春先地獄で賢く君と心中

おきた

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番外編

いぬのしっぽ

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私が沙那(さな)ちゃんと初めて出会ったのは、悲劇の最中だった。
二年前の夏、私の父親が交通事故で亡くなったのだ。
当時中学一年生だった私は母親に連れられて、現実を受け止める暇もなく葬式に参列させられた。
香典や焼香といった葬式の流れも、人間が死ぬということも、よく分からない。
ただぼんやりと、部屋の隅で借りてきた猫のように大人しくしていた。
そんな私に喪服姿の大人達は次々に「可哀想」という言葉を投げつける。
歯を食いしばって俯く母親は、子供みたいに握りこぶしで溢れる涙を拭う。

大人達が精進落としというらしい会食を始めた辺りで、私は部屋から抜け出した。
庭の木々や白い花が暑い空気の中でサワサワと揺れて、鮮やかな色彩はスクリーン越しで広がる世界のように見える。
夏の極彩の中心に、彼女は居た。
黒いワンピースを身にまとい、ハワイアンブルーの髪は風でふわりと甘やかに靡いている。
白い肌は作り物めいているけれど、どうしてか惹かれる生々しさを伴っていた。
頬は桜色に紅潮し、小さな白い花の束を手にして、楽しそうに空中を叩くように振るっている。
その花の名前を私は知らないけれど、通学路などでも見慣れた子供には馴染みの深い花だ。

魅惑的で無邪気な、全てを嘲笑うかのようで、しかし彼女の様子は大変可愛らしく、まるで花の妖精がそのまま人間になったかのようだった。
私の血潮は体内で燃え上がるように滾り、胸は甘ったるく疼く。
視線に気づくと、彼女は首を傾けて、にっと笑う。
艶やかな唇をぺろりと舐め、健康的な色の舌が見えてドキリとした。
青く若々しい湧き上がる恋情が、滲み出すように涙が溢れる。
彼女の天使のような無垢な指先で、頬を優しく叩いて貰えたら、嬉しさのあまり財産の全てを差し出しても構わないと、本気で考えた。

私の元にもつれ気味の足取りでやってきた彼女からは、春の花のような甘い匂いがする。
何歳か年上なのであろう彼女は、そのほっそりした首元より低い位置にある私の鼻をキュッと掴んだ。
桜貝のような薄い紅色の綺麗な爪に彩られた細い指先は氷菓子のようにひんやりしていた。
彼女に触れられて、私はお気に入りのおやつを与えられた赤ん坊みたいにはしゃぎ出したい気持ちを必死で堪える。
彼女は丸い瞳でじぃっと私を見つめると、そのまま私の鼻を下向きに引っ張った。
「いっ、痛っ」
「あっははは」
私は思わず、赤くなっているであろう鼻を押さえつけてしゃがみこんでしまう。
鼻先から顔に広がる痛みを手のひらで覆いながら、彼女を見上げる。

そして私は、彼女の無邪気で聡明な実に可愛らしい笑顔が一層魅力を増した様に感じ、しばし見蕩れてしまった。
長く眺めているうちに、私は彼女がとても大切な存在のように思えて、不思議な親愛を抱き始めたのだ。
彼女と出会うまでの人生は生きた甲斐もなく、この先の人生も彼女無しでは到底生きていけないような気持ちにさえなった。
「泣き止んだ?」
私と目線を合わせるようにしゃがみこむと、先程とは違い好意を込めた微笑を浮かべ、彼女は抜け目なく言う。
「は、はい、まあ……」
確かに彼女の悪戯で涙は止まっている。
「大丈夫、大丈夫よ」

彼女の言葉は不思議と、これまでにないほどの力強さで私を引き寄せて、あっという間に脱力して彼女の身体にもたれかかってしまった。
私を受け止めると彼女は華奢な手のひらで、私の肩を宥めるように何度も撫でる。
「大丈夫だよ。大丈夫。少しくらいね」
耳にかかる生温かい吐息と鈴を転がすような甘い声。
地上を彷徨う爽やかな夏風が、適度に草木と戯れていた。
青々と茂る芝の上で、私は彼女と二人きりの酔い心地に身を委ねる。
彼女は、沙那と名乗った。
現在高校一年で、私の遠い親戚であるらしい。

こんな綺麗な人を一目見たら忘れるわけがないはずだ。
沙那ちゃんの存在が記憶に無いことを不思議に思っていたら、沙那ちゃん曰く放浪癖のようなものがあるらしく、普段の親戚の集まりでも今みたいに抜け出して遊んでいることが多いと教えてくれた。
「何がしたかったの?」
沙那ちゃんは紅い目を細めて私に問いかける。
「私は、何が、したいんだろう……」
沙那ちゃんの質問は会食を抜け出したことについて言っているのだろう。
大した意味が無いと分かっていたが、しかし、同時に私は彼女の言葉が父親を亡くした後の私の人生を決める詰問のように感じられたのだ。

泣きそうだ、辛くて仕方がない。
今この瞬間が、一番人間みたいになってしまい苦しかった。
思いのほか自分の声は悲愴で、これからのことを考えると本当に悲しいんだと、火葬場ですら流さなかった涙が今になって溢れてくる。
今すぐ楽にして欲しい、そればかりがぐるぐると頭の中を回っていた。
「っと。ごめんね。そろそろ行かなくちゃ」
沙那ちゃんは私の肩を優しく押して引き離すと、パタパタと駆けていき、あっという間に遠く離れてしまう。
呆気ない別れだった。
「えっ……わ、私たち、また会えるかな!どうしたら、沙那ちゃんと会えるかなっ?!」
私が慌てて大声で叫ぶと、沙那ちゃんは下唇を隠して純度百パーセントの笑顔を向ける。
「……また誰かが死んだら、会えるかも」

星一つない夜だ。
私が、母親を殺すなら今日だと思った。
ぽつりぽつりと立ち並ぶ橙色の街灯が漆黒の帳を押し上げるように歩道を照らしている。
細く流れる雲の隙間から透き通るような月光が私の背を強く押す。
「沙那ちゃん、私は考えていたんだ。自分はどうしたいのか。もしくはどうされたいのか」
スクールバッグから鍵を取り出して、玄関の扉を開ける。
塗装が僅かに禿げた夢の国のネズミのキーホルダーが、私の覚悟を試すように嘲笑っている気がした。
鼻腔を貫くような異臭を放つ廊下を抜けて、リビングの照明をつける。

ビールの空き缶やら壁の一角を隠すゴミ袋の山やら当たり構わず散らばる使用済みティッシュやら、そんなものが部屋中に吹き溜まりのように散らかっていた。
酒瓶に囲まれた母親は、脚の一部が白くカビた卓袱台に突っ伏している。
私はゴミ捨て場と見分けがつかない惨状のキッチンで、まな板の上に放置された調理包丁を手に取った。
「沙那ちゃん。私はね……ずっと貴女に殺されたかった」
私は泥酔状態の母親の元にゆっくりと歩を進める。
調理包丁を僅かに傾けると天井からの光に照らされてキラキラ輝いた。
「沙那ちゃんがすき。ずっとだいすき」
たとえ、貴女に私が要らなくても。
「また、会えるよね」

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