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呼び名

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「お邪魔します」と言って入ると、俺は本当に漫画の世界に来たんだと実感した。
エントランスがある家なんて生前テレビで見た映像でしか記憶がない。

フカフカの絨毯に土足で入っていいものか分からず、入り口で立っているとイヴが俺の肩を掴んだ。

「ユーリ、入らないのか?」

「本当にお邪魔していいんでしょうか」

「入らないと仕事が出来ない」

「そ、そうですね!それじゃあ…お邪魔します」

確かに俺は遊びに来ているわけじゃなく、仕事に来ているんだった。

一歩踏み出すと、イヴが屋敷の中を案内してくれた。

一階に食堂や娯楽室や書庫や風呂場などがあり、二階は部屋になっていた。

イヴの部屋と俺の部屋は隣同士で、いいのかなと不安だったが家事代行の仕事はまだした事がなくて、この世界では雇い主と使用人の距離が近いのかもしれない。

俺の部屋に通されて、中に入ると本当に使用人の部屋なのかと首を傾げてしまう。

俺の住んでいた家の一回りも大きな部屋で、必要な家具は全て揃っていた。
ベッドもキングサイズくらいあって、手で触れるとフカフカだった。

「ここが……本当に俺の部屋ですか?」

「ユーリのために用意したんだから、好きに使ってくれて構わない」

「俺の?なんで?」

「…………使用人のための部屋だ」

イヴは顔を逸らして、言い直した……そうだよな、俺のために部屋を用意するわけないよな。

俺は上着と最後に残った花の髪飾りを机に置いて、部屋の入り口で寄りかかって立っていたイヴに近付く。
部屋を住まわせてもらうから早速今日から働こうとやる気になっていた。

イヴは「今日はゆっくり休んでくれていい」と言っていた。
でも、さすがに今日一日のんびり過ごすわけにはいかない。
俺は少しでも多く、俺を救ってくれたイヴに恩返しがしたい。

「俺に、させてほしい…ダメ…ですか?」

「ダメなわけないだろ、ユーリがそうしたいならそうしてくれ」

イヴはそう言ったと思ったら、俺の唇に人差し指を当てた。
その仕草はとても慣れたように自然とやっていた。
こうやってメインヒーローはヒロインを落としていくんだなぁ…と考えていた。

俺の唇の形を確認するようにフニフニと触っていた。
別に鳥肌が立つほど嫌というわけではないが、何をしてるのか分からない。

そんなに平民な顔が珍しいのか?貴族と平民なんてそんなに変わらないと思うぞ?

「…えっと、聖騎士様?」

「違う」

「……え?」

「俺の名前はイヴ、聖騎士じゃない」

さっきから呼ぶと不満そうだったのは、そういう事だったのか。
でも、雇い主を名前呼びしていいものか……心の中では呼び捨てにしているが、それとこれとは全然違う。

さすがに呼び捨てはダメ、聖騎士様もダメだったら一部の人が言っている呼び名はどうだろうか。
騎士がよくその呼び名を使っているのを見た事があった。

「イヴ様」と呼んだ、これなら失礼にはならない筈だ。
しかし、イヴ様は首を横に振って不満そうだ。

「違う」

「え?」

「様はいらない」

「さすがにそれは…」

「呼んで、俺の名前を…君に特別な名前を呼ばれたい」

イヴが一歩前に出てきたから、俺は一歩後ろに下がった。
ずっと俺に名前を強要してきて、イヴが進むと俺も後ろに下がり…壁と背中がくっ付いた。

両腕を俺の横に付いて、イヴの腕の中に閉じ込められる。
至近距離でイヴに見つめられると逆らえなくなる。

もう一度、イヴの声が聞こえてきたが俺には何を言っているのか分からなかった。
それどころではなくなっていて、心臓がうるさい。
まるで、イヴに心臓を掴まれているような…そんな不思議な感覚がする…イヴは俺に触れていないのに…

「…ユーリ、俺の名は」

「イヴ…さん!もうこれ以上は許して下さい!」

さすがに呼び捨てはハードルが高すぎて、床にしゃがみこんでイヴにお願いした。

イヴが小さく「誰にも呼ばれた事がない」と呟いていて、俺は心の中で何もかも終わったと感じた。
そうだよな、天下の聖騎士様に失礼過ぎたよな。

まだ何もしていないのに、追い出されるのかな。

イヴが何も言わないから不安で、イヴの顔色を伺う。
するとイヴは、頬を赤くしていた…初めてみた…そんな顔。
漫画では赤面させるのは得意だったが、赤面するのは見た事がない。

イヴは「今はそれでいいけど、いつか呼び捨てで呼ばせるから」と笑っていた。

なんでそこまで名前を呼ばせたいのか分からない、イヴは雇い主と使用人の関係を同じにしたいのだろうか。

でも俺のいるなんでも屋では、あくまで雇い主と使用人の関係を忘れてはいけないと言われている。
いくら親しくなったとしても……だからイヴが敬語はいらないと言うから、それはお断りした。

イヴは不満そうだったが、俺の気持ちを考えてくれたのか諦めてくれた……多分。

「じゃあ最初は掃除を頼もうかな」

「任せて下さい!」

イヴから紺色のエプロンを受け取り、後ろで結んだ。
廊下の一番奥に掃除道具がある倉庫に向かった。

ほうきとかいろいろ道具を出して、いざ掃除しようと意気込んだ。
しかし、可笑しい…廊下の窓や床を見てもゴミどころかホコリもない。
イヴって家事が苦手だったのではなかったのか?

前の使用人がやってくれたのかもしれない、じゃないと可笑しいよな。

イヴは壁に寄りかかって俺をジッと見つめていた。
楽しいのだろうか、俺の掃除なんて面白くないと思うけど…

イヴに近付くと、イヴは「どうした?」と相変わらず嬉しそうにしていた。

「俺、必要?」

「何故?」

「だって廊下はかなり綺麗だし、仕事がないというか」

「これから汚れるから」

イヴは当たり前のようにそう言っていた……確かに使っていたら汚れるけど……なんか丸め込まれたような気がしないでもない。
でも、イヴがそう言うならそうなのかもしれない…イヴは雇い主だから俺はそれに従うだけだ。
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