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番外編
やぎのめ
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同じ定時制高校に在籍している女子生徒は大勢いたが、ぼくの目には彼女しか映らなかった。
天女目沙那(なばためさな)。
この世でただ一つ、美しい生き物。
桜の木が散り始めた時期、教室で読書をしていたぼくはふと顔を上げて、瞳に飛び込んできた彼女を異質だと思ったのだ。
鬱々とした薄汚れた校舎の中で、その瞳は深く虚ろで、その虚ろさゆえに限りなく穏やかに見えた。
ハワイアンブルーの長髪に、丸い瞳は睫毛が頬に薄く青い影を落とす。
可憐で熱を知らぬかに見える細い指先、彼女のしなやかな肢体は鮮明な輪郭を浮かばせる。
彼女の存在は、男の心を誘う甘い餌食のようだ。
ぼくは彼女こそが春を従える天使なのだと、そう信じて疑わない。
彼女は不規則な時間に登校してきて、遅刻や無断欠席は日常茶飯事だった。
午後の授業中にふらりとやって来ては、すぐさま机にぺったりと身体をつけて眠る。
授業は全く聞いておらず、テスト期間中も欠席が多く、板書をしている姿は見た事がない。
夏場でもニーハイソックスを履いて、あでやかな形の良い脚を隠している。
クラスメイトと昼食をとるのは得意じゃないのか、昼食時には忽然と姿を消す。
お弁当を持参してくる様子もなく、スクールバッグの中は学校からのプリントの塊が入っているのみ。
ごく稀にチョコレート菓子を齧っている。
得意科目はおそらく国語で、プリント回収時に盗み見た限り意外と字が綺麗。
体育は嫌いらしく、また彼女の運動神経はお世辞にも良いとは言えない。
クラスメイトに話しかけられても常に冷たい敬語で突き放しており、友人らしい存在は見たことがなかった。
そんな彼女と触れ合ったのは、高校三年生の梅雨時のことだ。
窓の外で雨音に混じり雷鳴がとどろき、稲妻がきらめく。
彼女は扉を薄く開いて、教室内を確認してから開け広げる。
水を吸った上履きが床を歩く度にきゅいきゅいと音を立てる。
ずぶ濡れのぼくの天使が、教室に入ってきた。
濡れて群青に濃くなった髪の先から、ぼたぼたと落ちる雫を拭いもしない様子に、教師は慌てて教室から出て行った。
きっとタオルを探しにいったのだろう。
教室には、ぼくと彼女の二人きりだ。
雨でピッタリと張り付いたワイシャツから肌色がうっすら透けていて、鮮やかな美貌をこれ見よがしに晒される。
あどけない彼女の誘惑に、ぼくは自らの持てる感情の何もかもを奪われてしまう。
ぼくの劣情を見透かし嘲笑うかのように、彼女はぼくの隣の空席に腰を下ろし、ぐっしょり濡れたスカートに居心地が悪そうにしている。
「あの……」
ぼくは勇気を奮い起こし、騒ぎ立てる心臓を服の上から抑えながら彼女に声をかけた。
首だけを傾けてこちらを見た彼女は、眉間に皺を寄せている。
まるで警戒を解かない猫のようで、ぼくに笑いかけることはない。
「……なんですか?」
「拭きます、拭かせてください」
「え……?」
「風邪をひいてしまう」
ぼくは席から立ち上がり、彼女の机を横に退かした。
踵をつけてちょこんと行儀よく椅子に座る彼女を前にして、ぼくは糸を引かれた人形のように雨水で濡れた床にゆっくりと膝を折る。
彼女は顔色を変えずにぼくを見下ろしていた。
彼女のおみ足から春の甘い匂いがする。
そのまま床に両手をついて、彼女のつま先にキスをしたい衝動をぐっと堪えた。
ぼくが傅いても彼女は動こうとしない。
なんの苦労も知らない桜色の爪に彩られた滑らかな手をゆらゆらと魚のように泳がせている。
震えそうになる己の手を律しながら、彼女の細い足首を掴み、上履きを脱がした。
ぼくはポケットから清潔なハンカチを取り出して、黒色のニーハイソックスに覆われたくるぶしの凸凹を、ガラス細工に触れるかのように慈しみを込めた繊細な手つきで拭い、ふくらはぎの肉の盛り上がりまで撫でる。
丸い踵をハンカチで包むように触れ、蠱惑されるままに足の甲に頬を寄せた。
しかし、口づけることは許されない。
彼女はその小さく可愛らしい脚で突然ぼくの腹を踏みつけたのだ。
僅かな力なのに、そこだけが発火したかのように熱くなる。
ぼくが縋るように彼女を見上げると、まるで聖女のように細められた深い瞳に呑み込まれ、癒されて、魂の芯まで洗われたような高揚感に包まれた。
そして気づいたのだ。
眉根を寄せて周囲の人間を見下ろす彼女こそが、ぼくが崇め奉るにふさわしい女神である。
そうだ、これはきっと愛だ。
ぼくの胸に溢れている感情は、その言葉でしか表すことができない。
それからすぐに教室の扉が開き、教師が山ほどのスポーツタオルを持って戻ってきた。
彼女に触れた機会はこれっきりだが、ぼくは彼女を愛している。
それは有象無象の男共のように気安く肩を抱く様な軽薄なものでは無い。
こんこんと沸き上がる衝動は、抑圧された神聖な感情だ。
しかし、ぼくが高校を卒業してしまった現在では、彼女が何をしているかを知る術はない。
ぼくが三年に上がる時、彼女は既に留年が決まっていたようだし、もしかしたらまだ高校生をしているのかもしれない。
ぼくは彼女に電話番号を渡せなかったし、つまり彼女からしたらその程度の仲なのだ。
ぼくは大学の授業でめげそうになると、どうしようもなく彼女に会いたくなる。
だから、彼女を街で見かけた時は運命だと思った。
秋の空は薄い色をしている。
この日、中学時代からの友人が無料で焼肉を食わせてくれるというのでわざわざ隣町まで赴いたのだ。
夕暮れの繁華街を進んでいき、怪しげな店が連なる路地を近道と言って突っ切っていく最中、ぼくは遠く離れた歩道を闊歩する彼女を見つけてしまった。
間違いない彼女だ!
ぼくは隣にいた友人の制止の声を振り切って、彼女の元に走った。
「好きだよ」
通りには車が列を作って走り、歩道には沢山の人の姿がある。
彼女までの僅かな距離の道が、ひどく遠いものに思えてならなかった。
「好きだよ」
呟きながら、ますます歩を進める。
ただ本人だけが、ぼくのことを全く気にかける様子もなく交差点で立ち止まった。
「君が、好きなんだ」
呟いて、彼女の元に急ぐ。
信号が赤に変わる。
すると彼女が顔を上げた。
ぼくを視界に捉えた彼女は少し慌てたように手を振る。
やった、天使がこちらを見た!
嬉しくて、ぼくは飼い主を見つけた犬のように彼女の元に駆け出した。
刹那、フラッシュする視界。
鳴り響くクラクションの音。悲鳴。鈍痛。
ぽかんと口を開けた天使の表情。
あ、ひかれた。
▼ E N D
天女目沙那(なばためさな)。
この世でただ一つ、美しい生き物。
桜の木が散り始めた時期、教室で読書をしていたぼくはふと顔を上げて、瞳に飛び込んできた彼女を異質だと思ったのだ。
鬱々とした薄汚れた校舎の中で、その瞳は深く虚ろで、その虚ろさゆえに限りなく穏やかに見えた。
ハワイアンブルーの長髪に、丸い瞳は睫毛が頬に薄く青い影を落とす。
可憐で熱を知らぬかに見える細い指先、彼女のしなやかな肢体は鮮明な輪郭を浮かばせる。
彼女の存在は、男の心を誘う甘い餌食のようだ。
ぼくは彼女こそが春を従える天使なのだと、そう信じて疑わない。
彼女は不規則な時間に登校してきて、遅刻や無断欠席は日常茶飯事だった。
午後の授業中にふらりとやって来ては、すぐさま机にぺったりと身体をつけて眠る。
授業は全く聞いておらず、テスト期間中も欠席が多く、板書をしている姿は見た事がない。
夏場でもニーハイソックスを履いて、あでやかな形の良い脚を隠している。
クラスメイトと昼食をとるのは得意じゃないのか、昼食時には忽然と姿を消す。
お弁当を持参してくる様子もなく、スクールバッグの中は学校からのプリントの塊が入っているのみ。
ごく稀にチョコレート菓子を齧っている。
得意科目はおそらく国語で、プリント回収時に盗み見た限り意外と字が綺麗。
体育は嫌いらしく、また彼女の運動神経はお世辞にも良いとは言えない。
クラスメイトに話しかけられても常に冷たい敬語で突き放しており、友人らしい存在は見たことがなかった。
そんな彼女と触れ合ったのは、高校三年生の梅雨時のことだ。
窓の外で雨音に混じり雷鳴がとどろき、稲妻がきらめく。
彼女は扉を薄く開いて、教室内を確認してから開け広げる。
水を吸った上履きが床を歩く度にきゅいきゅいと音を立てる。
ずぶ濡れのぼくの天使が、教室に入ってきた。
濡れて群青に濃くなった髪の先から、ぼたぼたと落ちる雫を拭いもしない様子に、教師は慌てて教室から出て行った。
きっとタオルを探しにいったのだろう。
教室には、ぼくと彼女の二人きりだ。
雨でピッタリと張り付いたワイシャツから肌色がうっすら透けていて、鮮やかな美貌をこれ見よがしに晒される。
あどけない彼女の誘惑に、ぼくは自らの持てる感情の何もかもを奪われてしまう。
ぼくの劣情を見透かし嘲笑うかのように、彼女はぼくの隣の空席に腰を下ろし、ぐっしょり濡れたスカートに居心地が悪そうにしている。
「あの……」
ぼくは勇気を奮い起こし、騒ぎ立てる心臓を服の上から抑えながら彼女に声をかけた。
首だけを傾けてこちらを見た彼女は、眉間に皺を寄せている。
まるで警戒を解かない猫のようで、ぼくに笑いかけることはない。
「……なんですか?」
「拭きます、拭かせてください」
「え……?」
「風邪をひいてしまう」
ぼくは席から立ち上がり、彼女の机を横に退かした。
踵をつけてちょこんと行儀よく椅子に座る彼女を前にして、ぼくは糸を引かれた人形のように雨水で濡れた床にゆっくりと膝を折る。
彼女は顔色を変えずにぼくを見下ろしていた。
彼女のおみ足から春の甘い匂いがする。
そのまま床に両手をついて、彼女のつま先にキスをしたい衝動をぐっと堪えた。
ぼくが傅いても彼女は動こうとしない。
なんの苦労も知らない桜色の爪に彩られた滑らかな手をゆらゆらと魚のように泳がせている。
震えそうになる己の手を律しながら、彼女の細い足首を掴み、上履きを脱がした。
ぼくはポケットから清潔なハンカチを取り出して、黒色のニーハイソックスに覆われたくるぶしの凸凹を、ガラス細工に触れるかのように慈しみを込めた繊細な手つきで拭い、ふくらはぎの肉の盛り上がりまで撫でる。
丸い踵をハンカチで包むように触れ、蠱惑されるままに足の甲に頬を寄せた。
しかし、口づけることは許されない。
彼女はその小さく可愛らしい脚で突然ぼくの腹を踏みつけたのだ。
僅かな力なのに、そこだけが発火したかのように熱くなる。
ぼくが縋るように彼女を見上げると、まるで聖女のように細められた深い瞳に呑み込まれ、癒されて、魂の芯まで洗われたような高揚感に包まれた。
そして気づいたのだ。
眉根を寄せて周囲の人間を見下ろす彼女こそが、ぼくが崇め奉るにふさわしい女神である。
そうだ、これはきっと愛だ。
ぼくの胸に溢れている感情は、その言葉でしか表すことができない。
それからすぐに教室の扉が開き、教師が山ほどのスポーツタオルを持って戻ってきた。
彼女に触れた機会はこれっきりだが、ぼくは彼女を愛している。
それは有象無象の男共のように気安く肩を抱く様な軽薄なものでは無い。
こんこんと沸き上がる衝動は、抑圧された神聖な感情だ。
しかし、ぼくが高校を卒業してしまった現在では、彼女が何をしているかを知る術はない。
ぼくが三年に上がる時、彼女は既に留年が決まっていたようだし、もしかしたらまだ高校生をしているのかもしれない。
ぼくは彼女に電話番号を渡せなかったし、つまり彼女からしたらその程度の仲なのだ。
ぼくは大学の授業でめげそうになると、どうしようもなく彼女に会いたくなる。
だから、彼女を街で見かけた時は運命だと思った。
秋の空は薄い色をしている。
この日、中学時代からの友人が無料で焼肉を食わせてくれるというのでわざわざ隣町まで赴いたのだ。
夕暮れの繁華街を進んでいき、怪しげな店が連なる路地を近道と言って突っ切っていく最中、ぼくは遠く離れた歩道を闊歩する彼女を見つけてしまった。
間違いない彼女だ!
ぼくは隣にいた友人の制止の声を振り切って、彼女の元に走った。
「好きだよ」
通りには車が列を作って走り、歩道には沢山の人の姿がある。
彼女までの僅かな距離の道が、ひどく遠いものに思えてならなかった。
「好きだよ」
呟きながら、ますます歩を進める。
ただ本人だけが、ぼくのことを全く気にかける様子もなく交差点で立ち止まった。
「君が、好きなんだ」
呟いて、彼女の元に急ぐ。
信号が赤に変わる。
すると彼女が顔を上げた。
ぼくを視界に捉えた彼女は少し慌てたように手を振る。
やった、天使がこちらを見た!
嬉しくて、ぼくは飼い主を見つけた犬のように彼女の元に駆け出した。
刹那、フラッシュする視界。
鳴り響くクラクションの音。悲鳴。鈍痛。
ぽかんと口を開けた天使の表情。
あ、ひかれた。
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