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番外編
にわとりのくび
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私には病理的な領域で神経質な部分があった。
いつからそうだったのか分からないけど、一番古い記憶は小学三年生の梅雨頃の話だ。
私は昼休み時間になると学校の水道でずっと手を洗っているオカシな子供だった。
備え付けの石鹸は誰が使ったのか分からない。
どんな人間が触ったのか分からないそれを、私はとても汚いもののように感じたのだ。
だから手を洗う時は親にねだって買って貰った紙石鹸を使っていた。
紙石鹸だと一日で一ケース分の中身がほぼ全て無くなってしまうことに気づいてからはお小遣いで購入した固形石鹸を携帯している。
当時、休み時間になると何十分も水道から離れなくなる私は、クラスメイトからも付き合いの悪いオカシな子として認識されていた。
ある日、私の奇行を見かねた先生から注意をされたことがある。
「それだけ洗えば、もう大丈夫じゃないかな?手を洗うのはやめよう、ね?休み時間はそんなことをしてないで、クラスのお友達と遊んだらどうかな?」
きっと、クラスメイトの何人かから密告があったに違いない。
特に驚きはしなかった。
私は手を洗いながら、先生の方も向かずに答える。
「手を洗ってはいけないの?なんで?どうして先生は洗わないままで平気なの?汚いままが好きなの?気持ち悪くはないの?馬鹿なの?」
「ばっ……佐鳥(さとり)さん!とにかく、教室に戻りなさい!」
どこか答えをはぐらかされている気がして、私はムッと唇を尖らせた。
世の大人達はいつもそうだ。
子供の真剣な相談を子供という前提だけで、くだらないものと決めつけて、決して頭を働かせようとしない。
それでも私は自分の主張を通す為に、自分の感情に対する様々な言語化を試みた。
しかし、先生はちっとも理解しようとせずに、やがて苛立ったように水道の蛇口を閉めて、私の脇腹を掴んで持ち上げるとそのまま教室まで強制連行したのだ。
あれは未だに納得がいかない。
実力行使に出る前に、人と人はきちんと話し合うべきだ。
モヤモヤとした気持ちを抱えた私は、昔のように水道の一部を無断占拠することはないものの、中学二年生になった今も学校にある備え付けの石鹸を使えずにいる。
借りていた本を返却して、私は帰りの支度をしていた。
外部の騒音を遮断する為に二重になっている図書室の扉が開き、同じクラスの女子生徒三人組が入ってくる。
その中のリーダー格である女子生徒はうぐいす色の長い髪を緩く巻いて、まぶたがはらはらと淡く光っていた。
薄いピンク色のアイシャドウを付けているのだろう。
腰巾着として両脇に佇んでいる取り巻き二人は、彼女の威圧感を与える役割を持っている。
リーダー格の女子生徒の目がスッと頭から爪先まで滑るのを肌で感じ、私は諦観に近い気持ちで床へ目線を逃した。
そういえば、借りようと思っていた本がついさっき返却カウンターに積まれていた気がする。図書室に殆ど生徒は残ってないけど、誰かに借りられてしまったらちょっと悔しい。
「愛花(まなか)ちゃんがぁ、アンタのことウザイってぇ。言ってたんだよねェ」
赤いグロスをてからせた唇だけが獰猛に開かれて、不気味に感じた。
「そう……神戸(こうべ)さんがね。嫌われるのは良いとしても陰口はムカつくわね、自刃なさい。本人に確認するわ」
「あッ、ちょっ!」
私は息を吐き出すようにしてハッと笑い、彼女の制止の声を振り切って図書室から飛び出した。
薄い色の夕焼けが廊下を這っている。
廊下の先にある教室の扉は少し開いていて、隙間を覗き込むと丁度神戸さんが誰かと対峙していた。
私には全然気づかない様子で、じっと反対の方角に目を据えている。
彼女の机の上にはスクールバッグが置かれていて、丁度帰る準備をしていたようだ。
「だからさー。神戸さんもウザいって思わない?佐鳥さんってクラス委員長ってだけでなんか偉そうだしー。周りを見下してるというかさ、何様って感じじゃね?男子が言うほど美人でもないっしょ。てか、なんならブスじゃね?神戸さんも振り回されて迷惑してんでしょ?これからは佐鳥じゃなくウチらと仲良くしようよ」
「そうそう!てか、佐鳥ってさぁ、小学生の時とかマジ問題児だったらしいよ。アタシの友達に佐鳥と同じ小学校だった子がいるけど、先生も手を焼いているレベルのはた迷惑な変な子だったってさー」
話し声は、神戸さんの他に二人分聞こえる。
どちらもクラスメイトの女子生徒だ。
木と埃の匂いをかすかに含んだ空気を吸い込み、ああ、と思う。
なるほど、そういうことか、と腑に落ちた。
私の存在が面白くない一部の女子生徒達は嘘の情報を吹聴することでこちらの交友関係を切り崩していくことにしたらしい。
「ね?だからさァ、もう佐鳥とつるむのやめようよ」
平均より長めの爪が並ぶ指先が、神戸さんの肩に伸ばされる。
神戸さんはその手をやんわりと押し返して、強い口調で言った。
「うっさいなぁ、委員長は優しいし、君らが思ってるよりもずっと良い人だよ」
「なっ、はぁ?どこがよ。あの女、神戸さんにもすぐ暴言吐くじゃん」
「そんなの本人のいないところで陰口を言うよりもずっと良いし、ぼくは委員長と好きで一緒にいるんだよ。対等な友達だと思ってる。それに、ぼくは誰かの悪口って鵜呑みにしないタイプだから。じゃあね」
まるで、喉が裂けたのかと錯覚した。
目が崩れたのかと、肺が破れたのかと、頭が砕けたのかと、耳が潰れたのかと。
どこも壊れていないのが不可思議で気持ちが悪くて、それくらいに驚いた。
だって、私は自分のことを好きになってくれる人なんてきっと現れないと思っていたのだ。
蓋をしていた感情が堰を切って漏れ出す。
いくら汲んでも尽きない井戸水のように、涙が目から溢れてくる。
ぱたぱたと、廊下の上に丸いシミができた。
喉の奥の震えが止まらない。
上手く言葉が出てこなかった。
この気持ちにぴったり合う言葉も見当たらない。
ガラガラと音を立てて、教室の扉を開けた神戸さんは教室の前に立っていた私の存在に気づいき、びくりと肩を揺らした。
エメラルドグリーンの双眸がさ迷ったのは短い時間だったけど、激しい動揺が見て取れる。
「委員長なんで泣いてんの!?あう……あっ、そうだ!次の休みに風祭(かざまつり)くん達とカラオケ行こうって話をしていたんだけど、委員長も来ない?きっと元気出るし、楽しいよ!」
「……神戸さん、舌を噛み切って死になさい」
「なんでェ!?」
「今なら後追いしてあげるわ」
▼ E N D
いつからそうだったのか分からないけど、一番古い記憶は小学三年生の梅雨頃の話だ。
私は昼休み時間になると学校の水道でずっと手を洗っているオカシな子供だった。
備え付けの石鹸は誰が使ったのか分からない。
どんな人間が触ったのか分からないそれを、私はとても汚いもののように感じたのだ。
だから手を洗う時は親にねだって買って貰った紙石鹸を使っていた。
紙石鹸だと一日で一ケース分の中身がほぼ全て無くなってしまうことに気づいてからはお小遣いで購入した固形石鹸を携帯している。
当時、休み時間になると何十分も水道から離れなくなる私は、クラスメイトからも付き合いの悪いオカシな子として認識されていた。
ある日、私の奇行を見かねた先生から注意をされたことがある。
「それだけ洗えば、もう大丈夫じゃないかな?手を洗うのはやめよう、ね?休み時間はそんなことをしてないで、クラスのお友達と遊んだらどうかな?」
きっと、クラスメイトの何人かから密告があったに違いない。
特に驚きはしなかった。
私は手を洗いながら、先生の方も向かずに答える。
「手を洗ってはいけないの?なんで?どうして先生は洗わないままで平気なの?汚いままが好きなの?気持ち悪くはないの?馬鹿なの?」
「ばっ……佐鳥(さとり)さん!とにかく、教室に戻りなさい!」
どこか答えをはぐらかされている気がして、私はムッと唇を尖らせた。
世の大人達はいつもそうだ。
子供の真剣な相談を子供という前提だけで、くだらないものと決めつけて、決して頭を働かせようとしない。
それでも私は自分の主張を通す為に、自分の感情に対する様々な言語化を試みた。
しかし、先生はちっとも理解しようとせずに、やがて苛立ったように水道の蛇口を閉めて、私の脇腹を掴んで持ち上げるとそのまま教室まで強制連行したのだ。
あれは未だに納得がいかない。
実力行使に出る前に、人と人はきちんと話し合うべきだ。
モヤモヤとした気持ちを抱えた私は、昔のように水道の一部を無断占拠することはないものの、中学二年生になった今も学校にある備え付けの石鹸を使えずにいる。
借りていた本を返却して、私は帰りの支度をしていた。
外部の騒音を遮断する為に二重になっている図書室の扉が開き、同じクラスの女子生徒三人組が入ってくる。
その中のリーダー格である女子生徒はうぐいす色の長い髪を緩く巻いて、まぶたがはらはらと淡く光っていた。
薄いピンク色のアイシャドウを付けているのだろう。
腰巾着として両脇に佇んでいる取り巻き二人は、彼女の威圧感を与える役割を持っている。
リーダー格の女子生徒の目がスッと頭から爪先まで滑るのを肌で感じ、私は諦観に近い気持ちで床へ目線を逃した。
そういえば、借りようと思っていた本がついさっき返却カウンターに積まれていた気がする。図書室に殆ど生徒は残ってないけど、誰かに借りられてしまったらちょっと悔しい。
「愛花(まなか)ちゃんがぁ、アンタのことウザイってぇ。言ってたんだよねェ」
赤いグロスをてからせた唇だけが獰猛に開かれて、不気味に感じた。
「そう……神戸(こうべ)さんがね。嫌われるのは良いとしても陰口はムカつくわね、自刃なさい。本人に確認するわ」
「あッ、ちょっ!」
私は息を吐き出すようにしてハッと笑い、彼女の制止の声を振り切って図書室から飛び出した。
薄い色の夕焼けが廊下を這っている。
廊下の先にある教室の扉は少し開いていて、隙間を覗き込むと丁度神戸さんが誰かと対峙していた。
私には全然気づかない様子で、じっと反対の方角に目を据えている。
彼女の机の上にはスクールバッグが置かれていて、丁度帰る準備をしていたようだ。
「だからさー。神戸さんもウザいって思わない?佐鳥さんってクラス委員長ってだけでなんか偉そうだしー。周りを見下してるというかさ、何様って感じじゃね?男子が言うほど美人でもないっしょ。てか、なんならブスじゃね?神戸さんも振り回されて迷惑してんでしょ?これからは佐鳥じゃなくウチらと仲良くしようよ」
「そうそう!てか、佐鳥ってさぁ、小学生の時とかマジ問題児だったらしいよ。アタシの友達に佐鳥と同じ小学校だった子がいるけど、先生も手を焼いているレベルのはた迷惑な変な子だったってさー」
話し声は、神戸さんの他に二人分聞こえる。
どちらもクラスメイトの女子生徒だ。
木と埃の匂いをかすかに含んだ空気を吸い込み、ああ、と思う。
なるほど、そういうことか、と腑に落ちた。
私の存在が面白くない一部の女子生徒達は嘘の情報を吹聴することでこちらの交友関係を切り崩していくことにしたらしい。
「ね?だからさァ、もう佐鳥とつるむのやめようよ」
平均より長めの爪が並ぶ指先が、神戸さんの肩に伸ばされる。
神戸さんはその手をやんわりと押し返して、強い口調で言った。
「うっさいなぁ、委員長は優しいし、君らが思ってるよりもずっと良い人だよ」
「なっ、はぁ?どこがよ。あの女、神戸さんにもすぐ暴言吐くじゃん」
「そんなの本人のいないところで陰口を言うよりもずっと良いし、ぼくは委員長と好きで一緒にいるんだよ。対等な友達だと思ってる。それに、ぼくは誰かの悪口って鵜呑みにしないタイプだから。じゃあね」
まるで、喉が裂けたのかと錯覚した。
目が崩れたのかと、肺が破れたのかと、頭が砕けたのかと、耳が潰れたのかと。
どこも壊れていないのが不可思議で気持ちが悪くて、それくらいに驚いた。
だって、私は自分のことを好きになってくれる人なんてきっと現れないと思っていたのだ。
蓋をしていた感情が堰を切って漏れ出す。
いくら汲んでも尽きない井戸水のように、涙が目から溢れてくる。
ぱたぱたと、廊下の上に丸いシミができた。
喉の奥の震えが止まらない。
上手く言葉が出てこなかった。
この気持ちにぴったり合う言葉も見当たらない。
ガラガラと音を立てて、教室の扉を開けた神戸さんは教室の前に立っていた私の存在に気づいき、びくりと肩を揺らした。
エメラルドグリーンの双眸がさ迷ったのは短い時間だったけど、激しい動揺が見て取れる。
「委員長なんで泣いてんの!?あう……あっ、そうだ!次の休みに風祭(かざまつり)くん達とカラオケ行こうって話をしていたんだけど、委員長も来ない?きっと元気出るし、楽しいよ!」
「……神戸さん、舌を噛み切って死になさい」
「なんでェ!?」
「今なら後追いしてあげるわ」
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