1 / 2
前編
しおりを挟む
今時珍しく大衆には馴染みすらない政略結婚という関係でも、確かにその二人には愛がある。いや、今となってはあったというべきだろうか。
許嫁として幼い頃よりずっと傍に居た歌城和人(うたしろかずひと)と松落央(まつおちなかば)は、幼馴染から友達、それから恋人として順調に愛を育んできた珍しい例と言えるかもしれない。
「飽きないの?」
「飽きるって、何が?」
学友のやっかみじみたイヤミに対して、穏やかにこてんと首を傾ける優男は和人だ。生まれてからずっと一緒といって過言ではない央に対して、和人は家族のような愛と焦がれるような恋慕と、そして情欲という複雑な感情は絶えずあるものの、飽きることはなかった。
彼は歌城家という由緒正しい家柄で生まれ育った、今は様々な分野で成功している大企業の社長の長男だ。俗にいう勝ち組、下世話な周囲の言葉を借りるに「親ガチャ成功者」の息子であった。
また、オメガバースという男女以外にα、β、Ωの第二の性があるこの世界で、周囲の期待を裏切ることなく和人はαだった。
αは支配階級がゆえにエリート体質であり、容姿や頭脳、運動神経全てにおいて優れている。それに加え、彼ら彼女らはΩやβを屈服させるような攻撃的な威圧フェロモンを持っているため、仮に同等の能力を持つ優秀なβがいたとしても、そこで差が開いてしまうと言われている。人を従わせるという点においてはαが恐らく最上位なのだろう。
βは中間層、もっとも数が多い平凡な性別といえる。けれども発情期や運命の番といったものに惑わされることなく、もっとも冷静に、理性的に生きていけるのはこの性別ではないだろうか。
Ωは下位層、男女問わず子を成すことができるが平均で3カ月に一度やってくる発情期のために、現在社会でも冷遇されやすい。
Ωにはヒートという発情期がある。αにはラットという発情欲求があるが、ヒートと違い定期的にやってくるものではなく、主にΩのヒートに中てられた際に発情させられてしまうものだ。そういう意味では、本能的な欲求において所詮αもヒートの奴隷と言えなくもないだろう。
発情フェロモンは恋愛感情など伴わない第三者のαやΩ、時にβにまで影響を及ぼしてしまうが、通常αとΩに存在しかない「番」というΩの項を噛む行為をしてしまえば、基本的に他のαやΩに惑わされることはない。
ただし、心が伴い愛を育んだ結果、晴れて番となった最愛同士のαとΩの前にも、極まれに「運命の番」という厄介な者が現れることがある。
運命の番は平たく言ってしまえば、遺伝子レベルで相性の良いαとΩのことだ。更に、にべもない言い方に置き換えてしまえば、運命の番であるαとΩは身体の相性が非常に良く、理性を総動員させても協力な抑制剤でも飲んでいない状態であれば、即座に互いのフェロモンに中てられてそのまま性行為に及び番ってしまうとさえ言われている。
Ωは一度番ってしまえば番のα以外とは二度と番うことができないが、αはその役割上何人ものΩを番うことができる。あわせて、αはΩに対して番の解除という行為をおこなうことも可能だ。解除されたΩは重苦しいヒートが再発するが、二度と他のαとは番えないため短命になるとも言われている。
しかし、それ以上にαは番のΩに執着し囲うので、番の解除をおこなうことはおろか、複数の番を持つことは欲求や本能の点においても、無論世間体からしてみても近代社会では非常にまれだ。
仮に恋人もパートナーもいないΩとαが運命として巡り合えたのであれば、それはとても素晴らしく素敵なことであり、正しく恋愛小説のような展開ではないだろうか。
けれども、Ωは身体の特性がゆえに学生のうちから婚姻を結び番となる者も多い。そのほとんどの番たちは運命ではないが、それでもβのように普通の恋人同士や夫婦、或いは夫夫や婦婦として心を通わせ、最愛とこれからの人生を共に生きてゆく。
そんな最中にもし「それ」が現れたのなら。運命によって二人の中は裂かれ、αは暴力的なラットを強制的に引き起こされて、いつも隣にいる最愛をそのままに目の前の運命の番とまぐわいその項に牙を突き立てる。
脳は、心は最愛を求めるというのに、身体は運命に固着し害悪な接着剤でくっつけられたかのように醜く、まるで蜘蛛糸に囚われた獲物のように複雑に絡みついてゆく。それを悲劇と言わずして何と言えよう。
「和人」
「央!」
最愛に呼びかけられ、和人はぱあと明るい表情を浮かべて央の元へ駆け寄ってくる。その姿はエリートα様というよりは人懐こい大型犬のようだった。中性的で嫋やかですらある和人も現恋人、未来の伴侶である央の前ではその姿も形無しだ。
「会いたかったよ、央!」
「あはは、数時間前に合ったばかりだろうが」
口先ではそう返してやるものの、央はつま先立ちで和人の首に両腕を絡ませてぎゅうと抱き付く。
彼らは同棲しているが、歌城家と松落家の両家とも無論反対することは無い。高校三年の二人が18歳になった直後、和人は央の項を噛んだ。二人がそれ以前に身体の関係を結んでいることは周囲も薄々気づいていたが、流石に番契約は看過できず松落家は「うちの息子を傷物にしてくれるな」と、二人は早急に婚姻を結んだ。
学生結婚、それも歌城家と松落家という世が世ならやんごとなき家柄、という表現がぴったりと当てはまる両家の息子たちの結婚については、彼らの卒業まで公開は見送られることになった。
半分以上が事実ではあるのだが、未成年の猿のような有り余る性欲の延長で番いました、という外聞の悪さを隠したかったのだろう。
「お前は本当にこらえ性がないから心配だよ、この先も」
和人が央に異常な執着を見せたのは幼少のみぎりからであり、実は子供の頃より央の身体に触れたり胸の突起を弄ったり、央の新芽のようなペニスを口で咥えたりと、性犯罪そのものといったことをしていた。
最初のうちはその行為の意味がわからなくて羞恥や恐怖から泣く央を、優しく抱きしめて頬や額にキスの嵐を落とし「これは好きな人とすることなんだよ」とゆっくりと懐柔していった和人だ。当時からかなりの策士であり人心掌握が得意なのだろう。
歳を重ねるうちに、和人の心にある仄暗い歪みを理解した央はそれでも和人から離れることはしなかった。政略結婚という枷もあるが、松落家の両親は央を溺愛しており本当に央が拒絶すればこの縁談は解消することもできたはずなのに。
じっくり十数年かけて絆されてしまった央は、和人の匂いと熱を手離せなくなっていた。
「央に対してだけだよ、僕がこんなふうになるの」
ぷくりと頬を膨らませて拗ねて見せる優男の姿に、央は困ったような笑みを浮かべて見せる。政略結婚とはいえ、愛のあるそれは祝福されて当然だったはずだ。
「ねえ、央」
「うん、どした?斗愛」
普段は愛くるしいぐらいに愛嬌を振りまく目の前のΩは、いつもと違い真剣な面持ちで央に話しかけた。彼の名は釘村斗愛(くぎむらとあ)、実年齢よりも幼く非常に整った美しさはあるものの、どちらかと言えば可愛さに重点をおいた顔立ちで、地毛がピンクブロンドという冗談みたいな容姿の持ち主だ。
「僕……歌城さんのこと、好きになっちゃったんだ」
「え?」
「この間、央を待ってたんだろうね、校門前で歌城さんに出会って。転びそうになった僕を支えてくれた時にこの人が運命なんだってわかって。央の婚約者だってことも知ってるのに……心が彼を求めているのがわかるの。この想いに嘘は付けない」
数少ないΩである斗愛と央は同じクラスメイトであり、友人でもある。
Ωでありながら努力家で勉学や運動も真面目に取り組んできた央は、それなりに整ってはいるもののいまいち花がない平凡な容姿だが、友人も多くクラスメイトとも良好な関係を築けていた。
反面、斗愛はその容姿で周囲から自身の能力以上に持ち上げられてしまい、熱狂的なファンもいたが根深いアンチも一定数いるような人間だ。
斗愛がいじめにあったりやっかみを受けたりした際に、最終的にいつも助けるのは彼の騎士や王子様ではなく央だった。あれは彼らが高校一年の夏休み前、学年一のイケメンに溺愛された斗愛は同じクラスのβ女子やΩ、先輩たちの恨みを買ったため学校の空き教室に閉じ込められ、そこでαやβ男子に襲われかけていた。
それを救出したのも央だった。乱闘の結果、シャツのボタンがはじけ飛び自身がαに襲われかけても屈せずに戦った彼は、どんなαよりも勇ましく、騎士で王子様だった。彼は斗愛にかかわらず、困っているクラスメイトやいじめに遭っている生徒を目撃すると、すぐさま加勢に向かうような漢気あるΩだ。
そんな央の態度に惚れ込む者は数多折り、男女オメガバース性問わず「お前の心意気に惚れた」と何故か仁義を切る者も多い。どこの極道の世界だろうか。
「…………お前、学年一のイケメンは?」
数百文字ほど文章を遡っていただければわかるだろうか。学年一のイケメンに溺愛されたお前(斗愛)はどうしたと央は詰め寄る。
「ええと、彼とは2年に上がる前に別れた、よ」
「嘘だろお前……」
斗愛と学年一イケメンはそこかしこで仲睦まじい姿を見せびらかしていた。このまま学生のうちに番になって結婚するのだろうと誰しもが疑ってはいなかったのだが、いつのまにか別れたらしい。
「なんか、一緒にいるうちに、僕はなんにもしてないのに。お前とは別れるって……飽きられちゃったの、かな?」
目の前で泣き崩れて見せる斗愛の姿に、今更ながら央はうさん臭さを感じた。考えてみれば普通に生きているだけの美しいΩであれば、何故あんなにアンチやヘイトがそこかしこに溜まっているのだろうとちらと頭の隅で良くない考えが浮かんでしまう。無自覚なトラブルメーカーほど恐ろしく対処がしにくいものもないのだ。
「わかってると思うけど、俺と和人は婚約者同士で……」
「でも、政略結婚でしょ?」
斗愛は、或いは一般的な人達は政略結婚を「愛のない結婚」と思っていることだろう。けれども央と和人のように好き合っている者たちや、付き合ってから或いは結婚してから愛が芽生えるケースも無いとは言えない。
「いや、でも俺と和人は」
その先の言葉は紡げなくて、央は喉を詰まらせるようにして黙り込む。央は今もα除けと防護のため首を太めのチョーカーで覆っているが、その項には和人の噛み傷がしっかりとついている。誰にも公表せずに跡を隠しているのは、高校卒業のタイミングで発表するまで両家から口止めされているからだ。
「愛のない結婚なんてやめなよ!央にもこれからがあるんだから……それにわかるんだ、僕と歌城さんは運命なんだって」
彼からは清涼感あるミントと柔らかな甘みを感じる匂いがした、と斗愛は告げる。それは央が愛する和人のフェロモンで間違いがなかった。すでに番契約を結んだαの香りが他のΩを惑わすことはないはずだというのに、斗愛にはそれが嗅ぎ分けられたのだという。
「友達だから、諦めなきゃいけないとも思ったけど『まだ』大丈夫でしょ?僕、彼のこと諦められないんだ……ごめんね央」
斗愛は、央がまだ和人と番っていないと思っているため「まだ」という言葉が口をついてでてきたらしい。番う番わないどちらにしても結婚がほぼ確定している人の婚約者に手を出そうというのは、オメガバースの世界観であってもそれはそれでかなりの問題だが、斗愛の非常に悪い意味で猪突猛進なところは央も嫌というほど知り尽くしていた。
まさか、宣言した当日に実行するとは誰も彼も思わなかっただろう。央が止める間もなくヒート状態で歌城家に乗り込んだ斗愛は、運悪く話し合いのために本家に戻っていた和人と出会ってしまい、そのまま和人はラットを引き起こされた。
運命というだけあり、予備知識なく遭遇してしまったその発情欲求はとても抗いきれるものではなかったのだろう。視界がマグマのように熱く赤く染まる、まさに致死量とでも言うべき破滅的なフェロモンに中てられた和人は、最早人間ではなく一匹の獣となった。玄関先で斗愛の肌を暴き、項に牙を突き立てるのは時間の問題だった。
運命とやらの発情期は当の本人達だけではなく、どうやら周囲にも影響を及ぼす災害のような凄まじいものらしい。βの使用人や警備員すら股を濡らし中心を勃起させるような、猛毒のようなフェロモンが周囲に拡散され垂れ流されてゆく。
飢餓寸前の猛獣が獲物を捕らえて離さないように、行為に次ぐ行為、そしてそれが終わっても骨の髄までしゃぶりつくすように獣じみた唸り声まで上げて、和人は斗愛を後ろから抱きかかえしがみ付いて離さなかった。
身体をゆさゆさと後ろから突き刺され、揺さぶられながらも斗愛は恍惚とした表情でそれを成すがままに受け入れている。これが運命の番かと、斗愛はそれを自身に対する情熱と愛と脳内変換させすっかり勘違いしていた。
彼らの発情が引く数日間の間、和人は家族に対しても目が据わった肉食獣のような眼差しで睨み付け、その後は斗愛に対して繰り返し腰を動かすだけだった。
「あっ♡あっ♡だめぇ、和人だめだってぇ♡みんなが見てる、からぁ♡あうっ♡あぐぅっ♡あぁあん♡」
はしたなくも両足を広げてαを受け入れる斗愛は、その形ばかりの拒絶すらもプレイを盛り上げるだけの前戯でしかないのだろうと、央は思った。
そう、計画的なヒート事故を引き起こした友人と最愛を心配して歌城家にやってきた央は、松落家と歌城家の両親とともにその現場を見てしまったのだ。
人間ではなく醜い発情期の畜生になり果てたこの二人をみても、果たして「運命の番」というものに憧れる人間はどれぐらいいるだろうか。少なくともメディアはこれを取り上げることはしないだろうと、央は興奮よりも嫌悪と吐き気、そして脳内にいる嫌に冷静なコメンテーターの言葉に、少しばかりの自嘲じみた笑いを浮かべてしまった。
一言で言うならば「冷めた」が正しいのかもしれない。
「……なかば」
斗愛の全身を舐め歯を立てていた和人は、央と視線がかちりとあうと一瞬その表情が抜け落ちた。この世から色彩が抜けてしまったかのような絶望が彼の目から光を奪う。けれども正気を取り戻したのはその一瞬だけだったらしく、抗うように再び斗愛の身体を揺さぶった。
耳に残る甘ったるい嬌声と鼻につく甘くてαを惑わせる、央にとっては嫌悪しか感じることができない斗愛のフェロモンが、彼の胸の左側にチクリと冷たい棘を刺していった。
この日、央は最愛と友人の二人を一瞬にして無くしてしまった。
「絶縁だ」
息子を深く愛している松落家の両親は、歌城家に婚約破棄を言い渡す。歌城家も非常に負い目を感じており、慰謝料としては並外れて高い金額が支払われたが彼らが望むのは金ではないだろう。少なくとも松落家の両親が望む者は、心からの謝罪だった。
しかし、番となった和人と斗愛は屋敷の外に出ることを拒絶し、一日の大半を野獣の交尾のようなセックスをして過ごしているという。
結果。「すぐにお前のところの息子を土下座させにこい」という松落家の要望は通らず、慰謝料は億にも跳ね上がったという。
「大変申し訳ありませんでしたっ!」
「何とお詫びをしたらよいか……!」
さらに悲惨だったのは、釘村斗愛の両親と親族だ。歌城のように権力とは無縁の一般家庭である釘村の家の住人達にとってはまさに青天の霹靂のような事件で、自分の息子が身勝手な横恋慕の末に、友人の婚約者を寝取ったと知ってその表情は絶望色に染まっている。
「……」
央は、目の前の修羅場や謝罪の嵐をどこか遠い出来事のようにぼんやり見つめていた。辛うじて和人に理性が残っていたのか、或いはαという特性上ほかに番がいても問題がないと判断されたためか、まだ央と和人の番契約は残っている。
あれほど愛を紡いでくれた最愛の男は、今は運命とやらの穴にぐちゅぐちゅと腰を打ち付けているのだろう。そう考えると彼の目からは枯れ果てたはずの涙がつうと零れ落ちた。
「この度は本当に、申し訳ありませんでした……でも。彼らは運命の番なのでしょう」
釘村家の父親が、失言をした。彼も妻もβであり、斗愛はβの両親から生まれた少々珍しいΩだった。そのためΩやαの特性などについては疎いところもある。
「お二方が完全に結婚する前に、その運命が出会えたのだから……」
まさかすでに和人と央が番っていることは知らない釘村の両親は、央にやんわり身を引けと残酷なことを伝えている。央は涙を流したまま表情を無くすと、するりと自ら首輪を外して二人に項の噛み跡を見せた。
「っ!……なんて、こと」
「まさかすでに……本当に申し訳ございません、なんてことを。謝っても謝り切れない……」
オメガバースの世界であれば、そして義務教育を受けていればβにだって番の重要性は分かるはずだ。これまでに運命の番に遭遇し、恋人と別れたり離縁したという事象は、そのどれもがまだ取り返しのつく、番が結ばれる前ということが大半だった。
現代では抑制剤も発達しており、あえて番わずにβのような普通の婚姻だけ結ぶ者も一定数いるのは、こういったことを回避するために互いに話し合って決めるという場合も多い。
「息子には、必ず謝罪をさせます……」
歌城家の両親も釘村の両親も酷く心を痛めており、必ず本人たちを連れてくると頭を下げて去っては行ったが。
「……一番話をしたい人たちは、いつもいない」
怒涛のような出来事がある程度流れ去った数カ月後、央はセキュリティはしっかりしているが、控えめなこじんまりとしたマンションの8階で暮らしている。前に和人と暮らしていたタワーマンションは当然引き払い、今は洗濯物を干しながら物思いに耽っているところだった。
随分と薄情な婚約者と友人だったようで、あれから和人も斗愛も央に謝罪や近状連絡の一つも寄こさない。いや、寄こせないのかもしれないが。
手を動かしていないと、瞼を閉じると和人と斗愛がまぐわっている悍ましき姿が脳裏をよぎって離れてくれなくなった。
『央に対してだけだよ、僕がこんなふうになるの』
「……嘘つき」
運命とやらに飲み込まれた獣以下の二人の事など記憶から消し去りたかった央は、現状彼を悩ませている嫌なことを紙に書きなぐり、そして燃やしてしまうことにした。
それはどこかのサイトでストレス解消法として紹介されていたものだ。
「ええと」
この際だから遠慮はいらない。多少脚色しても盛っても悲劇のヒロイン化しても問題はないだろう。紙の上ぐらい罵詈雑言浴びせかけてもいいだろう。
どうせ誰にも読まれはしないのだから。央はそう考えて和人から貰った上質なレターセットに、万年筆で最初はさらさらと気取った文字で、そのうちに心が乱れ怒りが湧いて来たのかごりごりと筆圧も濃く彼らへやられたことを書き綴っていった。
『-和人と友人の斗愛が運命の番とやらで、俺や両親たちの目の前で、性行為を繰り広げていた。
仮に運命にしても、婚約者がいるなら話や筋を通すのが普通だろ。何を考えているんだか。何も考えていないからああなったのか。いや、考える頭すらなかったのかもしれない。少なくとも斗愛は昔から救いようのない馬鹿だから。
あいつらは俺に謝りにすらこない。神経を疑う。親の教育はどうなっているんだと言いたいが、少なくとも和人の親御さんたちはまともだと思う。こればかりは本人たちの資質だろうか。
もしかしたら和人はフェロモンに中てられただけの被害者かもしれないが、斗愛のやつは確信犯だ。奴は俺に宣戦布告をしていった。
「愛のない政略結婚なんてやめて和人を自分に譲れ」と宣ったのだ。どんな形であれ愛が育まれることはあるだろうに、全国の政略結婚やお見合いで結ばれた人たちに土下座して謝ってほしい。
あれは故意にフェロモン事故を誘発させた性犯罪行為だ。歌城家は不祥事を嫌うので、もしかしたら事件をもみ消すかもしれないが。
斗愛は、昔からある意味目を離せない、いや離してはいけない危ない奴だったと思う。幼稚園のころも小学校のころも、クラスの人気者のイケメンにべったり張り付いて、周囲の女子から顰蹙を買っていた。驚くほどに自分の立ち位置がわからない人間で、空気が読めないと言えばそれで終わってしまうけれど、奴の場合は常軌を逸していた。今までよく刺されずに生きていけたものだと思う。
不思議と、そのイケメンたちも一定期間斗愛と居た後は距離を置いていたけれど、あれは何故だったんだろう。斗愛がイケメンに飽きたからだろうか。もしそうであれば随分と贅沢な奴だ。
中学に入ると斗愛の悪評はさらに酷くなり、奴は恋人や番を誓い合ったカップルも関係なく、奴が気に入ったイケメンで優秀なαにべったりくっついては離れ、また別のイケメンにくっついては離れを繰り返していた。何をしたかったのか本当にわからない。
「人の彼氏を寝取ったでしょ」と、クラスの美女にビンタをされた斗愛の、ぽかんとした表情が忘れられない。
なんでだよ、流石に身体の関係を持ったなら「自分は何も知りませんでした」は通用しないだろうが。
斗愛が誰かに依存しないと生きていけない性質、そして自分が気に入った者に対しては奪い取らないと気が済まない悪い癖があることを俺は知った。
恋愛ゲームのヒロインさながらの容姿を持ちながら、その性質は最悪でヒロインの悪さを全部抽出したような奴だと俺は思う。
そのせいで恨みを買い、斗愛がαやβ達にレイプされかけているところを助けたのは、今となっては何故なのか俺にもわからない。でも、その頃の俺は斗愛が嫌いではなかったし同じΩ仲間の、友人だった。数少ない友達だと俺は思っていた。
次に和人のことだ。確かに俺は彼を愛していた。愛してはいたが。
実は、和人には小さいころから性的な悪戯をされていた。俺も最初の頃はそれが何だかわからなくて恥ずかしくて、怖いだけだった。だけど和人はそれを「愛のある行為」だとして長年にわたって、それを俺にじっくりと慣らしていった。
馬鹿な俺は「あれ」を愛だと勘違いしていたのかもしれない。あれが恋人やパートナー同士の合意があればコミュニケーションの一環だということは今ではわかるが、当時の俺には恐ろしく悍ましい行為でしかなかった。
奴の中には別の、下品な親父の人格でも乗り移っていたんじゃないかと思うぐらいに、悪戯の手は洗練されていた。きっと生まれながらに変態のエリートだったんだろう。お前が同い年じゃなかったら訴えていた。この変態が。
もしかしたら奴には俺じゃなくてもよかったのかもしれない。手近な悪戯できて全部肯定してくれるような人間がいれば誰でもよかったのかもしれない。そりゃあ運命なんかにかっさらわれてもしかたがないか。
この変態とヒロイン気取りのクズは責任すら取れない愚か者らしい。俺と将来を誓い、俺の項を噛んで番になったのに、その後に和人は友人の斗愛とセックスをし、番になった。
運命の番という身体の相性が良いために、そのフェロモンには抗い切れないというのは俺も知っている。このように不幸な事故が起こる可能性があるということも。
けれども、世の中には運命に抗ってパートナーと結ばれるカップルもいる。中にはαとβや、βとΩ、α×αやなんとΩ×Ωという組み合わせのカップルが運命を退けた事例もあるというのに。
こいつらは運命の番とやらになった後、一度も俺の前に姿を現さない。謝罪の一つもよこしてはこなかった。人として終わっている。
斗愛へ、お前のこと助けなきゃよかったと一瞬でも思った俺を許してくれなくてもいい。俺もお前を許さないから。
和人へ、お前のことなんて、好きにならなきゃよかった。
二匹の性欲に支配された畜生共へ。俺はお前らを祝福しない。一生恨んでやりたいところだけど、俺も人が良いからそこまで誰かを憎むということはないと思う。俺には俺の人生があるから。憎しみが終わったらあとは無関心に移行するだけだ。よかったな。
お前らには誰にも祝福されない人生を送って欲しいけど、もしそれでも生涯愛し合いずっと傍にいたら、運命とやらを信じてやるよ。俺がそれを見届けることはないけれど。
でも、本音を言うなら今すぐ消え―』
「あ、やべぇ!」
洗濯バサミが壊れかけていたのか、洗濯物の一枚がひらりと風にあおられて空に舞い上がりそうになっていた。
央は、微かに揺れるスマホの通知音にも気づかずこれから燃やす予定の独白めいた、書きかけのそれもそのままにして、ベランダに駆け込んだ。
……これが不幸な事故でなければ、運命とはどうしてこうも非情なのだろうか。吹き飛ばされそうになった洗いたてのタオルをキャッチしほっと一安心した央に、突如として胸にずきりとした痛みが襲う。恐らくストレス要因の一過性のそれは、彼をベランダの踏み台から足を滑らせるのに一役買っていた。
空へ放り出される央の目に映った最後の光景は、雨上がりの青空と、橋のようにかかる綺麗な綺麗な虹だった。
Q:ご葬儀と結婚式が重なった場合、どちらを優先すればいいの?
A:結婚式を挙げられる方が知人友人の場合、ご葬儀に駆け付けるようにし、結婚式は見送りましょう。
央が自宅の8階マンションから墜落しそのまま死亡したのは不運な事故だった。ベランダの洗濯物を取り込もうとした拍子に心臓に痛みが走り、そのまま足を滑らせて落下し頭を割ったのが事実だが、世間は到底そうは思うまい。
また、央に和人と斗愛の結婚式の具体的な日取りなどは知らされていなかった。
すでに地まで落ちかけていた世間体を取り繕うために、不本意ながら歌城家は格下どころか一般市民である釘村斗愛との結婚を早急に進めた。本来であれば番が二人いようとも、歌城家も和人も央とそのまま結婚式を挙げ、斗愛はせいぜい妾として囲うくらいの予定だった。歌城家が斗愛を受け入れる予定など全くなかったのだ。
けれども、松落家の怒りを宥めることはできず半ば一方的に離縁を言い渡され、それが叶うことはなかった。一夜の過ちどころか人生を棒に振るい最愛に逃げられた和人は意気消沈していたが、反面に斗愛は自身がシンデレラにでもなったかのように、これからの未来に胸を膨らませている。
斗愛好みのイケメンかつ教養もある美しい番が運命となり、番を略奪した友人のこともそのままに結婚式の衣装に袖を通しては幼子のように無邪気にはしゃぎ、和人の腕に自身の腕を絡ませては笑っている。
央の精神衛生上、今は央と和人を引き合わせるべきではないと松落家も歌城家もそこは意見が合致したのか、二人が結婚することも含めて央に伝えられることはなかったのだ。
それなのに。結婚式の前々日に央はこの世を去った。
死因が死因のためエンバーミングも少々骨が折れたらしいが、棺には整然とほぼ変わらない彼の姿がそこにあった。彼の死後翌日に通夜があり、その翌日には葬式が行われる。央には沢山の友人や、彼によって命を救われたといっても過言ではない学友たちが数多おり、和人の友人は皆央の葬儀に向かうため結婚式は見送ったというわけだ。
斗愛に至っては友人すらいなかったが、苦肉の策としてレンタル友達を呼んでいたので席は片方ががらがら、もう片方が満席に近いという実にちぐはぐな状況だったらしい。
央は本当に不幸な事故とそれを誘発する一時的な胸の痛みでこの世を去ったが、そう判断するにはあまりにも異なる内容の物的証拠が残り過ぎていた。
一つは、央が残した恨み節めいたメモ。彼はこれを手元に残すことなく燃やすつもりだったが書き記した直後に亡くなってしまったため、遺書と判断されてもしかたがないだろう。
それからもう一つ、こと死亡時間において数分数十分ぐらいの前後であり、発見されたのがさらに数時間後などであれば、もうそれは誤差の範疇だろう。
央がベランダから飛び降りた十数分後に、央宛に斗愛からラインが届いていた。その内容は「和人さんと結婚することになったの。ごめんね央」という簡素なものだった。
当然ラインは未読ではあるが、あえて通知の文面だけみて既読をつけないというやり方もあるので、通知を見た後にショックのあまり衝動的にベランダへ駆け寄ったと判断されたようだ。つまり、央にとっては不名誉なことに警察側でもこれは「自殺」と判断された。
経緯を知る近隣住人含めて同情の念こそ送りはするものの、誰も央を責める者はいなかった。事故物件として土地の価値は下がってしまうだろうし近隣住人には迷惑もかかるかもしれないが「これは死にたくなるかもね……」「まだ線路に飛び込まなかっただけマシだ」などと、同情混じりに不謹慎なことを言う者もいたぐらいだ。
「っ!?」
「どうしたの、和人?」
結婚式の前々日。背中を擦る斗愛をそのままに、和人は衝撃のあまりその場に蹲り、自身から最愛が離れてゆくのを身をもって感じとった。それはちょうど央がコンクリートの地面に頭を叩きつけられた直後の時間帯だ。番の死亡により、和人と央の番が強制解消されたのだ。
αは確かにΩを任意に番解除することができるが、このように片割れの死亡による強制解除は、αにとっても予期せぬ事態のためかダメージが入る。がくがくと身を震わせる和人の背中を撫でるΩの白い手が、運命の番だというのに何故だか生ぬるくて酷く不快だった。
「おはよう」
「おはよ、ねえ聞いた?」
「うん……信じられないよ」
「やだ、悲しい、松落先輩」
「あの人があんなことになるなんて」
「……そもそも前々からあいつ」
「松落さんがどれだけ面倒見てたと思ってるんだろ」
「……うわ、来た」
「やばいやばい」
本来であれば、あと数日で松落央の学年が卒業式を迎える日が近づいていた。3年の生徒たちはリハーサルなどで登校していたが、その空気はまるでお通夜のようだ。
斗愛が教室に入った瞬間、空気は静まりかえり生徒たちの声もすうと消えた。異質な空間となっても斗愛は気が付かないのか、或いは気に掛ける必要すらないと思っているのか、自分の席に着く。
ちらちらと冷たい目線を向けられる斗愛の頭の中は、己の番の事でいっぱいだったらしい。ぼんやり「恋する乙女」といった風で幸せそうにしている斗愛と、周囲の温度差は開く一方だ。
持ち前のヒロイン脳は健在らしく、また頭も人の痛みに鈍感であろう斗愛は周囲の比較的強めな憎悪をダイレクトに浴びせかけられても「自分が可愛すぎるから」と斜め上の考えを持っていた。
SNSを通じてネットからメディアまで、央のメモが拡散されたのは彼にとっては最大の誤算だった。本人からしてみれば舌を噛み切りたくなるような黒歴史そのものかもしれないが。
誰が持ち出したのか、燃やすはずのメモは最初はスマホで写真を撮られたものがネット上に流れた。その後は丁寧にスキャナーに取り込まれたものが拡散される。
画像が削除されてもキャッシュが残りそこから引っ張り出され、或いは文字をすべて書き起こされて長文にもかかわらずコピペや改変されることなく比較的正しく広まっていったのは、その内容が内容だからだろうか。
『NTRwww』
『運命の番ってNTR脳破壊もののことですか?』
『これは、薄い本が厚くなるな……いや胸糞すぎて俺は読めん』
『いえーい和人くん斗愛ちゃん見てる~?お前らのせいでこの人死んじゃいました。せめてこの人の項噛む前にすればよかったのに。最低だな』
『Ωにとって番解除なんて死ぬより苦しいらしいぞ』
『何が運命wだよwwwwひでえなこれ……死ぬ』
『やめな、実際に死んじゃった人なんだよ』
『仮に運命の番が遺伝子レベルで相性がいいとしても、ちゃんとパートナーを大切にする人はいるのにな』
『こいつら、両親と婚約者の前で公開セックスしてたらしいぞwww』
『マジ基地すぎる』
結果、メディアを通じて「某大企業の息子、運命と番い婚約者を死に追い込む」というニュースがお茶の間を賑わせることになった。
例のメモ帳も開示され、名前までは公表されないが和人が元婚約者に小さい頃から性的虐待を幾度となく行われていたこと、身体も奪い番になって婚姻直後に運命の番と出会い結ばれ、あっさり幼馴染の婚約者をボロ雑巾のように捨てた最低な人間として取り上げられていた。
『あ、Mさんのことは本当に残念で……未だに心が痛いです……ごめんなさい、悔しくて』
『Mさんは本当に正義感溢れる凄い人で、僕もいじめられていた時に助けてもらったんです。命の恩人です。それがどうしてこんな……』
『Mさんは勉強もスポーツも学校行事も、全て全力で取り組む真面目で明るい生徒でした。それが、なんであんなことに……残念でならないです』
『MとTは友達同士だったんです。トラブルメーカーというか、よく問題起こしてクラスから孤立してるTを分け隔てなく接していたのがMでした……あんないい奴を裏切ったT、本当に最低だと思います』
『MはTがαやβに集団で襲われかけた時に、命がけで助けたヒーローなんです。自分もΩでいつ襲われるかわからないのに……そんな命の恩人を、アイツは……アイツは!』
『Tさん、ですか……すみませんちょっと。いや、本当に関わり合いになりたくないんで』
『T、確かに顔は可愛いんですけどね。性格が』
『付きまとわれてもうしんどかったです』
『依存が凄いくせに、ちょっとでも自分の好みや理想から外れるようなことすると手のひら返して離れていく人で。面倒になって別れたい時とか、逆に別れるのは楽でしたよ~』
『頭が悪すぎて話が通じない。一緒にいてもつまらなくて苦痛でした。その癖思い込みが強くて……』
『噂なんだけど、Tの結婚式友達が誰もいなくてレンタル友達雇ってたらしいよ』
『それ聞いた、ちょうどMさんの葬儀と重なって旦那の方の友人はこぞってそっちに駆け付けたらしいけど。旦那側は親族だけ、Tだけ友達(笑)が勢揃いしてたらしい』
『うける』
深夜の低俗な、けれどもかなり踏み込んだ内容を放送する過激なチャンネルを、和人と斗愛はぼんやり眺めていた。頭が悪いと言われた斗愛にとっても、流石にこれは良くない事だというのは理解したのだろう。
彼は、和人と央がすでに番関係にあったことを知らなかった。当然肉体関係にあったことも知らず、というよりも察することもできず政略結婚だからという偏見で二人の仲を引き裂いた張本人でしかなかった。
極めつけは央の自殺だ。厳密にいうと自殺ではないのだが、そこまではメディアもこの二人も判断はできなかっただろう。
斗愛は、自己愛は人一倍ある癖に他人を思いやる気持ちが欠けている。けれども自己保身の精神は強く、過去に苛めやレイプ未遂から救ってくれた恩人の婚約者を奪い、自分がそれに成り代わっているという事実に関して、いくら運命の番だろうが世間が良く思ってはいないというところまでは理解が及んだらしい。
ましてや懇意にしていた優秀なΩが死に、人格や能力共に問題がある顔だけのΩが息子の運命の番ということに、歌城家も斗愛に対して最早良い感情は皆無に等しかった。
「和人は、和人だけは僕の味方でいてくれるよね?」
僕には和人しかいないの、和人さえいれば何もいらないと、斗愛はお得意の生存戦略である、愛くるしい小動物のような庇護欲をそそる顔を向けた。
和人は、不気味な程穏やかな笑みを浮かべながら、無言で斗愛の顔を見返していた。
「社長、お茶をお持ちしました……あぁっ」
和人が次期社長となった某大手企業の一室から飛び出した社員のひぃいという何かを押し殺したような、悲鳴のような不思議な声がフロア全体に広がる。その後のミーティングでも親族の集まりでも、周囲の目線は和人のある一点に注がれており、外れることがなかった。
「おい、見たか社長の」
「ああ……やっぱりストレスなのかなぁ……」
「元婚約者が亡くなって、運命がアレで気苦労絶えないのかねぇ」
「同情の余地なかったけど、アレと生涯過ごすのは地獄だわ」
「でも会議中にやめてほしい」
「アデラ○スかカツラ被って欲しい」
「俺、ハゲネタに弱いんだよやめてほしい」
「イケメンだからなおさら目立つんだよ本当に無理……」
和人の後頭部は言い逃れができないほど薄くなっていた。まばらに生えていたそこは次第に河童の皿のようにつるりとなってしまったようで、その後は取り繕うのを諦めて自ら毛を剃ってしまい、ウィッグを被って過ごしているようだ。
しかし、落ち武者河童ヘア時代の歌城和人社長を知っている社員と親族達の心労もそれはそれで激しく、河童時代のミーティング中はシャープペンや安全ピンなどで自らの太腿や手のひらに鋭利なそれを打ち込み、込み上げてくる何かを必死で押し殺す者も数多居たそうだ。
自分の運命の番がハゲになったことについて、斗愛は絶望していた。運命の番は永遠の王子様のようなもので、その容姿が衰えることなくいつまでもイケメンで、歳を重ねても彼はロマンスグレーであり、当たり前に毛もふさふさなのではないか?と斗愛は疑うことなく妄信していた。
例えウィッグを被っていても、斗愛の伴侶はこれから先ずっと頭髪が不自由な人として生きてゆかねばならないことを考えると、斗愛は酷く気が滅入った。
「社長……」
「仕事はちゃんとしてるからいいんだけどさ……」
「アレも、ストレスかね」
「見る影もないな」
「目の保養がまた潰れた」
更に数年後。歌城和人はこれもストレスのせいなのか、平均体重を大きく上回り体重は既に3ケタを突破しているであろう、平たく言うと目も当てられないぐらいに太っていた。
親父と呼ぶにはまだ年齢的に早いかもしれないが、絵に描いたようなデブハゲ男になった彼は、これまで斗愛に対して距離を置いているように見えたが今はべたべたと彼に纏わりついている。
「いやだ、離して、近寄らないで!」
「僕と斗愛は運命の番なんだろう?そんな冷たいこと言わないでよ」
「いや、誰があんたなんかと!せめて前の和人に戻ってよ!!」
運命でなくとも、αとΩは心が伴っていれば相手の容姿がどうなっていても仲睦まじい場合が多い。「うちの夫、昔は王子様みたいだったけど、今じゃすっかりカ○ゴンみたいになっちゃった」と笑いつつも、そこには愛しかないパートナーもいる。
けれども生物学的に身体の相性がよくとも、和人と斗愛には「それ」しかなかったのだろう。
性交渉を徹底的に避けられた和人は、あっさり斗愛との離婚を決めた。
そしてあろうことか斗愛との番も解消することを宣言し、二人は本当に赤の他人となった。番解除はΩにとって命に関わる事象だが、斗愛も醜くなった伴侶が許せなくなったのだろうか、すんなり了承したようだ。
死がふたりを分かつまでどころか、わずか数年の結婚生活であった。
非人道的行為として見なされる番の解除についても、歌城家も釘村の親族達もそれを黙認したようだ。歌城家は斗愛に対して恨みと憎しみしかなかったし、釘村も歌城と松落の家双方に対して後ろめたさが今も残っている。
あわせて多額の慰謝料を取られることを免れるのであれば、息子の番解除ぐらいたやすく差し出すだろう。
「お前は、本当にとんでもないことをしてくれた」
両親にも突き放され外に放り出された斗愛は、これまでまともに職に就いたこともなく誰かに依存し頼り切って生きていたΩだ。けれどもヒロイン脳は変わらず「また誰かが自分を愛してくれる」と今でも思い込んでいる。番を解除され、二度と他のαと番うことができなくなったΩが生きて行ける場所など限られていた。
避妊手術を施された斗愛は、そのままあまり良くない風俗店へ売られて行ったが、これも歌城家の手引きであった。
さて、和人のほうはというと。斗愛と離縁した後は不思議なことに体型が元に戻り、元のまでとはいかないが、それでも顔色の悪い優男といったところまで回復した。抜け落ちた毛までは元に戻らないだろうがウィッグを着けている限り表面上はどこか愁いを帯びたイケメンにしか見えない。やはりろくでもない運命の番のせいで、体調が悪化していたのではないかとは社員一同の見解だ。
和人には弟がいるが、彼は業務の引継ぎを行ったのちに社長の座を彼に全て譲り渡した。婚約者が残したメモは全て事実であり、最愛の婚約者を死に追いやってしまったこと、運命というものに惑わされてしまい数多の人生を狂わせてしまったことを深く謝罪し、辞任することを電波を通して全国に告げた。
その後の彼は、住むわけでもなくずっと中を保管するようにして残していたマンションの8階にあると一室からその身を投げて自殺を図った。酒と睡眠薬を煽った彼は真っ逆さまに落ちて行き、地面に頭を叩きつけられてしまい、存外淡く初々しいピンクの脳みそをぶちまけて事切れた。即死だったのは彼にとって救いになるだろうか。
時は少しだけ遡る。突然、項と半身を引き裂かれるような衝撃が全身に震動した。
久しぶりに地上波で見た元運命の番の姿は影のあるイケメンで、斗愛の好みのままだった。その彼が記者会見でこれまで央にしてきた所業を謝罪し、自殺したことを知った彼の心中は決して穏やかではなかった。
運命と番ったはずなのに、どうして幸せになれなかったのだろうと頭を掻きむしるだろうか。それともひょっとしたら心のどこかで、微かに自責の念でも浮かぶことがあるだろうか。そうであれば良いのだが。
ただ、彼の頭にはαやβに襲われかけた時に救い出してくれた央の姿が鮮明に脳裏に浮かび、消えてくれなかった。運命でもなくαですらなかった彼が、斗愛の騎士で王子だったというのは実に皮肉だ。
許嫁として幼い頃よりずっと傍に居た歌城和人(うたしろかずひと)と松落央(まつおちなかば)は、幼馴染から友達、それから恋人として順調に愛を育んできた珍しい例と言えるかもしれない。
「飽きないの?」
「飽きるって、何が?」
学友のやっかみじみたイヤミに対して、穏やかにこてんと首を傾ける優男は和人だ。生まれてからずっと一緒といって過言ではない央に対して、和人は家族のような愛と焦がれるような恋慕と、そして情欲という複雑な感情は絶えずあるものの、飽きることはなかった。
彼は歌城家という由緒正しい家柄で生まれ育った、今は様々な分野で成功している大企業の社長の長男だ。俗にいう勝ち組、下世話な周囲の言葉を借りるに「親ガチャ成功者」の息子であった。
また、オメガバースという男女以外にα、β、Ωの第二の性があるこの世界で、周囲の期待を裏切ることなく和人はαだった。
αは支配階級がゆえにエリート体質であり、容姿や頭脳、運動神経全てにおいて優れている。それに加え、彼ら彼女らはΩやβを屈服させるような攻撃的な威圧フェロモンを持っているため、仮に同等の能力を持つ優秀なβがいたとしても、そこで差が開いてしまうと言われている。人を従わせるという点においてはαが恐らく最上位なのだろう。
βは中間層、もっとも数が多い平凡な性別といえる。けれども発情期や運命の番といったものに惑わされることなく、もっとも冷静に、理性的に生きていけるのはこの性別ではないだろうか。
Ωは下位層、男女問わず子を成すことができるが平均で3カ月に一度やってくる発情期のために、現在社会でも冷遇されやすい。
Ωにはヒートという発情期がある。αにはラットという発情欲求があるが、ヒートと違い定期的にやってくるものではなく、主にΩのヒートに中てられた際に発情させられてしまうものだ。そういう意味では、本能的な欲求において所詮αもヒートの奴隷と言えなくもないだろう。
発情フェロモンは恋愛感情など伴わない第三者のαやΩ、時にβにまで影響を及ぼしてしまうが、通常αとΩに存在しかない「番」というΩの項を噛む行為をしてしまえば、基本的に他のαやΩに惑わされることはない。
ただし、心が伴い愛を育んだ結果、晴れて番となった最愛同士のαとΩの前にも、極まれに「運命の番」という厄介な者が現れることがある。
運命の番は平たく言ってしまえば、遺伝子レベルで相性の良いαとΩのことだ。更に、にべもない言い方に置き換えてしまえば、運命の番であるαとΩは身体の相性が非常に良く、理性を総動員させても協力な抑制剤でも飲んでいない状態であれば、即座に互いのフェロモンに中てられてそのまま性行為に及び番ってしまうとさえ言われている。
Ωは一度番ってしまえば番のα以外とは二度と番うことができないが、αはその役割上何人ものΩを番うことができる。あわせて、αはΩに対して番の解除という行為をおこなうことも可能だ。解除されたΩは重苦しいヒートが再発するが、二度と他のαとは番えないため短命になるとも言われている。
しかし、それ以上にαは番のΩに執着し囲うので、番の解除をおこなうことはおろか、複数の番を持つことは欲求や本能の点においても、無論世間体からしてみても近代社会では非常にまれだ。
仮に恋人もパートナーもいないΩとαが運命として巡り合えたのであれば、それはとても素晴らしく素敵なことであり、正しく恋愛小説のような展開ではないだろうか。
けれども、Ωは身体の特性がゆえに学生のうちから婚姻を結び番となる者も多い。そのほとんどの番たちは運命ではないが、それでもβのように普通の恋人同士や夫婦、或いは夫夫や婦婦として心を通わせ、最愛とこれからの人生を共に生きてゆく。
そんな最中にもし「それ」が現れたのなら。運命によって二人の中は裂かれ、αは暴力的なラットを強制的に引き起こされて、いつも隣にいる最愛をそのままに目の前の運命の番とまぐわいその項に牙を突き立てる。
脳は、心は最愛を求めるというのに、身体は運命に固着し害悪な接着剤でくっつけられたかのように醜く、まるで蜘蛛糸に囚われた獲物のように複雑に絡みついてゆく。それを悲劇と言わずして何と言えよう。
「和人」
「央!」
最愛に呼びかけられ、和人はぱあと明るい表情を浮かべて央の元へ駆け寄ってくる。その姿はエリートα様というよりは人懐こい大型犬のようだった。中性的で嫋やかですらある和人も現恋人、未来の伴侶である央の前ではその姿も形無しだ。
「会いたかったよ、央!」
「あはは、数時間前に合ったばかりだろうが」
口先ではそう返してやるものの、央はつま先立ちで和人の首に両腕を絡ませてぎゅうと抱き付く。
彼らは同棲しているが、歌城家と松落家の両家とも無論反対することは無い。高校三年の二人が18歳になった直後、和人は央の項を噛んだ。二人がそれ以前に身体の関係を結んでいることは周囲も薄々気づいていたが、流石に番契約は看過できず松落家は「うちの息子を傷物にしてくれるな」と、二人は早急に婚姻を結んだ。
学生結婚、それも歌城家と松落家という世が世ならやんごとなき家柄、という表現がぴったりと当てはまる両家の息子たちの結婚については、彼らの卒業まで公開は見送られることになった。
半分以上が事実ではあるのだが、未成年の猿のような有り余る性欲の延長で番いました、という外聞の悪さを隠したかったのだろう。
「お前は本当にこらえ性がないから心配だよ、この先も」
和人が央に異常な執着を見せたのは幼少のみぎりからであり、実は子供の頃より央の身体に触れたり胸の突起を弄ったり、央の新芽のようなペニスを口で咥えたりと、性犯罪そのものといったことをしていた。
最初のうちはその行為の意味がわからなくて羞恥や恐怖から泣く央を、優しく抱きしめて頬や額にキスの嵐を落とし「これは好きな人とすることなんだよ」とゆっくりと懐柔していった和人だ。当時からかなりの策士であり人心掌握が得意なのだろう。
歳を重ねるうちに、和人の心にある仄暗い歪みを理解した央はそれでも和人から離れることはしなかった。政略結婚という枷もあるが、松落家の両親は央を溺愛しており本当に央が拒絶すればこの縁談は解消することもできたはずなのに。
じっくり十数年かけて絆されてしまった央は、和人の匂いと熱を手離せなくなっていた。
「央に対してだけだよ、僕がこんなふうになるの」
ぷくりと頬を膨らませて拗ねて見せる優男の姿に、央は困ったような笑みを浮かべて見せる。政略結婚とはいえ、愛のあるそれは祝福されて当然だったはずだ。
「ねえ、央」
「うん、どした?斗愛」
普段は愛くるしいぐらいに愛嬌を振りまく目の前のΩは、いつもと違い真剣な面持ちで央に話しかけた。彼の名は釘村斗愛(くぎむらとあ)、実年齢よりも幼く非常に整った美しさはあるものの、どちらかと言えば可愛さに重点をおいた顔立ちで、地毛がピンクブロンドという冗談みたいな容姿の持ち主だ。
「僕……歌城さんのこと、好きになっちゃったんだ」
「え?」
「この間、央を待ってたんだろうね、校門前で歌城さんに出会って。転びそうになった僕を支えてくれた時にこの人が運命なんだってわかって。央の婚約者だってことも知ってるのに……心が彼を求めているのがわかるの。この想いに嘘は付けない」
数少ないΩである斗愛と央は同じクラスメイトであり、友人でもある。
Ωでありながら努力家で勉学や運動も真面目に取り組んできた央は、それなりに整ってはいるもののいまいち花がない平凡な容姿だが、友人も多くクラスメイトとも良好な関係を築けていた。
反面、斗愛はその容姿で周囲から自身の能力以上に持ち上げられてしまい、熱狂的なファンもいたが根深いアンチも一定数いるような人間だ。
斗愛がいじめにあったりやっかみを受けたりした際に、最終的にいつも助けるのは彼の騎士や王子様ではなく央だった。あれは彼らが高校一年の夏休み前、学年一のイケメンに溺愛された斗愛は同じクラスのβ女子やΩ、先輩たちの恨みを買ったため学校の空き教室に閉じ込められ、そこでαやβ男子に襲われかけていた。
それを救出したのも央だった。乱闘の結果、シャツのボタンがはじけ飛び自身がαに襲われかけても屈せずに戦った彼は、どんなαよりも勇ましく、騎士で王子様だった。彼は斗愛にかかわらず、困っているクラスメイトやいじめに遭っている生徒を目撃すると、すぐさま加勢に向かうような漢気あるΩだ。
そんな央の態度に惚れ込む者は数多折り、男女オメガバース性問わず「お前の心意気に惚れた」と何故か仁義を切る者も多い。どこの極道の世界だろうか。
「…………お前、学年一のイケメンは?」
数百文字ほど文章を遡っていただければわかるだろうか。学年一のイケメンに溺愛されたお前(斗愛)はどうしたと央は詰め寄る。
「ええと、彼とは2年に上がる前に別れた、よ」
「嘘だろお前……」
斗愛と学年一イケメンはそこかしこで仲睦まじい姿を見せびらかしていた。このまま学生のうちに番になって結婚するのだろうと誰しもが疑ってはいなかったのだが、いつのまにか別れたらしい。
「なんか、一緒にいるうちに、僕はなんにもしてないのに。お前とは別れるって……飽きられちゃったの、かな?」
目の前で泣き崩れて見せる斗愛の姿に、今更ながら央はうさん臭さを感じた。考えてみれば普通に生きているだけの美しいΩであれば、何故あんなにアンチやヘイトがそこかしこに溜まっているのだろうとちらと頭の隅で良くない考えが浮かんでしまう。無自覚なトラブルメーカーほど恐ろしく対処がしにくいものもないのだ。
「わかってると思うけど、俺と和人は婚約者同士で……」
「でも、政略結婚でしょ?」
斗愛は、或いは一般的な人達は政略結婚を「愛のない結婚」と思っていることだろう。けれども央と和人のように好き合っている者たちや、付き合ってから或いは結婚してから愛が芽生えるケースも無いとは言えない。
「いや、でも俺と和人は」
その先の言葉は紡げなくて、央は喉を詰まらせるようにして黙り込む。央は今もα除けと防護のため首を太めのチョーカーで覆っているが、その項には和人の噛み傷がしっかりとついている。誰にも公表せずに跡を隠しているのは、高校卒業のタイミングで発表するまで両家から口止めされているからだ。
「愛のない結婚なんてやめなよ!央にもこれからがあるんだから……それにわかるんだ、僕と歌城さんは運命なんだって」
彼からは清涼感あるミントと柔らかな甘みを感じる匂いがした、と斗愛は告げる。それは央が愛する和人のフェロモンで間違いがなかった。すでに番契約を結んだαの香りが他のΩを惑わすことはないはずだというのに、斗愛にはそれが嗅ぎ分けられたのだという。
「友達だから、諦めなきゃいけないとも思ったけど『まだ』大丈夫でしょ?僕、彼のこと諦められないんだ……ごめんね央」
斗愛は、央がまだ和人と番っていないと思っているため「まだ」という言葉が口をついてでてきたらしい。番う番わないどちらにしても結婚がほぼ確定している人の婚約者に手を出そうというのは、オメガバースの世界観であってもそれはそれでかなりの問題だが、斗愛の非常に悪い意味で猪突猛進なところは央も嫌というほど知り尽くしていた。
まさか、宣言した当日に実行するとは誰も彼も思わなかっただろう。央が止める間もなくヒート状態で歌城家に乗り込んだ斗愛は、運悪く話し合いのために本家に戻っていた和人と出会ってしまい、そのまま和人はラットを引き起こされた。
運命というだけあり、予備知識なく遭遇してしまったその発情欲求はとても抗いきれるものではなかったのだろう。視界がマグマのように熱く赤く染まる、まさに致死量とでも言うべき破滅的なフェロモンに中てられた和人は、最早人間ではなく一匹の獣となった。玄関先で斗愛の肌を暴き、項に牙を突き立てるのは時間の問題だった。
運命とやらの発情期は当の本人達だけではなく、どうやら周囲にも影響を及ぼす災害のような凄まじいものらしい。βの使用人や警備員すら股を濡らし中心を勃起させるような、猛毒のようなフェロモンが周囲に拡散され垂れ流されてゆく。
飢餓寸前の猛獣が獲物を捕らえて離さないように、行為に次ぐ行為、そしてそれが終わっても骨の髄までしゃぶりつくすように獣じみた唸り声まで上げて、和人は斗愛を後ろから抱きかかえしがみ付いて離さなかった。
身体をゆさゆさと後ろから突き刺され、揺さぶられながらも斗愛は恍惚とした表情でそれを成すがままに受け入れている。これが運命の番かと、斗愛はそれを自身に対する情熱と愛と脳内変換させすっかり勘違いしていた。
彼らの発情が引く数日間の間、和人は家族に対しても目が据わった肉食獣のような眼差しで睨み付け、その後は斗愛に対して繰り返し腰を動かすだけだった。
「あっ♡あっ♡だめぇ、和人だめだってぇ♡みんなが見てる、からぁ♡あうっ♡あぐぅっ♡あぁあん♡」
はしたなくも両足を広げてαを受け入れる斗愛は、その形ばかりの拒絶すらもプレイを盛り上げるだけの前戯でしかないのだろうと、央は思った。
そう、計画的なヒート事故を引き起こした友人と最愛を心配して歌城家にやってきた央は、松落家と歌城家の両親とともにその現場を見てしまったのだ。
人間ではなく醜い発情期の畜生になり果てたこの二人をみても、果たして「運命の番」というものに憧れる人間はどれぐらいいるだろうか。少なくともメディアはこれを取り上げることはしないだろうと、央は興奮よりも嫌悪と吐き気、そして脳内にいる嫌に冷静なコメンテーターの言葉に、少しばかりの自嘲じみた笑いを浮かべてしまった。
一言で言うならば「冷めた」が正しいのかもしれない。
「……なかば」
斗愛の全身を舐め歯を立てていた和人は、央と視線がかちりとあうと一瞬その表情が抜け落ちた。この世から色彩が抜けてしまったかのような絶望が彼の目から光を奪う。けれども正気を取り戻したのはその一瞬だけだったらしく、抗うように再び斗愛の身体を揺さぶった。
耳に残る甘ったるい嬌声と鼻につく甘くてαを惑わせる、央にとっては嫌悪しか感じることができない斗愛のフェロモンが、彼の胸の左側にチクリと冷たい棘を刺していった。
この日、央は最愛と友人の二人を一瞬にして無くしてしまった。
「絶縁だ」
息子を深く愛している松落家の両親は、歌城家に婚約破棄を言い渡す。歌城家も非常に負い目を感じており、慰謝料としては並外れて高い金額が支払われたが彼らが望むのは金ではないだろう。少なくとも松落家の両親が望む者は、心からの謝罪だった。
しかし、番となった和人と斗愛は屋敷の外に出ることを拒絶し、一日の大半を野獣の交尾のようなセックスをして過ごしているという。
結果。「すぐにお前のところの息子を土下座させにこい」という松落家の要望は通らず、慰謝料は億にも跳ね上がったという。
「大変申し訳ありませんでしたっ!」
「何とお詫びをしたらよいか……!」
さらに悲惨だったのは、釘村斗愛の両親と親族だ。歌城のように権力とは無縁の一般家庭である釘村の家の住人達にとってはまさに青天の霹靂のような事件で、自分の息子が身勝手な横恋慕の末に、友人の婚約者を寝取ったと知ってその表情は絶望色に染まっている。
「……」
央は、目の前の修羅場や謝罪の嵐をどこか遠い出来事のようにぼんやり見つめていた。辛うじて和人に理性が残っていたのか、或いはαという特性上ほかに番がいても問題がないと判断されたためか、まだ央と和人の番契約は残っている。
あれほど愛を紡いでくれた最愛の男は、今は運命とやらの穴にぐちゅぐちゅと腰を打ち付けているのだろう。そう考えると彼の目からは枯れ果てたはずの涙がつうと零れ落ちた。
「この度は本当に、申し訳ありませんでした……でも。彼らは運命の番なのでしょう」
釘村家の父親が、失言をした。彼も妻もβであり、斗愛はβの両親から生まれた少々珍しいΩだった。そのためΩやαの特性などについては疎いところもある。
「お二方が完全に結婚する前に、その運命が出会えたのだから……」
まさかすでに和人と央が番っていることは知らない釘村の両親は、央にやんわり身を引けと残酷なことを伝えている。央は涙を流したまま表情を無くすと、するりと自ら首輪を外して二人に項の噛み跡を見せた。
「っ!……なんて、こと」
「まさかすでに……本当に申し訳ございません、なんてことを。謝っても謝り切れない……」
オメガバースの世界であれば、そして義務教育を受けていればβにだって番の重要性は分かるはずだ。これまでに運命の番に遭遇し、恋人と別れたり離縁したという事象は、そのどれもがまだ取り返しのつく、番が結ばれる前ということが大半だった。
現代では抑制剤も発達しており、あえて番わずにβのような普通の婚姻だけ結ぶ者も一定数いるのは、こういったことを回避するために互いに話し合って決めるという場合も多い。
「息子には、必ず謝罪をさせます……」
歌城家の両親も釘村の両親も酷く心を痛めており、必ず本人たちを連れてくると頭を下げて去っては行ったが。
「……一番話をしたい人たちは、いつもいない」
怒涛のような出来事がある程度流れ去った数カ月後、央はセキュリティはしっかりしているが、控えめなこじんまりとしたマンションの8階で暮らしている。前に和人と暮らしていたタワーマンションは当然引き払い、今は洗濯物を干しながら物思いに耽っているところだった。
随分と薄情な婚約者と友人だったようで、あれから和人も斗愛も央に謝罪や近状連絡の一つも寄こさない。いや、寄こせないのかもしれないが。
手を動かしていないと、瞼を閉じると和人と斗愛がまぐわっている悍ましき姿が脳裏をよぎって離れてくれなくなった。
『央に対してだけだよ、僕がこんなふうになるの』
「……嘘つき」
運命とやらに飲み込まれた獣以下の二人の事など記憶から消し去りたかった央は、現状彼を悩ませている嫌なことを紙に書きなぐり、そして燃やしてしまうことにした。
それはどこかのサイトでストレス解消法として紹介されていたものだ。
「ええと」
この際だから遠慮はいらない。多少脚色しても盛っても悲劇のヒロイン化しても問題はないだろう。紙の上ぐらい罵詈雑言浴びせかけてもいいだろう。
どうせ誰にも読まれはしないのだから。央はそう考えて和人から貰った上質なレターセットに、万年筆で最初はさらさらと気取った文字で、そのうちに心が乱れ怒りが湧いて来たのかごりごりと筆圧も濃く彼らへやられたことを書き綴っていった。
『-和人と友人の斗愛が運命の番とやらで、俺や両親たちの目の前で、性行為を繰り広げていた。
仮に運命にしても、婚約者がいるなら話や筋を通すのが普通だろ。何を考えているんだか。何も考えていないからああなったのか。いや、考える頭すらなかったのかもしれない。少なくとも斗愛は昔から救いようのない馬鹿だから。
あいつらは俺に謝りにすらこない。神経を疑う。親の教育はどうなっているんだと言いたいが、少なくとも和人の親御さんたちはまともだと思う。こればかりは本人たちの資質だろうか。
もしかしたら和人はフェロモンに中てられただけの被害者かもしれないが、斗愛のやつは確信犯だ。奴は俺に宣戦布告をしていった。
「愛のない政略結婚なんてやめて和人を自分に譲れ」と宣ったのだ。どんな形であれ愛が育まれることはあるだろうに、全国の政略結婚やお見合いで結ばれた人たちに土下座して謝ってほしい。
あれは故意にフェロモン事故を誘発させた性犯罪行為だ。歌城家は不祥事を嫌うので、もしかしたら事件をもみ消すかもしれないが。
斗愛は、昔からある意味目を離せない、いや離してはいけない危ない奴だったと思う。幼稚園のころも小学校のころも、クラスの人気者のイケメンにべったり張り付いて、周囲の女子から顰蹙を買っていた。驚くほどに自分の立ち位置がわからない人間で、空気が読めないと言えばそれで終わってしまうけれど、奴の場合は常軌を逸していた。今までよく刺されずに生きていけたものだと思う。
不思議と、そのイケメンたちも一定期間斗愛と居た後は距離を置いていたけれど、あれは何故だったんだろう。斗愛がイケメンに飽きたからだろうか。もしそうであれば随分と贅沢な奴だ。
中学に入ると斗愛の悪評はさらに酷くなり、奴は恋人や番を誓い合ったカップルも関係なく、奴が気に入ったイケメンで優秀なαにべったりくっついては離れ、また別のイケメンにくっついては離れを繰り返していた。何をしたかったのか本当にわからない。
「人の彼氏を寝取ったでしょ」と、クラスの美女にビンタをされた斗愛の、ぽかんとした表情が忘れられない。
なんでだよ、流石に身体の関係を持ったなら「自分は何も知りませんでした」は通用しないだろうが。
斗愛が誰かに依存しないと生きていけない性質、そして自分が気に入った者に対しては奪い取らないと気が済まない悪い癖があることを俺は知った。
恋愛ゲームのヒロインさながらの容姿を持ちながら、その性質は最悪でヒロインの悪さを全部抽出したような奴だと俺は思う。
そのせいで恨みを買い、斗愛がαやβ達にレイプされかけているところを助けたのは、今となっては何故なのか俺にもわからない。でも、その頃の俺は斗愛が嫌いではなかったし同じΩ仲間の、友人だった。数少ない友達だと俺は思っていた。
次に和人のことだ。確かに俺は彼を愛していた。愛してはいたが。
実は、和人には小さいころから性的な悪戯をされていた。俺も最初の頃はそれが何だかわからなくて恥ずかしくて、怖いだけだった。だけど和人はそれを「愛のある行為」だとして長年にわたって、それを俺にじっくりと慣らしていった。
馬鹿な俺は「あれ」を愛だと勘違いしていたのかもしれない。あれが恋人やパートナー同士の合意があればコミュニケーションの一環だということは今ではわかるが、当時の俺には恐ろしく悍ましい行為でしかなかった。
奴の中には別の、下品な親父の人格でも乗り移っていたんじゃないかと思うぐらいに、悪戯の手は洗練されていた。きっと生まれながらに変態のエリートだったんだろう。お前が同い年じゃなかったら訴えていた。この変態が。
もしかしたら奴には俺じゃなくてもよかったのかもしれない。手近な悪戯できて全部肯定してくれるような人間がいれば誰でもよかったのかもしれない。そりゃあ運命なんかにかっさらわれてもしかたがないか。
この変態とヒロイン気取りのクズは責任すら取れない愚か者らしい。俺と将来を誓い、俺の項を噛んで番になったのに、その後に和人は友人の斗愛とセックスをし、番になった。
運命の番という身体の相性が良いために、そのフェロモンには抗い切れないというのは俺も知っている。このように不幸な事故が起こる可能性があるということも。
けれども、世の中には運命に抗ってパートナーと結ばれるカップルもいる。中にはαとβや、βとΩ、α×αやなんとΩ×Ωという組み合わせのカップルが運命を退けた事例もあるというのに。
こいつらは運命の番とやらになった後、一度も俺の前に姿を現さない。謝罪の一つもよこしてはこなかった。人として終わっている。
斗愛へ、お前のこと助けなきゃよかったと一瞬でも思った俺を許してくれなくてもいい。俺もお前を許さないから。
和人へ、お前のことなんて、好きにならなきゃよかった。
二匹の性欲に支配された畜生共へ。俺はお前らを祝福しない。一生恨んでやりたいところだけど、俺も人が良いからそこまで誰かを憎むということはないと思う。俺には俺の人生があるから。憎しみが終わったらあとは無関心に移行するだけだ。よかったな。
お前らには誰にも祝福されない人生を送って欲しいけど、もしそれでも生涯愛し合いずっと傍にいたら、運命とやらを信じてやるよ。俺がそれを見届けることはないけれど。
でも、本音を言うなら今すぐ消え―』
「あ、やべぇ!」
洗濯バサミが壊れかけていたのか、洗濯物の一枚がひらりと風にあおられて空に舞い上がりそうになっていた。
央は、微かに揺れるスマホの通知音にも気づかずこれから燃やす予定の独白めいた、書きかけのそれもそのままにして、ベランダに駆け込んだ。
……これが不幸な事故でなければ、運命とはどうしてこうも非情なのだろうか。吹き飛ばされそうになった洗いたてのタオルをキャッチしほっと一安心した央に、突如として胸にずきりとした痛みが襲う。恐らくストレス要因の一過性のそれは、彼をベランダの踏み台から足を滑らせるのに一役買っていた。
空へ放り出される央の目に映った最後の光景は、雨上がりの青空と、橋のようにかかる綺麗な綺麗な虹だった。
Q:ご葬儀と結婚式が重なった場合、どちらを優先すればいいの?
A:結婚式を挙げられる方が知人友人の場合、ご葬儀に駆け付けるようにし、結婚式は見送りましょう。
央が自宅の8階マンションから墜落しそのまま死亡したのは不運な事故だった。ベランダの洗濯物を取り込もうとした拍子に心臓に痛みが走り、そのまま足を滑らせて落下し頭を割ったのが事実だが、世間は到底そうは思うまい。
また、央に和人と斗愛の結婚式の具体的な日取りなどは知らされていなかった。
すでに地まで落ちかけていた世間体を取り繕うために、不本意ながら歌城家は格下どころか一般市民である釘村斗愛との結婚を早急に進めた。本来であれば番が二人いようとも、歌城家も和人も央とそのまま結婚式を挙げ、斗愛はせいぜい妾として囲うくらいの予定だった。歌城家が斗愛を受け入れる予定など全くなかったのだ。
けれども、松落家の怒りを宥めることはできず半ば一方的に離縁を言い渡され、それが叶うことはなかった。一夜の過ちどころか人生を棒に振るい最愛に逃げられた和人は意気消沈していたが、反面に斗愛は自身がシンデレラにでもなったかのように、これからの未来に胸を膨らませている。
斗愛好みのイケメンかつ教養もある美しい番が運命となり、番を略奪した友人のこともそのままに結婚式の衣装に袖を通しては幼子のように無邪気にはしゃぎ、和人の腕に自身の腕を絡ませては笑っている。
央の精神衛生上、今は央と和人を引き合わせるべきではないと松落家も歌城家もそこは意見が合致したのか、二人が結婚することも含めて央に伝えられることはなかったのだ。
それなのに。結婚式の前々日に央はこの世を去った。
死因が死因のためエンバーミングも少々骨が折れたらしいが、棺には整然とほぼ変わらない彼の姿がそこにあった。彼の死後翌日に通夜があり、その翌日には葬式が行われる。央には沢山の友人や、彼によって命を救われたといっても過言ではない学友たちが数多おり、和人の友人は皆央の葬儀に向かうため結婚式は見送ったというわけだ。
斗愛に至っては友人すらいなかったが、苦肉の策としてレンタル友達を呼んでいたので席は片方ががらがら、もう片方が満席に近いという実にちぐはぐな状況だったらしい。
央は本当に不幸な事故とそれを誘発する一時的な胸の痛みでこの世を去ったが、そう判断するにはあまりにも異なる内容の物的証拠が残り過ぎていた。
一つは、央が残した恨み節めいたメモ。彼はこれを手元に残すことなく燃やすつもりだったが書き記した直後に亡くなってしまったため、遺書と判断されてもしかたがないだろう。
それからもう一つ、こと死亡時間において数分数十分ぐらいの前後であり、発見されたのがさらに数時間後などであれば、もうそれは誤差の範疇だろう。
央がベランダから飛び降りた十数分後に、央宛に斗愛からラインが届いていた。その内容は「和人さんと結婚することになったの。ごめんね央」という簡素なものだった。
当然ラインは未読ではあるが、あえて通知の文面だけみて既読をつけないというやり方もあるので、通知を見た後にショックのあまり衝動的にベランダへ駆け寄ったと判断されたようだ。つまり、央にとっては不名誉なことに警察側でもこれは「自殺」と判断された。
経緯を知る近隣住人含めて同情の念こそ送りはするものの、誰も央を責める者はいなかった。事故物件として土地の価値は下がってしまうだろうし近隣住人には迷惑もかかるかもしれないが「これは死にたくなるかもね……」「まだ線路に飛び込まなかっただけマシだ」などと、同情混じりに不謹慎なことを言う者もいたぐらいだ。
「っ!?」
「どうしたの、和人?」
結婚式の前々日。背中を擦る斗愛をそのままに、和人は衝撃のあまりその場に蹲り、自身から最愛が離れてゆくのを身をもって感じとった。それはちょうど央がコンクリートの地面に頭を叩きつけられた直後の時間帯だ。番の死亡により、和人と央の番が強制解消されたのだ。
αは確かにΩを任意に番解除することができるが、このように片割れの死亡による強制解除は、αにとっても予期せぬ事態のためかダメージが入る。がくがくと身を震わせる和人の背中を撫でるΩの白い手が、運命の番だというのに何故だか生ぬるくて酷く不快だった。
「おはよう」
「おはよ、ねえ聞いた?」
「うん……信じられないよ」
「やだ、悲しい、松落先輩」
「あの人があんなことになるなんて」
「……そもそも前々からあいつ」
「松落さんがどれだけ面倒見てたと思ってるんだろ」
「……うわ、来た」
「やばいやばい」
本来であれば、あと数日で松落央の学年が卒業式を迎える日が近づいていた。3年の生徒たちはリハーサルなどで登校していたが、その空気はまるでお通夜のようだ。
斗愛が教室に入った瞬間、空気は静まりかえり生徒たちの声もすうと消えた。異質な空間となっても斗愛は気が付かないのか、或いは気に掛ける必要すらないと思っているのか、自分の席に着く。
ちらちらと冷たい目線を向けられる斗愛の頭の中は、己の番の事でいっぱいだったらしい。ぼんやり「恋する乙女」といった風で幸せそうにしている斗愛と、周囲の温度差は開く一方だ。
持ち前のヒロイン脳は健在らしく、また頭も人の痛みに鈍感であろう斗愛は周囲の比較的強めな憎悪をダイレクトに浴びせかけられても「自分が可愛すぎるから」と斜め上の考えを持っていた。
SNSを通じてネットからメディアまで、央のメモが拡散されたのは彼にとっては最大の誤算だった。本人からしてみれば舌を噛み切りたくなるような黒歴史そのものかもしれないが。
誰が持ち出したのか、燃やすはずのメモは最初はスマホで写真を撮られたものがネット上に流れた。その後は丁寧にスキャナーに取り込まれたものが拡散される。
画像が削除されてもキャッシュが残りそこから引っ張り出され、或いは文字をすべて書き起こされて長文にもかかわらずコピペや改変されることなく比較的正しく広まっていったのは、その内容が内容だからだろうか。
『NTRwww』
『運命の番ってNTR脳破壊もののことですか?』
『これは、薄い本が厚くなるな……いや胸糞すぎて俺は読めん』
『いえーい和人くん斗愛ちゃん見てる~?お前らのせいでこの人死んじゃいました。せめてこの人の項噛む前にすればよかったのに。最低だな』
『Ωにとって番解除なんて死ぬより苦しいらしいぞ』
『何が運命wだよwwwwひでえなこれ……死ぬ』
『やめな、実際に死んじゃった人なんだよ』
『仮に運命の番が遺伝子レベルで相性がいいとしても、ちゃんとパートナーを大切にする人はいるのにな』
『こいつら、両親と婚約者の前で公開セックスしてたらしいぞwww』
『マジ基地すぎる』
結果、メディアを通じて「某大企業の息子、運命と番い婚約者を死に追い込む」というニュースがお茶の間を賑わせることになった。
例のメモ帳も開示され、名前までは公表されないが和人が元婚約者に小さい頃から性的虐待を幾度となく行われていたこと、身体も奪い番になって婚姻直後に運命の番と出会い結ばれ、あっさり幼馴染の婚約者をボロ雑巾のように捨てた最低な人間として取り上げられていた。
『あ、Mさんのことは本当に残念で……未だに心が痛いです……ごめんなさい、悔しくて』
『Mさんは本当に正義感溢れる凄い人で、僕もいじめられていた時に助けてもらったんです。命の恩人です。それがどうしてこんな……』
『Mさんは勉強もスポーツも学校行事も、全て全力で取り組む真面目で明るい生徒でした。それが、なんであんなことに……残念でならないです』
『MとTは友達同士だったんです。トラブルメーカーというか、よく問題起こしてクラスから孤立してるTを分け隔てなく接していたのがMでした……あんないい奴を裏切ったT、本当に最低だと思います』
『MはTがαやβに集団で襲われかけた時に、命がけで助けたヒーローなんです。自分もΩでいつ襲われるかわからないのに……そんな命の恩人を、アイツは……アイツは!』
『Tさん、ですか……すみませんちょっと。いや、本当に関わり合いになりたくないんで』
『T、確かに顔は可愛いんですけどね。性格が』
『付きまとわれてもうしんどかったです』
『依存が凄いくせに、ちょっとでも自分の好みや理想から外れるようなことすると手のひら返して離れていく人で。面倒になって別れたい時とか、逆に別れるのは楽でしたよ~』
『頭が悪すぎて話が通じない。一緒にいてもつまらなくて苦痛でした。その癖思い込みが強くて……』
『噂なんだけど、Tの結婚式友達が誰もいなくてレンタル友達雇ってたらしいよ』
『それ聞いた、ちょうどMさんの葬儀と重なって旦那の方の友人はこぞってそっちに駆け付けたらしいけど。旦那側は親族だけ、Tだけ友達(笑)が勢揃いしてたらしい』
『うける』
深夜の低俗な、けれどもかなり踏み込んだ内容を放送する過激なチャンネルを、和人と斗愛はぼんやり眺めていた。頭が悪いと言われた斗愛にとっても、流石にこれは良くない事だというのは理解したのだろう。
彼は、和人と央がすでに番関係にあったことを知らなかった。当然肉体関係にあったことも知らず、というよりも察することもできず政略結婚だからという偏見で二人の仲を引き裂いた張本人でしかなかった。
極めつけは央の自殺だ。厳密にいうと自殺ではないのだが、そこまではメディアもこの二人も判断はできなかっただろう。
斗愛は、自己愛は人一倍ある癖に他人を思いやる気持ちが欠けている。けれども自己保身の精神は強く、過去に苛めやレイプ未遂から救ってくれた恩人の婚約者を奪い、自分がそれに成り代わっているという事実に関して、いくら運命の番だろうが世間が良く思ってはいないというところまでは理解が及んだらしい。
ましてや懇意にしていた優秀なΩが死に、人格や能力共に問題がある顔だけのΩが息子の運命の番ということに、歌城家も斗愛に対して最早良い感情は皆無に等しかった。
「和人は、和人だけは僕の味方でいてくれるよね?」
僕には和人しかいないの、和人さえいれば何もいらないと、斗愛はお得意の生存戦略である、愛くるしい小動物のような庇護欲をそそる顔を向けた。
和人は、不気味な程穏やかな笑みを浮かべながら、無言で斗愛の顔を見返していた。
「社長、お茶をお持ちしました……あぁっ」
和人が次期社長となった某大手企業の一室から飛び出した社員のひぃいという何かを押し殺したような、悲鳴のような不思議な声がフロア全体に広がる。その後のミーティングでも親族の集まりでも、周囲の目線は和人のある一点に注がれており、外れることがなかった。
「おい、見たか社長の」
「ああ……やっぱりストレスなのかなぁ……」
「元婚約者が亡くなって、運命がアレで気苦労絶えないのかねぇ」
「同情の余地なかったけど、アレと生涯過ごすのは地獄だわ」
「でも会議中にやめてほしい」
「アデラ○スかカツラ被って欲しい」
「俺、ハゲネタに弱いんだよやめてほしい」
「イケメンだからなおさら目立つんだよ本当に無理……」
和人の後頭部は言い逃れができないほど薄くなっていた。まばらに生えていたそこは次第に河童の皿のようにつるりとなってしまったようで、その後は取り繕うのを諦めて自ら毛を剃ってしまい、ウィッグを被って過ごしているようだ。
しかし、落ち武者河童ヘア時代の歌城和人社長を知っている社員と親族達の心労もそれはそれで激しく、河童時代のミーティング中はシャープペンや安全ピンなどで自らの太腿や手のひらに鋭利なそれを打ち込み、込み上げてくる何かを必死で押し殺す者も数多居たそうだ。
自分の運命の番がハゲになったことについて、斗愛は絶望していた。運命の番は永遠の王子様のようなもので、その容姿が衰えることなくいつまでもイケメンで、歳を重ねても彼はロマンスグレーであり、当たり前に毛もふさふさなのではないか?と斗愛は疑うことなく妄信していた。
例えウィッグを被っていても、斗愛の伴侶はこれから先ずっと頭髪が不自由な人として生きてゆかねばならないことを考えると、斗愛は酷く気が滅入った。
「社長……」
「仕事はちゃんとしてるからいいんだけどさ……」
「アレも、ストレスかね」
「見る影もないな」
「目の保養がまた潰れた」
更に数年後。歌城和人はこれもストレスのせいなのか、平均体重を大きく上回り体重は既に3ケタを突破しているであろう、平たく言うと目も当てられないぐらいに太っていた。
親父と呼ぶにはまだ年齢的に早いかもしれないが、絵に描いたようなデブハゲ男になった彼は、これまで斗愛に対して距離を置いているように見えたが今はべたべたと彼に纏わりついている。
「いやだ、離して、近寄らないで!」
「僕と斗愛は運命の番なんだろう?そんな冷たいこと言わないでよ」
「いや、誰があんたなんかと!せめて前の和人に戻ってよ!!」
運命でなくとも、αとΩは心が伴っていれば相手の容姿がどうなっていても仲睦まじい場合が多い。「うちの夫、昔は王子様みたいだったけど、今じゃすっかりカ○ゴンみたいになっちゃった」と笑いつつも、そこには愛しかないパートナーもいる。
けれども生物学的に身体の相性がよくとも、和人と斗愛には「それ」しかなかったのだろう。
性交渉を徹底的に避けられた和人は、あっさり斗愛との離婚を決めた。
そしてあろうことか斗愛との番も解消することを宣言し、二人は本当に赤の他人となった。番解除はΩにとって命に関わる事象だが、斗愛も醜くなった伴侶が許せなくなったのだろうか、すんなり了承したようだ。
死がふたりを分かつまでどころか、わずか数年の結婚生活であった。
非人道的行為として見なされる番の解除についても、歌城家も釘村の親族達もそれを黙認したようだ。歌城家は斗愛に対して恨みと憎しみしかなかったし、釘村も歌城と松落の家双方に対して後ろめたさが今も残っている。
あわせて多額の慰謝料を取られることを免れるのであれば、息子の番解除ぐらいたやすく差し出すだろう。
「お前は、本当にとんでもないことをしてくれた」
両親にも突き放され外に放り出された斗愛は、これまでまともに職に就いたこともなく誰かに依存し頼り切って生きていたΩだ。けれどもヒロイン脳は変わらず「また誰かが自分を愛してくれる」と今でも思い込んでいる。番を解除され、二度と他のαと番うことができなくなったΩが生きて行ける場所など限られていた。
避妊手術を施された斗愛は、そのままあまり良くない風俗店へ売られて行ったが、これも歌城家の手引きであった。
さて、和人のほうはというと。斗愛と離縁した後は不思議なことに体型が元に戻り、元のまでとはいかないが、それでも顔色の悪い優男といったところまで回復した。抜け落ちた毛までは元に戻らないだろうがウィッグを着けている限り表面上はどこか愁いを帯びたイケメンにしか見えない。やはりろくでもない運命の番のせいで、体調が悪化していたのではないかとは社員一同の見解だ。
和人には弟がいるが、彼は業務の引継ぎを行ったのちに社長の座を彼に全て譲り渡した。婚約者が残したメモは全て事実であり、最愛の婚約者を死に追いやってしまったこと、運命というものに惑わされてしまい数多の人生を狂わせてしまったことを深く謝罪し、辞任することを電波を通して全国に告げた。
その後の彼は、住むわけでもなくずっと中を保管するようにして残していたマンションの8階にあると一室からその身を投げて自殺を図った。酒と睡眠薬を煽った彼は真っ逆さまに落ちて行き、地面に頭を叩きつけられてしまい、存外淡く初々しいピンクの脳みそをぶちまけて事切れた。即死だったのは彼にとって救いになるだろうか。
時は少しだけ遡る。突然、項と半身を引き裂かれるような衝撃が全身に震動した。
久しぶりに地上波で見た元運命の番の姿は影のあるイケメンで、斗愛の好みのままだった。その彼が記者会見でこれまで央にしてきた所業を謝罪し、自殺したことを知った彼の心中は決して穏やかではなかった。
運命と番ったはずなのに、どうして幸せになれなかったのだろうと頭を掻きむしるだろうか。それともひょっとしたら心のどこかで、微かに自責の念でも浮かぶことがあるだろうか。そうであれば良いのだが。
ただ、彼の頭にはαやβに襲われかけた時に救い出してくれた央の姿が鮮明に脳裏に浮かび、消えてくれなかった。運命でもなくαですらなかった彼が、斗愛の騎士で王子だったというのは実に皮肉だ。
91
お気に入りに追加
171
あなたにおすすめの小説
俺はすでに振られているから
いちみやりょう
BL
▲花吐き病の設定をお借りしている上に変えている部分もあります▲
「ごほっ、ごほっ、はぁ、はぁ」
「要、告白してみたら? 断られても玉砕したら諦められるかもしれないよ?」
会社の同期の杉田が心配そうに言ってきた。
俺の片思いと片思いの相手と病気を杉田だけが知っている。
以前会社で吐き気に耐えきれなくなって給湯室まで駆け込んで吐いた時に、心配で様子見にきてくれた杉田に花を吐くのを見られてしまったことがきっかけだった。ちなみに今も給湯室にいる。
「無理だ。断られても諦められなかった」
「え? 告白したの?」
「こほっ、ごほ、したよ。大学生の時にね」
「ダメだったんだ」
「悪いって言われたよ。でも俺は断られたのにもかかわらず諦めきれずに、こんな病気を発病してしまった」
お試し交際終了
いちみやりょう
BL
「俺、神宮寺さんが好きです。神宮寺さんが白木のことを好きだったことは知ってます。だから今俺のこと好きじゃなくても構わないんです。お試しでもいいから、付き合ってみませんか」
「お前、ゲイだったのか?」
「はい」
「分かった。だが、俺は中野のこと、好きにならないかもしんねぇぞ?」
「それでもいいです! 好きになってもらえるように頑張ります」
「そうか」
そうして俺は、神宮寺さんに付き合ってもらえることになった。
彼の理想に
いちみやりょう
BL
あの人が見つめる先はいつも、優しそうに、幸せそうに笑う人だった。
人は違ってもそれだけは変わらなかった。
だから俺は、幸せそうに笑う努力をした。
優しくする努力をした。
本当はそんな人間なんかじゃないのに。
俺はあの人の恋人になりたい。
だけど、そんなことノンケのあの人に頼めないから。
心は冗談の中に隠して、少しでもあの人に近づけるようにって笑った。ずっとずっと。そうしてきた。
【完結】攻略は余所でやってくれ!
オレンジペコ
BL
※4/18『断罪劇は突然に』でこのシリーズを終わらせて頂こうと思います(´∀`*)
遊びに来てくださった皆様、本当に有難うございました♪
俺の名前は有村 康太(ありむら こうた)。
あり得ないことに死んだら10年前に亡くなったはずの父さんの親友と再会?
え?これでやっと転生できるって?
どういうこと?
死神さん、100人集まってから転生させるって手抜きですか?
え?まさかのものぐさ?
まあチマチマやるより一気にやった方が確かにスカッとはするよね?
でも10年だよ?サボりすぎじゃね?
父さんの親友は享年25才。
15で死んだ俺からしたら年上ではあるんだけど…好みドンピシャでした!
小1の時遊んでもらった記憶もあるんだけど、性格もいい人なんだよね。
お互い死んじゃったのは残念だけど、転生先が一緒ならいいな────なんて思ってたらきましたよ!
転生後、赤ちゃんからスタートしてすくすく成長したら彼は騎士団長の息子、俺は公爵家の息子として再会!
やった~!今度も好みドンピシャ!
え?俺が悪役令息?
妹と一緒に悪役として仕事しろ?
そんなの知らねーよ!
俺は俺で騎士団長の息子攻略で忙しいんだよ!
ヒロインさんよ。攻略は余所でやってくれ!
これは美味しいお菓子を手に好きな人にアタックする、そんな俺の話。
好きになるつもりなんてなかった
いちみやりょう
BL
高校から外部生として入学した学校で石平 龍介は生徒会長の親衛隊長をお願いされてしまう。
龍介はおじさんの教えで“情けは人のためならず”を思い出して引き受けてしまった。
ゲイやバイを嫌っているという噂の生徒会長。
親衛隊もさることながら親衛隊長ともなればさらに嫌われると言われたが、
人を好きになったことがない龍介は、会長のことを好きにならなければ問題ないと思っていた……。
[完結]嫁に出される俺、政略結婚ですがなんかイイ感じに収まりそうです。
BBやっこ
BL
実家は商家。
3男坊の実家の手伝いもほどほど、のんべんだらりと暮らしていた。
趣味の料理、読書と交友関係も少ない。独り身を満喫していた。
そのうち、結婚するかもしれないが大した理由もないんだろうなあ。
そんなおれに両親が持ってきた結婚話。というか、政略結婚だろ?!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる