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後編
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今日だけでどれぐらい浴びただろうフラッシュに目をくらませる暇もなく、惇は何度目になるかわからない謝罪の言葉と共に、深々と頭を下げる。
「私は……あと数年で俳優を引退、いや廃業することになると思います。番欠乏症で短命となる可能性が非常に高いためです。ここまで皆様に応援してもらい沢山可愛がっていただき、これから恩返しと言う時に、こればかりは無念で仕方ありません」
番欠乏症とは番を亡くしたΩ、或いはまれにαが心的障害により発症するものだが、他のΩと番えるαとは異なりΩに対しては緩和療法すらも存在しない。
まさに不治と言って差し障りのない病だ。比較的若い個体、もしくは中年層ぐらいのΩがαに番の強制解除をされた際に特に発症しやすいと言われている。死別解消や老年期になってから番を解除された場合この症状はでないか、或いは死が近いためだろう非常に緩やかとも言われている。
「番欠乏症なんてっ!」
俺がさせないと言わんばかりに立ち上がりかける豪を、惇の息のかかったスタッフが全員で取り押さえる。番を持ったαにとって番欠乏症は非常に不名誉な病である。Ω一人も愛することができないのかと周囲から爪弾きにされてしまうのもあるが、αの番に対する執着心はβには理解できないぐらい強いものでもあるためだ。
「私は、ここまで面倒を見てくれた方々に対して残された人生を、せめて社会に少しでも刺激になるような話題の提供と金銭面、そしてバース性の更なる解明の力になればと、少しでも恩返しをしてゆきたいと思っております」
何やら流れが変わったようだと、ここで報道陣と親族達は「ん?」と小首を傾げることになった。
「私は、仕事の傍らある資格の取得に尽力を尽くしておりました。幸か不幸かそれは結婚式の年までに無事習得することができました……特別殺措置看取免許です」
聞き慣れ無さすぎる資格に首を傾ける者、きな臭い事件を負う熟練のジャーナリストは顔を真っ青にさせている。物騒な名前のそれは通称マーダーライセンスとも呼ばれている。この免許は司法試験と医師国家試験を掛け合わせたような非常に難しいものであり、試験を1回受ける度に受験料として数十万円がかかる。
けれども「俳優業の傍ら、あの資格を取得するなんてすごいですね!」という声はどこからも上がらない。
特別殺措置看取免許とは、平たく言うと戦時中以外の平常時に人を殺めても罰せられない免許だ。ただし、事前に殺したい人間を申請する必要があり一人につき申請料として1億円が発生する。また、申請した側と対象者の間に殺人に至る明確な理由がある場合にのみ許可が下りるとも言われている。
金があってもだめ、知力だけがあってもだめという絶妙なバランスで構成されている仇討ち専用ライセンスとでも呼べばいいだろうか。
安楽死が認められていないこの国では、そういった用途もあるがあまりにも金がかかり過ぎるため現実的ではないだろう。
「ライセンス取得のきっかけは、子供の頃の幼い復讐心でした。本当は……別の人間に使おうかとも思っていましたが」
ちらりと惇が目線を向けた先には凛音がいた。彼はこの数時間ですっかりやつれ果ててており、年相応に老け込んでしまったように見える。本来であればそんな番の傍で支えてくれるはずの夫のαは、凛音から少し距離を置いて伴侶と息子を力なく双方に見返していた。
「俺が、死ぬまでそばに居たい、看取りたいと思っている人は一人だけです」
穏やかな惇の笑顔、シーンと耳が痛いぐらいに静まり返る会場、泣き崩れる我孫子の両親と松井の両親、カチカチと身を震わせ歯を慣らして追い詰められた小動物のように震える月、そして。
「わかったよ。……ごめんなさい、惇。俺のせいで人生めちゃくちゃになって、ごめんなぁ」
それは厳かかつ不自然なぐらいに穏やかな、死刑宣告だった。
『狂ってる』
『βでよかった』
『Ωとαの番ってここまで狂ってるんだ』
『狂気』
『狂愛』
テレビでは放送しきれない部分はネットにより拡散される。結婚式は中止となったが惇と豪は離婚せず、そして豪は「二人の」番がいるにもかかわらず睾丸・陰茎の摘出手術と獣で言うところの上下の牙部分を抜かれた。αにとっては尊厳を無視した非常に屈辱的な行為だが、それ以上に豪は番である惇がヒートになってしまっても、もう自分は使い物にならないことに絶望し呻いた。
番だというのに性行為もできずフェロモンによってヒートだけ誘発させられる、それを鎮めることもできないαなど、Ωにとっては害悪以外の何物でもないだろう。
惇にとっては復讐と自分への戒めと、そしてバース性のサンプルケースとして然るべき医療機関にデータを提出していた。
データは数が多い方がいい。それも運命と「そうでない」普通の番のデータ双方を渡せば金にもなる。
『戦後最大の残虐な実験だ』
『しかし……』
良識的な医師の皮を被ったマッドサイエンティストたちは、形ばかりで嫌悪して見せながら喜々としてこの実験結果に胸を躍らせている。負しかないどんな事柄からでも必ず学び取れる情報はある、といったところだろうか。
「どうして豪に会わせてくれないの!?俺も豪の番だよ!このままじゃ番欠乏症で死んじゃう!お兄ちゃんだけ豪を独り占めしてずるい!!......お願いします、助けてください、ヒートの時だけでいいんです、後はお兄ちゃんに返すから、お願い、お願い……」
若いのもあり、猿のようにαと性行為をしていた月は早くも欠乏症に苦しんでいた。番のαと交わりたくてたまらない、精液を中に放出してもらわないと気が狂いそうに全身が熱を持ち発情している。睡眠もとれず水も吐き戻し美しい姿は見る影もなくやつれている。
惇と豪が暮らしている家からそれなりに離れた医療施設にて、月は軟禁されていた。マジックミラーとなっている強化ガラスをガンガン叩く手は血に塗れており、鎮静剤を打って拘束されることもしばしばだ。
「弟が、豪に会いたいらしいんだ。迷惑かけて申し訳ないけどいいかな」
「……」
マーダーライセンスを突き付けられているような豪だ、彼に「いいえ」という選択肢はない。コンクリート打ちっぱなしで不自然に清潔なベッドがある部屋に押し込められると、豪は性欲に支配されたΩ、偽りの運命に襲われるようにしてベッドに押し倒される。
野獣のようにはーはー息を荒立ててシャツのボタンを外しズボンをずり下ろした月は、そこにあるべきはずのものが無くなっていることに目をまんまるく見開いて、それから絶望と憎しみに満ちた表情を顔いっぱいにして罵る。
「……この役立たず!なんで去勢されているんだよ!!馬鹿じゃないの!お前なんかもうαでもなんでもない!なんでこんなのが僕の番なんだよ……!」
なお、睾丸や陰茎が摘出されても性欲というものはさっぱり消え失せてしまうというわけではなく、他の衝動として現れることがある。
例えば妄想、暴力、他者への加害など。自分が裏切った運命にそれを向けるわけにいかなかった豪は、月の上に跨り顔の形が変わるまで、気が済むまでただひたすらに殴る、殴る、殴る……
「や、やめろ人殺し……やべてくだざい、助げで」
面会時間の終了が来たのか、重たいドアが開き惇が入ってきた。あんなことをしたにも関わらず弟を助けに来てくれたのかと、月の目には希望の光が宿りかけるが。
「……なに、それ」
無言で惇に突き付けられたものは、我孫子月の名前が入った特別殺措置看取用紙だった。それを寄こせと身を起こして暴れようとする月の首を掴んでねじ伏せる力があるのは流石αだ。
「だめだよ豪、君が殺したら犯罪者になっちゃう」
俺は愛する番を殺人者になんかしたくないんだ。そう言って彼の首に優しく両腕を絡める惇を、嬉しそうに受け入れている豪の姿は、月にとってはどんな暴力よりも心を抉った。
「豪」
小気味よいパチンという音と共に頬を叩かれて、豪は泣きそうな顔で必死に惇に「ごめんなさい」と許しを請う。頬を叩いた惇はちらりと月の方を向いて「これで少しは気が済んだ?」と目線だけで返してやるが、それすらも施しと哀れみ、Ωとしての敗北を明確に突き付けられているようで憎悪の炎が心にくすぶりだす。
「まだ睨む根性があるか」
「糞野郎」
もう少し考えないとだめかな、と呟く惇の言葉は月の耳には入っていかなかった。ただ、彼らがあたりまえのように手を繋いで部屋から出ていくのを憎しみの眼差しで見つめていただけだ。
『プラトニック狂愛』
あんなことがあっても、そして身体の関係がなくても別れることなく仲睦まじい様子をメディアに流す惇と豪は「これもまた愛の一つか」「よく夫を許したものだ」「運命とはこうまでしても切れない呪いのようなものなのか」と、β達を慄かせ「こうはなりたくない」と怯えるαとΩを絶望の淵に叩き込んだ。
ある日、豪と惇の元に招かれざる客がやってきた。すっかり芸能界から干されテレビで見ることも無くなったその人は、アタッシュケースに大金を詰め込んでかつての息子の前にやってきた。
玄関先で深々と頭を下げ、ケースを開いたΩ、凛音は「一億あります」とお金を差し出す。
「突然こんな大金、受け取れません。何が目的なのでしょう」
我孫子姓じゃなくなった凛音は「これまでの貴方に対するお詫びと、私の息子を返してほしいのです」と地面に頭を擦りつけて土下座をする。
彼は数年前に夫であった我孫子高成と離婚をした。高成は廃人寸前となった元恋人の女性Ωに連れ添い、両家から猛反対を受け女性Ωの両親からは足蹴りにされ水をかけられても頭を下げ続け、彼女を看取るために病院に通っている。……記憶すらもボロボロにすり切れた彼女がそれを望んでいるかは最早彼女自身でもわからないだろうが。
「私は、貴方を我が子と思っていましたが、貴方にとっては本当の母親を奪い破滅させた、憎い他人のΩでしかなかったのですね。貴方の母親になれなくてごめんなさい。酷いことをしてしまいごめんなさい。今更こんなことを言うためにわざわざ来たのかと思われるかもしれません、本当にごめんなさい。月をあんなふうにしたのも元をたどれば私のせいです」
「……月がどんな姿であっても、貴方は本当に月に会いたいでしょうか」
「はい、どんな姿でも生きていてくれるのなら」
「……お金はいりません」
惇はアタッシュケースを突き返すと、月が隔離されている住所の地図をひらりと地面に落とした。それを拾い上げると、凛音は一礼してから振り返ることなく、家を出ていった。
「……いいのか、行かせて」
「うん。遅かれ早かれ何れは対面することになるだろうから」
豪の胸に顔を埋めると、彼も惇の頭を撫でてぎゅうと抱きしめる。メイクや服装で隠してはいるが、すっかり惇はやせ細り痛々しい姿になってしまっている。こんなにも傍に番がいるというのに、彼も番欠乏症の末期に近い状態だ。
自分は番に殺される身だというのに、目の前の番のほうが痛々しく寿命が尽きかけているのを目の当たりにし、豪は嗚咽を漏らす。
「月、ごめんねぇ遅くなって!お母さんと帰ろう。もうこんなとこにいなくてもいいんだよ。あんたすっかり軽くなったね。ほらおんぶしてあげる」
口元からは意味をなさない呻き声を漏らしているだけの月を、凛音は愛おしそうに抱き上げてその背に乗せる。お世話になりましたと医師に頭を下げる姿を、院内の人間は悍ましい者を見るかのような、少しばかりの哀れみと悲しさをちりばめた眼差しで二人を見送っている。
月が軽くなったのは、番欠乏症による衰弱のせいだけではなかった。彼は原因不明の別の病も発症させており身体の隅から徐々に腐っていったのだ。延命のため肢体は切断されており今の月は両手足がなかった。犬のような姿にされても生に意地汚い月はそれでも死ぬことなく飼い殺されていたのだ。
元をたどれば、高成に出会わなければ、略奪などしなければ。自分の子供「たち」はこんな風になることはなかったと凛音は思う。
結局のところαもΩもβに比べると原始的で、獣のような生き物だ。生存戦略と本能はか弱そうに見えるΩにも確実に存在し、月は一時その戦いに勝利したかのように見えたが、惇というΩに反撃を喰らってしまっただけなのだ。
それが例え兄弟であっても、なんてオメガバースというものは醜く業の深いものなのだろうか。
「月、お母さんと一緒に死のう。大丈夫、一人じゃないからね」
凛音は、血が繋がってはいないとはいえ、彼にとって実の息子を殺人者にするつもりはなかった。愚かで頭が良くはなかったが、後始末はすべきだと初めて親らしい一面を見せた。自分の不用意な発言が、惇の心を砕き狂気に導いた一端となったのは痛いぐらいに自覚していた。
「なるべく、世間様に迷惑をかけない方法を選ばないとねぇ」
「……さ」
「うん?」
「かあさ……めん、なさい」
「……そこは」
「かあさ......ん?」
「そこは、惇にごめんなさいだろうが!!」
自分の事は棚に上げてと言われたらそれまでかもしれないが、これだけは母として月に伝えなければならなかった。きっと、その半分は自身の後悔と贖罪でしかないけれど。
人気のないビルで、それは決行された。世間に迷惑をかけることの謝罪と彼にとっての夫と息子への謝罪、それから「清掃や葬儀の足しにしてください」とメモを残されたアタッシュケースの大金。残りのお金は息子と元夫に手渡してくださいという文言が添えられていた。
「……っ」
遠く離れた地方の病院で、元恋人の車椅子を押していた我孫子高成は、自分の半身が引き裂かれるような衝撃を身に受けて思わず蹲る。彼は、瞬時に凛音の死を悟った。
凛音は恋人と自分の仲を引き裂いて、恋人を廃人にまで追い込んだ元凶ではあるが、確かに二人が共に過ごした日は心に残っている。憎み切るには情がありすぎた。けれども。
「あぁああ、あ、あうあ」
番を奪われ子供も奪われ、自身の精神すらも崩壊させられた元恋人にとっては憎しみを煽る材料でしかないし「それがなんだ」と一言返されてしまえば、彼ら夫夫は彼女に対してもう弁解の余地はないだろう。因果応報というものだ。
「あう、あ……あ、じゅんちゃん、どこか、痛むの?」
突然視界がクリアになったかのように、車椅子の女性Ωは目の前で蹲っているαの男に気遣いの声をかける。彼女はそのαが何者なのかわかっていないが、偶然にも自分の子の名前を呼んだのは、そこに血のつながりを感じ取ったからだろうか。一瞬だけ現世に戻ってきた彼女は、また元の閉鎖された場所へ戻ってはしまったけれど。
「……いいえ」
私には、痛みを訴える資格なんてありません。貴女に比べたらこんなものは何でもない。高成は身を起こすとまた、彼女の車椅子をゆっくりゆっくり押しはじめた。
我孫子凛音と高成の離婚、そしてその息子である月と凛音の自殺、まるで我孫子家という呪われた一家を忘れないでとも言うように悲痛な事件が報道された。
そして、これで最後になるであろう我孫子家関連の報道は。
「実は、こんなまわりくどいことしなくてももっと、どうにでもなる方法はいくらでもあったんだ」
「うん」
「番の解除だって、マーダーライセンスを取るよりも安い金額で、最新医療でもっとうまくやることもできた」
「……う、ん」
「冗談だよ、お前寂しがり屋だからさ。俺と番解除したら泣いちゃうだろう」
「うん、うんっ……!」
「ほらまた、泣き虫。お前にとっては最低な半生だったかもしれないけど、俺はお前と最後まで一緒に居られて悪くないと思ってるんだ……不倫した挙句結婚式当日に逃走した奴に対して、俺は甘すぎるかなぁ?」
「俺も……」
「はは、最後ぐらい本音でいいんだぜ。おべっかなんて使わなくて」
「俺も、惇と居られて幸せだった。見捨てないでくれて、ありがとう。傍に置いてくれて、本当に幸せ」
「最後だからって調子良い事言ってるんじゃねえよ、ふざけるな……憎かったけど、それと同じぐらい可愛いやつだな豪は。俺もつくづくαを見る目がないみたいだ」
「最後まで使い物にならないαで、ごめん」
「そこじゃねえ。悔しいけどお前の匂いは嫌いじゃなかった。鼻づまりαのお前にはわからないかもしれないけどさ」
「わたあめ」
「え?」
「惇は淡いピンクのわたあめみたいな、ふんわりした甘い匂い」
「……そうか」
「祭りの季節が来るたびに、いつも惇を思い出して狂いそうになった」
「そっか」
フェロモンの匂いを嗅覚だけではなく視覚も交えて伝えるなんて、なかなか難しいことをしてくると惇は口元を歪めるようにして笑う。豪はきっと否定するし「俺の方こそ」と言うかもしれないが、惇は他の番に横取りされかけても豪に執着し続けた。
どんな形であっても、最愛の尊厳を痛めつけて去勢をし、血反吐を吐いて地面に這いつくばらせるような真似をさせても傍に置いておきたかった。
この残酷なお人形遊びは愛と言うには少々どす黒くて、どこか鉄錆の臭いすら漂ってきそうだ。
「こんな形とはいえ、お前の書いた脚本を演じられて俺は幸せだった」
「うん……うんっ」
それは義理の母と異母兄弟である弟が死んだ直後の出来事だ。
我孫子家の人生をほぼノンフィクションで豪に書いてもらった脚本は、初めはドラマ、その後は映画化されて歴代の興行収入ランキングトップに上り詰めた。ドラマ、映画双方で惇が演じたのはなんと弟の月役で、人の醜さや浅ましさ、けれども人に執着し愛を乞う姿やそれが叶わなかったときの憎悪や絶望は悍ましいほどに、目をそむけたくなる気持ちと裏腹に人々の目を惹きつけて離さなかった。
中でも悪い偶然とは言え他の病を併発させて両手両足を無くした月を演じる惇の姿は、地面を這いつくばり兄を憎み番を罵り、それでも番を求めて狂ったように叫び続ける姿は数日人々の心を抉り、軽いトラウマを与えるレベルだった。翌年ノベライズもされたその脚本のタイトルは「運命」。
事実ではあるが、公式が書いた悪趣味なパロディ、二次創作、盛大な皮肉でしかなかった。
「沢山話して、少し疲れた。俺はもう寝るから部屋を出て行ってくれないか」
「いやだ」
「聞き分けのないことを言うなよ、子供か?じゃあ豪ちゃんも俺と一緒に寝る?」
からかい半分でそう問いかけると、彼に取っては悪くない提案だったのか豪はするりと惇の布団に入り込み、痛いぐらいに強く番の身体を抱きしめた。
「これじゃあ眠れないだろ、少し手を緩めてくれ」
「いやだ」
本当に今日のお前は聞き分けが悪いと苦笑しながらも、惇は体温の高い豪に身を預けたまま、うつらうつらと黄泉路へ旅立とうとしていた。
「もうだめだ、眠い。おやすみ、また明日」
「……おやすみ、惇」
彼に、明日は来なかった。
番欠乏症で全身を散々痛めつけられたとは思えないぐらいに、眠るように安らかに逝けたのは、やはり隣に番とそのフェロモンがあったからだろうか。三十半ば、早すぎる死だった。
むくりと起き上がり、最愛からすっかり体温も魂も抜けきっているのを感じ取った豪は、豪の枯れ枝のような腕に犬のように顔を摺り寄せる。それからまだ眠っているかのような穏やかな顔に手を添える。顔中にキスの嵐を降らせて、首筋にも痕をつけてゆく。全身で自分の物だとマーキングをするかのように。
十数年の夫夫だった。少年少女にとっての十年は、途方もなく長く感じるであろうその期間は豪にとってはたったの十数年、あっという間だった。
惇にとっては復讐を成し遂げたつもりかもしれない。不倫し惇に恥をかかせた豪のαとしての尊厳を蹂躙し性器を取り、罪悪感という鎖で縛りつけてよそのΩへ心身ともにゆかないように常に監視し、横恋慕した弟を敵と見なして結果的にその命も奪った。
惇にとっては悪しき因果を全て解消させたかったのかもしれない。自身も略奪され母と引きはがされていたのは、負の連鎖に他ならないと考えたのだろう。例えどういう経緯であっても親子関係が築けていたのであればもっと違う未来が待っていたのかもしれないが、今となっては無意味な仮定の話でしかない。
「大好き。愛してるよ、惇……」
基本的にαという生き物はΩに尽くして愛を与え囲い、ペットのように溺愛する傾向にある。Ωはある意味尽くされるのが当然、愛されるのが当然という庇護すべき対象として見られており、そこが新時代を生きる同胞のΩやΩ嫌いのα、それからベータにとっては時に嫌悪の対象となり、顰蹙を買うこともある。
平たく言えば、過度のヒロイン気質は目に余るからだろう。守られてばかりのヒロインは世間にとっては食傷気味で、新時代のΩにとっては同族嫌悪という部分もあるかもしれない。
さて、幼き頃より豪には常軌を逸した性癖があった。優秀なαであるがゆえ、軽度のネグレストを受けて育った豪は、愛する者に構われること、囲われることに密かに憧れを抱いていた。それが時に暴力という形であっても自分を囲って見てくれるという存在を夢想し
、その存在に対して豪は異様な執着を見せた。
自分を拘束して去勢して、時に暴力的に調教してでも執着し囲ってくれる強くて儚くて美しいΩ。幼き頃より惇にはその才があると嗅ぎ付けたのか、豪はそんな歪んだ感情が芽生える前から、無意識に惹かれていた。その点はやはり運命というやつだったのだろうか。
豪にとって惇は最愛であり神であり、理想が具現化された唯一の存在だった。それは愛と言う形も軽く飛び越えて、崇拝に近いものがあったのかもしれない。
「この人に囚われたい。羽を毟られたい。例え両手両足を捥がれて自由を無くしても、この人の瞳にだけ自分の姿を映し出したい。情けない自分も全て受け入れられたい」
鼻づまりのαなんてとんでもない、豪は運命のフェロモンを確かに嗅ぎ分けていた。
時に恋愛には多少のスパイスが必要だ。このまま結婚しても仲睦まじい夫夫として生涯暮らしてはゆけただろう。豪にとっては惇のわたあめみたいな香り以外のフェロモンは、鼻が曲がりそうになるぐらいの悪臭でしかなかったのだから。
彼は、我孫子家の過去を調べ出し凛音と惇の本当の関係を知った。そして、我孫子月が幼い頃より自分に好意を抱いているということも、目線と甘ったるいフェロモンで嫌と言う程わかっていた。スパイスという当て馬役を見つけた彼は、己の執着と歪んだ愛のために自分勝手で残酷な行為をおこなうことになる。
彼が企てた舌にぴりりと焼き付くスパイス、不倫だけのつもりがヒート誘発剤に中てられてしまい意図せず起こした結婚式当日の失踪事件と月への番契約により、豪だけではなく惇の寿命まで歪ませてしまったのは、彼にとっての最大の誤算であり今でも豪は後悔をしている。
豪が去勢され尊厳を奪われるところは理想通りだったが豪、つまりは番であるαのペニスを「使えない」状態にしたΩの惇が番欠乏症でやつれてゆくのは、豪にとって粗い紙やすりでごりごりと心を削られてゆくほどには辛かった。
そして、病により両手両足を失いそれでも兄の憎悪となっている弟の姿に、豪は無意識に嫉妬した。惇からの憎しみや恨みも全て、豪だけに与えられて欲しかったのだから。最愛の心に囚われるのは自分だけで良い、それは今でも彼が思っていることだ。
あの世で「ざまあみろ」とでも最愛は思っているのだろうか。名俳優なのにどこまでも悪役になり切れなかった優しい惇の死に顔はどこまでも安らかだ。彼は、彼だけはきっと天国というものがあるのなら、そこへ行くのだろう。
「いやだよ、惇。死んでも一緒。愛してる」
この世にすっかり未練がなくなった豪は、悪友にラインでメッセージを残した。
『葬式って二人同時にやったほうが安上がりになるのかな』
不謹慎かつ冗談めいたメッセージを送信すると、彼はグラスに入った苦い液体をぐいと飲み干した。
特別殺措置看取免許を保持した者が対象者に対して申請を上げた際、対象者を殺しきれなかったときのための保険として、安楽死に用いられる死に至る薬が渡される。毒々しい色合いのシロップ状のそれは小さなプラスチックの瓶に入っている。
「豪、ここには大切なものが入っているから」
と日陰に設置されたビューローの引き出しには、二つの小瓶が入っていた。我孫子月と松井豪の二人分の毒薬だ。幸いにもというべきか、実の弟に対してそれを使うことはなかったが。
「絶対に開けちゃだめだよ」
番欠乏症でほぼ先立つことが決まっていた惇は、豪に最後の試練を与えていたようだ。最も彼はそれを試練なんて思わずに、喜々として一気に飲み干してしまったが。
番に先立たれた最愛は、はたして自分の後を追ってくるのだろうか。非人道的で悪趣味な実験の結果は。
……きっと彼らは、死後も同じ場所に落ちてゆくのだろう。それだけは確かだった。
「私は……あと数年で俳優を引退、いや廃業することになると思います。番欠乏症で短命となる可能性が非常に高いためです。ここまで皆様に応援してもらい沢山可愛がっていただき、これから恩返しと言う時に、こればかりは無念で仕方ありません」
番欠乏症とは番を亡くしたΩ、或いはまれにαが心的障害により発症するものだが、他のΩと番えるαとは異なりΩに対しては緩和療法すらも存在しない。
まさに不治と言って差し障りのない病だ。比較的若い個体、もしくは中年層ぐらいのΩがαに番の強制解除をされた際に特に発症しやすいと言われている。死別解消や老年期になってから番を解除された場合この症状はでないか、或いは死が近いためだろう非常に緩やかとも言われている。
「番欠乏症なんてっ!」
俺がさせないと言わんばかりに立ち上がりかける豪を、惇の息のかかったスタッフが全員で取り押さえる。番を持ったαにとって番欠乏症は非常に不名誉な病である。Ω一人も愛することができないのかと周囲から爪弾きにされてしまうのもあるが、αの番に対する執着心はβには理解できないぐらい強いものでもあるためだ。
「私は、ここまで面倒を見てくれた方々に対して残された人生を、せめて社会に少しでも刺激になるような話題の提供と金銭面、そしてバース性の更なる解明の力になればと、少しでも恩返しをしてゆきたいと思っております」
何やら流れが変わったようだと、ここで報道陣と親族達は「ん?」と小首を傾げることになった。
「私は、仕事の傍らある資格の取得に尽力を尽くしておりました。幸か不幸かそれは結婚式の年までに無事習得することができました……特別殺措置看取免許です」
聞き慣れ無さすぎる資格に首を傾ける者、きな臭い事件を負う熟練のジャーナリストは顔を真っ青にさせている。物騒な名前のそれは通称マーダーライセンスとも呼ばれている。この免許は司法試験と医師国家試験を掛け合わせたような非常に難しいものであり、試験を1回受ける度に受験料として数十万円がかかる。
けれども「俳優業の傍ら、あの資格を取得するなんてすごいですね!」という声はどこからも上がらない。
特別殺措置看取免許とは、平たく言うと戦時中以外の平常時に人を殺めても罰せられない免許だ。ただし、事前に殺したい人間を申請する必要があり一人につき申請料として1億円が発生する。また、申請した側と対象者の間に殺人に至る明確な理由がある場合にのみ許可が下りるとも言われている。
金があってもだめ、知力だけがあってもだめという絶妙なバランスで構成されている仇討ち専用ライセンスとでも呼べばいいだろうか。
安楽死が認められていないこの国では、そういった用途もあるがあまりにも金がかかり過ぎるため現実的ではないだろう。
「ライセンス取得のきっかけは、子供の頃の幼い復讐心でした。本当は……別の人間に使おうかとも思っていましたが」
ちらりと惇が目線を向けた先には凛音がいた。彼はこの数時間ですっかりやつれ果ててており、年相応に老け込んでしまったように見える。本来であればそんな番の傍で支えてくれるはずの夫のαは、凛音から少し距離を置いて伴侶と息子を力なく双方に見返していた。
「俺が、死ぬまでそばに居たい、看取りたいと思っている人は一人だけです」
穏やかな惇の笑顔、シーンと耳が痛いぐらいに静まり返る会場、泣き崩れる我孫子の両親と松井の両親、カチカチと身を震わせ歯を慣らして追い詰められた小動物のように震える月、そして。
「わかったよ。……ごめんなさい、惇。俺のせいで人生めちゃくちゃになって、ごめんなぁ」
それは厳かかつ不自然なぐらいに穏やかな、死刑宣告だった。
『狂ってる』
『βでよかった』
『Ωとαの番ってここまで狂ってるんだ』
『狂気』
『狂愛』
テレビでは放送しきれない部分はネットにより拡散される。結婚式は中止となったが惇と豪は離婚せず、そして豪は「二人の」番がいるにもかかわらず睾丸・陰茎の摘出手術と獣で言うところの上下の牙部分を抜かれた。αにとっては尊厳を無視した非常に屈辱的な行為だが、それ以上に豪は番である惇がヒートになってしまっても、もう自分は使い物にならないことに絶望し呻いた。
番だというのに性行為もできずフェロモンによってヒートだけ誘発させられる、それを鎮めることもできないαなど、Ωにとっては害悪以外の何物でもないだろう。
惇にとっては復讐と自分への戒めと、そしてバース性のサンプルケースとして然るべき医療機関にデータを提出していた。
データは数が多い方がいい。それも運命と「そうでない」普通の番のデータ双方を渡せば金にもなる。
『戦後最大の残虐な実験だ』
『しかし……』
良識的な医師の皮を被ったマッドサイエンティストたちは、形ばかりで嫌悪して見せながら喜々としてこの実験結果に胸を躍らせている。負しかないどんな事柄からでも必ず学び取れる情報はある、といったところだろうか。
「どうして豪に会わせてくれないの!?俺も豪の番だよ!このままじゃ番欠乏症で死んじゃう!お兄ちゃんだけ豪を独り占めしてずるい!!......お願いします、助けてください、ヒートの時だけでいいんです、後はお兄ちゃんに返すから、お願い、お願い……」
若いのもあり、猿のようにαと性行為をしていた月は早くも欠乏症に苦しんでいた。番のαと交わりたくてたまらない、精液を中に放出してもらわないと気が狂いそうに全身が熱を持ち発情している。睡眠もとれず水も吐き戻し美しい姿は見る影もなくやつれている。
惇と豪が暮らしている家からそれなりに離れた医療施設にて、月は軟禁されていた。マジックミラーとなっている強化ガラスをガンガン叩く手は血に塗れており、鎮静剤を打って拘束されることもしばしばだ。
「弟が、豪に会いたいらしいんだ。迷惑かけて申し訳ないけどいいかな」
「……」
マーダーライセンスを突き付けられているような豪だ、彼に「いいえ」という選択肢はない。コンクリート打ちっぱなしで不自然に清潔なベッドがある部屋に押し込められると、豪は性欲に支配されたΩ、偽りの運命に襲われるようにしてベッドに押し倒される。
野獣のようにはーはー息を荒立ててシャツのボタンを外しズボンをずり下ろした月は、そこにあるべきはずのものが無くなっていることに目をまんまるく見開いて、それから絶望と憎しみに満ちた表情を顔いっぱいにして罵る。
「……この役立たず!なんで去勢されているんだよ!!馬鹿じゃないの!お前なんかもうαでもなんでもない!なんでこんなのが僕の番なんだよ……!」
なお、睾丸や陰茎が摘出されても性欲というものはさっぱり消え失せてしまうというわけではなく、他の衝動として現れることがある。
例えば妄想、暴力、他者への加害など。自分が裏切った運命にそれを向けるわけにいかなかった豪は、月の上に跨り顔の形が変わるまで、気が済むまでただひたすらに殴る、殴る、殴る……
「や、やめろ人殺し……やべてくだざい、助げで」
面会時間の終了が来たのか、重たいドアが開き惇が入ってきた。あんなことをしたにも関わらず弟を助けに来てくれたのかと、月の目には希望の光が宿りかけるが。
「……なに、それ」
無言で惇に突き付けられたものは、我孫子月の名前が入った特別殺措置看取用紙だった。それを寄こせと身を起こして暴れようとする月の首を掴んでねじ伏せる力があるのは流石αだ。
「だめだよ豪、君が殺したら犯罪者になっちゃう」
俺は愛する番を殺人者になんかしたくないんだ。そう言って彼の首に優しく両腕を絡める惇を、嬉しそうに受け入れている豪の姿は、月にとってはどんな暴力よりも心を抉った。
「豪」
小気味よいパチンという音と共に頬を叩かれて、豪は泣きそうな顔で必死に惇に「ごめんなさい」と許しを請う。頬を叩いた惇はちらりと月の方を向いて「これで少しは気が済んだ?」と目線だけで返してやるが、それすらも施しと哀れみ、Ωとしての敗北を明確に突き付けられているようで憎悪の炎が心にくすぶりだす。
「まだ睨む根性があるか」
「糞野郎」
もう少し考えないとだめかな、と呟く惇の言葉は月の耳には入っていかなかった。ただ、彼らがあたりまえのように手を繋いで部屋から出ていくのを憎しみの眼差しで見つめていただけだ。
『プラトニック狂愛』
あんなことがあっても、そして身体の関係がなくても別れることなく仲睦まじい様子をメディアに流す惇と豪は「これもまた愛の一つか」「よく夫を許したものだ」「運命とはこうまでしても切れない呪いのようなものなのか」と、β達を慄かせ「こうはなりたくない」と怯えるαとΩを絶望の淵に叩き込んだ。
ある日、豪と惇の元に招かれざる客がやってきた。すっかり芸能界から干されテレビで見ることも無くなったその人は、アタッシュケースに大金を詰め込んでかつての息子の前にやってきた。
玄関先で深々と頭を下げ、ケースを開いたΩ、凛音は「一億あります」とお金を差し出す。
「突然こんな大金、受け取れません。何が目的なのでしょう」
我孫子姓じゃなくなった凛音は「これまでの貴方に対するお詫びと、私の息子を返してほしいのです」と地面に頭を擦りつけて土下座をする。
彼は数年前に夫であった我孫子高成と離婚をした。高成は廃人寸前となった元恋人の女性Ωに連れ添い、両家から猛反対を受け女性Ωの両親からは足蹴りにされ水をかけられても頭を下げ続け、彼女を看取るために病院に通っている。……記憶すらもボロボロにすり切れた彼女がそれを望んでいるかは最早彼女自身でもわからないだろうが。
「私は、貴方を我が子と思っていましたが、貴方にとっては本当の母親を奪い破滅させた、憎い他人のΩでしかなかったのですね。貴方の母親になれなくてごめんなさい。酷いことをしてしまいごめんなさい。今更こんなことを言うためにわざわざ来たのかと思われるかもしれません、本当にごめんなさい。月をあんなふうにしたのも元をたどれば私のせいです」
「……月がどんな姿であっても、貴方は本当に月に会いたいでしょうか」
「はい、どんな姿でも生きていてくれるのなら」
「……お金はいりません」
惇はアタッシュケースを突き返すと、月が隔離されている住所の地図をひらりと地面に落とした。それを拾い上げると、凛音は一礼してから振り返ることなく、家を出ていった。
「……いいのか、行かせて」
「うん。遅かれ早かれ何れは対面することになるだろうから」
豪の胸に顔を埋めると、彼も惇の頭を撫でてぎゅうと抱きしめる。メイクや服装で隠してはいるが、すっかり惇はやせ細り痛々しい姿になってしまっている。こんなにも傍に番がいるというのに、彼も番欠乏症の末期に近い状態だ。
自分は番に殺される身だというのに、目の前の番のほうが痛々しく寿命が尽きかけているのを目の当たりにし、豪は嗚咽を漏らす。
「月、ごめんねぇ遅くなって!お母さんと帰ろう。もうこんなとこにいなくてもいいんだよ。あんたすっかり軽くなったね。ほらおんぶしてあげる」
口元からは意味をなさない呻き声を漏らしているだけの月を、凛音は愛おしそうに抱き上げてその背に乗せる。お世話になりましたと医師に頭を下げる姿を、院内の人間は悍ましい者を見るかのような、少しばかりの哀れみと悲しさをちりばめた眼差しで二人を見送っている。
月が軽くなったのは、番欠乏症による衰弱のせいだけではなかった。彼は原因不明の別の病も発症させており身体の隅から徐々に腐っていったのだ。延命のため肢体は切断されており今の月は両手足がなかった。犬のような姿にされても生に意地汚い月はそれでも死ぬことなく飼い殺されていたのだ。
元をたどれば、高成に出会わなければ、略奪などしなければ。自分の子供「たち」はこんな風になることはなかったと凛音は思う。
結局のところαもΩもβに比べると原始的で、獣のような生き物だ。生存戦略と本能はか弱そうに見えるΩにも確実に存在し、月は一時その戦いに勝利したかのように見えたが、惇というΩに反撃を喰らってしまっただけなのだ。
それが例え兄弟であっても、なんてオメガバースというものは醜く業の深いものなのだろうか。
「月、お母さんと一緒に死のう。大丈夫、一人じゃないからね」
凛音は、血が繋がってはいないとはいえ、彼にとって実の息子を殺人者にするつもりはなかった。愚かで頭が良くはなかったが、後始末はすべきだと初めて親らしい一面を見せた。自分の不用意な発言が、惇の心を砕き狂気に導いた一端となったのは痛いぐらいに自覚していた。
「なるべく、世間様に迷惑をかけない方法を選ばないとねぇ」
「……さ」
「うん?」
「かあさ……めん、なさい」
「……そこは」
「かあさ......ん?」
「そこは、惇にごめんなさいだろうが!!」
自分の事は棚に上げてと言われたらそれまでかもしれないが、これだけは母として月に伝えなければならなかった。きっと、その半分は自身の後悔と贖罪でしかないけれど。
人気のないビルで、それは決行された。世間に迷惑をかけることの謝罪と彼にとっての夫と息子への謝罪、それから「清掃や葬儀の足しにしてください」とメモを残されたアタッシュケースの大金。残りのお金は息子と元夫に手渡してくださいという文言が添えられていた。
「……っ」
遠く離れた地方の病院で、元恋人の車椅子を押していた我孫子高成は、自分の半身が引き裂かれるような衝撃を身に受けて思わず蹲る。彼は、瞬時に凛音の死を悟った。
凛音は恋人と自分の仲を引き裂いて、恋人を廃人にまで追い込んだ元凶ではあるが、確かに二人が共に過ごした日は心に残っている。憎み切るには情がありすぎた。けれども。
「あぁああ、あ、あうあ」
番を奪われ子供も奪われ、自身の精神すらも崩壊させられた元恋人にとっては憎しみを煽る材料でしかないし「それがなんだ」と一言返されてしまえば、彼ら夫夫は彼女に対してもう弁解の余地はないだろう。因果応報というものだ。
「あう、あ……あ、じゅんちゃん、どこか、痛むの?」
突然視界がクリアになったかのように、車椅子の女性Ωは目の前で蹲っているαの男に気遣いの声をかける。彼女はそのαが何者なのかわかっていないが、偶然にも自分の子の名前を呼んだのは、そこに血のつながりを感じ取ったからだろうか。一瞬だけ現世に戻ってきた彼女は、また元の閉鎖された場所へ戻ってはしまったけれど。
「……いいえ」
私には、痛みを訴える資格なんてありません。貴女に比べたらこんなものは何でもない。高成は身を起こすとまた、彼女の車椅子をゆっくりゆっくり押しはじめた。
我孫子凛音と高成の離婚、そしてその息子である月と凛音の自殺、まるで我孫子家という呪われた一家を忘れないでとも言うように悲痛な事件が報道された。
そして、これで最後になるであろう我孫子家関連の報道は。
「実は、こんなまわりくどいことしなくてももっと、どうにでもなる方法はいくらでもあったんだ」
「うん」
「番の解除だって、マーダーライセンスを取るよりも安い金額で、最新医療でもっとうまくやることもできた」
「……う、ん」
「冗談だよ、お前寂しがり屋だからさ。俺と番解除したら泣いちゃうだろう」
「うん、うんっ……!」
「ほらまた、泣き虫。お前にとっては最低な半生だったかもしれないけど、俺はお前と最後まで一緒に居られて悪くないと思ってるんだ……不倫した挙句結婚式当日に逃走した奴に対して、俺は甘すぎるかなぁ?」
「俺も……」
「はは、最後ぐらい本音でいいんだぜ。おべっかなんて使わなくて」
「俺も、惇と居られて幸せだった。見捨てないでくれて、ありがとう。傍に置いてくれて、本当に幸せ」
「最後だからって調子良い事言ってるんじゃねえよ、ふざけるな……憎かったけど、それと同じぐらい可愛いやつだな豪は。俺もつくづくαを見る目がないみたいだ」
「最後まで使い物にならないαで、ごめん」
「そこじゃねえ。悔しいけどお前の匂いは嫌いじゃなかった。鼻づまりαのお前にはわからないかもしれないけどさ」
「わたあめ」
「え?」
「惇は淡いピンクのわたあめみたいな、ふんわりした甘い匂い」
「……そうか」
「祭りの季節が来るたびに、いつも惇を思い出して狂いそうになった」
「そっか」
フェロモンの匂いを嗅覚だけではなく視覚も交えて伝えるなんて、なかなか難しいことをしてくると惇は口元を歪めるようにして笑う。豪はきっと否定するし「俺の方こそ」と言うかもしれないが、惇は他の番に横取りされかけても豪に執着し続けた。
どんな形であっても、最愛の尊厳を痛めつけて去勢をし、血反吐を吐いて地面に這いつくばらせるような真似をさせても傍に置いておきたかった。
この残酷なお人形遊びは愛と言うには少々どす黒くて、どこか鉄錆の臭いすら漂ってきそうだ。
「こんな形とはいえ、お前の書いた脚本を演じられて俺は幸せだった」
「うん……うんっ」
それは義理の母と異母兄弟である弟が死んだ直後の出来事だ。
我孫子家の人生をほぼノンフィクションで豪に書いてもらった脚本は、初めはドラマ、その後は映画化されて歴代の興行収入ランキングトップに上り詰めた。ドラマ、映画双方で惇が演じたのはなんと弟の月役で、人の醜さや浅ましさ、けれども人に執着し愛を乞う姿やそれが叶わなかったときの憎悪や絶望は悍ましいほどに、目をそむけたくなる気持ちと裏腹に人々の目を惹きつけて離さなかった。
中でも悪い偶然とは言え他の病を併発させて両手両足を無くした月を演じる惇の姿は、地面を這いつくばり兄を憎み番を罵り、それでも番を求めて狂ったように叫び続ける姿は数日人々の心を抉り、軽いトラウマを与えるレベルだった。翌年ノベライズもされたその脚本のタイトルは「運命」。
事実ではあるが、公式が書いた悪趣味なパロディ、二次創作、盛大な皮肉でしかなかった。
「沢山話して、少し疲れた。俺はもう寝るから部屋を出て行ってくれないか」
「いやだ」
「聞き分けのないことを言うなよ、子供か?じゃあ豪ちゃんも俺と一緒に寝る?」
からかい半分でそう問いかけると、彼に取っては悪くない提案だったのか豪はするりと惇の布団に入り込み、痛いぐらいに強く番の身体を抱きしめた。
「これじゃあ眠れないだろ、少し手を緩めてくれ」
「いやだ」
本当に今日のお前は聞き分けが悪いと苦笑しながらも、惇は体温の高い豪に身を預けたまま、うつらうつらと黄泉路へ旅立とうとしていた。
「もうだめだ、眠い。おやすみ、また明日」
「……おやすみ、惇」
彼に、明日は来なかった。
番欠乏症で全身を散々痛めつけられたとは思えないぐらいに、眠るように安らかに逝けたのは、やはり隣に番とそのフェロモンがあったからだろうか。三十半ば、早すぎる死だった。
むくりと起き上がり、最愛からすっかり体温も魂も抜けきっているのを感じ取った豪は、豪の枯れ枝のような腕に犬のように顔を摺り寄せる。それからまだ眠っているかのような穏やかな顔に手を添える。顔中にキスの嵐を降らせて、首筋にも痕をつけてゆく。全身で自分の物だとマーキングをするかのように。
十数年の夫夫だった。少年少女にとっての十年は、途方もなく長く感じるであろうその期間は豪にとってはたったの十数年、あっという間だった。
惇にとっては復讐を成し遂げたつもりかもしれない。不倫し惇に恥をかかせた豪のαとしての尊厳を蹂躙し性器を取り、罪悪感という鎖で縛りつけてよそのΩへ心身ともにゆかないように常に監視し、横恋慕した弟を敵と見なして結果的にその命も奪った。
惇にとっては悪しき因果を全て解消させたかったのかもしれない。自身も略奪され母と引きはがされていたのは、負の連鎖に他ならないと考えたのだろう。例えどういう経緯であっても親子関係が築けていたのであればもっと違う未来が待っていたのかもしれないが、今となっては無意味な仮定の話でしかない。
「大好き。愛してるよ、惇……」
基本的にαという生き物はΩに尽くして愛を与え囲い、ペットのように溺愛する傾向にある。Ωはある意味尽くされるのが当然、愛されるのが当然という庇護すべき対象として見られており、そこが新時代を生きる同胞のΩやΩ嫌いのα、それからベータにとっては時に嫌悪の対象となり、顰蹙を買うこともある。
平たく言えば、過度のヒロイン気質は目に余るからだろう。守られてばかりのヒロインは世間にとっては食傷気味で、新時代のΩにとっては同族嫌悪という部分もあるかもしれない。
さて、幼き頃より豪には常軌を逸した性癖があった。優秀なαであるがゆえ、軽度のネグレストを受けて育った豪は、愛する者に構われること、囲われることに密かに憧れを抱いていた。それが時に暴力という形であっても自分を囲って見てくれるという存在を夢想し
、その存在に対して豪は異様な執着を見せた。
自分を拘束して去勢して、時に暴力的に調教してでも執着し囲ってくれる強くて儚くて美しいΩ。幼き頃より惇にはその才があると嗅ぎ付けたのか、豪はそんな歪んだ感情が芽生える前から、無意識に惹かれていた。その点はやはり運命というやつだったのだろうか。
豪にとって惇は最愛であり神であり、理想が具現化された唯一の存在だった。それは愛と言う形も軽く飛び越えて、崇拝に近いものがあったのかもしれない。
「この人に囚われたい。羽を毟られたい。例え両手両足を捥がれて自由を無くしても、この人の瞳にだけ自分の姿を映し出したい。情けない自分も全て受け入れられたい」
鼻づまりのαなんてとんでもない、豪は運命のフェロモンを確かに嗅ぎ分けていた。
時に恋愛には多少のスパイスが必要だ。このまま結婚しても仲睦まじい夫夫として生涯暮らしてはゆけただろう。豪にとっては惇のわたあめみたいな香り以外のフェロモンは、鼻が曲がりそうになるぐらいの悪臭でしかなかったのだから。
彼は、我孫子家の過去を調べ出し凛音と惇の本当の関係を知った。そして、我孫子月が幼い頃より自分に好意を抱いているということも、目線と甘ったるいフェロモンで嫌と言う程わかっていた。スパイスという当て馬役を見つけた彼は、己の執着と歪んだ愛のために自分勝手で残酷な行為をおこなうことになる。
彼が企てた舌にぴりりと焼き付くスパイス、不倫だけのつもりがヒート誘発剤に中てられてしまい意図せず起こした結婚式当日の失踪事件と月への番契約により、豪だけではなく惇の寿命まで歪ませてしまったのは、彼にとっての最大の誤算であり今でも豪は後悔をしている。
豪が去勢され尊厳を奪われるところは理想通りだったが豪、つまりは番であるαのペニスを「使えない」状態にしたΩの惇が番欠乏症でやつれてゆくのは、豪にとって粗い紙やすりでごりごりと心を削られてゆくほどには辛かった。
そして、病により両手両足を失いそれでも兄の憎悪となっている弟の姿に、豪は無意識に嫉妬した。惇からの憎しみや恨みも全て、豪だけに与えられて欲しかったのだから。最愛の心に囚われるのは自分だけで良い、それは今でも彼が思っていることだ。
あの世で「ざまあみろ」とでも最愛は思っているのだろうか。名俳優なのにどこまでも悪役になり切れなかった優しい惇の死に顔はどこまでも安らかだ。彼は、彼だけはきっと天国というものがあるのなら、そこへ行くのだろう。
「いやだよ、惇。死んでも一緒。愛してる」
この世にすっかり未練がなくなった豪は、悪友にラインでメッセージを残した。
『葬式って二人同時にやったほうが安上がりになるのかな』
不謹慎かつ冗談めいたメッセージを送信すると、彼はグラスに入った苦い液体をぐいと飲み干した。
特別殺措置看取免許を保持した者が対象者に対して申請を上げた際、対象者を殺しきれなかったときのための保険として、安楽死に用いられる死に至る薬が渡される。毒々しい色合いのシロップ状のそれは小さなプラスチックの瓶に入っている。
「豪、ここには大切なものが入っているから」
と日陰に設置されたビューローの引き出しには、二つの小瓶が入っていた。我孫子月と松井豪の二人分の毒薬だ。幸いにもというべきか、実の弟に対してそれを使うことはなかったが。
「絶対に開けちゃだめだよ」
番欠乏症でほぼ先立つことが決まっていた惇は、豪に最後の試練を与えていたようだ。最も彼はそれを試練なんて思わずに、喜々として一気に飲み干してしまったが。
番に先立たれた最愛は、はたして自分の後を追ってくるのだろうか。非人道的で悪趣味な実験の結果は。
……きっと彼らは、死後も同じ場所に落ちてゆくのだろう。それだけは確かだった。
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