春先地獄で賢く君と心中

おきた

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本編

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あたしに母親はいない。いるのは父親だけだ。
母親は、若くして亡くなったらしい。
父親は忙しい仕事の合間を縫って、男手ひとつであたしを育ててくれた。
授業参観日や運動会には必ず有給を取って来てくれる。
お金に困ったことはないし、やりたいことは何でもやらせてもらえた。
例え、あたしを通して別の誰かを見ていても、あたしは父親に感謝している。
あたしの知る母親は写真の中の存在だ。
夕暮れの海辺で若かりし日の父親の隣に佇む母親は、あたしと同じハワイアンブルーの髪を長く伸ばしている。
甘ったるい微笑の、目が眩むほどきれいな人。

洗面所で顔を洗うと、朝の微睡みの名残はどこかに消えて、意識がはっきりした。
自分用のタオルで顔の水気を拭って、口端に指を当てて、笑顔の練習をする。
瞳の色も髪の色も全て母親譲りだけど、あたしと母親は性格があまり似ていないのだろう。
表情や性格の差異のせいか、洗面所の鏡に映るあたしは母親ほど可愛くはない。
洗面所から未だダンボールだらけの廊下を渡って自室の前を通り過ぎると父親から新しく与えられた広い和室がある。
和室の襖を開けると、部屋の真ん中には見慣れた和琴があった。

あたしは和琴の前に座り、その表面を撫でる。
胸にしぼるようないとおしさがこみあげて来た。
爪を慣れた手つきではめてから、緩やかな動作で音を合わせ、静かに爪弾く。
琴の音がやわらかに響き始めた。
ほろほろ、ほろほろ。
すうっと空気が澄み、音色は甘く風のように流れる。
春の日差しのように穏やかで、あたたかい。
世界と自分の境界線が消えたような感覚。
演奏を終え、余韻に浸りながら瞼を閉じて小さく息を吐いた。
「さすが、素晴らしい演奏だね」
背後から声をかけられ、驚いて振り返る。

「ウワッ、秀典(ひでのり)さん。いたんだ」
「うわって言われた……愛娘に……うわって……」
心臓の辺りに手を当てて、あたしの父親は大袈裟に嘆いてみせた。
しばらくして飽きたのか、まじまじとあたしを眺めた父親はため息をつき、肩をすくめる。
「まったく、君は俺の子とは思えないほど優秀だなあ。困ってしまうねえ。顔もお母さんの方に似て良かったよねえ。きっと新しい中学校でもたくさん友達ができるよ」
「ありがとー。でも、心配してないよ。いつものことだしね。それにママと似てるのは見た目だけだよ。そんなの秀典さんが一番知ってるでしょ」
「……そうだなあ」
そう言った父親は、ぼんやりとした目つきで、まるで知らない男の人みたいな顔をしていた。

父親は転勤族だ。あたしは父親の仕事の都合で小学生の間だけでも三回は転校をしていた。
それに恨みがないといえば嘘になるけど、父親は何処に引っ越そうと必ずあたしを和琴教室には通わせてくれたし、今は人間関係なんて表面上だけでもまあ良いかなと考え始めている。
「ここだよ、三年二組。今日から春瀬(はるせ)さんもこのクラスの仲間だ」 
わたしは教室のドアの上の、3‐2と記された札を見上げた。
「先に私から教室の皆へ、春瀬さんの紹介をするから。名前を呼んだら入ってきて」
「わかりました」
教師がドアを開けて入っていくと、騒がしかった教室が静まる。

教室の中から、ハツラツとした朝の挨拶と共に、簡単に今日から転校生が来ることが伝えられた。
「春瀬さん、入ってきて」
名前を呼ばれて、あたしは教室の中に足を踏み入れる。
クラスの全員が、あたしの一挙手一投足を見ていた。
教壇の上の教師の隣に立ち、黒板の端に置かれたチョークを手に取る。
黒板に大きく自分の名前を書いて、正面をむく。
教壇からだと、相変わらず教室全体がよく見渡せた。

男子からの好奇心を隠しきれない視線と、女子からの品定めするような視線、どちらも鬱陶しい。
「えー、今日からこのクラスの仲間になる。一学期の途中だが、転校生の春瀬ショコラさんだ。皆、仲良くするように。春瀬さん、自己紹介を」
「はじめまして、春瀬ショコラです。こんな名前ですけど、両親はれっきとした日本人で、あたしも和琴を嗜んでいます。引っ越してきたのは二日前で土地勘もなく、まだ分からないことばかりですが、よろしくお願いします」
ぺこりと頭を下げて、教師が指さす空席に移動する。
窓際の席でラッキーだと思った。

昼休みのチャイムが鳴る。
スクールバッグからお弁当を取り出して昼食の準備をしていると、前の席の女子生徒が話しかけてきた。
「はじめまして、ぼくの名前は神戸愛花(こうべまなか)!春瀬さん、和琴弾けるってスゲーね!もしかして、習ってるの?」
「こんにちは、元気が宜しいですね」
「やべっ、声デカかった!?めんご!あとタメで平気だぜ!」
目の前の彼女は両手をパンと叩いて、軽く頭を下げた。
騒がしいけど感じのいい子だ、きらいではない。

「ありがとー。愛花ちゃんは和琴に興味あるの?ちょっと待ってね、あたしのスマホに前のコンクールの時に撮影して貰った動画のコピーがあるから」
「コンクール出てんの!?ガチ勢!やば、つよつよじゃん……崇めるが?そして動画ありがてぇ」
スクールバッグの外ポケットからスマートフォンを取り出して、電源を入れてから写真アプリを起動する。
画面をスクロールして、目当ての動画をタップして開く。
画面を見やすいように愛花ちゃんの方に向けた。

「これかなー。金賞したときの。あ、イヤホン無くて音響死んでるけど」
「……えぇっ!?すごっ、ウマ、指が、どうなって……すご……いや、めちゃくちゃすごいね!?ああ、ぼくの語彙力!頑張って!」
愛花ちゃんは食い入るように液晶を見つめている。
スマートフォンから流れる演奏を聴きながら、手作りなのであろうサランラップに包まれた鮭フレークのおにぎりをもふもふと食べていた。
動画の再生が終わって、スマートフォンを下げる。
愛花ちゃんはサンタクロースを信じる子供のように切れ長の瞳をキラキラと輝かせていた。

「いやー、いいものを見た。ありがとう。どっかに投稿したりしないの?バズりそう」
「SNSはやらないんだー。秀典さんがうるさくて」
「へー、秀典さんって春瀬さんの恋人?」
愛花ちゃんは握りこぶしに小指を立てるジェスチャーをする。古い。
「うぅん、父親。あたしは好きだけど、秀典さんはママのことを一番に愛してるから、優先順位がおかしいんだよね」
「現代日本では近年稀に見るラブラブ夫婦?」
「どーだろ、なぞい。ママは秀典さんのこと、ちゃんと好きだったのかなー?」
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