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前編
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アルファ、ベータ、オメガ。
人類が誕生し、ある程度脳が進化した頃、この世に男女以外の第2の性が現れた。それは遥か昔の事ともいえるし、ほんの数万年前の出来事ともいえる。
α(アルファ)は支配階級の一番上である。身体機能並びに知能が高くなりやすい、俗にいうエリート体質と呼ばれている。
β(ベータ)は中間層、人類で最も数が多く極々平凡と言えるだろう。
オメガ(Ω)は下位層だ。Ω性を持つ者は男女問わず子を成すことができるが、そのために発生する3ヶ月に1度やってくるヒートという発情期が原因により、社会的に冷遇されている。
一度ヒートが来ると期間中はαやβに見境なく発情してしまうため、外出することもままならない。この厄介で強力な発情期を止めるためには、α性と番(つがい)を成立させなければならなかった。
15歳の誕生日に、彼は人を殺した。
彼にとって運のよいことに、山奥の三日月沼に沈めた死体は誰にも発見されることなく、ぐずぐずに腐り果て森の微生物たちの養分となって消えた。
思えばオメガバースという呪いと業に、彼の人生は狂いに狂わされた。
Ωの母(第一の性は男性である)とαの父を持つ彼は、小さい頃はそれなりに裕福で幸せな日々を過ごしていたはずだったが、彼が5歳の頃に「運命の番を見つけた」と言い残し、父は浮気相手のΩと共に、彼と母の目の前から去っていった。
Ωというものは番を解除されると、番の間は抑えられていたヒートというとても強い発情期が再発し、また解除された心的外傷のストレスも合わさって衰弱するため、その後は短命であると言われている。
あわせて、二度と他の番を作ることもできない。番を失った衝撃とその後も続く重く苦しい発情期は、Ωにとって生き地獄といっても過言はないだろう。
当時から、伴侶の死による自然解除以外の番の解除、ましては強制解除なんてものは非人道的行為とされており、実際にはあまり行われることはなかった。
αは複数の番を持つことができるのだから、離婚をしても母との番関係のみそのままで他に番を作ればまだよかったのだろうが、自身の運命とやらに誠意を見せたかったのだろうか。けじめとして、彼の父は母を強制的に番から解除し、新しいΩと番った。
運命の番、古の時代は遺伝子的に相性の良いαとΩがそう呼ばれていたようだ。彼の父は浮気相手のΩを「運命」と呼び、彼の母を事も無げに捨てた。
「ごめんなさい、でも彼は僕の運命の人なの。どうか許して……」
うるうると目を潤ませ、成人なのに愛くるしい表情を浮かべ彼の頭を撫でた父の新しい番は、こちらを見ているようで何にも見ていないようだった。父だったものと自分自身と、そのフェロモンにでも酔っているのかもしれない。
運命という名の原始的で野蛮な行為に引きずられている哀れなΩ。彼は端的にそう思うと、子供らしからぬ冷めた目でその手を振り払う。
略奪した側だというのに、傷ついた表情を見せる父の新しいΩからは鼻が曲がるような、甘ったるい毒々しいピンクがかったモヤすら見えるようなフェロモンが香り、吐き気を堪えることができなかった。
「……臭い、あっち行って」
とうとう堪え切れずに彼は父と新しい番の前で嘔吐し地面に吐瀉物をまき散らすと、そのまま母の元へ駆け寄った。遠くの方で3人の様子を無表情で眺めていた母は、子供のささやかな粗相に少しだけ愉快そうに口元を緩ませた。
長身であった所為かその時の父の顔色は伺えず、覚えていたのは小さい子供に全身で拒絶された隣のΩが、人形のような綺麗な顔を不快そうに醜く歪ませていたことぐらいだ。
「よし、よくやったぞ」
「……えへへぇ」
スッキリした。流石は俺の子供。汚れた口元をハンカチで拭ってやり、それからわしわし乱暴に頭を撫でてくれた母のいたずらっぽい笑みは、今でも彼の心の中に残っている。
不快で悔しくて悲しくて、けれどもどこか共犯者めいたやりとりがちょっとだけ大人のようで楽しかった、何物にも代えがたい思い出の一つだ。
その後、彼は母親と、母の大親友だというΩの女性と3人で暮らすようになった。
15の誕生日の数日前に、彼の母はこの世を去った。衰弱して死んでいった彼の母は、父に恨み言をいうわけでもなしに、ただ息子を残して先に逝くことだけを詫びて去っていった。
通常立場的にも身体の機能的にも弱者であるΩは、番った相手に執着されるため、そして愛されるために庇護欲をそそるようなか弱さと愛らしさを、意識的にせよ無意識にせよ露骨な程にアピールするものが多い。
しかし、自身を捨てたαに未練を見せることもなく、また捨てたことを呪うこともなく、周囲の同情を引く様な真似もせず、淡々と残り短い人生を生きた母は強い人だったと彼は思う。そんなどこかΩらしくない凛とした母のことを、確かに彼は愛していた。
「父さんお久しぶりです。俺、15歳になりました。誕生日プレゼントをください」
15歳の誕生日。失うものがもはやなにも無くなった彼は、父親の家に乗り込み今は正妻となった浮気相手のΩをナイフでめった刺しにしながら、彼は父に誕生日のお祝いを求める。あろうことかこのΩは、彼にナイフを突きつけられるまでは彼に対しても色目を使ってきた。自分が過去にどれだけ酷いことを幼い彼にしたのかも覚えておらずに。
「今日はお前の誕生日だというのに。面倒な後始末までしてくれてありがとう」
彼よりも、瀕死の状態でヒューヒューと荒い呼吸をする浮気相手の方が、父の言葉に対して衝撃のあまり目を見開く。彼の父親の隣には、浮気相手よりもさらに相性のいい「運命の番」が父親に肩を抱かれながら、顔を青ざめさせて震えていた。
父の目は、かつて運命と呼び溺愛した者に対する熱っぽい眼差しではなく、まるで飽きて興味のなくなった玩具を見るかのような、ただただ退屈そうな目線をチラリと一瞬だけ「それ」に向けた。
「父親としての務めだ。その死体はこちらで片付けよう」
光を失い濁ったガラス玉のような目をしたまま横たわっている母の仇は、全身に残る傷口から零れ出る赤い絶望に彩られていた。運命に導かれて、人から奪ってまで最愛を手にしたはずのΩの、哀れな最期だった。
「新しい3番目の義母さん、初めまして。その人の一番目の妻の息子です」
彼は絶望していた。衰弱死した母でも、自身の手で殺してやった浮気相手でも、父親でも新しい浮気相手にでもなく。彼自身の性別であるαという性に絶望をした。
「父さん、末永くお幸せに」
「ありがとう、でも人生何が起こるかわからないからね。先の事なんて誰もわからないさ」
彼の父は本当の運命を見つけるまで、何度でも何度でも番を解除しては新しい番を作る男なのだろうか。
目の前の新しい浮気相手、いや運命の番は「自分だけはそうはならない、自分が唯一の運命だ」とでも思うのだろうか。それとも、少しでもわずかな可能性を考えられる力があるのであれば「もしかしたら、次は自分かもしれない」と思うのだろうか。
そこは嘘でも隣のΩと永遠でも誓えよ。彼、ミハイルは空虚な思いを抱えたままその場を後にした。顔を青ざめさせて震える父の3番目の運命はΩの習性だろうか、媚びる様に父の胸に顔を埋めている。これもまた愚かだと、15歳の彼は思う。
「これじゃあ、殺しても殺してもキリがない」
殺したところで新しい運命の番を見つけるのだろうし、殺さなかったところで父親のよくわからない裁量によってある日突然運命は変わる。うんざりだ。アンタも今のうちに運命の愛とやらを満喫しておくと良い。少年は父と新しい運命に背を向けると、そのまま屋敷を後にした。
……それから1年もしないうちに、父が新しいΩと番ったと風の噂で彼の耳にも届いた。
「ミハイル! 俺はついにやったぞ!! 」
「……どうしたの、有森? 」
有名な学術誌を手に、有森という男はミハイルの肩をばしばしと叩く。小さな島国で一番の名門大学にいるミハイル・コズロフと有森 義孝(アリモリ ヨシタカ)は、どちらもストレートで同じ年に入学をした級友といったところだ。
いいから黙って読んでみてくれと手渡された雑誌のトップには、有森の論文が載っていた。ななめ読みしても興味をそそられる非常にセンセーショナルなその内容は、オメガとアルファの臭腺についてだった。
「その論文を読めば君には説明などしなくてもわかるだろうが、αとΩには臭腺のようなものがある。哺乳類のためかどちらも肛門腺の一部、厳密にいうと肛門腺を円状に見て2時と10時の部分2ケ所にあるが、そこに分泌液……わかりやすく言うとフェロモンを出す器官があることがわかった。
これを取り除いてしまえばヒートとラット、発情期が起こることがなくなる。あわせてαのフェロモンによる威圧も沈静化できるというわけだ。無論、αやΩの生殖機能自体に害はないので術後も子を成すことに問題はない。フェロモンと番という行為がなくなるのみ、というわけだ。なんでこんな原始的なことが今まで解明されていなかったって? それはαもΩも神聖視されていて、研究自体がタブーなところがあったからだろうな。これがまだ戦時中であれば捕虜を使っての人体実験や……」
「有森、少し落ち着いて」
「ああ、すまない。ともかくこれは凄いぞ。フェロモンさえ取り除いてしまえば、αはΩの首を噛みついて……番とする行為をおこなうこともできなくなる。逆に番を強制的に解除された痛ましいΩ達にとってもメリットがある。臭腺を切除すれば後遺症ともいえる発情期に悩まされることもなく、短命だったΩの生存率もあがるということだ!」
「そんな、スカンクの臭腺除去みたいな手術で済むんだね……」
「まあ、文面に起こしてみれば簡単そうに見えるかもしれんが、人間の体は少々複雑でな。簡単とは言い難いが、手術自体は可能だ」
「番解除された、Ωの生存率が上がる」
「ああ、例え人道的ではない行為だと後ろ指を指されても、これだけは人命救助になると言えるだろう。終わりのない発情期が消える。全てのΩはその苦しみから解放されるんだ……ミハイル? 」
ミハイルの右目から、つうと忘れかけた感情が滴となって零れる。もっと早くに有森に
出会えていたのなら、母は生きていたのだろうか。父を止めることができていたのだろうか。
ミハイルの父は故郷の国でも有名な資産家であり、もう両指でも数えきれないほど離婚と結婚を繰り返していた。その理由はやはり「運命」であり、隣に最愛がいても他に目新しい相性の良いΩが居れば、すぐさまそちらに乗り換えては「前の番」を何の感情を持たずに解除をしてしまう。
「……君の親父さんの話は、こちらの耳にも入ってきている。せめて、何故出会ったΩをそのまま番にしてやらないのだろうな」
αは複数のΩを番にできるので、他のΩにもう気が無くてもハーレム状態にしておけば、例え一生会うことがなくとも他の番ったΩ達に発情期が来ることもないというのに。
ミハイルは零れ落ちる涙もそのままで、有森の肩にその身を寄せる。
遠い異国の地で出会った有森の第二の性はβだ。
Ωやαのようにフェロモンに惑わされることもない普通の人間に近い存在だが、彼はαにも引けを取らない非常に明晰な頭脳の持ち主だった。身長は170cmと数センチ程度で飄々とした様子や存外白い肌、目鼻立ちはそれなりに整っているが印象には少し残り辛い、平凡寄りの顔立ちと言える。
反対にミハイルは父親ゆずりのαであり、長身で筋力もある金髪碧眼の見目秀麗だが基本的に人間に興味が持てず、Ωもαも嫌っており、二つのバースに対しては最早憎悪の念を抱いているといっても過言ではない。
けれどもそんな平凡寄りな顔のβをミハイルは心より愛しており、友情を超えた感情を抱き執着していた。
ミハイルは優秀なαが故に、Ωは元よりαやβにすら言い寄られることが数多あり、人に対して素っ気なく壁を作ることが多かった。
反対に有森は人当たりは悪くないが、研究に没頭するあまり最初は集まってきた人たちも次第に距離を置いて去ってゆく。有り体に言うと変人扱いされることが多く、独特の癖と取っつきにくさからだろうか、友人が多い方ではなかった。
「またか。人間関係ってやつは実に面倒くさい」
「またか。人間ウザい」
ミハイルと有森のファーストコンタクトは、上記のようにうっかり口から零れ出た愚痴から始まった。
「……これは、あまり良くないところを聞かれてしまったな」
「俺たち、気が合うね」
キラキラ光り輝かんばかりに美貌を全面に押し出した美術品のようなαの男、けれども有森は自他ともに容姿に対しては無頓着であった。ミハイルに対しても、あまり興味のない美術史の本に紹介されている絵画を見ているような「一般的な感覚で言えば美しい、のだろうな」程度の薄い感情を抱いただけだった。
「そうか……すまん、あまりわからない」
素直が故に人を傷つけてしまうような有森の返答に対しても、ミハイルは満面の笑みを絶やすことはなかった。
「そっかぁ。ねえねえ……君もしかして、俺にあまり興味ない? 」
「いまのところは」
「そっかそっかぁ」
こちらが素っ気ない態度を取れば取るほど、ミハイルは有森を気に入ったようだ。君が俺に執着する意味がわからないと有森が困惑しても、ミハイルの方が「理由は特にない。俺がしたくて、勝手にしてるだけだからいい……有森は俺が居るの、嫌?」とそばに居ることをやめなかった。
流石に悪意もなく、また居る分には特段不快とも思わない美形の悲しそうな顔を見て有森も強く突き放すことができず、害がない限りそのままにさせてやっていた。
有森は自身が専攻する学術や研究以外については無頓着であり、それは食べ物も同様だった。
「おにぎり好きなの? 」
「安い、片手で食べられる、腹にたまるし糖質が取れる」
「ふーん。そっかぁ」
片手で食べられるとは言うものの、彼の食事風景はなりふり構わずという割には、比較的上品な所作だった。自分では簡素なものしか食べないが、人に与えられる分には好き嫌いがどうやらなさそうだとミハイルは瞬時に判断する。
「君、これは……」
次の日。運動会の昼ご飯と見紛う程の、色とりどりの弁当箱が並べられた。可愛らしく握られた肉巻きおにぎりやベーシックなごま塩おにぎり、唐揚げや卵焼き、彩りや栄養を考えられたミニトマトやニンジン、ブロッコリーやマリネもぎゅっと敷き詰められている。
手作り弁当はαに気のあるΩやβが、気を引くために甲斐甲斐しく作るものだろうと有森はやや酷い偏見を持っていたが、全てにおいて優れているαはどうやら料理も得意分野のようだ。
「あーん」
「ん」
フォークに刺された卵焼きを抵抗なく食べると、有森は「美味い」と普段はあまり表情を変えないのに、その時は珍しくふわりと柔らかい顔を見せた。
「これ全部、君の手作りか」
「うん」
「素晴らしい、美味い。嫁か婿にでも来てもらいたいぐらいだ」
軽口すら多様性に配慮した言葉を使い、片手に握られたおにぎりにかぶりついて頬をハムスターのように膨らませている男に、ミハイルは周囲の人間が蕩けてしまいそうな甘い笑みを浮かべる。
「いいよ。その時はウェディングドレス着て来てあげるね」
「似合いそうだな」
おしゃれのことはよくわからないが、長身ですらりとした君ならきっと似合うと思う。
にこりともせず真面目にそう返す有森に、ミハイルは「そこは笑うところでしょ」とギャグが滑ったことか、或いはそれ以外のことでの照れくささから両耳を赤く染めた。
「美味かった。ご馳走様」
何かお礼がしたいな。有森の言葉にミハイルは「じゃ、とりあえず友達になって」と彼の手を取る。指を絡められ友達のそれにしては、少しばかり距離感が近いなと思いながらも「俺で良ければ、喜んで」と有森は答えた。
最初の頃はミハイルを、奇妙で物好きなイケメン程度の感情しか持ち合わせていなかった有森だが、何故自分に執着してくるのかもわからないままほぼ毎日デカい犬のように懐き後をついて回るミハイルと徐々に距離が近づくにつれ、いつしか絆されてしまった。
数日、数週間、数カ月経過しても、ミハイルは有森から離れてゆかない貴重な友人となり、その頃から既に有森はミハイルの中で特別になっていた。
彼らにとって人よりも足りなかった「友達」ということを一つ一つ確かめ合うようにぎこちなくやっていくうちに、いつしか二人ともその枠を超えた離れがたい感情を抱くようになった。
「有森」
「うん? 」
「美味しい料理毎日作るし、家事もするし、いつも綺麗でいるから。俺と付き合ってください」
君の研究や勉強に没頭しているところが好き。いきなり興味ある話になったらマシンガントークが始まるのも面白くて大好き。好きなものを追いかけている時の目が本当に好き。俺はずっとそれを傍で見ていたい。……他の誰にも取られたくない。
「それから、普段はお笑い見ても無表情無反応なのに、お笑い芸人のマッスル北山のネタでだけ爆笑するところで告白しようと決めました」
「マッスル北山で!? 」
「あのわけわかんないネタの時だけ笑うところが可愛くて」
「マッスル北山を侮辱するな」
「ごめんなさい」
北山への失言の件で「ちょっとそこに座れ」と正座をさせられ、ものすごく怒られてシュンとしたミハイルの前に有森は屈みこむ。
「……俺、恋愛とかよくわからなくて。それでもよければ」
珍しく感情を露わに、俯いて顔を赤く染めているのを懸命に隠そうとしている有森の姿だけで、ミハイルは嬉しくて頬が緩みそうだった。
「恋愛の素質、多分十分すぎるぐらいあるよ。義孝」
この男を自分の物にしたい、抱きたい。死んでも離れたくない。芸術品のようにきれいな男の中は、どろどろとした独占欲と執着でコールタールのように黒く、一度触れたらもう離れられないぐらいにべたべたした有森への思いで満ち溢れているようだった。
……この先の人生、有森のマッスル北山にしか向けない笑み(と呼ぶにはあまりにも破顔している)に嫉妬することも多々ありはしたが、二人の関係は概ね良好だった。
「……ねえ有森」
「うん? 」
「そのフェロモン取る手術って、もうできるの」
「実用化って意味か? それはもう問題がないが……半分実験みたいなものだからな。αは勿論、Ωだって手術を受けたがる人はいないよ」
「じゃあ、俺が一番になりたい」
「ミハイル」
「俺に手術を受けさせて」
有森になら何されてもいい。有森の一番になりたい。……有森に俺のαを殺してほしい。まっすぐな彼の視線に、有森は一瞬表情を強張らせたが、すぐさま真剣な眼差しで見返す。
「いいのか、確かにΩからのフェロモンに中てられることはなくなるが、αの特権でもあるフェロモンも使えなくなるし……その、将来の配偶者に出会えなくなるかもしれない。言い回しが適切ではなかったな、君の将来の番に出会えても、フェロモンが感知できずに気づけないかもしれない」
たとえ君がΩを嫌っていても。有森の言葉にミハイルは後ろからギュウと力強く彼を抱きしめる。
「俺はね、βになって一生君に執着し続けたい。君しか見えないしこれからも見たくない。そのためには俺の中のαが邪魔で邪魔でしょうがないんだよ」
「それは困ったな」
「……嫌?」
「それが、いやじゃないから困るんだ」
「……ふふ、じゃあ早くαを取り除いて、もっと思い知ってほしい」
生きている限り君にくっついていたい。君は俺とずっと一緒にいるんだ。他のΩに目移りしている暇がない。
ミハイルの言葉にβはαのフェロモンを威圧以外で、そういった意味では中てられないはずなんだが。そうだな、それを証明するためにも君に手術を施そう。どんな形でも俺は君から離れないと、言い訳めいた言葉を一つ二つ投げて、有森は力強く頷いた。
「気分はどうかな」
手術から数日経過した退院日のこと。ミハイルは「最高だよ」と無防備な笑みを有森にだけ向けて見せた。外の空気はこんなにも清々しくて晴れやかであったのだろうか。手術前はねっとりとしたピンクじみた不快なフェロモンが霧のように目にも見えているようで、ドロドロした感情にすっかり身体も頭も正常ではなかったとミハイルは語る。
「実に興味深い」
有森は自身の手に指を絡めてくるミハイルを親友として、実験動物として、兄弟としてパートナーとして、ともかく彼の傍にいられる理由を思いつく限り上げてみたがそのどれもが足りないことに気づく。
論文以外で言葉を紡ぐのが存外苦手な有森は、ミハイルの胸元に顔を埋めてみると、スンスンその匂いを嗅いでみる。
「どうしたの、まだフェロモンのにおい、する? 」
「いいや。少し汗ばんだ君の匂いがする。けれどもそれが何故だか心地よい」
恋愛という感情に少しばかり、いやかなり疎い有森は原因がわかるまでスンスン匂いを嗅ぎ続けているが、それは目の前の元αに抱きしめられて頭に思い切り顔を埋められるまで止まらなかった。
「……ミハイル、俺も急いできたから、汗をかいている」
「うん。でも俺、ずっとこの匂いが嗅ぎたかったみたいだ」
「フェロモンってのは体感、どんな香りなんだろう」
「そうだな……香水をぶちまけたような、海外製の柔軟剤を投入量を守らずに使ったようなそんな感じ」
「それはキツイな」
「うん、鼻が曲がりそうだった。ただでさえ俺は鼻が利くほうだから」
「非常に興味深いが、論文にするには少しばかり俗物的すぎる表現だ」
「ふふっ。でもね、今なら少しだけわかる気がする。好きな人の匂いってやつが俺にも」
花の香りでも石鹸の香りでもない、甘くない生きている者の匂い。運命だとか番だとか、ロマンティックで卑しい吐き気がするような言葉に絶望していたミハイルは、有森に対する感情を恋や愛と呼ぶにはまだ少しだけ心が追いついておらず、今は執着という言葉で思いを伝える。
「有森、これでこれからもずっと一緒だ。死ぬまで一緒。」
「ミハイル、俺も君に一生執着していこうと思う」
αだというのに、まるでΩのようなフェロモンや運命という名の首輪を外せたミハイルは安堵の深呼吸をするように、有森の肩に顔を埋めて深く匂いを吸った。
人類が誕生し、ある程度脳が進化した頃、この世に男女以外の第2の性が現れた。それは遥か昔の事ともいえるし、ほんの数万年前の出来事ともいえる。
α(アルファ)は支配階級の一番上である。身体機能並びに知能が高くなりやすい、俗にいうエリート体質と呼ばれている。
β(ベータ)は中間層、人類で最も数が多く極々平凡と言えるだろう。
オメガ(Ω)は下位層だ。Ω性を持つ者は男女問わず子を成すことができるが、そのために発生する3ヶ月に1度やってくるヒートという発情期が原因により、社会的に冷遇されている。
一度ヒートが来ると期間中はαやβに見境なく発情してしまうため、外出することもままならない。この厄介で強力な発情期を止めるためには、α性と番(つがい)を成立させなければならなかった。
15歳の誕生日に、彼は人を殺した。
彼にとって運のよいことに、山奥の三日月沼に沈めた死体は誰にも発見されることなく、ぐずぐずに腐り果て森の微生物たちの養分となって消えた。
思えばオメガバースという呪いと業に、彼の人生は狂いに狂わされた。
Ωの母(第一の性は男性である)とαの父を持つ彼は、小さい頃はそれなりに裕福で幸せな日々を過ごしていたはずだったが、彼が5歳の頃に「運命の番を見つけた」と言い残し、父は浮気相手のΩと共に、彼と母の目の前から去っていった。
Ωというものは番を解除されると、番の間は抑えられていたヒートというとても強い発情期が再発し、また解除された心的外傷のストレスも合わさって衰弱するため、その後は短命であると言われている。
あわせて、二度と他の番を作ることもできない。番を失った衝撃とその後も続く重く苦しい発情期は、Ωにとって生き地獄といっても過言はないだろう。
当時から、伴侶の死による自然解除以外の番の解除、ましては強制解除なんてものは非人道的行為とされており、実際にはあまり行われることはなかった。
αは複数の番を持つことができるのだから、離婚をしても母との番関係のみそのままで他に番を作ればまだよかったのだろうが、自身の運命とやらに誠意を見せたかったのだろうか。けじめとして、彼の父は母を強制的に番から解除し、新しいΩと番った。
運命の番、古の時代は遺伝子的に相性の良いαとΩがそう呼ばれていたようだ。彼の父は浮気相手のΩを「運命」と呼び、彼の母を事も無げに捨てた。
「ごめんなさい、でも彼は僕の運命の人なの。どうか許して……」
うるうると目を潤ませ、成人なのに愛くるしい表情を浮かべ彼の頭を撫でた父の新しい番は、こちらを見ているようで何にも見ていないようだった。父だったものと自分自身と、そのフェロモンにでも酔っているのかもしれない。
運命という名の原始的で野蛮な行為に引きずられている哀れなΩ。彼は端的にそう思うと、子供らしからぬ冷めた目でその手を振り払う。
略奪した側だというのに、傷ついた表情を見せる父の新しいΩからは鼻が曲がるような、甘ったるい毒々しいピンクがかったモヤすら見えるようなフェロモンが香り、吐き気を堪えることができなかった。
「……臭い、あっち行って」
とうとう堪え切れずに彼は父と新しい番の前で嘔吐し地面に吐瀉物をまき散らすと、そのまま母の元へ駆け寄った。遠くの方で3人の様子を無表情で眺めていた母は、子供のささやかな粗相に少しだけ愉快そうに口元を緩ませた。
長身であった所為かその時の父の顔色は伺えず、覚えていたのは小さい子供に全身で拒絶された隣のΩが、人形のような綺麗な顔を不快そうに醜く歪ませていたことぐらいだ。
「よし、よくやったぞ」
「……えへへぇ」
スッキリした。流石は俺の子供。汚れた口元をハンカチで拭ってやり、それからわしわし乱暴に頭を撫でてくれた母のいたずらっぽい笑みは、今でも彼の心の中に残っている。
不快で悔しくて悲しくて、けれどもどこか共犯者めいたやりとりがちょっとだけ大人のようで楽しかった、何物にも代えがたい思い出の一つだ。
その後、彼は母親と、母の大親友だというΩの女性と3人で暮らすようになった。
15の誕生日の数日前に、彼の母はこの世を去った。衰弱して死んでいった彼の母は、父に恨み言をいうわけでもなしに、ただ息子を残して先に逝くことだけを詫びて去っていった。
通常立場的にも身体の機能的にも弱者であるΩは、番った相手に執着されるため、そして愛されるために庇護欲をそそるようなか弱さと愛らしさを、意識的にせよ無意識にせよ露骨な程にアピールするものが多い。
しかし、自身を捨てたαに未練を見せることもなく、また捨てたことを呪うこともなく、周囲の同情を引く様な真似もせず、淡々と残り短い人生を生きた母は強い人だったと彼は思う。そんなどこかΩらしくない凛とした母のことを、確かに彼は愛していた。
「父さんお久しぶりです。俺、15歳になりました。誕生日プレゼントをください」
15歳の誕生日。失うものがもはやなにも無くなった彼は、父親の家に乗り込み今は正妻となった浮気相手のΩをナイフでめった刺しにしながら、彼は父に誕生日のお祝いを求める。あろうことかこのΩは、彼にナイフを突きつけられるまでは彼に対しても色目を使ってきた。自分が過去にどれだけ酷いことを幼い彼にしたのかも覚えておらずに。
「今日はお前の誕生日だというのに。面倒な後始末までしてくれてありがとう」
彼よりも、瀕死の状態でヒューヒューと荒い呼吸をする浮気相手の方が、父の言葉に対して衝撃のあまり目を見開く。彼の父親の隣には、浮気相手よりもさらに相性のいい「運命の番」が父親に肩を抱かれながら、顔を青ざめさせて震えていた。
父の目は、かつて運命と呼び溺愛した者に対する熱っぽい眼差しではなく、まるで飽きて興味のなくなった玩具を見るかのような、ただただ退屈そうな目線をチラリと一瞬だけ「それ」に向けた。
「父親としての務めだ。その死体はこちらで片付けよう」
光を失い濁ったガラス玉のような目をしたまま横たわっている母の仇は、全身に残る傷口から零れ出る赤い絶望に彩られていた。運命に導かれて、人から奪ってまで最愛を手にしたはずのΩの、哀れな最期だった。
「新しい3番目の義母さん、初めまして。その人の一番目の妻の息子です」
彼は絶望していた。衰弱死した母でも、自身の手で殺してやった浮気相手でも、父親でも新しい浮気相手にでもなく。彼自身の性別であるαという性に絶望をした。
「父さん、末永くお幸せに」
「ありがとう、でも人生何が起こるかわからないからね。先の事なんて誰もわからないさ」
彼の父は本当の運命を見つけるまで、何度でも何度でも番を解除しては新しい番を作る男なのだろうか。
目の前の新しい浮気相手、いや運命の番は「自分だけはそうはならない、自分が唯一の運命だ」とでも思うのだろうか。それとも、少しでもわずかな可能性を考えられる力があるのであれば「もしかしたら、次は自分かもしれない」と思うのだろうか。
そこは嘘でも隣のΩと永遠でも誓えよ。彼、ミハイルは空虚な思いを抱えたままその場を後にした。顔を青ざめさせて震える父の3番目の運命はΩの習性だろうか、媚びる様に父の胸に顔を埋めている。これもまた愚かだと、15歳の彼は思う。
「これじゃあ、殺しても殺してもキリがない」
殺したところで新しい運命の番を見つけるのだろうし、殺さなかったところで父親のよくわからない裁量によってある日突然運命は変わる。うんざりだ。アンタも今のうちに運命の愛とやらを満喫しておくと良い。少年は父と新しい運命に背を向けると、そのまま屋敷を後にした。
……それから1年もしないうちに、父が新しいΩと番ったと風の噂で彼の耳にも届いた。
「ミハイル! 俺はついにやったぞ!! 」
「……どうしたの、有森? 」
有名な学術誌を手に、有森という男はミハイルの肩をばしばしと叩く。小さな島国で一番の名門大学にいるミハイル・コズロフと有森 義孝(アリモリ ヨシタカ)は、どちらもストレートで同じ年に入学をした級友といったところだ。
いいから黙って読んでみてくれと手渡された雑誌のトップには、有森の論文が載っていた。ななめ読みしても興味をそそられる非常にセンセーショナルなその内容は、オメガとアルファの臭腺についてだった。
「その論文を読めば君には説明などしなくてもわかるだろうが、αとΩには臭腺のようなものがある。哺乳類のためかどちらも肛門腺の一部、厳密にいうと肛門腺を円状に見て2時と10時の部分2ケ所にあるが、そこに分泌液……わかりやすく言うとフェロモンを出す器官があることがわかった。
これを取り除いてしまえばヒートとラット、発情期が起こることがなくなる。あわせてαのフェロモンによる威圧も沈静化できるというわけだ。無論、αやΩの生殖機能自体に害はないので術後も子を成すことに問題はない。フェロモンと番という行為がなくなるのみ、というわけだ。なんでこんな原始的なことが今まで解明されていなかったって? それはαもΩも神聖視されていて、研究自体がタブーなところがあったからだろうな。これがまだ戦時中であれば捕虜を使っての人体実験や……」
「有森、少し落ち着いて」
「ああ、すまない。ともかくこれは凄いぞ。フェロモンさえ取り除いてしまえば、αはΩの首を噛みついて……番とする行為をおこなうこともできなくなる。逆に番を強制的に解除された痛ましいΩ達にとってもメリットがある。臭腺を切除すれば後遺症ともいえる発情期に悩まされることもなく、短命だったΩの生存率もあがるということだ!」
「そんな、スカンクの臭腺除去みたいな手術で済むんだね……」
「まあ、文面に起こしてみれば簡単そうに見えるかもしれんが、人間の体は少々複雑でな。簡単とは言い難いが、手術自体は可能だ」
「番解除された、Ωの生存率が上がる」
「ああ、例え人道的ではない行為だと後ろ指を指されても、これだけは人命救助になると言えるだろう。終わりのない発情期が消える。全てのΩはその苦しみから解放されるんだ……ミハイル? 」
ミハイルの右目から、つうと忘れかけた感情が滴となって零れる。もっと早くに有森に
出会えていたのなら、母は生きていたのだろうか。父を止めることができていたのだろうか。
ミハイルの父は故郷の国でも有名な資産家であり、もう両指でも数えきれないほど離婚と結婚を繰り返していた。その理由はやはり「運命」であり、隣に最愛がいても他に目新しい相性の良いΩが居れば、すぐさまそちらに乗り換えては「前の番」を何の感情を持たずに解除をしてしまう。
「……君の親父さんの話は、こちらの耳にも入ってきている。せめて、何故出会ったΩをそのまま番にしてやらないのだろうな」
αは複数のΩを番にできるので、他のΩにもう気が無くてもハーレム状態にしておけば、例え一生会うことがなくとも他の番ったΩ達に発情期が来ることもないというのに。
ミハイルは零れ落ちる涙もそのままで、有森の肩にその身を寄せる。
遠い異国の地で出会った有森の第二の性はβだ。
Ωやαのようにフェロモンに惑わされることもない普通の人間に近い存在だが、彼はαにも引けを取らない非常に明晰な頭脳の持ち主だった。身長は170cmと数センチ程度で飄々とした様子や存外白い肌、目鼻立ちはそれなりに整っているが印象には少し残り辛い、平凡寄りの顔立ちと言える。
反対にミハイルは父親ゆずりのαであり、長身で筋力もある金髪碧眼の見目秀麗だが基本的に人間に興味が持てず、Ωもαも嫌っており、二つのバースに対しては最早憎悪の念を抱いているといっても過言ではない。
けれどもそんな平凡寄りな顔のβをミハイルは心より愛しており、友情を超えた感情を抱き執着していた。
ミハイルは優秀なαが故に、Ωは元よりαやβにすら言い寄られることが数多あり、人に対して素っ気なく壁を作ることが多かった。
反対に有森は人当たりは悪くないが、研究に没頭するあまり最初は集まってきた人たちも次第に距離を置いて去ってゆく。有り体に言うと変人扱いされることが多く、独特の癖と取っつきにくさからだろうか、友人が多い方ではなかった。
「またか。人間関係ってやつは実に面倒くさい」
「またか。人間ウザい」
ミハイルと有森のファーストコンタクトは、上記のようにうっかり口から零れ出た愚痴から始まった。
「……これは、あまり良くないところを聞かれてしまったな」
「俺たち、気が合うね」
キラキラ光り輝かんばかりに美貌を全面に押し出した美術品のようなαの男、けれども有森は自他ともに容姿に対しては無頓着であった。ミハイルに対しても、あまり興味のない美術史の本に紹介されている絵画を見ているような「一般的な感覚で言えば美しい、のだろうな」程度の薄い感情を抱いただけだった。
「そうか……すまん、あまりわからない」
素直が故に人を傷つけてしまうような有森の返答に対しても、ミハイルは満面の笑みを絶やすことはなかった。
「そっかぁ。ねえねえ……君もしかして、俺にあまり興味ない? 」
「いまのところは」
「そっかそっかぁ」
こちらが素っ気ない態度を取れば取るほど、ミハイルは有森を気に入ったようだ。君が俺に執着する意味がわからないと有森が困惑しても、ミハイルの方が「理由は特にない。俺がしたくて、勝手にしてるだけだからいい……有森は俺が居るの、嫌?」とそばに居ることをやめなかった。
流石に悪意もなく、また居る分には特段不快とも思わない美形の悲しそうな顔を見て有森も強く突き放すことができず、害がない限りそのままにさせてやっていた。
有森は自身が専攻する学術や研究以外については無頓着であり、それは食べ物も同様だった。
「おにぎり好きなの? 」
「安い、片手で食べられる、腹にたまるし糖質が取れる」
「ふーん。そっかぁ」
片手で食べられるとは言うものの、彼の食事風景はなりふり構わずという割には、比較的上品な所作だった。自分では簡素なものしか食べないが、人に与えられる分には好き嫌いがどうやらなさそうだとミハイルは瞬時に判断する。
「君、これは……」
次の日。運動会の昼ご飯と見紛う程の、色とりどりの弁当箱が並べられた。可愛らしく握られた肉巻きおにぎりやベーシックなごま塩おにぎり、唐揚げや卵焼き、彩りや栄養を考えられたミニトマトやニンジン、ブロッコリーやマリネもぎゅっと敷き詰められている。
手作り弁当はαに気のあるΩやβが、気を引くために甲斐甲斐しく作るものだろうと有森はやや酷い偏見を持っていたが、全てにおいて優れているαはどうやら料理も得意分野のようだ。
「あーん」
「ん」
フォークに刺された卵焼きを抵抗なく食べると、有森は「美味い」と普段はあまり表情を変えないのに、その時は珍しくふわりと柔らかい顔を見せた。
「これ全部、君の手作りか」
「うん」
「素晴らしい、美味い。嫁か婿にでも来てもらいたいぐらいだ」
軽口すら多様性に配慮した言葉を使い、片手に握られたおにぎりにかぶりついて頬をハムスターのように膨らませている男に、ミハイルは周囲の人間が蕩けてしまいそうな甘い笑みを浮かべる。
「いいよ。その時はウェディングドレス着て来てあげるね」
「似合いそうだな」
おしゃれのことはよくわからないが、長身ですらりとした君ならきっと似合うと思う。
にこりともせず真面目にそう返す有森に、ミハイルは「そこは笑うところでしょ」とギャグが滑ったことか、或いはそれ以外のことでの照れくささから両耳を赤く染めた。
「美味かった。ご馳走様」
何かお礼がしたいな。有森の言葉にミハイルは「じゃ、とりあえず友達になって」と彼の手を取る。指を絡められ友達のそれにしては、少しばかり距離感が近いなと思いながらも「俺で良ければ、喜んで」と有森は答えた。
最初の頃はミハイルを、奇妙で物好きなイケメン程度の感情しか持ち合わせていなかった有森だが、何故自分に執着してくるのかもわからないままほぼ毎日デカい犬のように懐き後をついて回るミハイルと徐々に距離が近づくにつれ、いつしか絆されてしまった。
数日、数週間、数カ月経過しても、ミハイルは有森から離れてゆかない貴重な友人となり、その頃から既に有森はミハイルの中で特別になっていた。
彼らにとって人よりも足りなかった「友達」ということを一つ一つ確かめ合うようにぎこちなくやっていくうちに、いつしか二人ともその枠を超えた離れがたい感情を抱くようになった。
「有森」
「うん? 」
「美味しい料理毎日作るし、家事もするし、いつも綺麗でいるから。俺と付き合ってください」
君の研究や勉強に没頭しているところが好き。いきなり興味ある話になったらマシンガントークが始まるのも面白くて大好き。好きなものを追いかけている時の目が本当に好き。俺はずっとそれを傍で見ていたい。……他の誰にも取られたくない。
「それから、普段はお笑い見ても無表情無反応なのに、お笑い芸人のマッスル北山のネタでだけ爆笑するところで告白しようと決めました」
「マッスル北山で!? 」
「あのわけわかんないネタの時だけ笑うところが可愛くて」
「マッスル北山を侮辱するな」
「ごめんなさい」
北山への失言の件で「ちょっとそこに座れ」と正座をさせられ、ものすごく怒られてシュンとしたミハイルの前に有森は屈みこむ。
「……俺、恋愛とかよくわからなくて。それでもよければ」
珍しく感情を露わに、俯いて顔を赤く染めているのを懸命に隠そうとしている有森の姿だけで、ミハイルは嬉しくて頬が緩みそうだった。
「恋愛の素質、多分十分すぎるぐらいあるよ。義孝」
この男を自分の物にしたい、抱きたい。死んでも離れたくない。芸術品のようにきれいな男の中は、どろどろとした独占欲と執着でコールタールのように黒く、一度触れたらもう離れられないぐらいにべたべたした有森への思いで満ち溢れているようだった。
……この先の人生、有森のマッスル北山にしか向けない笑み(と呼ぶにはあまりにも破顔している)に嫉妬することも多々ありはしたが、二人の関係は概ね良好だった。
「……ねえ有森」
「うん? 」
「そのフェロモン取る手術って、もうできるの」
「実用化って意味か? それはもう問題がないが……半分実験みたいなものだからな。αは勿論、Ωだって手術を受けたがる人はいないよ」
「じゃあ、俺が一番になりたい」
「ミハイル」
「俺に手術を受けさせて」
有森になら何されてもいい。有森の一番になりたい。……有森に俺のαを殺してほしい。まっすぐな彼の視線に、有森は一瞬表情を強張らせたが、すぐさま真剣な眼差しで見返す。
「いいのか、確かにΩからのフェロモンに中てられることはなくなるが、αの特権でもあるフェロモンも使えなくなるし……その、将来の配偶者に出会えなくなるかもしれない。言い回しが適切ではなかったな、君の将来の番に出会えても、フェロモンが感知できずに気づけないかもしれない」
たとえ君がΩを嫌っていても。有森の言葉にミハイルは後ろからギュウと力強く彼を抱きしめる。
「俺はね、βになって一生君に執着し続けたい。君しか見えないしこれからも見たくない。そのためには俺の中のαが邪魔で邪魔でしょうがないんだよ」
「それは困ったな」
「……嫌?」
「それが、いやじゃないから困るんだ」
「……ふふ、じゃあ早くαを取り除いて、もっと思い知ってほしい」
生きている限り君にくっついていたい。君は俺とずっと一緒にいるんだ。他のΩに目移りしている暇がない。
ミハイルの言葉にβはαのフェロモンを威圧以外で、そういった意味では中てられないはずなんだが。そうだな、それを証明するためにも君に手術を施そう。どんな形でも俺は君から離れないと、言い訳めいた言葉を一つ二つ投げて、有森は力強く頷いた。
「気分はどうかな」
手術から数日経過した退院日のこと。ミハイルは「最高だよ」と無防備な笑みを有森にだけ向けて見せた。外の空気はこんなにも清々しくて晴れやかであったのだろうか。手術前はねっとりとしたピンクじみた不快なフェロモンが霧のように目にも見えているようで、ドロドロした感情にすっかり身体も頭も正常ではなかったとミハイルは語る。
「実に興味深い」
有森は自身の手に指を絡めてくるミハイルを親友として、実験動物として、兄弟としてパートナーとして、ともかく彼の傍にいられる理由を思いつく限り上げてみたがそのどれもが足りないことに気づく。
論文以外で言葉を紡ぐのが存外苦手な有森は、ミハイルの胸元に顔を埋めてみると、スンスンその匂いを嗅いでみる。
「どうしたの、まだフェロモンのにおい、する? 」
「いいや。少し汗ばんだ君の匂いがする。けれどもそれが何故だか心地よい」
恋愛という感情に少しばかり、いやかなり疎い有森は原因がわかるまでスンスン匂いを嗅ぎ続けているが、それは目の前の元αに抱きしめられて頭に思い切り顔を埋められるまで止まらなかった。
「……ミハイル、俺も急いできたから、汗をかいている」
「うん。でも俺、ずっとこの匂いが嗅ぎたかったみたいだ」
「フェロモンってのは体感、どんな香りなんだろう」
「そうだな……香水をぶちまけたような、海外製の柔軟剤を投入量を守らずに使ったようなそんな感じ」
「それはキツイな」
「うん、鼻が曲がりそうだった。ただでさえ俺は鼻が利くほうだから」
「非常に興味深いが、論文にするには少しばかり俗物的すぎる表現だ」
「ふふっ。でもね、今なら少しだけわかる気がする。好きな人の匂いってやつが俺にも」
花の香りでも石鹸の香りでもない、甘くない生きている者の匂い。運命だとか番だとか、ロマンティックで卑しい吐き気がするような言葉に絶望していたミハイルは、有森に対する感情を恋や愛と呼ぶにはまだ少しだけ心が追いついておらず、今は執着という言葉で思いを伝える。
「有森、これでこれからもずっと一緒だ。死ぬまで一緒。」
「ミハイル、俺も君に一生執着していこうと思う」
αだというのに、まるでΩのようなフェロモンや運命という名の首輪を外せたミハイルは安堵の深呼吸をするように、有森の肩に顔を埋めて深く匂いを吸った。
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