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αに不倫されて離婚を突き付けられているけど別れたくない男Ωの話
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休日の昼過ぎ、今まさに修羅場のまっ最中である。
「場所を間違えた」と顔を引きつらせている高身長の如何にもαなイケメンは、同じくΩのテンプレートと呼んでも差し障りがないほどに華奢で、美麗で小動物的な愛らしさを持つΩを肩に抱こうとして、上手くかわされていた。
美男αΩの前で、αの足元に土下座をするように縋りつき、目からも鼻からも透明な液を流して「別れたくない」と懇願している巨体の男こそ、今回の物語の主人公である香日向小太郎(かひなたこたろう)結婚しているため今の姓は柊(ひいらぎ)である。
小太郎は身長189㎝、体重は90㎏を超える筋骨隆々の男性Ωだ。顔は平凡寄りの非常にあっさりした塩顔だが、シンプルが故にメイク技術次第でどんなイケメンや美女にでもなれる素質がある化粧のやり甲斐がある顔、とでも言えば少しはイメージがしやすいだろうか。
小太郎が必死で縋りついている目の前のαは、彼の夫である柊連(ひいらぎれん)だ。
十数分前、街中の喧噪の中にひっそりと佇む、少しばかり落ち着いた上品なカフェで蓮は「離婚をしたい」と小太郎に突き付けたばかりであった。
「運命の番を見つけたんだ、だから別れて……」
「いやだ、いやだぁああ!別れないで、別れないで……何でもするから連ちゃんに尽くすからお願いだから別れないでください!」
きょとんとした塩顔の表情が一気に崩れ、ゲリラ豪雨のごとく涙と鼻水の大洪水が沸き起こった。
上品な客層が大半を占めているカフェだが、今はどよめきと捨てられかけているΩに対する哀れみ、そして「運命」達とやらに冷たい目線を向けるマダムたちが紅茶やコーヒーのカップにわざとらしく口をつける。
この世界では、例えαとΩの遺伝子レベルで相性の良い存在に対して使われる「運命の番」という者たちであっても、婚姻を結び将来を誓い合ったαΩのどちらか或いは双方に別の番ができてしまったという場合は、通常通り不貞行為として民事上の不法行為に該当し得るのが実情だ。
「……え?きいて、ない」
蓮の隣でフェロモンに踊らされ夢見心地だった美麗の男性Ωこと三津浦麗巳(みつうられみ)は、泣きわめく屈強そうなΩにしばし懺悔の目線を預け、それから初めて化け物を見るような顔で蓮の横顔をそっと覗き見た。
麗巳と蓮の出会いは数日前にスクランブル交差点で、まさに交通事故のような衝撃と共に互いのフェロモンに引き寄せられ、人目も憚らず互いに抱き付き合い唇を重ね合った。
美形同士の美しい絡みに周囲からは感嘆の声が……漏れることは無く強力で迷惑な発情フェロモンに中てられたαやΩ、それだけではなくβすらも怪訝そうに顔を顰め鼻をつまみ、近距離で匂いに中てられた可哀想な者は股間を押さえ足早にその場を去った。
スクランブル交差点での一件は本人達「だけ」にとっては運命の出会いというものであり、ドラマチックな映画の切り取りのワンシーンのような光景として、脳裏に桃色のフィルターとキラキラしたエフェクトがかった、それはそれは美しい光景として脳裏に焼き付いていたのだろう。
しかし無関係な第三者たちにしてみれば突然のフェロモンテロそのもので、ガスマスクを着け武装した警察たちによって、蓮と麗巳は強制的に引き剥がされ各々緊急用の抑制剤がブスリ、ブスリと太腿あたりに撃ち込まれてその場は鎮静したのだった。
被害に最小限に抑えた警察の迅速な対応に、この時ばかりは周囲も感謝した。
不幸な事故に巻き込まれかけた者たちは「またか」とため息を吐き「いい加減にしてくれ」と迷惑そうな目線を隠そうともしなかった。
目ざとい野次馬はテロを起こしたαの左手薬指にシルバーのリングがきらりと光っているのを見て「はい、またフェロモン浮気」と写真を撮り動画を撮り面白おかしくSNSに上げる。
ここ数十年で、このようなはた迷惑なαとΩのヒートテロが起こらないように副作用が少ない強力な抑制剤の開発はかなり進んだところまで行っており、保険の適用ならびに平均的な抑制剤については国でも支給されるため、基本的には安価で購入が可能だ。
あわせて、犯罪防止のためヒート事故についてはαとΩは勿論のこと、βであっても他人事ではないため、保健体育と倫理の時間双方で入念な教育課程が組み込まれている。
抑制剤、またの名をフェロモンブロッカーと呼ぶそれは、遺伝子レベルで相性の良い者たちに対しても有効で、特に番関係や婚姻関係を結んだαは常備服用するのが常識となっていた。
理由としてΩは一度誰かと番うと他のαの匂いを感知しないという特性があるが、αは何人ものΩを番うことができるため社会的秩序を守るためだ。この世界では、運命は免罪符とはならない。
なお、今回のスクランブル交差点のような事件については、その日の夕方や夜に小さく「今日のニュース」として、或いは新聞の見出しで「フェロモン事故」と報道されることが大半である。
―話は修羅場に戻るが、先ほどまで蓮と麗巳は『運命』という言葉とフェロモンに狂い、麗巳は連の指に自身の指を絡めて恋人気分だった。
オメガバースの世界では、αとΩの間には番という特殊な関係性があり、これはΩのヒート中にαがΩの項を噛むことで成立する。唇に留まらず、すでに二人の間に体の関係はあるが、麗巳の項は綺麗なままであった。
けれども番契約である項を噛まれるのも時間の問題だろうと、麗巳は心を躍らせていた。
「大切な話がある」
目の前の運命にそんなことを言われたら、Ωでなくとも多少の期待はしてしまうだろう。それも目の前にはキラキラと眩かんばかりの極上のイケメンが、麗巳の手を取り愛おし気な眼差しをこちらに向けているのだ。
告白か、それともそれすらも飛ばしていきなりプロポーズだろうか。麗巳の心は完全に、輝かしい未来のシンデレラストーリーに囚われていた。
「奥さんがいるなんて、聞いて、ない……」
ヒートテロ時、蓮は結婚指輪を付けたままだったが、あの時は混沌の最中何もかもがうやむやになり、麗巳の記憶には蓮が当時着けていた銀色の誓いの輪は残っていなかった。
既婚者と思しきα警察に「周囲の為にもこのような迷惑行為はやめてください、自己管理してください」とヒートブロッカーを手渡されながらも、ちゃっかり二人は互いの連絡先を交換した。
そして、会う約束を取り付けた蓮は次回以降、麗巳に会う時だけ必ず左手薬指の指輪を外していた。
「蓮、さん」
「あ、麗巳。これはその……」
麗巳はフェロモンに中てられさえしなければ、常識的なΩであり不貞行為を嫌うが故、美しい容姿にもかかわらずなかなか恋人ができなかったという過去がある。
それが、今の自分はなんだ。平和な家庭を一つぶち壊そうとしている。いや、もう手遅れかもしれないと思うと、麗巳の全身が粟立ち血の気が引いた。
「も、申し訳ありません奥さん、まさか、この人が既婚者なんて僕は知らなかったんです……頭を上げてください、お願いします」
小太郎に運命を認めさせ、身を引いてもらおうと蓮が連れてきた麗巳は、あっさりとその運命を拒絶し嫌悪した。不思議なことに、連のαの本能な狂おしいほどに麗巳を求め拒絶されることを肌が粟立つほどに全力で否定しているというのに、心はどこか凪いでいた。
反対にフェロモンの影響は凄く、性質は麗巳が最も忌み嫌う不貞行為野郎にもかかわらず脳や心は連を拒絶しても、彼のΩとしての本能だけはまだ連を強く求めていた。
「……Ωの糞本能が」
心のうちでは泣き笑いで自虐気味に己を嘲笑し罵ると、麗巳は蹲っている小太郎をじっと見やる。
顔全体をぐじゅぐじゅさせて鼻を啜りながらゆっくり立ち上がったのは、身長189㎝の筋骨隆々な男。細マッチョという言葉などどこかに飛んでいくほどに、思わず柏手を打ちたくなるほどのどこに出しても恥ずかしくないマッチョ。
目の前にいる塩顔の男の中の男は、華奢で小柄、女性に見紛うほど美麗な容姿が多いΩには当てはまらず、ある意味小太郎はΩの中でも希少種である。
愚かな蓮は気づいていないが、小太郎には一定層からの熱い人気と需要が今でもあった。
『カタン』
「……?」
麗巳の心の中で、恋に落ちる音がした。
「小太郎さん、あんな男と別れて僕と付き合ってください」
「困ります、嫌です。俺は蓮ちゃ……夫一筋なんです」
何とも妙なことになったものだ。夫の不倫相手であり運命の番である三津浦麗巳は、運命をそっちのけで小太郎に張り付いている。強力なフェロモンブロッカーを服用しているのか、最早彼の鼻には蓮のフェロモンは感知できない状態のようだ。
「……麗巳、お前の運命は俺だろ」
「うるさい黙れ。こんな可憐で美しい小太郎さんを悲しませやがって」
「お前だって小太郎を悲しませてる要因の一つだろうが!」
「っ、僕はアンタが既婚者だなんて知らなかった!騙されてたんだ!」
「へえ、俺の上で積極的に腰を揺すっていたのも覚えていないと。騙されて無理やりしていたって言うのか」
「……フェロモンを軽視していたのは確かに僕の過ちだしミスだ。ごめんなさい小太郎さん。運命のヒートを舐めていた。でも、あんなのは性欲でしかない!」
休日昼間の会話とは思えないぐらい、生々しくどろどろしたやり取りを聞かされている小太郎はただただ哀れでしかなかった。
しかもこんな時だというのに小太郎は条件反射で二人に茶を差し出し、二人も難の違和も覚えずそれを啜るという状況である。公然わいせつすれすれの運命の出会いを繰り広げたαとΩは、存外その精神も図々しく太々しいのかもしれない。
なお、スクランブル交差点の一件やその後、二人がデートやホテルに向かったことなどは、小太郎の友人知人過保護な家族や親族による、それぞれ別の興信所によって動画や写真など余すことなく収められていた。
不貞行為の離婚や慰謝料は現時点で問題なく取れるほどに。SNSに拡散された蓮と麗巳の映像は「敢えて」削除依頼も出されずそのまま放置された。
心優しい小太郎の隣人たちからかけられる「さっさと別れろ」には散々首を横に振った小太郎も「とりあえず離婚不受理届出せば?」という親友の声にはすぐさま従った。
なお、親友たちは小太郎と蓮との元さやなど望んでおらず、アドバイスをしたのは徹底的に蓮と相手のΩに責任を取らせ社会的に潰す目的があり、そのために相手方の出奔を避けたいのがその黒い理由だったが。
それなのに。
「……こんなやつらに茶なんて出すことないよ」
「つい、習慣で」
「本当によくできた嫁だねぇ」
ずずずと茶を啜り菓子を摘み、それからソファに腰を掛けてぎゃんぎゃん言い争いをしている愚弟と浮気相手を虚無の眼で眺めているのは、様子を見に来た連の双子の兄である柊奏(ひいらぎそう)である。
柊カンパニーの次期社長である奏には、女性Ωの妻がいる。
奏と彼女は結婚しているが番にはなっていない。恋愛結婚ではなく彼らのように政略結婚の場合「取り返しのつかないことになる」番行為は見送られることも多く、近年αとΩであっても通常の婚姻のみ結ぶという場合も珍しくはない。
小太郎の項にはくっきりと、連の噛み跡が残っている。
高校時代に蓮と小太郎は出会い、屈強なその姿から誰もがαやβと見紛う小太郎に「可愛いね」と声を掛け、瞬時に彼がΩであると見抜いたのが柊蓮その人だったと、小太郎は今でもその思い出を胸に生きている。
当時からどこか軽薄で外面の良い蓮は、小太郎に対してもリップサービスの一環でそう声を掛けただけかもしれない。けれども、小太郎はそんな蓮に仄かな恋心を抱いてしまった。
「蓮がいなかったら、俺が小太郎ちゃんを幸せにしてたのになぁ」
「不誠実なこと言わないでください。奥様に失礼です」
思わせぶりな態度など一切見せずにピシャリとはねつける小太郎の横顔を、奏は少しだけ切なげな眼差しで見つめていた。
「連ちゃんお帰り!ご飯できてるよ」
「ただいま、小太郎」
「今日は魚が安かったから蓮ちゃんの好きなお刺身と、タコとわかめの酢の和え物」
「うん、美味しいよ」
離婚を突き付けられた身だというのに、小太郎は普段と変わらず連を引き立て尽くしている。そして、身勝手に離婚を突き付けたというのに、連はこの家からも小太郎からも離れることなく、スクランブル交差点の事などまるでなかったかのように、日常を取り戻したかのように彼に甘えて、そして溺愛していた。
自身の運命と番うため小太郎をあっさり手離そうとした蓮は、親兄弟小太郎の友人家族それから少々厄介なファンたちから、心のあばら骨を数本程度ベキベキにへし折られるぐらい、叩きに叩かれた。
その癖世間は勝手なもので、運命である麗巳と添い遂げることに少しばかり怖気付いた連を「無能α」「甲斐性なし」とバッシングしてゆく。
βには馴染みがない世界かもしれないが、実は通常の略奪愛同様に、すでに番関係や婚姻関係を結んでいたΩやαから略奪する形で番となった運命たちは、別離する確率も低くはない。
通常のΩは番を解除されると心身のダメージが大きいため慎重にならざるを得ないが、運命はその凶悪なフェロモンの相性の良さと、相反する心がちぐはぐになり、あろうことか自ら番解消を申し出て、その結果別れる者たちも多かった。
彼が既婚者であり、運命に遭遇した時点で蓮の社会人としての人生は詰みかけていた。
更に彼にとっては酷く、世間にとっては面白いことに、連の運命はあろうことか同じΩである小太郎に一目惚れをしてしまった。
あれほどまでに情交し愛を誓い合った連を麗巳はゴミ呼ばわりし、今は小太郎に張り付いている。
こんなことであればさっさと番ってから、小太郎とも引き合わせずに別れたらよかったと一瞬後悔したが、麗巳はそんな蓮の最低な思考を読みあざ笑うかのように「仮にアンタと番っていたとしても、小太郎さんに一目会ったなら、僕は何度でも恋をしていた」と吐き捨てた。
まるで小太郎が自身の運命とでも言うように。
最低な連を責めなかったのは、小太郎だけだった。彼は「別れたくない」と泣き縋ることはあっても、不貞行為をした連を責めることだけは一切なかった。
収集がつかなくなり一旦即時離婚は検討し直し、再構築とも別れるとも言わない何ともあいまいで残酷な選択を取った蓮だというのに、小太郎は泣き笑いのまま「お帰り、連ちゃん」と屈託のない笑みを浮かべていた。
ずきりと、クズの心のほんの僅かに残っていた良心に、チクリとそれは刺さったのだろうか。それとも、元々の愛情が蘇ったとでもいうのだろうか。連の枯渇した心に、砂漠に水が満たされて一面緑の地になるかのように、彼の桃色フィルターがかった視界は突然取り外されて、透明になった。
思わず自分よりも数センチ高い妻を、蓮は抱きしめた。抵抗されずに胸の中に収まったままでいてくれた自分のΩに、蓮は初めて後悔の念と申し訳なさで身が引き千切られそうになった。身勝手にも、愛おしさに心が張り裂けそうになった。
「ただいまって、言わせてくれてありがとう。ごめんなさい、小太郎」
仮に離婚を免れても仮面夫夫、夫夫生活などなくなるだろうと思っていた周りをよそに、蓮は甘えるように小太郎の胸に顔を埋め、ふわりと香る彼の匂いに愛おしさを覚え、相反するかのような欲情に駆られて激しい行為も幾度となくした。
そして休日になるとほぼ毎週やってくる麗巳を、以前の蓮なら歓迎したものの、今は「よく面を出せたものだ」と内心で軽蔑すらした。蓮にとやかく言えた義理は全くないのだが。
麗巳も麗巳で、もう蓮のためではなく小太郎目的で足繫く柊家に通ってくる。
蓮は、休日にやってくる「元」運命への牽制と誠の番への執着のため、休日前の夜は殊更にねっとりじっくりと小太郎を抱いた。
翌日にやってきた麗巳が、小太郎から漂うαの匂いに顔を顰め、そして運命であったはずの蓮に禍々しいまでの醜く恐ろしい憎悪の念を向けられるのが、連にとって唯一胸の梳くような思いをする瞬間でもあった。
実に、奇妙な三角関係である。αとΩの運命同士が互いにいがみ合い、憎み合って一人のΩを取り合っているのだから。
『番の解除手術がついに実現可能に?』
『そうなんです。これまで番解除は番の死別や、αからの一方的な強制解除以外ありませんでした。けれども医療技術の進歩によって外科手術で任意解除が可能となったのです。元々は解除剤の研究が先でしたが、いずれはこちらも実現化してゆくでしょう……』
スクランブル交差点の一件から一年が経過していた。朝のニュースで大々的に取り上げられている番解除手術は、暫くメディアを賑わすことだろう。蓮はさほど関心がなさそうにトーストを齧りながらテレビを眺めていたが、向いに座っている妻、小太郎のテレビに向けられる真剣な眼差しに心がぞわりとざわめくのを感じた。本能というものかもしれない。
「蓮ちゃんさ、俺がどうして連ちゃんに惚れたか覚えてるか?」
「えー何いきなり?」
「三津浦さんに聞かれたんだ。蓮のどこが良くて結婚したんですかって」
「……そう」
強いフェロモンブロッカーを日常的に服用するようになった蓮は、時折やってくる蓮の運命を鬱陶しく感じていたが、それでも所詮Ωなのだから、彼が小太郎をどうこうすることはできないだろうと、連は彼を脅威と感じてはいなかった。小太郎の心のうちなど考えてもやらずに。
「高校時代、あの時から俺すごい身体デカかっただろ。αだと勘違いして言い寄って来るΩもいたけど、同じΩだとわかると手のひら返すようにデカい、キモイ、お前みたいなΩ誰とも番えないってよく言われたっけなぁ……」
「……」
外見はそこら辺のアスリートより仕上がっている小太郎だが、内面は今も昔もナイーブで気は優しくて力持ちを体現したような男だった。
「そん時に『可愛いね』って声をかけてくれたのが蓮ちゃんだったんだ」
「そっか」
表面は取り繕っているが、蓮の内心は「やばい、覚えてねぇ」であった。確かに旧姓香日向小太郎という男は昔から目立つΩだったし、そんな彼がΩであることも、ガチムチ寄りのずっしりしたデカいΩが好きな蓮にとっては、非常にト゚ストライクなタイプなのも事実だ。
そんな蓮ですらαΩの「運命」というだけで、好みとは真逆である華奢で小柄な麗巳に現を抜かしていたことを考えると、やはり運命の番というものはとても恐ろしいのだろう。
「……」
小太郎は、じっと己の番のそんな姿を冷静に、真顔で見つめていた。
「離婚して、番も解除してください」
数日後、深々と頭を下げ離婚と番解除を申し出たのは小太郎だった。
青天の霹靂とは今の蓮のための言葉かもしれない。ただ、ここに至るまでのベースは整っていたともいえるが。
「……俺が、麗巳……三津浦さんがこの家にやってくるのをちゃんと止めないから?」
蓮の言葉に対して、小太郎は静かに首を横に振るばかりだ。彼はそれ以上何も口を開かず、離婚届をテーブルに置いて家を去っていった。ガクリと両膝を地面につき、そこからずるずると崩れ落ちると蓮は子供のように泣きじゃくっていた。
しかし、連は腐ってもαである。頭の回転は悪くない。離婚はおいといて番の解除を拒否した後、小日向が向かう先は病院だと、番解除手術だとすぐさま身を起こした。
「……番の了承?」
「はい、正直なところこの手術はまだまだ未知の領域があります。それとは別に番解除の同意書が必要となります。柊さんご本人と……パートナーの同意が」
「話は聞かせてもらった!」
絶望そのものといった表情で呆然と医師の顔を眺める小太郎の後ろから、十数人でスクラムを組んだΩやβの看護師たちをなぎ倒し「診察中ですよ!」という声をかいくぐりやってきたのは連だった。
「同意しません、許可しません!番解除も、離婚も……!」
火事場の馬鹿力というやつだろうか。Ωでありながら自分よりもフィジカルが強い小太郎を羽交い絞めにして、蓮は病院から引きずり出し無理やり車に乗せ、自分たちの巣に帰宅した。
「強くなったね連ちゃん……」
「俺、愛と戦いの中で成長するタイプだから」
「じゃあ、もう俺がいなくても大丈夫だね」
「なんでそういうこと言うのぉ!?」
ソファに座らされた小太郎は、逃げないように縄で上半身を縛られている。時折スポドリのストローを口に向けられるのは、脱水症状などを考慮した結果だ。なお、室内は代謝の良い小太郎に合わせてキンキンに冷やされており、蓮が鳥肌を立たせているレベルだ。
「なんで小太郎がいきなりいなくなったのか。何となくわかったんだ」
「……」
「高校時代、可愛いねって声を掛けたのは、確かに俺じゃなかった」
「……っ」
「あれは、兄貴だった」
高校のある日、Ωやβに囲まれていつものように「お前本当にΩらしくねーな」と茶化されていた場には、柊兄弟もいた。馬鹿にされているだけではなく、人気者でもあった小太郎の周囲にはいつも人だかりができていたのだ。
「小太郎みたいなのにαの番なんて見つかるわけないじゃん」
冷たい言葉を放ったΩは、小太郎に密かに恋い焦がれていた小柄なΩだった。少しだけ表情を曇らせた小太郎を庇うように「可愛いじゃん」と声を掛けたのが柊奏。
そして。
「駆け寄って、ちゃっかり小太郎に抱き付いたのが俺」
兄である柊奏に土下座し、小太郎の出会いについて教えを乞う連に、奏は溜息を吐きながら記憶の照らし合わせをしてくれたということだった。
「俺のアテレコを、兄貴がやったみたいになっちゃった」
小太郎を庇うように冗談めかして抱き付いた蓮の後ろで、奏の声が重なったというのが事実だった。
「お前があそこでしゃしゃりで無かったら、今頃俺が小太郎君と付き合えていたかもしれないのにねー」
「……」
「嘘だよ、半分は。あそこで身を引いた俺が意気地なしだった。結果はどうあれ、あの時に矢面に立って彼を守ったのはお前だよ……俺には、できなかった」
それなのにお前は。運命なんかに惑わされやがってと蓮は奏に尻を蹴られた。男の尻は固くて蹴り甲斐がないと数発尻を蹴られ続けた。
「連ちゃん、尻出して」
「いや、今は尻の治療はいいよ小太郎」
ふんっと拘束されていたはずの小太郎は、自らのフィジカルの強さで縄を引き千切り冷凍庫へと駆け寄り、最愛のために氷枕を持ち出すとそのまま尻に叩きつけた。冷たさと痛みで飛び跳ねた蓮は、氷枕をそのまま座布団代わりに使わせてもらうが、それはちょっとした新しい拷問のようだった。
「……蓮ちゃん。碌に話もせず突然家を出ようとしたのは悪かった」
「……ううん。戻ってきてくれたならいいんだ。俺がそんなこと言えた義理じゃないし。酷いことをしたのは俺。その後も俺がふらふらしててちゃんとしてないから愛想つかして、そしてこの家にいるのも辛くなったのかなと思って」
「違うんだ、蓮ちゃんに申し訳なくて」
「どういうこと?」
小太郎は「可愛いね」と声を掛けてくれたのが蓮ではないと気づいた時、一目惚れの相手を間違えてしまったのではないかと思った。
彼は勘違いの恋だったのにここまで執着して番にまでなって、そして「本物」の運命の番と蓮との仲を引き裂いてしまい申し訳ないと、消えてしまいたいと考えた。
「蓮ちゃんの、人生をめちゃくちゃにしてしまったと、思って……」
連は、土下座をして許しを乞う小太郎の背中に覆いかぶさり、そして腹の辺りに両手を差し入れて身を起こすと、そのまま蓮に持たれかけさせるように後ろから抱きしめた。
「俺、いっつも小太郎を泣かせてばかりだね」
「……」
「本当に駄目なαだよね。自分の本当の番もわからなくなっていた、フェロモンで下半身に従うだけの馬鹿α」
「……」
「小太郎は、俺の事嫌い?もう嫌になったかな。正直に言ってほしい」
「……やだ、いやだ」
小太郎は、涙を流しながらむずがる子供のように首を横に振り続けた。
「俺も、いやだ」
正面を向いてずっしりとのしかかってきた小太郎の重みが蓮には嬉しくて仕方がなかった。世間では小太郎を、不倫αに絆された愚かなΩとして嘲笑の対象となるのかもしれない。
「一度やったら、反省しているふりをしてもまた同じことを繰り返すぞ、やめろ」
小太郎を思う者たちから、さんざんそんなことを言われていたことも蓮は知っている。しかし、不甲斐ない思いをさせたのは自分だと蓮はもう認めていた。
「今までの事、本当にごめんなさい。申し訳ありませんでした……小太郎が、もし俺の事嫌いになったんじゃないのなら、もう一度だけチャンスをください。
お願いします。許してくれなんて言わない、いくらでも責めていい。小太郎が傷ついたと思う分だけ、俺の事を何度も傷つけていいから、何年でも何十年でも。小太郎に殺されても良い。だから、だから」
小太郎と同じだけ、それ以上にみっともなく土下座をしている蓮の鼻を、心優しい屈強なΩはむぎゅっと摘まんだ。
「……」
「……来ないな」
「来ないな、あいつ」
柊夫夫は、三津浦麗巳がやってくるのを待っていた。
二人で土下座をし「二度と来ないでください」というお願いと不倫誓約書へのサインの依頼、それから蓮が既婚者と知らなかったのに不倫関係を築くことになってしまったため、詫びと慰謝料を一括で手渡すつもりであったのだ。
小太郎は完全な被害者だが、蓮は二人のΩをたぶらかした罪がある。当初、蓮は小太郎に対しても慰謝料を払うつもりであったが、それは小太郎が固辞した。
そして数週間数カ月経過し「流石に諦めたのだろうか」と金と誓約書はいつでも取り出せるようにし、日常に戻ろうとした蓮と小太郎の耳にある噂が流れ込んだ。
『三津浦麗美が、Ωからαに性転換したらしい』
一つの脅威(運命)が消え去り安堵する間もなく、そしてまた何かの良からぬ縁が巡ってきそうな気配を感じ、小太郎と蓮は思わず互いの顔を見合わせた。
「場所を間違えた」と顔を引きつらせている高身長の如何にもαなイケメンは、同じくΩのテンプレートと呼んでも差し障りがないほどに華奢で、美麗で小動物的な愛らしさを持つΩを肩に抱こうとして、上手くかわされていた。
美男αΩの前で、αの足元に土下座をするように縋りつき、目からも鼻からも透明な液を流して「別れたくない」と懇願している巨体の男こそ、今回の物語の主人公である香日向小太郎(かひなたこたろう)結婚しているため今の姓は柊(ひいらぎ)である。
小太郎は身長189㎝、体重は90㎏を超える筋骨隆々の男性Ωだ。顔は平凡寄りの非常にあっさりした塩顔だが、シンプルが故にメイク技術次第でどんなイケメンや美女にでもなれる素質がある化粧のやり甲斐がある顔、とでも言えば少しはイメージがしやすいだろうか。
小太郎が必死で縋りついている目の前のαは、彼の夫である柊連(ひいらぎれん)だ。
十数分前、街中の喧噪の中にひっそりと佇む、少しばかり落ち着いた上品なカフェで蓮は「離婚をしたい」と小太郎に突き付けたばかりであった。
「運命の番を見つけたんだ、だから別れて……」
「いやだ、いやだぁああ!別れないで、別れないで……何でもするから連ちゃんに尽くすからお願いだから別れないでください!」
きょとんとした塩顔の表情が一気に崩れ、ゲリラ豪雨のごとく涙と鼻水の大洪水が沸き起こった。
上品な客層が大半を占めているカフェだが、今はどよめきと捨てられかけているΩに対する哀れみ、そして「運命」達とやらに冷たい目線を向けるマダムたちが紅茶やコーヒーのカップにわざとらしく口をつける。
この世界では、例えαとΩの遺伝子レベルで相性の良い存在に対して使われる「運命の番」という者たちであっても、婚姻を結び将来を誓い合ったαΩのどちらか或いは双方に別の番ができてしまったという場合は、通常通り不貞行為として民事上の不法行為に該当し得るのが実情だ。
「……え?きいて、ない」
蓮の隣でフェロモンに踊らされ夢見心地だった美麗の男性Ωこと三津浦麗巳(みつうられみ)は、泣きわめく屈強そうなΩにしばし懺悔の目線を預け、それから初めて化け物を見るような顔で蓮の横顔をそっと覗き見た。
麗巳と蓮の出会いは数日前にスクランブル交差点で、まさに交通事故のような衝撃と共に互いのフェロモンに引き寄せられ、人目も憚らず互いに抱き付き合い唇を重ね合った。
美形同士の美しい絡みに周囲からは感嘆の声が……漏れることは無く強力で迷惑な発情フェロモンに中てられたαやΩ、それだけではなくβすらも怪訝そうに顔を顰め鼻をつまみ、近距離で匂いに中てられた可哀想な者は股間を押さえ足早にその場を去った。
スクランブル交差点での一件は本人達「だけ」にとっては運命の出会いというものであり、ドラマチックな映画の切り取りのワンシーンのような光景として、脳裏に桃色のフィルターとキラキラしたエフェクトがかった、それはそれは美しい光景として脳裏に焼き付いていたのだろう。
しかし無関係な第三者たちにしてみれば突然のフェロモンテロそのもので、ガスマスクを着け武装した警察たちによって、蓮と麗巳は強制的に引き剥がされ各々緊急用の抑制剤がブスリ、ブスリと太腿あたりに撃ち込まれてその場は鎮静したのだった。
被害に最小限に抑えた警察の迅速な対応に、この時ばかりは周囲も感謝した。
不幸な事故に巻き込まれかけた者たちは「またか」とため息を吐き「いい加減にしてくれ」と迷惑そうな目線を隠そうともしなかった。
目ざとい野次馬はテロを起こしたαの左手薬指にシルバーのリングがきらりと光っているのを見て「はい、またフェロモン浮気」と写真を撮り動画を撮り面白おかしくSNSに上げる。
ここ数十年で、このようなはた迷惑なαとΩのヒートテロが起こらないように副作用が少ない強力な抑制剤の開発はかなり進んだところまで行っており、保険の適用ならびに平均的な抑制剤については国でも支給されるため、基本的には安価で購入が可能だ。
あわせて、犯罪防止のためヒート事故についてはαとΩは勿論のこと、βであっても他人事ではないため、保健体育と倫理の時間双方で入念な教育課程が組み込まれている。
抑制剤、またの名をフェロモンブロッカーと呼ぶそれは、遺伝子レベルで相性の良い者たちに対しても有効で、特に番関係や婚姻関係を結んだαは常備服用するのが常識となっていた。
理由としてΩは一度誰かと番うと他のαの匂いを感知しないという特性があるが、αは何人ものΩを番うことができるため社会的秩序を守るためだ。この世界では、運命は免罪符とはならない。
なお、今回のスクランブル交差点のような事件については、その日の夕方や夜に小さく「今日のニュース」として、或いは新聞の見出しで「フェロモン事故」と報道されることが大半である。
―話は修羅場に戻るが、先ほどまで蓮と麗巳は『運命』という言葉とフェロモンに狂い、麗巳は連の指に自身の指を絡めて恋人気分だった。
オメガバースの世界では、αとΩの間には番という特殊な関係性があり、これはΩのヒート中にαがΩの項を噛むことで成立する。唇に留まらず、すでに二人の間に体の関係はあるが、麗巳の項は綺麗なままであった。
けれども番契約である項を噛まれるのも時間の問題だろうと、麗巳は心を躍らせていた。
「大切な話がある」
目の前の運命にそんなことを言われたら、Ωでなくとも多少の期待はしてしまうだろう。それも目の前にはキラキラと眩かんばかりの極上のイケメンが、麗巳の手を取り愛おし気な眼差しをこちらに向けているのだ。
告白か、それともそれすらも飛ばしていきなりプロポーズだろうか。麗巳の心は完全に、輝かしい未来のシンデレラストーリーに囚われていた。
「奥さんがいるなんて、聞いて、ない……」
ヒートテロ時、蓮は結婚指輪を付けたままだったが、あの時は混沌の最中何もかもがうやむやになり、麗巳の記憶には蓮が当時着けていた銀色の誓いの輪は残っていなかった。
既婚者と思しきα警察に「周囲の為にもこのような迷惑行為はやめてください、自己管理してください」とヒートブロッカーを手渡されながらも、ちゃっかり二人は互いの連絡先を交換した。
そして、会う約束を取り付けた蓮は次回以降、麗巳に会う時だけ必ず左手薬指の指輪を外していた。
「蓮、さん」
「あ、麗巳。これはその……」
麗巳はフェロモンに中てられさえしなければ、常識的なΩであり不貞行為を嫌うが故、美しい容姿にもかかわらずなかなか恋人ができなかったという過去がある。
それが、今の自分はなんだ。平和な家庭を一つぶち壊そうとしている。いや、もう手遅れかもしれないと思うと、麗巳の全身が粟立ち血の気が引いた。
「も、申し訳ありません奥さん、まさか、この人が既婚者なんて僕は知らなかったんです……頭を上げてください、お願いします」
小太郎に運命を認めさせ、身を引いてもらおうと蓮が連れてきた麗巳は、あっさりとその運命を拒絶し嫌悪した。不思議なことに、連のαの本能な狂おしいほどに麗巳を求め拒絶されることを肌が粟立つほどに全力で否定しているというのに、心はどこか凪いでいた。
反対にフェロモンの影響は凄く、性質は麗巳が最も忌み嫌う不貞行為野郎にもかかわらず脳や心は連を拒絶しても、彼のΩとしての本能だけはまだ連を強く求めていた。
「……Ωの糞本能が」
心のうちでは泣き笑いで自虐気味に己を嘲笑し罵ると、麗巳は蹲っている小太郎をじっと見やる。
顔全体をぐじゅぐじゅさせて鼻を啜りながらゆっくり立ち上がったのは、身長189㎝の筋骨隆々な男。細マッチョという言葉などどこかに飛んでいくほどに、思わず柏手を打ちたくなるほどのどこに出しても恥ずかしくないマッチョ。
目の前にいる塩顔の男の中の男は、華奢で小柄、女性に見紛うほど美麗な容姿が多いΩには当てはまらず、ある意味小太郎はΩの中でも希少種である。
愚かな蓮は気づいていないが、小太郎には一定層からの熱い人気と需要が今でもあった。
『カタン』
「……?」
麗巳の心の中で、恋に落ちる音がした。
「小太郎さん、あんな男と別れて僕と付き合ってください」
「困ります、嫌です。俺は蓮ちゃ……夫一筋なんです」
何とも妙なことになったものだ。夫の不倫相手であり運命の番である三津浦麗巳は、運命をそっちのけで小太郎に張り付いている。強力なフェロモンブロッカーを服用しているのか、最早彼の鼻には蓮のフェロモンは感知できない状態のようだ。
「……麗巳、お前の運命は俺だろ」
「うるさい黙れ。こんな可憐で美しい小太郎さんを悲しませやがって」
「お前だって小太郎を悲しませてる要因の一つだろうが!」
「っ、僕はアンタが既婚者だなんて知らなかった!騙されてたんだ!」
「へえ、俺の上で積極的に腰を揺すっていたのも覚えていないと。騙されて無理やりしていたって言うのか」
「……フェロモンを軽視していたのは確かに僕の過ちだしミスだ。ごめんなさい小太郎さん。運命のヒートを舐めていた。でも、あんなのは性欲でしかない!」
休日昼間の会話とは思えないぐらい、生々しくどろどろしたやり取りを聞かされている小太郎はただただ哀れでしかなかった。
しかもこんな時だというのに小太郎は条件反射で二人に茶を差し出し、二人も難の違和も覚えずそれを啜るという状況である。公然わいせつすれすれの運命の出会いを繰り広げたαとΩは、存外その精神も図々しく太々しいのかもしれない。
なお、スクランブル交差点の一件やその後、二人がデートやホテルに向かったことなどは、小太郎の友人知人過保護な家族や親族による、それぞれ別の興信所によって動画や写真など余すことなく収められていた。
不貞行為の離婚や慰謝料は現時点で問題なく取れるほどに。SNSに拡散された蓮と麗巳の映像は「敢えて」削除依頼も出されずそのまま放置された。
心優しい小太郎の隣人たちからかけられる「さっさと別れろ」には散々首を横に振った小太郎も「とりあえず離婚不受理届出せば?」という親友の声にはすぐさま従った。
なお、親友たちは小太郎と蓮との元さやなど望んでおらず、アドバイスをしたのは徹底的に蓮と相手のΩに責任を取らせ社会的に潰す目的があり、そのために相手方の出奔を避けたいのがその黒い理由だったが。
それなのに。
「……こんなやつらに茶なんて出すことないよ」
「つい、習慣で」
「本当によくできた嫁だねぇ」
ずずずと茶を啜り菓子を摘み、それからソファに腰を掛けてぎゃんぎゃん言い争いをしている愚弟と浮気相手を虚無の眼で眺めているのは、様子を見に来た連の双子の兄である柊奏(ひいらぎそう)である。
柊カンパニーの次期社長である奏には、女性Ωの妻がいる。
奏と彼女は結婚しているが番にはなっていない。恋愛結婚ではなく彼らのように政略結婚の場合「取り返しのつかないことになる」番行為は見送られることも多く、近年αとΩであっても通常の婚姻のみ結ぶという場合も珍しくはない。
小太郎の項にはくっきりと、連の噛み跡が残っている。
高校時代に蓮と小太郎は出会い、屈強なその姿から誰もがαやβと見紛う小太郎に「可愛いね」と声を掛け、瞬時に彼がΩであると見抜いたのが柊蓮その人だったと、小太郎は今でもその思い出を胸に生きている。
当時からどこか軽薄で外面の良い蓮は、小太郎に対してもリップサービスの一環でそう声を掛けただけかもしれない。けれども、小太郎はそんな蓮に仄かな恋心を抱いてしまった。
「蓮がいなかったら、俺が小太郎ちゃんを幸せにしてたのになぁ」
「不誠実なこと言わないでください。奥様に失礼です」
思わせぶりな態度など一切見せずにピシャリとはねつける小太郎の横顔を、奏は少しだけ切なげな眼差しで見つめていた。
「連ちゃんお帰り!ご飯できてるよ」
「ただいま、小太郎」
「今日は魚が安かったから蓮ちゃんの好きなお刺身と、タコとわかめの酢の和え物」
「うん、美味しいよ」
離婚を突き付けられた身だというのに、小太郎は普段と変わらず連を引き立て尽くしている。そして、身勝手に離婚を突き付けたというのに、連はこの家からも小太郎からも離れることなく、スクランブル交差点の事などまるでなかったかのように、日常を取り戻したかのように彼に甘えて、そして溺愛していた。
自身の運命と番うため小太郎をあっさり手離そうとした蓮は、親兄弟小太郎の友人家族それから少々厄介なファンたちから、心のあばら骨を数本程度ベキベキにへし折られるぐらい、叩きに叩かれた。
その癖世間は勝手なもので、運命である麗巳と添い遂げることに少しばかり怖気付いた連を「無能α」「甲斐性なし」とバッシングしてゆく。
βには馴染みがない世界かもしれないが、実は通常の略奪愛同様に、すでに番関係や婚姻関係を結んでいたΩやαから略奪する形で番となった運命たちは、別離する確率も低くはない。
通常のΩは番を解除されると心身のダメージが大きいため慎重にならざるを得ないが、運命はその凶悪なフェロモンの相性の良さと、相反する心がちぐはぐになり、あろうことか自ら番解消を申し出て、その結果別れる者たちも多かった。
彼が既婚者であり、運命に遭遇した時点で蓮の社会人としての人生は詰みかけていた。
更に彼にとっては酷く、世間にとっては面白いことに、連の運命はあろうことか同じΩである小太郎に一目惚れをしてしまった。
あれほどまでに情交し愛を誓い合った連を麗巳はゴミ呼ばわりし、今は小太郎に張り付いている。
こんなことであればさっさと番ってから、小太郎とも引き合わせずに別れたらよかったと一瞬後悔したが、麗巳はそんな蓮の最低な思考を読みあざ笑うかのように「仮にアンタと番っていたとしても、小太郎さんに一目会ったなら、僕は何度でも恋をしていた」と吐き捨てた。
まるで小太郎が自身の運命とでも言うように。
最低な連を責めなかったのは、小太郎だけだった。彼は「別れたくない」と泣き縋ることはあっても、不貞行為をした連を責めることだけは一切なかった。
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「ただいまって、言わせてくれてありがとう。ごめんなさい、小太郎」
仮に離婚を免れても仮面夫夫、夫夫生活などなくなるだろうと思っていた周りをよそに、蓮は甘えるように小太郎の胸に顔を埋め、ふわりと香る彼の匂いに愛おしさを覚え、相反するかのような欲情に駆られて激しい行為も幾度となくした。
そして休日になるとほぼ毎週やってくる麗巳を、以前の蓮なら歓迎したものの、今は「よく面を出せたものだ」と内心で軽蔑すらした。蓮にとやかく言えた義理は全くないのだが。
麗巳も麗巳で、もう蓮のためではなく小太郎目的で足繫く柊家に通ってくる。
蓮は、休日にやってくる「元」運命への牽制と誠の番への執着のため、休日前の夜は殊更にねっとりじっくりと小太郎を抱いた。
翌日にやってきた麗巳が、小太郎から漂うαの匂いに顔を顰め、そして運命であったはずの蓮に禍々しいまでの醜く恐ろしい憎悪の念を向けられるのが、連にとって唯一胸の梳くような思いをする瞬間でもあった。
実に、奇妙な三角関係である。αとΩの運命同士が互いにいがみ合い、憎み合って一人のΩを取り合っているのだから。
『番の解除手術がついに実現可能に?』
『そうなんです。これまで番解除は番の死別や、αからの一方的な強制解除以外ありませんでした。けれども医療技術の進歩によって外科手術で任意解除が可能となったのです。元々は解除剤の研究が先でしたが、いずれはこちらも実現化してゆくでしょう……』
スクランブル交差点の一件から一年が経過していた。朝のニュースで大々的に取り上げられている番解除手術は、暫くメディアを賑わすことだろう。蓮はさほど関心がなさそうにトーストを齧りながらテレビを眺めていたが、向いに座っている妻、小太郎のテレビに向けられる真剣な眼差しに心がぞわりとざわめくのを感じた。本能というものかもしれない。
「蓮ちゃんさ、俺がどうして連ちゃんに惚れたか覚えてるか?」
「えー何いきなり?」
「三津浦さんに聞かれたんだ。蓮のどこが良くて結婚したんですかって」
「……そう」
強いフェロモンブロッカーを日常的に服用するようになった蓮は、時折やってくる蓮の運命を鬱陶しく感じていたが、それでも所詮Ωなのだから、彼が小太郎をどうこうすることはできないだろうと、連は彼を脅威と感じてはいなかった。小太郎の心のうちなど考えてもやらずに。
「高校時代、あの時から俺すごい身体デカかっただろ。αだと勘違いして言い寄って来るΩもいたけど、同じΩだとわかると手のひら返すようにデカい、キモイ、お前みたいなΩ誰とも番えないってよく言われたっけなぁ……」
「……」
外見はそこら辺のアスリートより仕上がっている小太郎だが、内面は今も昔もナイーブで気は優しくて力持ちを体現したような男だった。
「そん時に『可愛いね』って声をかけてくれたのが蓮ちゃんだったんだ」
「そっか」
表面は取り繕っているが、蓮の内心は「やばい、覚えてねぇ」であった。確かに旧姓香日向小太郎という男は昔から目立つΩだったし、そんな彼がΩであることも、ガチムチ寄りのずっしりしたデカいΩが好きな蓮にとっては、非常にト゚ストライクなタイプなのも事実だ。
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青天の霹靂とは今の蓮のための言葉かもしれない。ただ、ここに至るまでのベースは整っていたともいえるが。
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蓮の言葉に対して、小太郎は静かに首を横に振るばかりだ。彼はそれ以上何も口を開かず、離婚届をテーブルに置いて家を去っていった。ガクリと両膝を地面につき、そこからずるずると崩れ落ちると蓮は子供のように泣きじゃくっていた。
しかし、連は腐ってもαである。頭の回転は悪くない。離婚はおいといて番の解除を拒否した後、小日向が向かう先は病院だと、番解除手術だとすぐさま身を起こした。
「……番の了承?」
「はい、正直なところこの手術はまだまだ未知の領域があります。それとは別に番解除の同意書が必要となります。柊さんご本人と……パートナーの同意が」
「話は聞かせてもらった!」
絶望そのものといった表情で呆然と医師の顔を眺める小太郎の後ろから、十数人でスクラムを組んだΩやβの看護師たちをなぎ倒し「診察中ですよ!」という声をかいくぐりやってきたのは連だった。
「同意しません、許可しません!番解除も、離婚も……!」
火事場の馬鹿力というやつだろうか。Ωでありながら自分よりもフィジカルが強い小太郎を羽交い絞めにして、蓮は病院から引きずり出し無理やり車に乗せ、自分たちの巣に帰宅した。
「強くなったね連ちゃん……」
「俺、愛と戦いの中で成長するタイプだから」
「じゃあ、もう俺がいなくても大丈夫だね」
「なんでそういうこと言うのぉ!?」
ソファに座らされた小太郎は、逃げないように縄で上半身を縛られている。時折スポドリのストローを口に向けられるのは、脱水症状などを考慮した結果だ。なお、室内は代謝の良い小太郎に合わせてキンキンに冷やされており、蓮が鳥肌を立たせているレベルだ。
「なんで小太郎がいきなりいなくなったのか。何となくわかったんだ」
「……」
「高校時代、可愛いねって声を掛けたのは、確かに俺じゃなかった」
「……っ」
「あれは、兄貴だった」
高校のある日、Ωやβに囲まれていつものように「お前本当にΩらしくねーな」と茶化されていた場には、柊兄弟もいた。馬鹿にされているだけではなく、人気者でもあった小太郎の周囲にはいつも人だかりができていたのだ。
「小太郎みたいなのにαの番なんて見つかるわけないじゃん」
冷たい言葉を放ったΩは、小太郎に密かに恋い焦がれていた小柄なΩだった。少しだけ表情を曇らせた小太郎を庇うように「可愛いじゃん」と声を掛けたのが柊奏。
そして。
「駆け寄って、ちゃっかり小太郎に抱き付いたのが俺」
兄である柊奏に土下座し、小太郎の出会いについて教えを乞う連に、奏は溜息を吐きながら記憶の照らし合わせをしてくれたということだった。
「俺のアテレコを、兄貴がやったみたいになっちゃった」
小太郎を庇うように冗談めかして抱き付いた蓮の後ろで、奏の声が重なったというのが事実だった。
「お前があそこでしゃしゃりで無かったら、今頃俺が小太郎君と付き合えていたかもしれないのにねー」
「……」
「嘘だよ、半分は。あそこで身を引いた俺が意気地なしだった。結果はどうあれ、あの時に矢面に立って彼を守ったのはお前だよ……俺には、できなかった」
それなのにお前は。運命なんかに惑わされやがってと蓮は奏に尻を蹴られた。男の尻は固くて蹴り甲斐がないと数発尻を蹴られ続けた。
「連ちゃん、尻出して」
「いや、今は尻の治療はいいよ小太郎」
ふんっと拘束されていたはずの小太郎は、自らのフィジカルの強さで縄を引き千切り冷凍庫へと駆け寄り、最愛のために氷枕を持ち出すとそのまま尻に叩きつけた。冷たさと痛みで飛び跳ねた蓮は、氷枕をそのまま座布団代わりに使わせてもらうが、それはちょっとした新しい拷問のようだった。
「……蓮ちゃん。碌に話もせず突然家を出ようとしたのは悪かった」
「……ううん。戻ってきてくれたならいいんだ。俺がそんなこと言えた義理じゃないし。酷いことをしたのは俺。その後も俺がふらふらしててちゃんとしてないから愛想つかして、そしてこの家にいるのも辛くなったのかなと思って」
「違うんだ、蓮ちゃんに申し訳なくて」
「どういうこと?」
小太郎は「可愛いね」と声を掛けてくれたのが蓮ではないと気づいた時、一目惚れの相手を間違えてしまったのではないかと思った。
彼は勘違いの恋だったのにここまで執着して番にまでなって、そして「本物」の運命の番と蓮との仲を引き裂いてしまい申し訳ないと、消えてしまいたいと考えた。
「蓮ちゃんの、人生をめちゃくちゃにしてしまったと、思って……」
連は、土下座をして許しを乞う小太郎の背中に覆いかぶさり、そして腹の辺りに両手を差し入れて身を起こすと、そのまま蓮に持たれかけさせるように後ろから抱きしめた。
「俺、いっつも小太郎を泣かせてばかりだね」
「……」
「本当に駄目なαだよね。自分の本当の番もわからなくなっていた、フェロモンで下半身に従うだけの馬鹿α」
「……」
「小太郎は、俺の事嫌い?もう嫌になったかな。正直に言ってほしい」
「……やだ、いやだ」
小太郎は、涙を流しながらむずがる子供のように首を横に振り続けた。
「俺も、いやだ」
正面を向いてずっしりとのしかかってきた小太郎の重みが蓮には嬉しくて仕方がなかった。世間では小太郎を、不倫αに絆された愚かなΩとして嘲笑の対象となるのかもしれない。
「一度やったら、反省しているふりをしてもまた同じことを繰り返すぞ、やめろ」
小太郎を思う者たちから、さんざんそんなことを言われていたことも蓮は知っている。しかし、不甲斐ない思いをさせたのは自分だと蓮はもう認めていた。
「今までの事、本当にごめんなさい。申し訳ありませんでした……小太郎が、もし俺の事嫌いになったんじゃないのなら、もう一度だけチャンスをください。
お願いします。許してくれなんて言わない、いくらでも責めていい。小太郎が傷ついたと思う分だけ、俺の事を何度も傷つけていいから、何年でも何十年でも。小太郎に殺されても良い。だから、だから」
小太郎と同じだけ、それ以上にみっともなく土下座をしている蓮の鼻を、心優しい屈強なΩはむぎゅっと摘まんだ。
「……」
「……来ないな」
「来ないな、あいつ」
柊夫夫は、三津浦麗巳がやってくるのを待っていた。
二人で土下座をし「二度と来ないでください」というお願いと不倫誓約書へのサインの依頼、それから蓮が既婚者と知らなかったのに不倫関係を築くことになってしまったため、詫びと慰謝料を一括で手渡すつもりであったのだ。
小太郎は完全な被害者だが、蓮は二人のΩをたぶらかした罪がある。当初、蓮は小太郎に対しても慰謝料を払うつもりであったが、それは小太郎が固辞した。
そして数週間数カ月経過し「流石に諦めたのだろうか」と金と誓約書はいつでも取り出せるようにし、日常に戻ろうとした蓮と小太郎の耳にある噂が流れ込んだ。
『三津浦麗美が、Ωからαに性転換したらしい』
一つの脅威(運命)が消え去り安堵する間もなく、そしてまた何かの良からぬ縁が巡ってきそうな気配を感じ、小太郎と蓮は思わず互いの顔を見合わせた。
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