない。
……ただ一つ心残りなのは、彼女は出会った時からずっとおれの頭の中から出てこないことだろうか。

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