春先地獄で賢く君と心中

おきた

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番外編

はくちょうのこころ

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昨日から降り続いた雨が、朝方ようやく上がった。
今日は傘は必要ないみたいだ。
明日は台風が来るらしいので、束の間の晴天だろう。
「沙那(さな)ちゃんは、その……何処か行きたいところはないかい?」
カセットテープから春の日差しを思わせるピアノの演奏の流れるリビング。
春瀬(はるせ)さんは焦げて真っ黒になってしまった食パンを不味そうに齧りながら言った。
食パンですらマトモに焼けないなんて、彼の自炊スキルの低さが嘆かれる。
せめて、カレーやカルボナーラくらいは一人で作れるようになって欲しいものだ。
今後、料理を教えてあげるべきだろうか。
「図書館、ですね……」

春瀬さんに料理本を読ませることしか頭に無かったわたしは、目を伏せて躊躇う素振りを見せながらも力強く答えた。
……後になってよくよく考えてみれば、春瀬さんはわたしが遊園地や水族館に行きたいと答えるだろうと予測して、デートがしたかったのかもしれないが。
春瀬さんは清潔感のある白いTシャツにネイビーの七分袖シャツを羽織って、ベージュのスキニーパンツという夏らしく爽やかな印象を与える格好をしていた。
黄色い点字ブロックにくすんだピンクのガムがへばりついている。
道行く人は総じて夏服の出立ちで、街中の街路樹は深緑に光を蓄えていた。
信号機が高らかにカッコウと鳴き、わたしと春瀬さんは横並びに歩き出す。

左右を誰ともつかぬスーツ姿の男性や制服姿の女子学生が通り過ぎて、後ろの方でトラックのクラクションが鳴らされて吠えたような煩わしい音を出した。
ジリジリと蝉の鳴き出しそうな酷暑の中で、わたしは春瀬さんに買い与えられたバニラのソフトクリームを舐めながら図書館を目指して歩く。
アスファルトの含んだ熱気が直接全身に伝わってくるような暑さだ。
太陽からの熱を溜め込まないように麦わら帽子に白いワンピース、白いサンダルといったわたしなりの完全防備をしてきたのに、焼け石に水である。
ソフトクリームのコーンの部分を食べながら歩を進めていれば、しれっと車道に近い左側を歩く春瀬さんが話しかけてきた。
「それにしても、沙那ちゃんが図書館に行きたがるなんて、意外だなあ」

「ん、そうですか?」
「俺の知る限り、沙那ちゃんは音楽にしか興味が無いように見えたからね。他人にも自分にも……勿論俺にだって、大した価値は見出していなくて、カセットテープに録音されたピアノの演奏だけが大切」
「……薄情な女だって怒りますか?」
夏の日差しの激しさのせいか、勝手に鋭くなってしまう目つきで隣を見る。
春瀬さんはやさしい顔で笑っていて、はじめて会った日と同じ笑顔をしていた。
その顔を見ると、丁寧に積みあげていた虚勢が崩れて、積み木を蹴飛ばすように呆気なく、乱雑に心が散らかる。
わたしは、柄にもなくその大きな身体にすがりついて泣きたい衝動に駆られた。

何かが無性に懐かしくて、恋しくて、知らないはずの衝動の、その正体すら分からず当惑してしまう。
そんな風に他人の存在で感情が動かされたのは、本当に、本当に彼が初めてだったから。
顔を強ばらせるわたしに、春瀬さんは口を開いた。
「沙那ちゃんのことが、俺は本当に大事だよ。沙那ちゃんがもし何かやりたいことがあるのなら、出来る限り力を貸してあげたい。俺のことは、別にそんな好きじゃなくてもいいよ。それでもいいくらい、俺は沙那ちゃんが好きだよ」
大きな手のひらを伸ばされて、お母様からぶたれる恐怖を思い出してしまい、咄嗟に肩を揺らして後ずさる。
春瀬さんは驚いたように口を開きかけたけど、ただ困ったように眉を下げた。

違うんです、ごめんなさい、と言いかけた時、春瀬さんはふっと唇を引いて向日葵みたいに暖かい笑みを浮かべた。
春瀬さんの指先は、汗で張り付いたわたしの前髪を整えるように撫でる。
それだけで、この人の娘にでもなったような気持ちになって、上手く言葉が出なくなった。
軽くパニックになっていたわたしは足がもつれて体勢が傾いてしまい、同時にブツンといった不穏な音が足元から響く。
「あっ」
転ぶ、と思った。
しかしわたしの身体は熱したフライパンのようなアスファルトにはぶつからず、代わりに背中をふわりと抱きとめられる。
「っ、沙那ちゃん!」
どうやら、春瀬さんに横から抱きしめられているようだ。

春瀬さんの顔を見上げると、転びそうになった恐怖なのか、はたまた不意に抱きしめられた緊張からか、心臓がバクバク鳴っている。
「沙那ちゃん、大丈夫、大丈夫だから」
転びかけた拍子に運悪く右足のサンダルのストラップがちぎれてしまったらしい。
ひとまずわたしは春瀬さんにおんぶされて近くの公園の木陰にあるベンチまで移動した。
春瀬さんは近くのコンビニまで消毒液と絆創膏を買いに猛ダッシュで向かい、その勢いに転ぶんじゃないかとひやひやする。
一人残されたわたしは特にやることもなくて、春瀬さんがコンビニから帰ってくるまで、澄んだ青空を見上げている。
彼が慌てているところはさほど見る機会がない。
珍しさに笑いつつ、ベンチから伸ばした足の指を撫でるように白詰草が揺れていた。

しばらくの間、足の親指と人差し指で白詰草を挟んだり離したりを繰り返して遊んでいると、コンビニのロゴがプリントされたビニール袋を腕に掲げて春瀬さんが戻ってくる。
端正な鼻先には玉の汗が浮かんでいた。
彼はちょっぴり覚束無い手つきで、わたしの右足首に消毒液を吹きかけて、壊れ物に触るような緊張感で絆創膏を貼る。
「図書館はまた今度にしようね。背中乗れる?一回、俺ん家に帰って靴履き替えてから靴屋さん行こう。新しいの買ってあげるから」
「はい、失礼します」
春瀬さんの首元に後ろから抱きつくようにしがみつくと、太もも辺りを両腕でしっかり支えられて歩き出す。

「沙那ちゃんにやりたいことが出来たら、ぜひ俺のことも巻き込んでね。何かを欲しがったり、求めるのは、全然悪いことじゃないから」
わたしは春瀬さんの旋毛の向こうで揺らめく陽炎に目を細めた。
こんな風に男の人から肯定されたことが今までの人生であっただろうか、と考える。
あった気もした。
だけど、もう思い出せない、何かを感じることも無く消えていった言葉達。
今は感じないフリを装うのも困難なほどに、春瀬さんの優しい声が透明な風のように吹き抜けていく。
そして、結婚するならこの人にしよう、春瀬さんとなら共犯者になれるかもしれない、と確かにそう思ったのだ。

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