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第3章

9.

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「ねえねえ、ユリア君。昨日、ヘルマン様に隠し子がいるって噂を聞いたよ」
「僕は王家の落としだねを公爵家で育ててるって聞きました」
「くだらないことに、私も昨日陛下に、何か隠していることはないかと聞かれた」
 公爵邸、朝食の席である。
 最近は四人で朝食を摂るのが習慣化している。今まではルイスはベンと朝から出かけていたので一緒ではなかったが、近頃ベンは楽しいことでも見つけたのか、一人で遊びにいっている。連日いないということはないが、時々夜も出歩いていて、昨夜は帰ってこなかった。
 ルイスは三人の視線を受けて、眠そうに目をこすりながらパンをかじった。
「公爵様は、なんて答えたんですか」
「ない、と答えた。――私の目は誤魔化せないと言っていたから、引退を勧めておいた」
 現皇帝陛下はクリスティーナの兄にあたるのでもう六十五になる。かなり高齢である。皇太子ですらすでに四十。そろそろ代替わりしてもいい頃合だ。
「お元気ですもんねえ、皇帝陛下」
 フェルナンドはつい最近も謁見した時の姿を思い出した。元は騎士のようなことをしていた皇帝は、六十を過ぎても鍛錬を欠かさない剛健なお年寄りとなっている。
「代替わりの話はちらほら出てますけど、なかなかですね」
 ユリアが聞くとヘルマンが肩をすくめた。
「ウィリアム――皇太子が、なかなか諾と言わなかったんだ。古代語の解読が趣味で、遺跡巡りもしている。皇帝になるとそうはいかないから」
 皇太子は若い時は本気で王位継承を放棄しようとしていた。ヘルマンはあらゆる手を使ってそれを止めたものだ。ウィリアムが王位継承権を放棄したら、下手をするとヘルマンが継がねばならない。
 そんな静かな攻防戦があったことはごく一部の人間しか知らない。
「そんな理由で……」
 ユリアも初耳だった。
「まあ、陛下もお元気で問題なく来ていたからな」
 それにしても現王の治世は長かった。
「来年あたり、継承されて戴冠式となるはずだ」
 戴冠式。本でしか見たことのない行事だ。ルイスは少し楽しみな顔になる。
「お祭り騒ぎになりそうだね」
「そうだね。ルイス、来年も一緒に来ようよ」
「リア、人混み苦手でしょ」
 朝食を食べ終わってお茶を啜りながらルイスは答えた。もっと濃い紅茶を飲まないと、なかなか目が覚めそうにない。あくびばかり出て来る。
「でも生まれて初めての戴冠式だよ。気にならない?」
「うん……見てみたいかな」
 しかし、ユリアに無理はさせたくない。
 ルイスの心配を察して、ヘルマンが紅茶を飲みながら言った。
「心配するな。戴冠式を見たいというなら、人に揉まれずよく見える席がある」
「それって公爵様の席だよね……僕がいたらおかしいよね」
「おかしくないよ。そうなったら、一緒に見よう、ね?」
 ユリアの中では貴賓席に四人でいることに違和感がないようだ。ユリアもすっかりヘルマンの側が慣れているんだな、と思うルイスだった。
「ところで、今日はどこに行くの?」
 今日はユリアとルイスで出かけると言っている。ヘルマンとフェルナンドは王宮へ行くので、リックを護衛につけるよう言われていた。
「ヒリス様のところに。今日ならいらっしゃるってお返事いただいたので」
「あ、そうなんだ。ルイ君はヒリス卿のこと覚えてるの?」
 ルイスは首を振った。
「見れば思い出すかな」
「そうだよね。ヒリス卿がヴェッターホーンに来た時、まだ学校行く前だったよねルイ君」
「ゆっくりしてきなさい。ただ、あいつのいるところは少し雑多な通りだから。リックから離れないように」
「はい」
 そう言ってヘルマンと微笑みを交わし髪を撫でられ耳と頬を撫でられている。
 いくら雑多な通りとはいえ、成人男性が一人で街を歩けないわけはない。そこは過保護ではあるのだが、ユリアの見目を考えると絶対に危険がないとも言えない。――それにしても。
 朝から甘いなあ、と思うルイスとフェルナンドだった。



 ヒリスの家に招き入れられ、ユリアとルイスはお茶を入れてもらった。
「一年ぶりだねユリア君。――それから、ルイス君だね。何年ぶりだろう。七年くらいかな」
「こんにちは」
 はじめまして、と言いそうになって言い直す。
 ヒリスは医者と聞いていたが、あまりそうは見えなかった。長く伸ばした髪をくくっただけの髪型も、少し伸びたひげも、胡散臭い雰囲気をしている。
 ヒリスは二人を見比べて嬉しそうにしていた。
「子供の成長は早いね。あんなに可愛かったルイス君が、すっかり青年のようだ」
「――僕、覚えてなくて」
「そうだよね。小さかったし、そんなにお話したわけじゃないからね」
「ヒリス様、髯伸ばしてるんですか」
「いや……ごめんね、ちょっと研究が佳境で」
 ヒリスは恥ずかしそうに髯を撫でた。
「すみません、お忙しいのに」
 いつもはもう少し清潔感があるのだろうか。このうさん臭さのある男と真面目な性格のユリアの気が合うとは思えない。髯を剃ればもう少し親しみがわくかもしれない。
「いやいや。私も会いたかったんだから。――最近はどう?ちゃんと眠れてる?」
「はい。良く寝て、食べてます」
「いいね。元気そうだしね」
「はい。今回はルイスも一緒に来れましたし。ティーパーティーにも一緒に参加したんです。僕、もう、本当に嬉しくて」
「うん。本当にね。立派に育ってくれたよね」
 二人でそう言われるとちょっと居心地が悪い。
「ルイス君は、今十三だよね。学校に行ってるの?」
「学校は卒業して。しばらくは残って初等クラス教えたりしていたんだけど……今はもうやめて」
「へえ。優秀なんだねえ。フェルナンドが放っておかなさそうだ」
「補佐官にはならないって言ってるんだけど。良く誘われる」
「だろうね」
「やりたいことは、なくて……」
「そりゃね。まだ十三だもん。ゆっくりしたらいいんじゃない?せっかく早めに卒業したんだしね」
 当然のことのように言われる。こんな風に将来のことを、決めなくて当然と言ってくれるのが心強く感じる。
「リアは、首都に来るたびにヒリス様に会いに来てるの?」
「うん。僕たちをそこの道で拾ってくれたのは、ヒリス様なんだ。命の恩人で、何度も助けて頂いて」
 わかる気がする。ユリアはきっと、ヒリスに会うたびに安心するんだろうなと。
 そこの道、と言われてルイスはふと思い出したような気がした。
 薬の匂い、ベッドに横たわるユリア。
 その時自分は、ユリアがいなくなるかもしれないと――。
「ルイス君?」
 ヒリスの言葉に急速に現実に引き戻される。
「大丈夫?」
 ユリアの心配そうな顔に気もそぞろでなんとか頷く。
「うん……僕、ここ、覚えてるような気がする」
「そうなの?まだ二つだったのに」
「薬の匂い……リアが寝てて」
 それ以上言葉が続かず、沈黙が流れる。
 ふわりと温かい感覚にはっと我に返った。ユリアの腕が目の前にある。
「ルイス。覚えてたんだね。怖かったよね」
「こわかった……?」
 あれは恐怖だったんだろうか。小さいころから感じていた、言いようのない感覚。
 底知れない、触れてはいけない感情。ピリピリと肌が痛いような。それを考えようとすると頭が痛くなってきて、ルイスはぎゅっと目を閉じた。
「公爵様のところに行く前の記憶があったんだね、ルイス。色々怖かったよね。僕、てっきり覚えてないと思って何も聞いてなかった」
 ルイスを抱きしめる手に力がこもる。
「ごめんね。ちゃんと聞いてあげれてなくて。大丈夫?」
「――僕は、なにも」
 つらかったのはユリアだ。傷だらけなのは。いつも守ってくれていたのは。
 ユリアがいなくなるかもしれないという思いは常にあった。
 きっと、あの火事の時から。
 家らしきところが燃えるのを見てユリアが笑っているのを見た時、ルイスは漠然と、自分もそうやって捨てられるんじゃないかと思った。多分それが初め。
 ユリアは常に側にいてくれたはずだけど、なぜか、いつかいなくなるんじゃないかと思った。
 もしかしたら離れていた時期もあったのかもしれない。
 そうして、唯一の安全な居場所をある日突然奪われる感覚は、ルイスの深いところで根を張って居座り続けている。――これは恐怖なのだろうか。
 そのうち、自然と人と距離を置くようになった。いつ別れてもいいように。突然去られても耐えられるように。唯一の家族のユリアですら。
 公爵邸について行く気にならなかったのもそのせいだった。居ないことに慣れないといけない、そう言い聞かせていた。一人に慣れなければいけないと。
 ――そのくせ、未だに誰かの温もりがないと眠ることができない。
「僕は大丈夫だよ。リアがいつも守ってくれてた」
 だから、怖いだなんて言ってはいけない。言えるわけがない。
 ルイスはそっとユリアから離れた。
「ほとんど覚えてないよ。この匂い、嗅いだ気がしただけ」
「ここの薬の匂いは独特だからね」
 ヒリスが言葉を挟んできたので、ユリアは自然と離れ、席に戻った。
「今ではこの匂いを嗅ぐと懐かしいような、また来たな、って感じです」
「患者さんもそんなこと言うよ」
 ヒリスは微笑んで、ルイスに視線を移した。
「君がここにいたのは短い間だったけど、ユリア君にべったりで本当に可愛かったんだ」
「へえ」
「その後再開した時は、甘えん坊で、常に誰かに抱っこされていたがってて。寂しがり屋かと思ったら、執着することはなくて。抱っこから降ろされても、その人を顧みることもなかった。すぐに次を探すような子だったんだ」
 それは五、六歳の頃の話だろう。あまり覚えてはいない。
「実はちょっと心配だったんだよね。あの年で人に深入りしないようにしているなんて、と思って。――どうかな。今は、側にいたいと思う人はいるのかな。何でも話せるような存在というか」
「側にいたい人は……わからないけど。幼馴染といるよ」
 ベンのことを思い浮かべた。
「でも、いつまで一緒にいるかはわからない。僕が頼んでないのにベンはいつもそばにいるから」
 そういえば施設に通っていた時からだったからあまり考えたことはなかったが。
 昔は今よりひどく人のぬくもりを求めていた。そんなルイスに、ベンはそれこそ一日中手をつないでいてくれた。一人になった時、膝を抱えて不安に耐えようとしていると、どこからともなく現れて、くっついていてくれた。
 ベンがルイスをかまっているように見えていただろうが、必要としていたのはルイスの方だった。その延長で今でも面倒を見てくれている。
「――慣れちゃいけないって思うんだけど。楽だから」
「慣れてもいいんじゃないかな。ルイス君が心地いいなら、きっとベン君?も心地いいと思って側にいると思うよ。別れることを考えない人付き合いも、ありだと思うけどね」
 それは難しい考え方だった。
 けれどたしかに、これ以上一緒にいたら離れられなくなってしまうような気もする。
 ルイスは昨夜も、帰ってこなかったベンの顔を思い浮かべた。そのせいで昨日はほとんど眠れなかった。
 ベンはそれを知っているのに、それでも用事を優先させた。
 どうして帰ってこないのだと怒りそうになる。それを慌てて否定する自分がいる。
 約束したわけでもない。ベンが自分のそばにいる理由もない。
「難しい話だったかな?」
「うん……」
 ヒリスはそれ以上深入りはしなかった。
 近況の報告をし合って、主にユリアとヒリスで会話は弾んだ。
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