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本編

壊れるまでの過程である

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「先輩、ガラケーだった……」
「絶滅危惧種かよ」
ごもっともである。登校してくるクラスメイトに朝練を終えた運動部が混じり、八時過ぎて徐々に膨れていく教室のざわめきは机や椅子が床に擦れる音がやけにくっきりとしている。
窓際の真ん中辺りの自分の席に、スクールバッグを置いて座るとわたしの前の席であるりーちゃんは椅子の向きをずらして、話しかけてきた。
一ヶ月に一度の公平なくじ引きの結果だけど、今までりーちゃんと席が離れた離れになったことはない。
神の見えざる手が働いているのかもしれない。言葉の使い方を間違えている。
アダム・スミスの本はわたしには難しくて読んだことがない。

結局、昨日りーちゃんと別れたあとに先輩に自宅のマンションまで送ってもらって今朝は先輩の自転車にニケツして登校したということを洗いざらい吐いた。
わたし一人では到底抱えきれない情報量である。
わたしは重い荷物を一人で背負えない貧弱女であった。きっと筋トレ不足だ。
りーちゃんに話すと肩の荷が下りて、身体が軽くなった気がする。
情報の共有相手がいると楽なのだ。
「連絡先交換でメアド交換って小学生の時以来だった……」
「だろーね。アタシらもやり取りはもっぱらLINEとかだし、メールアドレスなんてゲームの引き継ぎデータ作る時にしか使わねえわ。メールアプリ自体開かねえ」

「メアド打ったのなんて久しぶりだったから……手間取った……」
「あーちゃんってメールのやり取りとかマメな方じゃないじゃん。大丈夫なの?」
「なあにが?」
「一応、カノカレ関係なんでしょ?おはようからおやすみまでメールなきゃだし、人によっては返信までの時間が空きすぎると浮気を疑われたり……。いや知らねーけど、狼谷先輩ってなんかそういうのめっちゃ気にしそうじゃね?鬼電とかしてきそう」
「ま、マジかよ……。りーちゃんの中で先輩のイメージってどうなってんの?」
「くそメンヘラサイコパス地雷男」
あんまりである。しかも長い。呪文のようだ。テクマクマヤコンテクマクマヤコン。

昼休み開始のチャイムが鳴る。スマホと財布を持って教室を出るとあずま袋を手にした先輩がいた。
いつもならお昼休みはりーちゃんと一緒に教室で駄弁りながら過ごすのだけど、今日は先輩と昼食を食べることになったのだ。
先輩はわたしと目が合うとにこりと笑いかけてくる。
廊下にいる同級生達からの視線が凄い。
わたしと先輩が一緒に登校する姿を目撃した生徒の中には随分とお喋りな子がいたらしく、あっという間に先輩とわたしの関係は学校内に知れ渡っていた。なんてことなの。
最初にクラスメイトから先輩との関係をたずねられた時は驚きのあまり飲んでいたお茶を吹き出しそうになった。

今の時代は情報社会とはいえあまりにも早い、早すぎる。
もはや、見知らぬ誰かの陰謀さえ感じてしまう。
それにこの種の噂話にはもっともらしい尾ヒレが勝手に付け加えられていくものだ。
一部の女子生徒からすると、わたしは先輩の弱みを握り脅して無理矢理恋人ポジションに収まった不届き者というトンチンカンな認識をされているらしい。
大変な誤解だ。わたしの沽券に関わる。
弁護士を呼んで正式な裁判をしたい。異議あり!人差し指を前にずびしっと突き出して、わたしは証人に異議を申し立てる。
無論、脳内茶番だ。

わたしが階段を一段飛ばしで下りていくと、先輩は後ろから着いてきた。
こちらの歩幅に合わせてくれているのか、先輩はモデルのように長いコンパスに対して、歩く速度はゆっくりめだ。
学生食堂の中はガヤガヤと元気な人声で溢れている。至っていつも通りだ。わたしは食堂内に設置されている売店に向かう。学食より購買派なのだ。
わたしの通う高校の購買部はノートや鉛筆類は売っておらず、食べ物しか販売していない。

購買部のおばちゃんは鷲鼻と赤褐色のエプロンがトレードマークだ。まるでいばら姫に登場する魔女のような気難しいオーラを漂わせているけれど、話してみると意外と気さくな良い人である。
先輩には、先に奥の方のテーブルに座って待っていてもらう。
自動販売機が近くて、気に入っている席なのだ。
おばちゃんからお金を対価として渡されたカレーパンを袋から開けて、かぶりつく。
もぐもぐと頬を動かしながら、先輩のいるテーブルまで近づいて椅子をひいた。

「いただきます」
言って、先輩は手を合わせる。
食事時の挨拶なんて家ですらしないわたしとは大違いだ。
先輩の育ちの良さや両親から受けたであろう愛情が垣間見えて、素直に好ましく思った。
先輩の身体を構成する物質がわたしと同じタンパク質だなんてにわかに信じられない。
きっと全知全能の神様は先輩を作る時に素敵なものをたくさん入れたのだ。
そして、人間が飴細工を作る時のように極めて細かく巧みで抜かりがないよう作ったのだろう。

神様に愛された人というのはおそらく先輩のような人間を示すのだ。
先輩の皮膚に青い静脈が透けて見える。
触れれば溶けてしまいそうな、冷たくて生気の抜けた色だ。無機質で、人形めいた頬だった。
薔薇のジャムを溶かした紅茶とスミレの砂糖漬けだけを食べて生きている、そう言われても違和感がない。先輩はそんな人なのだ。
先輩のお弁当は手作りとわかるおかずが詰まっている。
美人で勉強が出来て、挙句には料理も得意なんて、神様は先輩に二物も三物も与えたらしい。流石である。

箸を使って食べる姿はやたらと上品で、見惚れてしまう。
庶民的な学生食堂が貴族御用達の高級レストランに思えてくる。
ボケーッと眺めていると、唐突に目の前に黄金に輝く卵焼きが現れた。
黙って箸先を見つめているわたしに焦れたのか、先輩はあーん、と口を開く真似をする。
「え、自分で食べれる……」
「口、開けて」
有無言わせない素敵な笑顔である。静かだけど確かな圧を感じた。こわい。

観念して唇を開くと、途端に口内に卵焼きの甘い味が広がって、ほっぺたが落ちそうになった。大袈裟ではない。なにこれ美味しい。
「おいしい?」
「めっちゃ美味しい。先輩ってば、良いお嫁さんになれるよ」
「あははは!だったら、あーちゃんが結婚してくれよ」
「するわ、毎日ご飯作ってほしい。こんな美味しい物食べたら購買じゃ満足できなくなりそう。先輩に胃袋を掴まれる……先輩無しじゃ生きていけなくなっちゃう……ダメになる……」
「あは、良いなあ」
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