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サンドロテ・ワチエの華麗なる失恋
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『自分』は確かに死んだはずであった。
恋仲であったマルグリット殿下に「お前はもういらない」と捨てられ、国外追放を言い渡された。失意のうちに遠い隣国へ向かっている最中馬車が突然崖に転落した。
そして悪意ある何者かの手によって追い打ちをかけるように馬車ごと燃やされ、逃げることも叶わずに惨たらしく焼け爛れながら、業火の熱と黒の煙で呼吸すらもまともにできず、苦しみ抜いてこの世を去ったはずだ。
マルグリット殿下は自分を愛してくれたが、身分の差により添い遂げることは叶わなかった。それどころか軟禁され殿下が世継ぎを作るためだけの道具として、非人道的な妾以下の扱いを長年受け続けていた。
そんなある日、これまで彼らの前から姿を消していた殿下の政略結婚の相手であるレイ・グーベルクが突然現れ、マルグリットはレイに身も心も奪われてしまった……と彼は認識していた。
辛い過去の記憶から現在に浮上すると、自身の手の小ささや部屋の様子や豪華なベッド、それから机に置かれた稚拙な日記から、恐らくここは彼が十歳になったばかりの頃、男爵であるワチエ家に養子として引き取られて間もない時期だとサンドロテ・ワチエは理解した。
これは死に戻りというものだろうか。凄惨な前回の人生から学園に入学する前の彼に舞い戻ったようだった。
……ああ、そうだろう。おっしゃりたいことは何となくだがわかる。この小説を読む殆どの聡明な読者であれば、前作から読んでいただけているのであろうから。
恋仲であったマルグリット殿下、そもそもの前提がおかしい。
『レイ・グーベルクにマルグリットを奪われた』
魅了の力でレイからマルグリットを奪ったのは他でもないお前であろうというのもその通りだ。
『悪意ある何者かの手によって』
前回は両手両足じゃ足りないぐらいの既婚者や恋人持ちの男を何人もたぶらかし、どこでとまでは言わないが数多のそれを咥え込んだサンドロテ・ワチエだ。彼らの婚約者や恋人から複数個所腹を同時に刺されても文句は言えないぐらいに恨まれているのも、それは当然だろう。
人間の心のうちなど、見方を変えてしまえばこのように誰かは誰かにとっての悪人であり、逆もまたしかりだ。特に一人称の小説などは「それ」の独白めいた言葉で紡がれてゆくのだから、周囲から見た「それ」が本当の所はどうかなど、読み手には未来永劫わからない。
前世で散々悪行を重ねてきた悪役令息は、死に戻った世界では生き残るために奮闘し、まともになろうと努力をする者も多いだろうが、果たしてサンドロテ・ワチエはどうだろうか。
前回を入れると人生二度目となるハク・エーキ学園に入学したサンドロテは、前回とは異なる物々しい周囲の様子に唖然とした。
そこでは令嬢も令息も特待生として入学している平民たちも皆、簡易な口元を布で覆うものから、重装備の場合はどこかの中世でペスト感染時に流行ったような悍ましい鳥のようなくちばしマスクを装着している。
「こ、これは一体何が」
「あら?あなたはマスクを持っていないの?」
前回の僅かながらの記憶や礼儀をフル動員させて、一見儚げだが中身は恐らく女戦士のような強かな令嬢に、自分は転入生なので申し訳ないが勝手がわからないと伝える。
「まあ、そうだったのね。実はこの学園で例の流行病が蔓延していて……唾液や粘膜の接触でも感染するそうなの。病を患った人は心を奪われたように感染させた人間に従順になってしまうそうよ。魅了という怖ろしい病なのよ、あなたも気を付けてね」
「……」
令嬢は、親切にもストックの使い捨て布マスクをサンドロテに手渡し、優雅にその場を去っていった。
「……」
この蘇った世界では魅了は病扱いされており、また中世ならびにファンタジーの世界らしからぬ徹底したソーシャルディスタンスと清潔を心がけることにより、魅了は疎か普通に流行病や性病に罹る者も減少の一途を辿っていた。
……この点だけにおいては非常に良いことではないだろうか。
「……」
マスク効果と魅了の危険性が周知されたことにより、サンドロテは自身の武器である顔を使えなくなり、キスは疎か手を繋ぐこともままならない現状によって、一人も男を落とすことができずにいた。
それはマスクだけが理由ではなく、サンドロテに魅了された「被害者」が見つかれば、前回と違いサンドロテは今度こそ超強力な感染源として秘密裏に処分されてしまう危険があるからだ。
性欲も命あっての物種、ということだろう。
マスクとは美形を覆い隠すものではあるが、反面それほどでもない容姿……もとい、落ち着いた目に優しい容姿も逆に美しく補正してくれるものなので、目の形や体躯が良く話題にも富んでおり人当たりと知識、それからオーラがある雰囲気イケメンや雰囲気美人はやはり普通にモテた。これは現在社会でもそう変わらないのではないだろうか。
「……」
サンドロテは、初めて人生で挫折を味わった。もともとはサンドロテが動かなくともいつもであれば向こうから誰かが彼の者へ絶えずやってきて、男たちに囲まれているのが常であったためだ。顔の良さがなければ気の利いたことも言えず、知力も乏しい元来引っ込み思案でおどおどした性質のサンドロテは悪目立ちしかしなかった。
この学園に転入してから数か月後、美しい男がそこにいた。目元からでもわかる笑みを絶やさない全ての者に対して平等な慈愛に満ちた眼差し、マスクで覆い隠されていてもわかる美しさ、全身が煌いている長身の美男子……マルグリット・ド・ガーディッチ王子だ。
例え前世で身を焼かれても、その身体には彼の匂いや感覚が覚えているものだろうか。サンドロテは縋りつくように思わずマルグリットの元へ歩み寄ろうとした。
「あ……」
きょろきょろ辺りを見当たすと、誰もいないことを確認したマルグリットは近くにいたレイ・グーベルクに後ろから抱き付き、ぐりぐりと甘えた仔犬のようにレイにその身を摺り寄せている。
「疲れた」
「奇遇ですね、私もです」
「次の授業サボろう」
「一国の王となる人が何を言っているんですか。めっ」
「……ふふふ」
「怒られたのに、何が楽しいんですか?」
「レイが構ってくれるから、それが嬉しいんだ」
「……しかたのない王子様だ」
普段の絵に描いたような王子様風情を完全に取っ払って甘える大型犬のような男は、少しだけ身をかがめた姿でレイを待つ。レイは「仕方がないな」という風で、つま先立ちでマルグリットの頬に手を置いて、重ねるだけのキスをした。
「ありがとうレイ、次の授業も頑張れる」
「その次は?」
「またキスして」
「燃費の悪い王子様だなぁ……」
政略結婚とは言え婚約者同士だ。性交は許されていないがこれぐらいであればこっそり周囲の目を掻い潜っておこなうカップルは多い。
「マルグリット、マルグ様……」
政略結婚のはずなのに、傍目から見ただけでも二人には確かに友愛だけではない、甘酸っぱいどこかがジンと痺れるようなものが確かにあった。
サンドロテの脳裏にかつてのマルグリットが蘇る。唇を奪った後の従順になったマルグリット、自身をマルグと呼ぶことを許すマルグリット、幾度も獣のようなまぐわいを繰り返した彼の姿が、焦がれるような胸の熱と共に蘇る。
身の保身とマルグリットの醜態に幻滅し身勝手に捨てて、そしてまた拾い上げようとして捨てられたそれは、実のところサンドロテの手にすら収まることは一時もなかったけれど。気づいたら恋だったというのは何とも自分勝手で全てが遅すぎた。
サンドロテが走り去ってゆく姿は、レイだけが気づいていた。
「サンドロテ、学校は楽しいか」
「……はい、お義父様」
失恋というものは、少しばかりその心を成長させてくれる成長痛のようなものでもあるのだろうか。失う痛みは、他の者たちはどうだったのだろうという考えに至り、それから初めて彼は数多の恋を潰してきた重みに気付いた。
もう魅了にまかせて男を漁ることもできないサンドロテは退屈していたが、やることがないのでこれでも少しは勉強についてゆくことができた。
今日も暇を持て余し、こちらで言うところの国語の授業の題材に使われた小説を自ら求め、読んでいるところだ。
タイトルは「隣人の恋愛」という、主人公の近くにいる恋人たちを単なる隣人として時折様子を見ているうちに、実は主人公が恋をしていたのは、その恋人の片割れだったという話だ。好きだと気づいてからも主人公は何をするわけでもなく、ただただ恋が失恋に変わり、そして鈍い痛みを抱いているというだけというところで物語は終わる。
ぼんやりとしてほろ苦く読後感もすっきりしない。何故そんな話を教材にしたのかは謎だが、今のサンドロテにもどこか心に鈍く響いた。
「サンドロテ、お前に縁談が来ている」
「私が、ですか?」
魅了の検査をおこない、国家転覆レベルの強い反応が出たサンドロテのことは、ワチエ男爵も知っていた。ハク・エーキ学園への入学が許されたのも、監視と実験材料目的の意味あいもある。
「ここにやって来てからのお前は、非常によくやっている。父母と引きはがされても泣くこともせず、学校でも真面目に授業を受けていると聞いている」
「……」
実際には成績は辛うじて進級できるレベルの赤点よりぎりぎり上ぐらいであり、普段は持ち前の美貌をマスクで覆い隠しているので、目が大きいだけのチビとして教室の隅で大人しく過ごしている生徒に成り下がっていた。
「それに、お相手の子爵は代々騎士の家系でな……その息子は生まれつき魅了に耐性のあるお方なんだ」
「……」
魅了が全く効かない男という言葉に、サンドロテはどこか妙に関心を覚えた。
婚約者として紹介されたドミニエル・バーガイトは、寡黙で岩石のようにずっしりと構えている、眼光が鋭いヒグマのような巨漢だった。
「あんた、おおきいねぇ」
ぽろりと口から零れ落ちた本心を、慌てて引っ込めようとするもすでに遅く、ドミニエルは一瞬目を瞬いて見せると「ああ」と一言だけ返した。
どこに居ても目立ち、そして嵩張るドミニエルという大男は顔も角張っており美男子な容姿とは外れるものの、見ようによってはほんの少しだけ動物的な愛嬌があると言えるかもしれない。
「独活の大木」と陰口を叩かれることも多かったが、それは彼に対する嫉妬のようなもので、ドミニエルは身体の大きさの割に俊敏で、武力は言わずもがな国でも一、二を争う戦闘能力に特化した強い男だった。
美女と猛獣、ヒグマと幼児、そんな風に揶揄される二人だが不思議と関係は悪くなかった。サンドロテは頭を使った貴族たちのハイセンスな会話が苦手だが、元々ドミニエルは寡黙だ。サンドロテの子供のような独り言も疑問も、最低限の言葉で返してくれる。
そもそも沈黙が続いても一向に構わないというのが二人のスタンスだ。ドミニエルはいつも寝ているか剣の手入れをしており、サンドロテはその広すぎる背中に身を預けて本を読んだり彼の数少ない趣味であるあやとりをしている。
「ん」
お前が好きそうだからと手渡された本は「運命じゃなくとも」という恋愛小説だった。市井で数年前に少し流行ったそれは、脛に傷を持つ者同士が紆余曲折あって結ばれるというよくある話だが、サンドロテは少女のように顔を耳まで赤らめて、あどけない笑顔を向けて見せながら「ありがとう」と本を胸に抱きかかえた。
退屈な程に穏やかな日々は存外悪くなく、春風のように心地よかった。
「すまなかった」
嵐の日は突然に。今世では一切接触を行っていなかったマルグリットがサンドロテの前にやってきて、頭を下げている。
「どうぞおやめください、頭を上げてください。突然どうしたというのですか?」
周囲のざわつく声よりも先に、サンドロテは困惑した様子で問いかける。マルグリットから数歩下がった距離を置いているのは、前世の記憶や礼儀でもなく完全の彼とマルグリットとの心の距離だ。
驚いたことにマルグリットも前回の記憶を保持しており、サンドロテの魅了によってレイと自身を引き裂かれた記憶も持っていた。
復讐に来たのかと身構えるサンドロテだが、マルグリットにそのつもりはないようだ。マスクをしているとはいえ単身やってきて、前と同じことをされるという可能性は考えないのだろうかと、内心サンドロテはマルグリットという愚直な男に呆れの念を抱いていた。彼の魅了の力だけは本物で、対象者の皮膚に体液をつけてしまえばあっという間にその虜になるというのに。
それは、軽い失望だった。見せかけの完璧な王子様なマルグリットに惚れた自分は、存外こどもっぽく思慮が浅く自分勝手な目の前の男に、恋に恋をしていたのだろうとようやく悟る。
思い出は美化され、脳の都合の良いように変えられていたのだと、目からフィルターが外れたかのように、彼の目には瞬時に現実が舞い戻ってきた。
個人の感想は置いておき、さて王子は何を言い出すのだろうかとサンドロテは彼を注意深く観察するように、見つめた。
「サンドロテ。すまないが私の事は、どうか諦めてほしい。私はレイと人生を共に歩んでゆきたい。魅了に侵されていたとはいえ、私は酷い男だった、不誠実だった。本当に申し訳ないと思っている。……けれどもどうか、今世では私とレイをその力で引き裂かないでほしい」
どうやらこの人生では、マルグリットは二度と自分たちに関わらないでほしいとサンドロテに懇願をしているようだった。ざわめく周囲と騒ぎを聞きつけやってきたレイは瞬時に何かを察したのか「馬鹿野郎」とマルグリットの後ろで頭を抱えており、サンドロテの後ろからは存外俊敏な巨漢の気配がもうあった。
「……」
サンドロテは、だんだんと腹が立ってきた。確かに前世については言い逃れができないほどに沢山の恨みを買ってきた。いつしか彼もようやくそこには気づいていた。心のない魅了がどうしようもなく精神を摩耗させることも、その虚しさも知っていたからこそ今世の彼は大人しくしていた。
いつまでも自惚れているなと、思いあがるなと八つ当たりと苛立ち紛れの強い怒りがあった。
「失礼ながら、殿下が何をおっしゃっているのは私には理解できません。殿下は聡明でお美しいことは周知の事実ですが、だからといって誰もかれもが殿下に心を惑わせるということは……申し訳ありませんが『今』の私には大切な婚約者がおりますので、失礼を」
キッと睨み付け一礼し、サンドロテはそのまま後ろにいたドミニエルの手を上品な所作で取るとドミニエルも何も言わず、黙ってその場を退散するのに付き合ってくれた。
呆然としているマルグリットに対してレイは首を横に振る。
「……いくら極上のイケメンだからって、誰もが貴方に恋すると思うなよ。そういうことです」
要約するとそういう意味だ。例え心のうちに未練や黒い念がまだあろうとも過去と決別し、マルグリットやレイたち、過去の被害者達と一切関わらないようにしていたサンドロテこそが今世では正しい。
その努力や配慮を微塵も汲み取ってやらず、レイと己の身の保身のためにずかずかと彼の柔い部分に踏み込んでいったマルグリットは猛省し少しばかり恥をかくべきだと、レイは敢えて彼を擁護しなかった。
「……そうか、考えが至らずに私は余計なことをしてしまったのだな。我ながら思い上がりも甚だしい……また、私はやり方を間違えた。申し訳ない。本当にすまないと思うのならば、近寄らずにそのまま過去として消えるのはむしろ私の方だった。互いのためにも」
「全くもってその通りだ」とレイ・グーベルクは王子の言葉を否定してやらず、少しだけ異世界転生前の高東怜に戻って、眩しいような表情でサンドロテを見送っていた。
その後、ガーディッチ国の第一王子の勘違いを一蹴し袖にした面白い男として、サンドロテは一時期注目を浴びた。彼の美貌に気付いた男たちがすり寄っても来たが、見せかけだけの煌びやかな男たちに興味がわくこともなく、彼はドミニエルの傍にいた。
ドミニエルはいつでも黙って傍に居てはくれるが、彼は自分のことをどう思っているのだろう、両家が決めた婚姻だからと無理をしていないだろうか。そもそも彼の好みは女性ではないだろうか、いくら容姿に恵まれているとはいえ自分は男だ、と気になりだしたのはそれから間もなくの事だった。
魅了の恐ろしさはこの国では最早周知の事実というもので、不治の病として遠ざけられてはいるが裏では軍事や何かしらの黒い目的に利用できないかと、やはりその用途は密かに研究対象となっている。
サンドロテの二つ上だったドミニエルはハク・エーキ学園を卒業し騎士となり、敵国との戦いに明け暮れる毎日を過ごしている。
「ドミニエル様が、投獄された……?」
ドミニエルたちは、小国ではあるが好戦的な敵国に掴まったのだという。捕まった兵士たちは普通であれば皆時を置かずに処刑されてしまうが、彼らは非常に好色で解放条件として男女問わず見目麗しいガーディッチ国の性奴隷を求めてきた。
このままではドミニエルどころか息子の婚約者一人守れず情けないと泣き崩れるバーガイド夫妻やワチエ男爵を尻目に、サンドロテはついに自分の特性が、本当の意味で人の役に立てる時が来たと気を引き締めるように背筋をピンと伸ばした。
某日、サンドロテはヴェールを被りまるで花嫁のような純白の礼服で敵国へとやってきた。ほかの奴隷として連れ出された者たちは皆顔を青ざめさせ、中には泣き崩れる者も少なくはないというのに、サンドロテだけは表情一つ崩さず先頭を歩いている。
敵国の王はでっぷりとした身体を王座に預けて、にやにやといやらしい目つきをサンドロテたちに投げかけている。
「面を上げよ」
敵国の王の言葉に、サンドロテはすくりと立ち上がりヴェールを指でするりと蠱惑的にどけてみせる。前世とは言え数多の男を落としてきたその煌めくばかりの美貌を目にすると、王は表情を固まらせそれから近くに寄るように命じる。
サンドロテにとっては、この一瞬が勝負の時だった。王の首にするりと自身の嫋やかな腕を絡ませ、唇に唇を押し当て、舌をねじ入れる。
愚王の下にサンドロテの蜜が絡まれば、最早目的は達成したも同然だ。彼は、耳元で蠱惑的に何かを囁き、操られたかのように王は頷き、それから言葉を紡ぐ。
「……奴隷たちも、兵士たちもガーディッチ国へ帰せ」
「王よ、もうガーディッチ国に危害を加えることはありませんか?」
「ああ、全面降伏する」
にたりと歪んだ笑みを浮かべるサンドロテの目には、ガーディッチ国が応援で呼び寄せた兵士たちが群れを成してこちらに向かっているところだった。
その後、サンドロテはドミニエルとの婚約を白紙に戻してもらい、ガーディッチ国の暗部の組織として働いた。
無論、魅了を活かしてハニートラップを仕掛けるのが彼の役割だ。
別れはサンドロテのほうから告げた。けれどもドミニエルと直接顔を合わせてしまうと決心が鈍ってしまうので、ワチエ男爵とバーガイド家の双方で半ば一方的に告げることになった。
「本当に良いのかサンドロテ」
「はい。ドミニエル様はいい男です。とてもいい男なんです。彼には純朴であっても一途に彼を慕ってくれる人が相応しい」
サンドロテは、過去に自分の魅了によって潰してきた愛の数だけこの国のために働きますと宣誓した。それが終わったのなら今度こそ自分はこの国を去る、無論ガーディッチ国にも他の国にも生涯厄介ごとは持ち込まず慎ましく生きるつもりだと添えて。
その言葉に顔を歪めたのは、現陛下となったマルグリットとその王妃レイだ。
結婚してすぐ、この二人には双子の可愛い赤ちゃんが生まれたのだという。
「……この俺が今のお前をそのまま見捨てると、思うなよ」
マルグリットにも悟られぬように、こっそりぽつりとこぼしたのはやはりレイだ。
サンドロテの暗躍は凄まじく、落ちぬターゲットなど一人もいなかった。けれども彼の身は「清らかなまま」であり、こんな仕事をしているというのにサンドロテの純潔は守られたままだった。
何せサンドロテの魅了の力は国を傾けさせるほどに強いものなのだ。ディープキスなど施さなくても、彼が強く念じてターゲットの手のひらに親愛のキスを落とし、手の甲にでもぺろりと舌を這わせればそれで終わりだ。
「(こんなことなら、あの悪王の時も唇なんてくれてやらなければよかった)」
少しだけ後悔したのは、彼が初めてハニートラップを作動させたあの出来事だ。初めてはドミニエルがよかったと思うのは、前世で散々人の恋を食い荒らしてきた自身が思うにはあまりにも烏滸がましいものだと彼は自ら律する。
「(それに)」
ドミニエルは魅了が効かない特異体質だったが、それを抜きにしても彼がサンドロテをそういう意味で好意があったのかは今もわからない。
少なくとも嫌われてはいなかったのだろう、けれども当時は婚約者だからとただ合わせてくれただけかもしれない。サンドロテの中でドミニエルはどこまでも強く優しい男だった。彼との時は平穏で安らぎがあり、けれどもどこか心が浮き立つような思いもあった。
だからこそ、この身を捨て石にしてでもサンドロテは彼を救いたかったのだ。
「(今日もまた、無事だった)」
彼の言う無事とは貞操の事だが、時折あわやという場面には何度も遭遇するが、その度にターゲットが身を硬直させたり謎の発作に襲われるなどして、彼の純潔が奪われることはなかった。もしも神という者がいるのなら、サンドロテに哀れみと加護をかけてくれたのかもしれないと、彼はその存在を信じ祈るようになった。
「(ドミニエルが元気でありますように)」
「(ドミニエルが幸せでありますように)」
「(ドミニエルが……)」
たとえ自分がその隣にいなくとも、別の誰かがドミニエルを幸せにしてくれるならそれでもいい。心のうちではいくら尊いことを考えても、感情というものは騙されてくれず押し込めれば押し込めるほど、溢れ出すものだ。
祈りが終わると、サンドロテはいつも両目から透明な粒を滴り落としていた。
「これまでよく、国のために尽くしてくれた。礼を言う」
マルグリット陛下に謝意を表されて、サンドロテは何がわからないという風に目を白黒させてしまった。マルグリットの隣ではレイが穏やかな眼差しでこちらに笑みを向けている。旧友に対するそれのような笑顔に、サンドロテは面食らってしまう。
前世で彼は恋敵であり、自身は最愛を奪い去った悪役でしかないのだから。
私はそのような礼も好意も向けられる対象ではない、と言葉を紡ごうとするが、何者かの強い力でそれらはやんわりと優しく拒絶された。
「(……っ!)」
背筋が凍るようなこの魔力には覚えがあった。前世で婚約破棄騒動が行われる時に、毛の先一つも動けなくなるような強大な魔力は、レイから放たれたものだ。
サンドロテはハニートラップにおいては実に優秀な工作員ではあったが、思えば、そんなサンドロテですらもターゲットの卑劣な手によって犯されそうになりもう駄目だと思った瞬間、相手が突然身体を硬直させ身体が動かなくなることが、数は多くないが何度かあった。
「(あなたが)」
あなたが助けてくれたのですか?サンドロテのそんな言葉もレイは言わせまいとするように、口がジッパーで縫い付けられたかのように何も発することはできなかった。
過去を思い出せば怒りが湧き上がり、また破滅の衝動が蘇ってしまう。だから、身勝手だけれど罪を許しもしないしあなたと無理に和解を求めるつもりもない。
あなたにもそうしろとは言わない、言えない。今後も恨みや憎しみの念を私たちに抱いても構わない。けれども。
「どうか、どこかで幸せになってください」
何かのはずみでまた前世を思い出して心がかき乱されるかもしれない。けれども時の経過と忘却に頼って、俺はゆっくりゆっくり忘れてゆこうと思います。
だからどうか、幸せになってください。願わくば俺たちの事は忘れるか「あんないけすかない奴がいたんだ、嫌な奴がいたもんだよ」といつかは過去の思い出となりますように。レイは、高東怜はそう願った。
魅惑の贖罪はとうに償った。そもそも「この世界」にはサンドロテの手によって引き裂かれ不幸になった者達はもうどこにもいないというのに、彼は自分が壊した数だけ暗躍し、任務を果たした。
任務という名の刑期は数年足らずだが、数十人のターゲットを魅了し廃人にしてきたサンドロテは、己が犯した前世の業の数の多さに力なく笑った。とんだビッチだと初めて己を卑下し自嘲した。
「行こう」
ここには魅了によって偽りの恋に身を滅ぼし、義手義足になった哀れな王子はどこにもいない。
「行こう」
ここには、サンドロテの所業で地の底まで評判を落とした男爵家もなければ、廃人のようにぼろぼろにされた男たちも恋人や婚約者、夫を失った者たちももうどこにもいない。
「行こう」
けれども、サンドロテはこの国では生きていけないとそれだけは強く思った。かつて、いや今世の元想い人で初恋だった男が統べる国に居ては、いつまでも心の古傷が癒えてくれないだろうから。向こうにとっての目の上のたん瘤や棘のような存在に、サンドロテもなりたくはなかった。
「……行こう」
唯一の未練は、ドミニエルだった。初めてきっと思い通りにならなかったであろう愛しい人。我が友人我が親友我が兄弟、我が永遠の恋人。
彼を思い出すたびに、数多咲き誇る花の上を滑る春風のような、新芽が顔を出す緑の匂いのような、夏のどこまでも突き抜けるすがすがしい青空のような何物にも代えがたい思い出が瞬時に全身に広がっては、名残惜しさすらも残してはくれず記憶の底に掻き消えてゆく。
前世のトラウマとでも言うべきか、サンドロテは隣国への旅立ちに馬車を嫌がった。歩けば歩くだけ未練を少しづつ道に置き去りにしてゆけるだろうと、彼は旅人の装いでガーディッチ国を後にした。
いくら魅了のスキルがあるとはいえ、人間ならともかく獣たちにはそれが効くかどうかわからない。盗賊に遭うかもしれないし、事故に遭う可能性も勿論ある。
これまで国のため身を粉にして働いてくれた選別として、か弱いサンドロテにこっそり隣国まで兵を数人付け見届けようとしたレイの提案を遮った者が一人、いた。
「あんた、本当におおきいねぇ」
だから、こっそり付けようとしても僕にはすぐわかるんだよ。ぼたぼた大粒の涙を零すサンドロテの目を不器用に拭ってやるのは、ドミニエルだった。
少しだけ落ち着いたサンドロテの頭を乱暴に撫でてやると、二人は並んで隣国へと歩き出す。
「お仕事は?」
「俺は軍人だ。駐屯地は隣国にある」
実のところ、彼は突然マルグリット直々に隣国への勤務を命じられていたのだが、ドミニエルはそのことは口にはしなかった。なぜならサンドロテに訊ねられていないからだ。
「じゃあ、向こうまで一緒だ。旅は道連れ世は情け?だっけ」
「ん」
「実のところあんたは、僕の事どう思ってたの。突然男の婚約者だなんてびっくりしたんじゃない?」
「……俺には兄が三人いる。別に俺が子を作らなくても何の問題もない」
「いや、子供のことはこの際おいといてさ……普通に綺麗な令嬢と恋人になりたい、とか一応あんたにも好みってもんがあるでしょう」
学園や特殊任務で身に着けた礼儀や作法、敬語もドミニエルの前ではすべてが解除されてしまう。
ドミニエルは山のような巨漢を身じろぎもせず、しばらくしてコテンと首を傾けながらこう告げた。
「お前ほど、綺麗な者は他に居ない」
ドミニエルは客観的に容姿に対する感覚と美的の観点から、表情も変えずにそう答えただけのようだが、サンドロテの頬を赤らめさせるのにそれは相当な破壊力だった。
「で、でもねえ!僕の仕事は知ってるだろう。任務のためとはいえ何人もの男を咥え込んで魅了させてさ。初めてなんて上げられないし、こんなビッチが誰かと添い遂げるなんてもう」
今世では身体は清らかだが、やはり前世の事がサンドロテの心に今更ながら影を落としているのだろう。まさか全力で愛したいと思える者に出会えるとは思っていなかったのだから。
「初めてなんてどうでもいい。お前の最後が欲しい」
サンドロテに命を救われるずっと前から、学園で過ごす何気ない日々のうちから、ドミニエルにはサンドロテは宝石のように眩いばかりに煌めて見えていた。
婚約を白紙にされても特殊任務に就く彼の護衛を申し出て、いつもその様子を見守っていたのもドミニエルだ。彼ほどの武人であれば気配を殺して敵を暗殺するぐらいは容易だった。
それでは何故隣国へ旅立つ彼の後を、わざと見つかるように付けていたのか?
……彼だって、思い人との久しぶりの逢瀬に心が色めきだっていたのだ。
「くれ」
菓子か何かのようにサンドロテを強請る寡黙な巨漢にぽかんとした眼差しを数秒向けた後、サンドロテは「やる、いくらでも」とドミニエルの胸に飛び込んだ。
『自分』は確かに死んだはずであった。
恋仲であったマルグリット殿下に「お前はもういらない」と捨てられ、国外追放を言い渡された。失意のうちに遠い隣国へ向かっている最中馬車が突然崖に転落した。
そして悪意ある何者かの手によって追い打ちをかけるように馬車ごと燃やされ、逃げることも叶わずに惨たらしく焼け爛れながら、業火の熱と黒の煙で呼吸すらもまともにできず、苦しみ抜いてこの世を去ったはずだ。
マルグリット殿下は自分を愛してくれたが、身分の差により添い遂げることは叶わなかった。それどころか軟禁され殿下が世継ぎを作るためだけの道具として、非人道的な妾以下の扱いを長年受け続けていた。
そんなある日、これまで彼らの前から姿を消していた殿下の政略結婚の相手であるレイ・グーベルクが突然現れ、マルグリットはレイに身も心も奪われてしまった……と彼は認識していた。
辛い過去の記憶から現在に浮上すると、自身の手の小ささや部屋の様子や豪華なベッド、それから机に置かれた稚拙な日記から、恐らくここは彼が十歳になったばかりの頃、男爵であるワチエ家に養子として引き取られて間もない時期だとサンドロテ・ワチエは理解した。
これは死に戻りというものだろうか。凄惨な前回の人生から学園に入学する前の彼に舞い戻ったようだった。
……ああ、そうだろう。おっしゃりたいことは何となくだがわかる。この小説を読む殆どの聡明な読者であれば、前作から読んでいただけているのであろうから。
恋仲であったマルグリット殿下、そもそもの前提がおかしい。
『レイ・グーベルクにマルグリットを奪われた』
魅了の力でレイからマルグリットを奪ったのは他でもないお前であろうというのもその通りだ。
『悪意ある何者かの手によって』
前回は両手両足じゃ足りないぐらいの既婚者や恋人持ちの男を何人もたぶらかし、どこでとまでは言わないが数多のそれを咥え込んだサンドロテ・ワチエだ。彼らの婚約者や恋人から複数個所腹を同時に刺されても文句は言えないぐらいに恨まれているのも、それは当然だろう。
人間の心のうちなど、見方を変えてしまえばこのように誰かは誰かにとっての悪人であり、逆もまたしかりだ。特に一人称の小説などは「それ」の独白めいた言葉で紡がれてゆくのだから、周囲から見た「それ」が本当の所はどうかなど、読み手には未来永劫わからない。
前世で散々悪行を重ねてきた悪役令息は、死に戻った世界では生き残るために奮闘し、まともになろうと努力をする者も多いだろうが、果たしてサンドロテ・ワチエはどうだろうか。
前回を入れると人生二度目となるハク・エーキ学園に入学したサンドロテは、前回とは異なる物々しい周囲の様子に唖然とした。
そこでは令嬢も令息も特待生として入学している平民たちも皆、簡易な口元を布で覆うものから、重装備の場合はどこかの中世でペスト感染時に流行ったような悍ましい鳥のようなくちばしマスクを装着している。
「こ、これは一体何が」
「あら?あなたはマスクを持っていないの?」
前回の僅かながらの記憶や礼儀をフル動員させて、一見儚げだが中身は恐らく女戦士のような強かな令嬢に、自分は転入生なので申し訳ないが勝手がわからないと伝える。
「まあ、そうだったのね。実はこの学園で例の流行病が蔓延していて……唾液や粘膜の接触でも感染するそうなの。病を患った人は心を奪われたように感染させた人間に従順になってしまうそうよ。魅了という怖ろしい病なのよ、あなたも気を付けてね」
「……」
令嬢は、親切にもストックの使い捨て布マスクをサンドロテに手渡し、優雅にその場を去っていった。
「……」
この蘇った世界では魅了は病扱いされており、また中世ならびにファンタジーの世界らしからぬ徹底したソーシャルディスタンスと清潔を心がけることにより、魅了は疎か普通に流行病や性病に罹る者も減少の一途を辿っていた。
……この点だけにおいては非常に良いことではないだろうか。
「……」
マスク効果と魅了の危険性が周知されたことにより、サンドロテは自身の武器である顔を使えなくなり、キスは疎か手を繋ぐこともままならない現状によって、一人も男を落とすことができずにいた。
それはマスクだけが理由ではなく、サンドロテに魅了された「被害者」が見つかれば、前回と違いサンドロテは今度こそ超強力な感染源として秘密裏に処分されてしまう危険があるからだ。
性欲も命あっての物種、ということだろう。
マスクとは美形を覆い隠すものではあるが、反面それほどでもない容姿……もとい、落ち着いた目に優しい容姿も逆に美しく補正してくれるものなので、目の形や体躯が良く話題にも富んでおり人当たりと知識、それからオーラがある雰囲気イケメンや雰囲気美人はやはり普通にモテた。これは現在社会でもそう変わらないのではないだろうか。
「……」
サンドロテは、初めて人生で挫折を味わった。もともとはサンドロテが動かなくともいつもであれば向こうから誰かが彼の者へ絶えずやってきて、男たちに囲まれているのが常であったためだ。顔の良さがなければ気の利いたことも言えず、知力も乏しい元来引っ込み思案でおどおどした性質のサンドロテは悪目立ちしかしなかった。
この学園に転入してから数か月後、美しい男がそこにいた。目元からでもわかる笑みを絶やさない全ての者に対して平等な慈愛に満ちた眼差し、マスクで覆い隠されていてもわかる美しさ、全身が煌いている長身の美男子……マルグリット・ド・ガーディッチ王子だ。
例え前世で身を焼かれても、その身体には彼の匂いや感覚が覚えているものだろうか。サンドロテは縋りつくように思わずマルグリットの元へ歩み寄ろうとした。
「あ……」
きょろきょろ辺りを見当たすと、誰もいないことを確認したマルグリットは近くにいたレイ・グーベルクに後ろから抱き付き、ぐりぐりと甘えた仔犬のようにレイにその身を摺り寄せている。
「疲れた」
「奇遇ですね、私もです」
「次の授業サボろう」
「一国の王となる人が何を言っているんですか。めっ」
「……ふふふ」
「怒られたのに、何が楽しいんですか?」
「レイが構ってくれるから、それが嬉しいんだ」
「……しかたのない王子様だ」
普段の絵に描いたような王子様風情を完全に取っ払って甘える大型犬のような男は、少しだけ身をかがめた姿でレイを待つ。レイは「仕方がないな」という風で、つま先立ちでマルグリットの頬に手を置いて、重ねるだけのキスをした。
「ありがとうレイ、次の授業も頑張れる」
「その次は?」
「またキスして」
「燃費の悪い王子様だなぁ……」
政略結婚とは言え婚約者同士だ。性交は許されていないがこれぐらいであればこっそり周囲の目を掻い潜っておこなうカップルは多い。
「マルグリット、マルグ様……」
政略結婚のはずなのに、傍目から見ただけでも二人には確かに友愛だけではない、甘酸っぱいどこかがジンと痺れるようなものが確かにあった。
サンドロテの脳裏にかつてのマルグリットが蘇る。唇を奪った後の従順になったマルグリット、自身をマルグと呼ぶことを許すマルグリット、幾度も獣のようなまぐわいを繰り返した彼の姿が、焦がれるような胸の熱と共に蘇る。
身の保身とマルグリットの醜態に幻滅し身勝手に捨てて、そしてまた拾い上げようとして捨てられたそれは、実のところサンドロテの手にすら収まることは一時もなかったけれど。気づいたら恋だったというのは何とも自分勝手で全てが遅すぎた。
サンドロテが走り去ってゆく姿は、レイだけが気づいていた。
「サンドロテ、学校は楽しいか」
「……はい、お義父様」
失恋というものは、少しばかりその心を成長させてくれる成長痛のようなものでもあるのだろうか。失う痛みは、他の者たちはどうだったのだろうという考えに至り、それから初めて彼は数多の恋を潰してきた重みに気付いた。
もう魅了にまかせて男を漁ることもできないサンドロテは退屈していたが、やることがないのでこれでも少しは勉強についてゆくことができた。
今日も暇を持て余し、こちらで言うところの国語の授業の題材に使われた小説を自ら求め、読んでいるところだ。
タイトルは「隣人の恋愛」という、主人公の近くにいる恋人たちを単なる隣人として時折様子を見ているうちに、実は主人公が恋をしていたのは、その恋人の片割れだったという話だ。好きだと気づいてからも主人公は何をするわけでもなく、ただただ恋が失恋に変わり、そして鈍い痛みを抱いているというだけというところで物語は終わる。
ぼんやりとしてほろ苦く読後感もすっきりしない。何故そんな話を教材にしたのかは謎だが、今のサンドロテにもどこか心に鈍く響いた。
「サンドロテ、お前に縁談が来ている」
「私が、ですか?」
魅了の検査をおこない、国家転覆レベルの強い反応が出たサンドロテのことは、ワチエ男爵も知っていた。ハク・エーキ学園への入学が許されたのも、監視と実験材料目的の意味あいもある。
「ここにやって来てからのお前は、非常によくやっている。父母と引きはがされても泣くこともせず、学校でも真面目に授業を受けていると聞いている」
「……」
実際には成績は辛うじて進級できるレベルの赤点よりぎりぎり上ぐらいであり、普段は持ち前の美貌をマスクで覆い隠しているので、目が大きいだけのチビとして教室の隅で大人しく過ごしている生徒に成り下がっていた。
「それに、お相手の子爵は代々騎士の家系でな……その息子は生まれつき魅了に耐性のあるお方なんだ」
「……」
魅了が全く効かない男という言葉に、サンドロテはどこか妙に関心を覚えた。
婚約者として紹介されたドミニエル・バーガイトは、寡黙で岩石のようにずっしりと構えている、眼光が鋭いヒグマのような巨漢だった。
「あんた、おおきいねぇ」
ぽろりと口から零れ落ちた本心を、慌てて引っ込めようとするもすでに遅く、ドミニエルは一瞬目を瞬いて見せると「ああ」と一言だけ返した。
どこに居ても目立ち、そして嵩張るドミニエルという大男は顔も角張っており美男子な容姿とは外れるものの、見ようによってはほんの少しだけ動物的な愛嬌があると言えるかもしれない。
「独活の大木」と陰口を叩かれることも多かったが、それは彼に対する嫉妬のようなもので、ドミニエルは身体の大きさの割に俊敏で、武力は言わずもがな国でも一、二を争う戦闘能力に特化した強い男だった。
美女と猛獣、ヒグマと幼児、そんな風に揶揄される二人だが不思議と関係は悪くなかった。サンドロテは頭を使った貴族たちのハイセンスな会話が苦手だが、元々ドミニエルは寡黙だ。サンドロテの子供のような独り言も疑問も、最低限の言葉で返してくれる。
そもそも沈黙が続いても一向に構わないというのが二人のスタンスだ。ドミニエルはいつも寝ているか剣の手入れをしており、サンドロテはその広すぎる背中に身を預けて本を読んだり彼の数少ない趣味であるあやとりをしている。
「ん」
お前が好きそうだからと手渡された本は「運命じゃなくとも」という恋愛小説だった。市井で数年前に少し流行ったそれは、脛に傷を持つ者同士が紆余曲折あって結ばれるというよくある話だが、サンドロテは少女のように顔を耳まで赤らめて、あどけない笑顔を向けて見せながら「ありがとう」と本を胸に抱きかかえた。
退屈な程に穏やかな日々は存外悪くなく、春風のように心地よかった。
「すまなかった」
嵐の日は突然に。今世では一切接触を行っていなかったマルグリットがサンドロテの前にやってきて、頭を下げている。
「どうぞおやめください、頭を上げてください。突然どうしたというのですか?」
周囲のざわつく声よりも先に、サンドロテは困惑した様子で問いかける。マルグリットから数歩下がった距離を置いているのは、前世の記憶や礼儀でもなく完全の彼とマルグリットとの心の距離だ。
驚いたことにマルグリットも前回の記憶を保持しており、サンドロテの魅了によってレイと自身を引き裂かれた記憶も持っていた。
復讐に来たのかと身構えるサンドロテだが、マルグリットにそのつもりはないようだ。マスクをしているとはいえ単身やってきて、前と同じことをされるという可能性は考えないのだろうかと、内心サンドロテはマルグリットという愚直な男に呆れの念を抱いていた。彼の魅了の力だけは本物で、対象者の皮膚に体液をつけてしまえばあっという間にその虜になるというのに。
それは、軽い失望だった。見せかけの完璧な王子様なマルグリットに惚れた自分は、存外こどもっぽく思慮が浅く自分勝手な目の前の男に、恋に恋をしていたのだろうとようやく悟る。
思い出は美化され、脳の都合の良いように変えられていたのだと、目からフィルターが外れたかのように、彼の目には瞬時に現実が舞い戻ってきた。
個人の感想は置いておき、さて王子は何を言い出すのだろうかとサンドロテは彼を注意深く観察するように、見つめた。
「サンドロテ。すまないが私の事は、どうか諦めてほしい。私はレイと人生を共に歩んでゆきたい。魅了に侵されていたとはいえ、私は酷い男だった、不誠実だった。本当に申し訳ないと思っている。……けれどもどうか、今世では私とレイをその力で引き裂かないでほしい」
どうやらこの人生では、マルグリットは二度と自分たちに関わらないでほしいとサンドロテに懇願をしているようだった。ざわめく周囲と騒ぎを聞きつけやってきたレイは瞬時に何かを察したのか「馬鹿野郎」とマルグリットの後ろで頭を抱えており、サンドロテの後ろからは存外俊敏な巨漢の気配がもうあった。
「……」
サンドロテは、だんだんと腹が立ってきた。確かに前世については言い逃れができないほどに沢山の恨みを買ってきた。いつしか彼もようやくそこには気づいていた。心のない魅了がどうしようもなく精神を摩耗させることも、その虚しさも知っていたからこそ今世の彼は大人しくしていた。
いつまでも自惚れているなと、思いあがるなと八つ当たりと苛立ち紛れの強い怒りがあった。
「失礼ながら、殿下が何をおっしゃっているのは私には理解できません。殿下は聡明でお美しいことは周知の事実ですが、だからといって誰もかれもが殿下に心を惑わせるということは……申し訳ありませんが『今』の私には大切な婚約者がおりますので、失礼を」
キッと睨み付け一礼し、サンドロテはそのまま後ろにいたドミニエルの手を上品な所作で取るとドミニエルも何も言わず、黙ってその場を退散するのに付き合ってくれた。
呆然としているマルグリットに対してレイは首を横に振る。
「……いくら極上のイケメンだからって、誰もが貴方に恋すると思うなよ。そういうことです」
要約するとそういう意味だ。例え心のうちに未練や黒い念がまだあろうとも過去と決別し、マルグリットやレイたち、過去の被害者達と一切関わらないようにしていたサンドロテこそが今世では正しい。
その努力や配慮を微塵も汲み取ってやらず、レイと己の身の保身のためにずかずかと彼の柔い部分に踏み込んでいったマルグリットは猛省し少しばかり恥をかくべきだと、レイは敢えて彼を擁護しなかった。
「……そうか、考えが至らずに私は余計なことをしてしまったのだな。我ながら思い上がりも甚だしい……また、私はやり方を間違えた。申し訳ない。本当にすまないと思うのならば、近寄らずにそのまま過去として消えるのはむしろ私の方だった。互いのためにも」
「全くもってその通りだ」とレイ・グーベルクは王子の言葉を否定してやらず、少しだけ異世界転生前の高東怜に戻って、眩しいような表情でサンドロテを見送っていた。
その後、ガーディッチ国の第一王子の勘違いを一蹴し袖にした面白い男として、サンドロテは一時期注目を浴びた。彼の美貌に気付いた男たちがすり寄っても来たが、見せかけだけの煌びやかな男たちに興味がわくこともなく、彼はドミニエルの傍にいた。
ドミニエルはいつでも黙って傍に居てはくれるが、彼は自分のことをどう思っているのだろう、両家が決めた婚姻だからと無理をしていないだろうか。そもそも彼の好みは女性ではないだろうか、いくら容姿に恵まれているとはいえ自分は男だ、と気になりだしたのはそれから間もなくの事だった。
魅了の恐ろしさはこの国では最早周知の事実というもので、不治の病として遠ざけられてはいるが裏では軍事や何かしらの黒い目的に利用できないかと、やはりその用途は密かに研究対象となっている。
サンドロテの二つ上だったドミニエルはハク・エーキ学園を卒業し騎士となり、敵国との戦いに明け暮れる毎日を過ごしている。
「ドミニエル様が、投獄された……?」
ドミニエルたちは、小国ではあるが好戦的な敵国に掴まったのだという。捕まった兵士たちは普通であれば皆時を置かずに処刑されてしまうが、彼らは非常に好色で解放条件として男女問わず見目麗しいガーディッチ国の性奴隷を求めてきた。
このままではドミニエルどころか息子の婚約者一人守れず情けないと泣き崩れるバーガイド夫妻やワチエ男爵を尻目に、サンドロテはついに自分の特性が、本当の意味で人の役に立てる時が来たと気を引き締めるように背筋をピンと伸ばした。
某日、サンドロテはヴェールを被りまるで花嫁のような純白の礼服で敵国へとやってきた。ほかの奴隷として連れ出された者たちは皆顔を青ざめさせ、中には泣き崩れる者も少なくはないというのに、サンドロテだけは表情一つ崩さず先頭を歩いている。
敵国の王はでっぷりとした身体を王座に預けて、にやにやといやらしい目つきをサンドロテたちに投げかけている。
「面を上げよ」
敵国の王の言葉に、サンドロテはすくりと立ち上がりヴェールを指でするりと蠱惑的にどけてみせる。前世とは言え数多の男を落としてきたその煌めくばかりの美貌を目にすると、王は表情を固まらせそれから近くに寄るように命じる。
サンドロテにとっては、この一瞬が勝負の時だった。王の首にするりと自身の嫋やかな腕を絡ませ、唇に唇を押し当て、舌をねじ入れる。
愚王の下にサンドロテの蜜が絡まれば、最早目的は達成したも同然だ。彼は、耳元で蠱惑的に何かを囁き、操られたかのように王は頷き、それから言葉を紡ぐ。
「……奴隷たちも、兵士たちもガーディッチ国へ帰せ」
「王よ、もうガーディッチ国に危害を加えることはありませんか?」
「ああ、全面降伏する」
にたりと歪んだ笑みを浮かべるサンドロテの目には、ガーディッチ国が応援で呼び寄せた兵士たちが群れを成してこちらに向かっているところだった。
その後、サンドロテはドミニエルとの婚約を白紙に戻してもらい、ガーディッチ国の暗部の組織として働いた。
無論、魅了を活かしてハニートラップを仕掛けるのが彼の役割だ。
別れはサンドロテのほうから告げた。けれどもドミニエルと直接顔を合わせてしまうと決心が鈍ってしまうので、ワチエ男爵とバーガイド家の双方で半ば一方的に告げることになった。
「本当に良いのかサンドロテ」
「はい。ドミニエル様はいい男です。とてもいい男なんです。彼には純朴であっても一途に彼を慕ってくれる人が相応しい」
サンドロテは、過去に自分の魅了によって潰してきた愛の数だけこの国のために働きますと宣誓した。それが終わったのなら今度こそ自分はこの国を去る、無論ガーディッチ国にも他の国にも生涯厄介ごとは持ち込まず慎ましく生きるつもりだと添えて。
その言葉に顔を歪めたのは、現陛下となったマルグリットとその王妃レイだ。
結婚してすぐ、この二人には双子の可愛い赤ちゃんが生まれたのだという。
「……この俺が今のお前をそのまま見捨てると、思うなよ」
マルグリットにも悟られぬように、こっそりぽつりとこぼしたのはやはりレイだ。
サンドロテの暗躍は凄まじく、落ちぬターゲットなど一人もいなかった。けれども彼の身は「清らかなまま」であり、こんな仕事をしているというのにサンドロテの純潔は守られたままだった。
何せサンドロテの魅了の力は国を傾けさせるほどに強いものなのだ。ディープキスなど施さなくても、彼が強く念じてターゲットの手のひらに親愛のキスを落とし、手の甲にでもぺろりと舌を這わせればそれで終わりだ。
「(こんなことなら、あの悪王の時も唇なんてくれてやらなければよかった)」
少しだけ後悔したのは、彼が初めてハニートラップを作動させたあの出来事だ。初めてはドミニエルがよかったと思うのは、前世で散々人の恋を食い荒らしてきた自身が思うにはあまりにも烏滸がましいものだと彼は自ら律する。
「(それに)」
ドミニエルは魅了が効かない特異体質だったが、それを抜きにしても彼がサンドロテをそういう意味で好意があったのかは今もわからない。
少なくとも嫌われてはいなかったのだろう、けれども当時は婚約者だからとただ合わせてくれただけかもしれない。サンドロテの中でドミニエルはどこまでも強く優しい男だった。彼との時は平穏で安らぎがあり、けれどもどこか心が浮き立つような思いもあった。
だからこそ、この身を捨て石にしてでもサンドロテは彼を救いたかったのだ。
「(今日もまた、無事だった)」
彼の言う無事とは貞操の事だが、時折あわやという場面には何度も遭遇するが、その度にターゲットが身を硬直させたり謎の発作に襲われるなどして、彼の純潔が奪われることはなかった。もしも神という者がいるのなら、サンドロテに哀れみと加護をかけてくれたのかもしれないと、彼はその存在を信じ祈るようになった。
「(ドミニエルが元気でありますように)」
「(ドミニエルが幸せでありますように)」
「(ドミニエルが……)」
たとえ自分がその隣にいなくとも、別の誰かがドミニエルを幸せにしてくれるならそれでもいい。心のうちではいくら尊いことを考えても、感情というものは騙されてくれず押し込めれば押し込めるほど、溢れ出すものだ。
祈りが終わると、サンドロテはいつも両目から透明な粒を滴り落としていた。
「これまでよく、国のために尽くしてくれた。礼を言う」
マルグリット陛下に謝意を表されて、サンドロテは何がわからないという風に目を白黒させてしまった。マルグリットの隣ではレイが穏やかな眼差しでこちらに笑みを向けている。旧友に対するそれのような笑顔に、サンドロテは面食らってしまう。
前世で彼は恋敵であり、自身は最愛を奪い去った悪役でしかないのだから。
私はそのような礼も好意も向けられる対象ではない、と言葉を紡ごうとするが、何者かの強い力でそれらはやんわりと優しく拒絶された。
「(……っ!)」
背筋が凍るようなこの魔力には覚えがあった。前世で婚約破棄騒動が行われる時に、毛の先一つも動けなくなるような強大な魔力は、レイから放たれたものだ。
サンドロテはハニートラップにおいては実に優秀な工作員ではあったが、思えば、そんなサンドロテですらもターゲットの卑劣な手によって犯されそうになりもう駄目だと思った瞬間、相手が突然身体を硬直させ身体が動かなくなることが、数は多くないが何度かあった。
「(あなたが)」
あなたが助けてくれたのですか?サンドロテのそんな言葉もレイは言わせまいとするように、口がジッパーで縫い付けられたかのように何も発することはできなかった。
過去を思い出せば怒りが湧き上がり、また破滅の衝動が蘇ってしまう。だから、身勝手だけれど罪を許しもしないしあなたと無理に和解を求めるつもりもない。
あなたにもそうしろとは言わない、言えない。今後も恨みや憎しみの念を私たちに抱いても構わない。けれども。
「どうか、どこかで幸せになってください」
何かのはずみでまた前世を思い出して心がかき乱されるかもしれない。けれども時の経過と忘却に頼って、俺はゆっくりゆっくり忘れてゆこうと思います。
だからどうか、幸せになってください。願わくば俺たちの事は忘れるか「あんないけすかない奴がいたんだ、嫌な奴がいたもんだよ」といつかは過去の思い出となりますように。レイは、高東怜はそう願った。
魅惑の贖罪はとうに償った。そもそも「この世界」にはサンドロテの手によって引き裂かれ不幸になった者達はもうどこにもいないというのに、彼は自分が壊した数だけ暗躍し、任務を果たした。
任務という名の刑期は数年足らずだが、数十人のターゲットを魅了し廃人にしてきたサンドロテは、己が犯した前世の業の数の多さに力なく笑った。とんだビッチだと初めて己を卑下し自嘲した。
「行こう」
ここには魅了によって偽りの恋に身を滅ぼし、義手義足になった哀れな王子はどこにもいない。
「行こう」
ここには、サンドロテの所業で地の底まで評判を落とした男爵家もなければ、廃人のようにぼろぼろにされた男たちも恋人や婚約者、夫を失った者たちももうどこにもいない。
「行こう」
けれども、サンドロテはこの国では生きていけないとそれだけは強く思った。かつて、いや今世の元想い人で初恋だった男が統べる国に居ては、いつまでも心の古傷が癒えてくれないだろうから。向こうにとっての目の上のたん瘤や棘のような存在に、サンドロテもなりたくはなかった。
「……行こう」
唯一の未練は、ドミニエルだった。初めてきっと思い通りにならなかったであろう愛しい人。我が友人我が親友我が兄弟、我が永遠の恋人。
彼を思い出すたびに、数多咲き誇る花の上を滑る春風のような、新芽が顔を出す緑の匂いのような、夏のどこまでも突き抜けるすがすがしい青空のような何物にも代えがたい思い出が瞬時に全身に広がっては、名残惜しさすらも残してはくれず記憶の底に掻き消えてゆく。
前世のトラウマとでも言うべきか、サンドロテは隣国への旅立ちに馬車を嫌がった。歩けば歩くだけ未練を少しづつ道に置き去りにしてゆけるだろうと、彼は旅人の装いでガーディッチ国を後にした。
いくら魅了のスキルがあるとはいえ、人間ならともかく獣たちにはそれが効くかどうかわからない。盗賊に遭うかもしれないし、事故に遭う可能性も勿論ある。
これまで国のため身を粉にして働いてくれた選別として、か弱いサンドロテにこっそり隣国まで兵を数人付け見届けようとしたレイの提案を遮った者が一人、いた。
「あんた、本当におおきいねぇ」
だから、こっそり付けようとしても僕にはすぐわかるんだよ。ぼたぼた大粒の涙を零すサンドロテの目を不器用に拭ってやるのは、ドミニエルだった。
少しだけ落ち着いたサンドロテの頭を乱暴に撫でてやると、二人は並んで隣国へと歩き出す。
「お仕事は?」
「俺は軍人だ。駐屯地は隣国にある」
実のところ、彼は突然マルグリット直々に隣国への勤務を命じられていたのだが、ドミニエルはそのことは口にはしなかった。なぜならサンドロテに訊ねられていないからだ。
「じゃあ、向こうまで一緒だ。旅は道連れ世は情け?だっけ」
「ん」
「実のところあんたは、僕の事どう思ってたの。突然男の婚約者だなんてびっくりしたんじゃない?」
「……俺には兄が三人いる。別に俺が子を作らなくても何の問題もない」
「いや、子供のことはこの際おいといてさ……普通に綺麗な令嬢と恋人になりたい、とか一応あんたにも好みってもんがあるでしょう」
学園や特殊任務で身に着けた礼儀や作法、敬語もドミニエルの前ではすべてが解除されてしまう。
ドミニエルは山のような巨漢を身じろぎもせず、しばらくしてコテンと首を傾けながらこう告げた。
「お前ほど、綺麗な者は他に居ない」
ドミニエルは客観的に容姿に対する感覚と美的の観点から、表情も変えずにそう答えただけのようだが、サンドロテの頬を赤らめさせるのにそれは相当な破壊力だった。
「で、でもねえ!僕の仕事は知ってるだろう。任務のためとはいえ何人もの男を咥え込んで魅了させてさ。初めてなんて上げられないし、こんなビッチが誰かと添い遂げるなんてもう」
今世では身体は清らかだが、やはり前世の事がサンドロテの心に今更ながら影を落としているのだろう。まさか全力で愛したいと思える者に出会えるとは思っていなかったのだから。
「初めてなんてどうでもいい。お前の最後が欲しい」
サンドロテに命を救われるずっと前から、学園で過ごす何気ない日々のうちから、ドミニエルにはサンドロテは宝石のように眩いばかりに煌めて見えていた。
婚約を白紙にされても特殊任務に就く彼の護衛を申し出て、いつもその様子を見守っていたのもドミニエルだ。彼ほどの武人であれば気配を殺して敵を暗殺するぐらいは容易だった。
それでは何故隣国へ旅立つ彼の後を、わざと見つかるように付けていたのか?
……彼だって、思い人との久しぶりの逢瀬に心が色めきだっていたのだ。
「くれ」
菓子か何かのようにサンドロテを強請る寡黙な巨漢にぽかんとした眼差しを数秒向けた後、サンドロテは「やる、いくらでも」とドミニエルの胸に飛び込んだ。
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