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番外編
うさぎのなきごえ
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全部が眩しく輝いて見える真夏の公園は熱気が篭っているようだった。
入口から見える渋滞した道路も、緑を茂らす桜の木々の影も、ぴたりと動かない遊具の形も、みんな暑さを堪えている感じだ。
人工物の隙間を通る熱風が、汗で濡れた額を緩やかに撫でた。
俺は公園に来るまでの道のりにあった駄菓子屋で購入した串に刺されたスルメを咀嚼する。
煮付けたイカの足は甘辛い味がした。
酒のつまみに最適だろうなと考え、これから会う相手は未成年だから酒屋には連れて行けないなと思った。
未成年、それも現役女子高生である。
女子高生と休日のサラリーマン。
字面だけでも犯罪臭が凄まじく、俺と並んだ姿は援助交際にしか見えないだろうし、それは非常に的を得た認識だ。
一時間が経過して待ち合わせの時間になる。
ごく平凡な公園に、桜の化身の如き天女が舞い降りた。
お尻まで伸びたハワイアンブルーの神秘的な髪、翳りなく澄み渡る丸い瞳。
漆黒のワンピースから覗く脚は程良い肉付きでしなやかに伸び、ライチの実のように透き通る白い細腕が動くたびにすべやかな腋が見え隠れする。
瑞々しい桃色の唇は、時折色気を覗かせた。
非の打ち所のない光を従えるに相応しい美貌。
沙那ちゃん、天女目沙那ちゃん。
地上で出会える唯一の天使。
「あ、是枝(これえだ)さんだ。お久しぶりですね。今日はどうしますか?」
彼女が振り向いただけで、桜の花のような甘い香りにうっとりしてしまう。
頭の中に春の匂いが充満していき、強制的に目の前の少女への恋心がどんどん成長していく。
「あの、大丈夫ですか……?もしかして、また待ちました?どこかで、休みましょうか。公園は暑いですからね、熱中症になってしまいます。近くのカフェとかどうですか?」
耳の奥に絡みつくような甘い声に蠱惑される。
鼻先がくっつきそうな程近くから山茶花のように赤い瞳に見つめられて、背筋にぞくりと喜悦の痺れが走った。
いつの間にか距離を詰めていた沙那ちゃんが不安げに俺の顔を覗き込んでいて、我に返る。
「ああ、そうだね。そうしようか。沙那ちゃん。今日は全て沙那ちゃんの言う通りにしよう。沙那ちゃんに会えて本当によかったよ。俺はとても嬉しいんだ。あんまり嬉しいから今この場で干物になったって良いくらいだよ」
「もう、またそんなこと言って……是枝さんは大袈裟ですねー」
沙那ちゃんは口元に指を添えると、くすくすと少女らしく悪戯げに笑う。
その慎ましく光る唇に、白魚のような指先に、思わず見蕩れてしまいそうになる。
俺が彼女を最初に見つけたのは、二年前の春の夜だった。
街路灯に照らされて、桜の純白が夜闇の中から浮き出ている。
小さな公園で、春色が静かに淡く咲いていた。
不思議に粘度のある甘い空気は、微かに冬の残滓を含んでいる。
木製のベンチで隣町の中学校のものらしき白いセーラー服姿の彼女は、ニーハイソックスに覆われた脚を真っ直ぐぴっちりくっつけて、少し幼い顔立ちはまるで祈るように瞳を閉じて俯いていた。
伏せられた睫毛は、粉雪のように繊細な影を落とす。
瞼を閉じて、微動だにしない彼女は精巧な人形のようだった。
だからこそ、首筋につけられた赤紫色の手形に息が苦しくなる。
あの日の邂逅から、夜空の下で桜の木を仰ぐと説明しがたい悲しさと同じ気持ちになるのは、一体どういう訳なのだろう。
あの日の沙那ちゃんの清らかな香気が、もし星光の香気に姿を変えて、たちまち俺の四肢を貫いたなら流れ出る涙も納得が出来た。
理不尽な悪意に晒される彼女のことを思えば、いつだって泣き伏してしまいたい切なさに心が掻き立てられる。
脳髄まで深く痺れるような衝撃。
思考回路を焼き切るような激しい恋情。
俺の生涯において二度と有り得はしないだろう。
あの春の夜の出会いこそ、俺の運命だと思った。
公園の一番近くにあったカフェに入ると、沙那ちゃんは窓際の隅っこの席に座る。
ガラス張りの窓からは、炎天下に晒されながら夏風でわさわさ揺られる深緑の木々が見えた。
俺は向かい側の席から沙那ちゃんの顔を見ている。
瞳は見ずに鼻と唇を見つめていた。
なぜなら、彼女は横を向いていたからだ。
彼女の鼻の形は整った美しさで、潤んだ唇の妖しさに比べれば長く注意を引かずに、俺は唇ばかりを見つめていた。
透明のしんとした時間は多幸感に満ちている。
「このお店のコーヒーって、おいしいですよね」
ふと俺の存在を思い出したかのように沙那ちゃんが話しかけてきた。
俺はたまげて、手に持っていたコーヒーのカップを傾けて、お皿にじょろじょろ零してしまう。
「ああ、ああ、何してるんですか」
沙那ちゃんは困ったように笑った。
「き、きみが、いきなり話しかけてくるから……」
「おしゃべりがしたくてわたしを呼んだんじゃないんですか?」
沙那ちゃんはきょとんと首を傾ける。
そうだった、俺は彼女とこうして会うために自分の日給に換算したら三日分ほどの金銭を彼女に先払いしていた。
お皿から溢れてテーブルに広がった茶色い液体をおしぼりで拭いながら、俺はずっと疑問に思っていたことを尋ねる。
「……今日は、白い服じゃないのか」
彼女はその柔肌よりも白い、花嫁衣裳のような純白が一番似合う。
それは、初めて出会った時に白い衣服を身につけていたからではない。
可憐さと妖艶さを兼ね備えた微笑。
一切を偽ることなく無垢に悪辣を成す彼女は、まさに清廉な白そのものだ。
「見たかったんですか?」
こちらの意図を見透かしたように、沙那ちゃんは赤く光る瞳を細める。
「え……」
「今日は白い服じゃないのか、って言うから……白い方が好きなのかなって、違ってたらいいんです。どうか、わすれてくださいね」
「っ、好きというか、今日で見納めだから……」
「だめですよー……明日、結婚するんでしょう?あなたは、わたしなんかよりもずっときれいな人を選んだんですよ」
違う、きみよりもうつくしいものなんてこの世界にあるはずが無い。
そんな主張が即座に浮かんだ。
俺は記憶力をうんと働かせて、沙那ちゃんの身体をしっかりと思い描いた。
自分の好みのデザインの花嫁衣裳を想像上の彼女に着せる。
想像上の彼女であっても、純白を纏い微笑む彼女は完璧だった。
絶望が心臓に重たく絡みついて、離れない。
そうだ、俺は、天女目沙那という少女に気が触れた男のひとりを辞めようとしている。
きっと、今が人生で一番死んでしまいたかった。
沙那ちゃんは無邪気に笑う。
「おめでとう、どうかお幸せに」
▼ E N D
入口から見える渋滞した道路も、緑を茂らす桜の木々の影も、ぴたりと動かない遊具の形も、みんな暑さを堪えている感じだ。
人工物の隙間を通る熱風が、汗で濡れた額を緩やかに撫でた。
俺は公園に来るまでの道のりにあった駄菓子屋で購入した串に刺されたスルメを咀嚼する。
煮付けたイカの足は甘辛い味がした。
酒のつまみに最適だろうなと考え、これから会う相手は未成年だから酒屋には連れて行けないなと思った。
未成年、それも現役女子高生である。
女子高生と休日のサラリーマン。
字面だけでも犯罪臭が凄まじく、俺と並んだ姿は援助交際にしか見えないだろうし、それは非常に的を得た認識だ。
一時間が経過して待ち合わせの時間になる。
ごく平凡な公園に、桜の化身の如き天女が舞い降りた。
お尻まで伸びたハワイアンブルーの神秘的な髪、翳りなく澄み渡る丸い瞳。
漆黒のワンピースから覗く脚は程良い肉付きでしなやかに伸び、ライチの実のように透き通る白い細腕が動くたびにすべやかな腋が見え隠れする。
瑞々しい桃色の唇は、時折色気を覗かせた。
非の打ち所のない光を従えるに相応しい美貌。
沙那ちゃん、天女目沙那ちゃん。
地上で出会える唯一の天使。
「あ、是枝(これえだ)さんだ。お久しぶりですね。今日はどうしますか?」
彼女が振り向いただけで、桜の花のような甘い香りにうっとりしてしまう。
頭の中に春の匂いが充満していき、強制的に目の前の少女への恋心がどんどん成長していく。
「あの、大丈夫ですか……?もしかして、また待ちました?どこかで、休みましょうか。公園は暑いですからね、熱中症になってしまいます。近くのカフェとかどうですか?」
耳の奥に絡みつくような甘い声に蠱惑される。
鼻先がくっつきそうな程近くから山茶花のように赤い瞳に見つめられて、背筋にぞくりと喜悦の痺れが走った。
いつの間にか距離を詰めていた沙那ちゃんが不安げに俺の顔を覗き込んでいて、我に返る。
「ああ、そうだね。そうしようか。沙那ちゃん。今日は全て沙那ちゃんの言う通りにしよう。沙那ちゃんに会えて本当によかったよ。俺はとても嬉しいんだ。あんまり嬉しいから今この場で干物になったって良いくらいだよ」
「もう、またそんなこと言って……是枝さんは大袈裟ですねー」
沙那ちゃんは口元に指を添えると、くすくすと少女らしく悪戯げに笑う。
その慎ましく光る唇に、白魚のような指先に、思わず見蕩れてしまいそうになる。
俺が彼女を最初に見つけたのは、二年前の春の夜だった。
街路灯に照らされて、桜の純白が夜闇の中から浮き出ている。
小さな公園で、春色が静かに淡く咲いていた。
不思議に粘度のある甘い空気は、微かに冬の残滓を含んでいる。
木製のベンチで隣町の中学校のものらしき白いセーラー服姿の彼女は、ニーハイソックスに覆われた脚を真っ直ぐぴっちりくっつけて、少し幼い顔立ちはまるで祈るように瞳を閉じて俯いていた。
伏せられた睫毛は、粉雪のように繊細な影を落とす。
瞼を閉じて、微動だにしない彼女は精巧な人形のようだった。
だからこそ、首筋につけられた赤紫色の手形に息が苦しくなる。
あの日の邂逅から、夜空の下で桜の木を仰ぐと説明しがたい悲しさと同じ気持ちになるのは、一体どういう訳なのだろう。
あの日の沙那ちゃんの清らかな香気が、もし星光の香気に姿を変えて、たちまち俺の四肢を貫いたなら流れ出る涙も納得が出来た。
理不尽な悪意に晒される彼女のことを思えば、いつだって泣き伏してしまいたい切なさに心が掻き立てられる。
脳髄まで深く痺れるような衝撃。
思考回路を焼き切るような激しい恋情。
俺の生涯において二度と有り得はしないだろう。
あの春の夜の出会いこそ、俺の運命だと思った。
公園の一番近くにあったカフェに入ると、沙那ちゃんは窓際の隅っこの席に座る。
ガラス張りの窓からは、炎天下に晒されながら夏風でわさわさ揺られる深緑の木々が見えた。
俺は向かい側の席から沙那ちゃんの顔を見ている。
瞳は見ずに鼻と唇を見つめていた。
なぜなら、彼女は横を向いていたからだ。
彼女の鼻の形は整った美しさで、潤んだ唇の妖しさに比べれば長く注意を引かずに、俺は唇ばかりを見つめていた。
透明のしんとした時間は多幸感に満ちている。
「このお店のコーヒーって、おいしいですよね」
ふと俺の存在を思い出したかのように沙那ちゃんが話しかけてきた。
俺はたまげて、手に持っていたコーヒーのカップを傾けて、お皿にじょろじょろ零してしまう。
「ああ、ああ、何してるんですか」
沙那ちゃんは困ったように笑った。
「き、きみが、いきなり話しかけてくるから……」
「おしゃべりがしたくてわたしを呼んだんじゃないんですか?」
沙那ちゃんはきょとんと首を傾ける。
そうだった、俺は彼女とこうして会うために自分の日給に換算したら三日分ほどの金銭を彼女に先払いしていた。
お皿から溢れてテーブルに広がった茶色い液体をおしぼりで拭いながら、俺はずっと疑問に思っていたことを尋ねる。
「……今日は、白い服じゃないのか」
彼女はその柔肌よりも白い、花嫁衣裳のような純白が一番似合う。
それは、初めて出会った時に白い衣服を身につけていたからではない。
可憐さと妖艶さを兼ね備えた微笑。
一切を偽ることなく無垢に悪辣を成す彼女は、まさに清廉な白そのものだ。
「見たかったんですか?」
こちらの意図を見透かしたように、沙那ちゃんは赤く光る瞳を細める。
「え……」
「今日は白い服じゃないのか、って言うから……白い方が好きなのかなって、違ってたらいいんです。どうか、わすれてくださいね」
「っ、好きというか、今日で見納めだから……」
「だめですよー……明日、結婚するんでしょう?あなたは、わたしなんかよりもずっときれいな人を選んだんですよ」
違う、きみよりもうつくしいものなんてこの世界にあるはずが無い。
そんな主張が即座に浮かんだ。
俺は記憶力をうんと働かせて、沙那ちゃんの身体をしっかりと思い描いた。
自分の好みのデザインの花嫁衣裳を想像上の彼女に着せる。
想像上の彼女であっても、純白を纏い微笑む彼女は完璧だった。
絶望が心臓に重たく絡みついて、離れない。
そうだ、俺は、天女目沙那という少女に気が触れた男のひとりを辞めようとしている。
きっと、今が人生で一番死んでしまいたかった。
沙那ちゃんは無邪気に笑う。
「おめでとう、どうかお幸せに」
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