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本編

足りない三つの目

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「彼女、兎田谷希良さん。あなたに嫌がらせ……もとい、いじめをしている犯人ですね。ご存知でしたか?」
「……、……まァ……」
俺は高校に上がってから、ずっと透明人間のように過ごしてきた。
余計な交友関係を築きたくなかったのだ。
かなりの頻度で怪我をしていたせいもあって、努めて愛想を悪くすれば簡単に孤立することが出来た。
すれ違いざまに肩がぶつかっても謝罪されない代わりに、誰からも詮索されず、動向を目で追われることもない。
そんな俺に兎田谷が絡むようになったのは、いじめが始まった日の放課後からだった。

偶然にしてはタイミングが出来すぎている。
「別棟からわざわざ毎日通うなんて、彼女は随分と熱烈なんですねー」
「よく分からない」
「そうですか?……兎田谷希良さんには三つ年上の兄がいました。過去形ですね。名前は兎田谷祐樹(とたたにゆうき)。ちょうど、三年前に亡くなっています。つまり、兎田谷希良さんが高校に上がるの頃にはこの世にはいなかったわけですね。わたしはまだ会ったことありませんけど、兎田谷希良さんからしたら、お兄さんはやさしい人だったんでしょうね」
「会ったことがないのに、よくもまあ……そこまで肩を持つことが出来ますね」

俺からの疑問符を受け取って、サナは大きく溜め息を吐いた。
それからこちらをじっと見つめると、雪のような透明感ある指先を口元に寄せて、くすくすと笑い始める。
よく分からないが楽しそうだ。
「兎田谷希良さんがあなたをいじめのターゲットに選んだ理由を考えた事はありますか?」
「ないです」
語気を強めてキッパリと答える。
サナはテレビのチャンネルを切り替えて、どことなく既視感がある男子生徒を映し出した。
ミントグリーンの髪に神経質そうな目つき、パンフレットから抜け出てきたのかと思うほどカッチリ着こなされた学ラン。
校章はうちの高校のものだった。

「こちらが彼女のお兄さんこと兎田谷祐樹さんですね。生前はあなたの学校の特進クラスに居たそうです。一年生で既に生徒会の役職に就いており、二年生に上がる頃には生徒会長をしていたそうです。文武両道で成績優秀に加え、人望も厚かったようですね」
「はぁ……」
「兎田谷希良はあなたを亡くなったお兄さんと重ねてる、って考えたら執着する理由も少しは納得できませんか?」
「馬鹿な……顔だって全然違う。似ても似つかないだろ……」
「……まぁ、顔に関してはわたしはなんとも言えませんけど」
「え……もしかして、似てますか……?」
「さあ?興味無いので、見えないんですよ」

サナは下唇を隠してにっこり笑う。
細められた赤い瞳に、何となく同類の色を見た。
路上では朝の通勤ラッシュがスタートしつつある。
俺は昔から朝日を浴びて目覚めるのが苦手だった。
だから早くに布団に入って、東雲が空を赤く染める前に布団から出て、家事をこなしてから通学するのがルーティン化されている。
最寄り駅は潮の匂いが強く、海を横目にしながらどんどん道を進んだ。
連なる山稜の合間に見える空は高く、降り注ぐ陽光は七月らしく眩しい。
「あぢー……」
思わず、独り言を呟く。
並々ならぬ暑さに汗を垂らして、額を手首で拭った。
天変地異の前触れを疑ってしまう。

学校に着き階段を上って教室に入ると、俺の机に罵詈雑言の落書きがされていた。
「バカ」「4ね」「早く死ね」「ウザイ」「キモイ」「底辺」「ムカつく」「不登校になれ」
小学生が考えそうなワードチョイスである。
文字列の示す内容よりも油性マジックで書かれているであろうことが問題だった。
俺はリュックからチューブわさびを取り出し、机上の落書きに垂らして、指でグリグリと馴染ませる。
インクが浮き出てきたらティッシュで拭き取り、罵詈雑言の落書きは跡形もなく消えた。
「誰だよ、こんなことしたの……サナに言われた時はなんの冗談かと思った。大体なんだよわさびって……アレはやっぱり現実か?俺の夢は異次元に繋がったのか?」

俺は第三者に相槌を求めるかのようにブツブツと話す。
近くにいた男子生徒に横目で見られたが、交わった視線はすぐに逸らされた。
机の中を見ると、プリントやノートは相変わらず破られている。
昼食時、兎田谷はいつも通り踊り場に来た。
兎田谷は俺を見下ろせる位置の階段に腰を下ろし、カレーパンの袋を開ける。
干渉は大嫌いだ、するのもされるのも。
しかし、兎田谷は簡単にパーソナルスペースを飛び越えてきた。
俺は口に込み上げてきた苦い汁を呑み込むようにして言う。
「兎田谷。アンタさ、兄弟いる?」

「……ぇ?」
兎田谷はぽかんと口を開け、痴呆のような目で俺を見つめてくる。
それから急に可笑しそうに笑い出して、その笑い声は段々と無理しているように聞こえ、最後には淋しそうな皮肉が混じった。
「えへっ、えへえへっ。いるよぉ。お空にいるの。私の兄貴のこと、誰から聞いたの?遠志くんって、私以外に友達いないでしょお?」
「まァ……」
正直、アンタのことも友達だとは思ってないけど。
兎田谷はカレーパンを口に含みながら、俺に向けて訊ねる。
「遠志くんはさ、どうしてしょっちゅう怪我してるの?誰にやられちゃったの?」

俺は困ったときはよく黙ってしまうけど、このときばかりは違った。
黙る理由が違ったのだ。
俺の胸中をナイフでざくりと貫き、傷口を抉って広げ、大きく空いた穴から無邪気に内臓を撫でるような、俺にとっては死体よりもおぞましいことを彼女は言った。
偶然を必然と決め付けるのは人間の悪い癖だろう。
しかし、故意じゃなければ許せるというわけではない。
彼女は踏んではいけない地雷を踏んだ。
侵食させるのは不快で、気持ちが悪い。
脳裏にくすくすと軽やかに届く声が、やけに疎ましかった。

透き通るような青みを帯びた空を背にして、サナはブラウン管テレビにゆったりと頬杖をついたまま、俺を見つめてる。
「彼女は常日頃から両親に出来損ないの妹だ、と揶揄されているようですね。あなたの前では強がっているけど、本当はとても追い詰められている」
「それが……だから、何だって言うんですか」
サナは華奢な手をちらちらと魚のように泳がせて、テレビ越しの兎田谷を撫でた。
「なんと言いましょうか。第三者から見たらわざとらしくて不信感しかありませんけど、当事者になってみると自分を救い出してくれる王子様に見えたりするから、女って本当に身勝手なんですよねー……ふふっ」
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