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第四話 報復の女神(SIDE:A)
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「退屈ではないか?」
塗りこめたような青い空の下、彼女が縞瑪瑙のテラスで白いティーカップを傾けていると、いつものように忽然と蕃神が現れた。
一日に一度、気まぐれのようにやってくるこの男は、挨拶がわりに必ずそう訊ねてくる。この城から一刻も早く彼女を追い出して、恭司を引き戻したいのだが、その恭司に彼女を脅して帰らせることを固く禁じられてしまったので、こんな訊き方をしてくるのだ。
それに対して、彼女はこれまでこう答えつづけていた。
――いいえ。楽しく過ごさせていただいております。
すると、男はあからさまに顔をしかめ、何か欲しいものがあったら召使に伝えろと言って、そのまま消えてしまうのだった。
しかし、今日の彼女の返事は違った。
「ええ、退屈です。ですから、お願いがあるのです」
男は一瞬意外そうな顔をしたが、すぐに不快げに眉をひそめた。恭司には何でも願いを叶えるようにと命じられてはいたが、実際そうされると腹が立つのだろう。その反応はすでに予測済みだったが、それでも彼女の心のどこかを傷つけた。
「わかった。何だ?」
ぶっきらぼうに男が問う。
彼女は一度、深呼吸をしてから答えた。
「私がここから帰る前に……父を殺してくれませんか?」
ここに来たばかりの頃は、見るものすべてに圧倒されていた。
巨大な縞瑪瑙の柱の群れ。彼女が今まで見たこともないような豪華な部屋の数々。果ての見えない浴場。無限に続く書庫の天井。
噂に聞くセレファイスの都のように、この城にもまた時の流れというものがなく、喉が渇くことも腹が空くこともない。恭司が彼女の家で何も飲食しなかったのは、この城の住人だったからなのかもしれない。彼女はどうしても口寂しくて、そのうち紅茶や菓子くらいは口に入れるようになったが。
その用意をさせるのにも、彼女は召使の手を借りねばならなかった。だが、生まれてから今日まで、いつも誰か――それはほとんどの場合、父親だった――に命じられて動いていた彼女には、召使に声をかけて働かせるということが苦手で仕方なかった。できるものなら、全部自分でこなしてしまったほうが楽だったし早かった。命じるということに彼女は慣れていなかったのだ。
しかし、いったん慣れてさえしまえば、すべては陳腐な日常となっていった。いつ見ても快晴の空は壁紙のようにしか思えなくなったし、召使に命じなければならない仕事もそもそも少ない。
今ならこの城を出て歩き回っていた恭司の気持ちがよくわかる。普通の人間だったら、ここでの暮らしには耐えられない。何もしなくていいなんて、死んでいるのも同じだ。
だが、彼女と恭司とでは、決定的に違うことが一つある。
あの男に、愛されているか、いないか。
かつて、召使たちに恭司とあの男との関係を訊ねたとき、たった一人の召使を除いては、誰も口をつぐんで答えようとしなかった。そのたった一人は、厳粛に彼女にこう答えた。――フェリシア様。申し訳ございませんが、それは私どもにはお答えすることはできません。
彼女らにとって恭司とは、決して触れてはならない、最大級の禁忌だった。〝恭司〟という名前さえ、彼女らは口にできない。
その中でも、はっきりと言葉にしてそう言えるその女――ヨガシュを彼女は気に入り、以後、自分の細々とした面倒の一切をヨガシュに任せるようになった。
恭司がこの世界の人間ではないらしいことは、彼女にも何となくわかっていた。そして、あの男にとって恭司が何なのかも。
――愛人。
たとえ彼女がここにいても、あの男に愛されているかぎり、この城の真の主は恭司なのだ。
あの男の彼女に対する態度は、初めて会ったときから終始一貫、変わることはなかった。
無関心。あの男が一日に一度、彼女の前に現れるのは、恭司に彼女の望みを叶えるよう命じられたという、ただそれだけのことにしかすぎない。
そんな男の目をこちらに向けさせようとして、一時期、彼女は必要以上に着飾ったり、化粧をしたりしたことがある。しかし、男はまったく反応せず、結局ほめてくれたのはヨガシュだけだった。今の彼女は、銀の髪と白い肌によく映えるという理由で、黒いドレスばかりを好んで着ている。
もともと男が好きなのか、恭司だけが特別なのか、とにかくあの男の関心は、恭司だけにしか向けられていなかった。確かに、彼女が帰ると言わなければ、恭司はこの城に帰ってはこないだろう。だが、それは同時に、あの男もこの城に滞在することはないということを意味している。もしもあの男も彼女のものになったのなら、少しはこの退屈もまぎれると思うのに。
しかし、彼女はあの男に『帰りたい』と言う気にだけはどうしてもなれなかった。父親の面倒を見る者が誰もいないのなら別だが、あそこには彼女そっくりな身代わりがいるのだ。いっそ、自分がここにいる間に死んでくれないものだろうか。そうすれば、すぐにでもこの城を出る。
ひどい父親だった。大酒飲みで、酒を飲むたび母親や彼女に暴力を振るった。それが原因で、母親は九歳の彼女を置いて家を出て、すべては彼女一人の肩にかかった。あげくの果てには二年前、突然父親は倒れ、以来、自分で立ち上がることもできなくなってしまった。そのくせ、口だけは達者で、体の自由がきかなくなったかわりに、何かというとすぐ彼女を呼びつけた。
さんざん好き勝手なことを言って高鼾をかいて眠る父親の顔に、幾度濡れた布を被せてやろうかと思ったかしれない。今までろくなことをしなかったくせに、ただ父親だというだけで彼女の自由を奪いつづける。
それでも、彼女が父親の言いなりになったのは、〝けなげな孝行娘〟という自分の評判を落としたくなかったのと、いつかはこの男も死ぬのだといういくばくかの憐憫からだった。だが、口汚く罵られたときに彼女は思う。――では、そのいつかとはいつだ?
自慢は決してしないが、自分は美しい。村の男に言い寄られたことも何度もある。しかし、彼女にはもれなくあの厄介者がついてくるので、誰も結婚しようとは言ってくれなかった。こういうところでも、あの飲んだくれは彼女の足を引っ張りつづけるのだ。いっそ、恭司に父親を殺してくれるように頼んだほうがよかっただろうか。あくまでも自然に死んだように見えるように。
恭司がいたあの短い期間。あれは本当につかのまの休息だった。恭司が父親の相手をしてくれて、その間、彼女に少し休めと言ってくれた。不思議なことに、村の人間にも毒づく父親が、恭司には我儘を言わなかった。やはり旅の人間には遠慮があったのか、それともそれが恭司の魔力だったのか。
恭司が夜のうちに去ったと知ったとき、父親が彼女に言ったのは、おまえが何か気に障ることをしたんじゃないのか、だった。昔、彼女が生まれたとき、何だ女かと言ったという父親だから、恭司を息子のように思っていたのかもしれない。恭司が去ってからは、また元どおりの口うるさい父親に戻ってしまった。
何か手立てを講じなければならなかった。この退屈をなくすか、あるいはあの父親を消す方法を。
「ヨガシュ」
「はい」
すぐに柱の陰から黒人の女召使――ヨガシュが現れて、彼女の前に控えた。
「あの人に話したいことがあるんだけど……私のほうから呼び出すことはできないかしら?」
彼女にはどうしてもあの男の名前を呼ぶことができない。もっとも、それはこの城の人間たちも同じだ。ヨガシュはすぐに彼女の言わんとすることを理解し、思わしげな表情を浮かべた。
「それは無理です、フェリシア様。あの方がいらっしゃるまで、お待ちになるしかありません」
「そう。やっぱりね」
彼女は軽く溜め息をついて身を翻した。
「じゃあ、待ちましょう。紅茶を用意してくれる? 今日は外で飲みたいわ」
彼女の不謹慎な願いを聞いても、男はまったく驚かなかった。
それどころか、満足そうに笑ったのだ。男が彼女にそんな表情を見せたのは、これが初めてだった。
「いつそう言うかと思っていたが。意外と遅かったな」
男はそう言うと、長い両腕を胸の前で組んだ。
「よかろう。どんな殺し方が望みだ?」
それに対する答えは、もうずいぶん前から決めていた。
「どんな殺し方でもかまいません。でも、決して楽には死なせずに、そして、私には絶対迷惑のかからないようにしてください。死んでからまであの男に苦しめられたくありません」
男はまた愉快そうに笑った。彼女は今の状況を忘れてうっとりと眺める。
この男は何と魅惑的に笑うのだろう。恭司に向ける笑顔とは、種類はまったく違うけれど。
「承知した。それを叶えてやれば、この城から出ていくのだな?」
「ええ。でも、帰っても大丈夫だと確認できるまでは『帰りたい』とは言えません」
男の顔から笑みが消えた。忌々しそうに彼女を睨みつけてくるが、ここで引き下がるわけにはいかない。彼女は自分の中にある全勇気を掻き集め、男を見つめ返した。
「おまえには、恭司の前でそう言ってもらわないと困るからな」
結局、男のほうがあきらめたように彼女から目をそらせた。
「わかった。決して楽には死なないように、おまえには絶対に迷惑のかからないように、だな。死ぬところも見たいか?」
一瞬、彼女は逡巡した。自分は別に父親が死ぬところまで見たいわけではない。ただ、自分の過失以外の理由で父親が死んだという事実が欲しいのだ。
「どうやって殺すつもりなんですか? それによります」
「おまえがどうしても家を離れなければならなかったときに不可抗力で死んだ……というのがいちばん妥当だろう」
男の答えによどみはなかった。すでにそこまで考え済みだったようだ。
「確か、おまえは毎日、酒をもらいに行かされていたな? では、その間に容態が急変して死亡……というのではどうだ? どうせおまえたちには検死もできないだろうからな」
男は彼女にはわからない言葉を遣った。だが、それは彼女にはさして重要なことには思われなかったので、別のことを訊ねた。
「私が殺したと疑われないかしら?」
「ふん。そのために、文句も言わず面倒を見続けてきたのだろうが」
つまらなそうに男は言ったが、彼女は蒼白になって凍りついた。
この男といい恭司といい、本当にどこまで知っているのだろう? しかし、彼女は自分の怯えを無理やり無表情の下に押し隠した。
「だがまあ、どうしても不安だというなら、他人の目を使えばよかろう。おまえが出かける前に、誰かに生きているおまえの父親を確認させておけばよい」
「私がするんですか?」
「忘れたか? 〝銀のフェリシア〟は、今もあの家にいる」
馬鹿にしたようにそう言われてから、この城へ来る前に自分の畑の中で起こったことを彼女は思い出した。
おそらく今もあの家では、あのとき出現した彼女の〝影〟が彼女の仕事をすべてこなしているはずだ。
「あの〝影〟に、適当な人間に声をかけさせて、生きていることを確認させればよかろう。殺すこと自体は造作もない。おまえも自ら手を下したいというのなら、いくらでも手段はあるぞ?」
男はにやりと笑うと、自分の胸に手をやり、慇懃に言った。
「さて、お客人。それではさっそくご希望を叶えようと思うが、後悔はしないな?」
「しません」
彼女は少しもためらわなかった。
「私が自由になれるなら。あの男から解放されるなら」
「承知した。見学は希望するか?」
「私があそこにいては、まずいのでは?」
「もちろんだ。だが、見るだけならここからでもできる。こんなふうに」
男が指を鳴らすと、蜃気楼のような映像が青い空に浮かび上がった。彼女は驚いて目を見張ったが、そこに映っているものを知って、さらに息を呑んだ。
かなり遠く離れてはいたが、小さくてみすぼらしいその家は、確かに彼女が生まれ育った我が家だった。今、その家の前には、粗末な服を着た銀髪の娘と、顔見知りのよく肥えた農婦が立っており、何事かを話していた。
「声は聞こえないの?」
ついそう訊くと、すげなく男が答える。
「見るだけだと言っただろう」
その間に、二人は家の中へと連れ立って入っていき、また外へ出てきた。娘は女に向かって頭を下げてから、どこかへ向かって歩いていき、女はそれに鷹揚に手を振って答え、自分もまた家を離れていった。
「これで準備は整った。あとはどう殺すかだが、本当に要望はないのか?」
「……そうね。なるべく血の出ない殺し方がいいわ。片づけが大変だから」
そっけなく答える彼女を、男は興味深そうに横目で見たが、すぐに視線を外した。
「承知した。では、酒飲みにとって幸福な最期にしてやろう」
映像は家の外から中へと切り替わっていた。あの粗末な寝台の中では、彼女が憎んでも憎み足りないあの男が、涎を垂らしながらいぎたなく眠っていた。
と、酒焼けしたその顔の上に、桶一杯分ほどの茶褐色の水の固まりが現れた。水は球形を保ったまま下降して、父親の顔をぴったりと覆う。
数秒、父親はそのままでいた。
しかし、さすがに呼吸が苦しくなったのだろう。水の中でカッと目を見開いた。何が起こったのかわからないようだったが、自分の顔を覆うものが自分を苦しめている原因だということはわかったらしく、水の球に両手を突っこんで外そうとしたが、水は顔にしっかりと張りついていてまったく離れない。
父親は肋骨の浮いた胸を掻きむしりながら、水の中にゴボゴボと息を吐いた。寝たきりの病人のくせに、それからもしぶとく寝台の上で跳ね回っていたが、やがて脱力し、二度と動かなくなった。
彼女はその様子を、一瞬も目を離さず、ずっと見ていた。
なぜか何も感じなかった。現実の出来事だと思えなかったせいかもしれない。その光景はいつも彼女が心の奥底で思い描いていたことだった。
父親の息を文字どおり止めた水は、今度は父親の口をこじ開けると、まるで生き物のように中へと入っていき、すべて消えた。溺死だが、村の者には突然病状が悪化して死んだようにしか見えないだろう。証拠は何一つない。
「あれは、酒だ」
男が指を鳴らすと同時に、映像は掻き消えた。
夢から覚めたような心地で、彼女は男を振り返る。
「文字どおり、酒に溺れて死ぬなら本望だろう。さあ、これで約束は果たした。今度はこちらが約束を果たしてもらう番だ。これから恭司を呼んでくるが……よいな?」
否とは言えなかった。男は約束どおり父親を殺してくれたのだ。帰りたくない理由はもうどこにもなかった。
「ええ。かまいません」
覚悟を決めてそう答えたとき。
男の姿はすでになかった。
塗りこめたような青い空の下、彼女が縞瑪瑙のテラスで白いティーカップを傾けていると、いつものように忽然と蕃神が現れた。
一日に一度、気まぐれのようにやってくるこの男は、挨拶がわりに必ずそう訊ねてくる。この城から一刻も早く彼女を追い出して、恭司を引き戻したいのだが、その恭司に彼女を脅して帰らせることを固く禁じられてしまったので、こんな訊き方をしてくるのだ。
それに対して、彼女はこれまでこう答えつづけていた。
――いいえ。楽しく過ごさせていただいております。
すると、男はあからさまに顔をしかめ、何か欲しいものがあったら召使に伝えろと言って、そのまま消えてしまうのだった。
しかし、今日の彼女の返事は違った。
「ええ、退屈です。ですから、お願いがあるのです」
男は一瞬意外そうな顔をしたが、すぐに不快げに眉をひそめた。恭司には何でも願いを叶えるようにと命じられてはいたが、実際そうされると腹が立つのだろう。その反応はすでに予測済みだったが、それでも彼女の心のどこかを傷つけた。
「わかった。何だ?」
ぶっきらぼうに男が問う。
彼女は一度、深呼吸をしてから答えた。
「私がここから帰る前に……父を殺してくれませんか?」
ここに来たばかりの頃は、見るものすべてに圧倒されていた。
巨大な縞瑪瑙の柱の群れ。彼女が今まで見たこともないような豪華な部屋の数々。果ての見えない浴場。無限に続く書庫の天井。
噂に聞くセレファイスの都のように、この城にもまた時の流れというものがなく、喉が渇くことも腹が空くこともない。恭司が彼女の家で何も飲食しなかったのは、この城の住人だったからなのかもしれない。彼女はどうしても口寂しくて、そのうち紅茶や菓子くらいは口に入れるようになったが。
その用意をさせるのにも、彼女は召使の手を借りねばならなかった。だが、生まれてから今日まで、いつも誰か――それはほとんどの場合、父親だった――に命じられて動いていた彼女には、召使に声をかけて働かせるということが苦手で仕方なかった。できるものなら、全部自分でこなしてしまったほうが楽だったし早かった。命じるということに彼女は慣れていなかったのだ。
しかし、いったん慣れてさえしまえば、すべては陳腐な日常となっていった。いつ見ても快晴の空は壁紙のようにしか思えなくなったし、召使に命じなければならない仕事もそもそも少ない。
今ならこの城を出て歩き回っていた恭司の気持ちがよくわかる。普通の人間だったら、ここでの暮らしには耐えられない。何もしなくていいなんて、死んでいるのも同じだ。
だが、彼女と恭司とでは、決定的に違うことが一つある。
あの男に、愛されているか、いないか。
かつて、召使たちに恭司とあの男との関係を訊ねたとき、たった一人の召使を除いては、誰も口をつぐんで答えようとしなかった。そのたった一人は、厳粛に彼女にこう答えた。――フェリシア様。申し訳ございませんが、それは私どもにはお答えすることはできません。
彼女らにとって恭司とは、決して触れてはならない、最大級の禁忌だった。〝恭司〟という名前さえ、彼女らは口にできない。
その中でも、はっきりと言葉にしてそう言えるその女――ヨガシュを彼女は気に入り、以後、自分の細々とした面倒の一切をヨガシュに任せるようになった。
恭司がこの世界の人間ではないらしいことは、彼女にも何となくわかっていた。そして、あの男にとって恭司が何なのかも。
――愛人。
たとえ彼女がここにいても、あの男に愛されているかぎり、この城の真の主は恭司なのだ。
あの男の彼女に対する態度は、初めて会ったときから終始一貫、変わることはなかった。
無関心。あの男が一日に一度、彼女の前に現れるのは、恭司に彼女の望みを叶えるよう命じられたという、ただそれだけのことにしかすぎない。
そんな男の目をこちらに向けさせようとして、一時期、彼女は必要以上に着飾ったり、化粧をしたりしたことがある。しかし、男はまったく反応せず、結局ほめてくれたのはヨガシュだけだった。今の彼女は、銀の髪と白い肌によく映えるという理由で、黒いドレスばかりを好んで着ている。
もともと男が好きなのか、恭司だけが特別なのか、とにかくあの男の関心は、恭司だけにしか向けられていなかった。確かに、彼女が帰ると言わなければ、恭司はこの城に帰ってはこないだろう。だが、それは同時に、あの男もこの城に滞在することはないということを意味している。もしもあの男も彼女のものになったのなら、少しはこの退屈もまぎれると思うのに。
しかし、彼女はあの男に『帰りたい』と言う気にだけはどうしてもなれなかった。父親の面倒を見る者が誰もいないのなら別だが、あそこには彼女そっくりな身代わりがいるのだ。いっそ、自分がここにいる間に死んでくれないものだろうか。そうすれば、すぐにでもこの城を出る。
ひどい父親だった。大酒飲みで、酒を飲むたび母親や彼女に暴力を振るった。それが原因で、母親は九歳の彼女を置いて家を出て、すべては彼女一人の肩にかかった。あげくの果てには二年前、突然父親は倒れ、以来、自分で立ち上がることもできなくなってしまった。そのくせ、口だけは達者で、体の自由がきかなくなったかわりに、何かというとすぐ彼女を呼びつけた。
さんざん好き勝手なことを言って高鼾をかいて眠る父親の顔に、幾度濡れた布を被せてやろうかと思ったかしれない。今までろくなことをしなかったくせに、ただ父親だというだけで彼女の自由を奪いつづける。
それでも、彼女が父親の言いなりになったのは、〝けなげな孝行娘〟という自分の評判を落としたくなかったのと、いつかはこの男も死ぬのだといういくばくかの憐憫からだった。だが、口汚く罵られたときに彼女は思う。――では、そのいつかとはいつだ?
自慢は決してしないが、自分は美しい。村の男に言い寄られたことも何度もある。しかし、彼女にはもれなくあの厄介者がついてくるので、誰も結婚しようとは言ってくれなかった。こういうところでも、あの飲んだくれは彼女の足を引っ張りつづけるのだ。いっそ、恭司に父親を殺してくれるように頼んだほうがよかっただろうか。あくまでも自然に死んだように見えるように。
恭司がいたあの短い期間。あれは本当につかのまの休息だった。恭司が父親の相手をしてくれて、その間、彼女に少し休めと言ってくれた。不思議なことに、村の人間にも毒づく父親が、恭司には我儘を言わなかった。やはり旅の人間には遠慮があったのか、それともそれが恭司の魔力だったのか。
恭司が夜のうちに去ったと知ったとき、父親が彼女に言ったのは、おまえが何か気に障ることをしたんじゃないのか、だった。昔、彼女が生まれたとき、何だ女かと言ったという父親だから、恭司を息子のように思っていたのかもしれない。恭司が去ってからは、また元どおりの口うるさい父親に戻ってしまった。
何か手立てを講じなければならなかった。この退屈をなくすか、あるいはあの父親を消す方法を。
「ヨガシュ」
「はい」
すぐに柱の陰から黒人の女召使――ヨガシュが現れて、彼女の前に控えた。
「あの人に話したいことがあるんだけど……私のほうから呼び出すことはできないかしら?」
彼女にはどうしてもあの男の名前を呼ぶことができない。もっとも、それはこの城の人間たちも同じだ。ヨガシュはすぐに彼女の言わんとすることを理解し、思わしげな表情を浮かべた。
「それは無理です、フェリシア様。あの方がいらっしゃるまで、お待ちになるしかありません」
「そう。やっぱりね」
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「じゃあ、待ちましょう。紅茶を用意してくれる? 今日は外で飲みたいわ」
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それどころか、満足そうに笑ったのだ。男が彼女にそんな表情を見せたのは、これが初めてだった。
「いつそう言うかと思っていたが。意外と遅かったな」
男はそう言うと、長い両腕を胸の前で組んだ。
「よかろう。どんな殺し方が望みだ?」
それに対する答えは、もうずいぶん前から決めていた。
「どんな殺し方でもかまいません。でも、決して楽には死なせずに、そして、私には絶対迷惑のかからないようにしてください。死んでからまであの男に苦しめられたくありません」
男はまた愉快そうに笑った。彼女は今の状況を忘れてうっとりと眺める。
この男は何と魅惑的に笑うのだろう。恭司に向ける笑顔とは、種類はまったく違うけれど。
「承知した。それを叶えてやれば、この城から出ていくのだな?」
「ええ。でも、帰っても大丈夫だと確認できるまでは『帰りたい』とは言えません」
男の顔から笑みが消えた。忌々しそうに彼女を睨みつけてくるが、ここで引き下がるわけにはいかない。彼女は自分の中にある全勇気を掻き集め、男を見つめ返した。
「おまえには、恭司の前でそう言ってもらわないと困るからな」
結局、男のほうがあきらめたように彼女から目をそらせた。
「わかった。決して楽には死なないように、おまえには絶対に迷惑のかからないように、だな。死ぬところも見たいか?」
一瞬、彼女は逡巡した。自分は別に父親が死ぬところまで見たいわけではない。ただ、自分の過失以外の理由で父親が死んだという事実が欲しいのだ。
「どうやって殺すつもりなんですか? それによります」
「おまえがどうしても家を離れなければならなかったときに不可抗力で死んだ……というのがいちばん妥当だろう」
男の答えによどみはなかった。すでにそこまで考え済みだったようだ。
「確か、おまえは毎日、酒をもらいに行かされていたな? では、その間に容態が急変して死亡……というのではどうだ? どうせおまえたちには検死もできないだろうからな」
男は彼女にはわからない言葉を遣った。だが、それは彼女にはさして重要なことには思われなかったので、別のことを訊ねた。
「私が殺したと疑われないかしら?」
「ふん。そのために、文句も言わず面倒を見続けてきたのだろうが」
つまらなそうに男は言ったが、彼女は蒼白になって凍りついた。
この男といい恭司といい、本当にどこまで知っているのだろう? しかし、彼女は自分の怯えを無理やり無表情の下に押し隠した。
「だがまあ、どうしても不安だというなら、他人の目を使えばよかろう。おまえが出かける前に、誰かに生きているおまえの父親を確認させておけばよい」
「私がするんですか?」
「忘れたか? 〝銀のフェリシア〟は、今もあの家にいる」
馬鹿にしたようにそう言われてから、この城へ来る前に自分の畑の中で起こったことを彼女は思い出した。
おそらく今もあの家では、あのとき出現した彼女の〝影〟が彼女の仕事をすべてこなしているはずだ。
「あの〝影〟に、適当な人間に声をかけさせて、生きていることを確認させればよかろう。殺すこと自体は造作もない。おまえも自ら手を下したいというのなら、いくらでも手段はあるぞ?」
男はにやりと笑うと、自分の胸に手をやり、慇懃に言った。
「さて、お客人。それではさっそくご希望を叶えようと思うが、後悔はしないな?」
「しません」
彼女は少しもためらわなかった。
「私が自由になれるなら。あの男から解放されるなら」
「承知した。見学は希望するか?」
「私があそこにいては、まずいのでは?」
「もちろんだ。だが、見るだけならここからでもできる。こんなふうに」
男が指を鳴らすと、蜃気楼のような映像が青い空に浮かび上がった。彼女は驚いて目を見張ったが、そこに映っているものを知って、さらに息を呑んだ。
かなり遠く離れてはいたが、小さくてみすぼらしいその家は、確かに彼女が生まれ育った我が家だった。今、その家の前には、粗末な服を着た銀髪の娘と、顔見知りのよく肥えた農婦が立っており、何事かを話していた。
「声は聞こえないの?」
ついそう訊くと、すげなく男が答える。
「見るだけだと言っただろう」
その間に、二人は家の中へと連れ立って入っていき、また外へ出てきた。娘は女に向かって頭を下げてから、どこかへ向かって歩いていき、女はそれに鷹揚に手を振って答え、自分もまた家を離れていった。
「これで準備は整った。あとはどう殺すかだが、本当に要望はないのか?」
「……そうね。なるべく血の出ない殺し方がいいわ。片づけが大変だから」
そっけなく答える彼女を、男は興味深そうに横目で見たが、すぐに視線を外した。
「承知した。では、酒飲みにとって幸福な最期にしてやろう」
映像は家の外から中へと切り替わっていた。あの粗末な寝台の中では、彼女が憎んでも憎み足りないあの男が、涎を垂らしながらいぎたなく眠っていた。
と、酒焼けしたその顔の上に、桶一杯分ほどの茶褐色の水の固まりが現れた。水は球形を保ったまま下降して、父親の顔をぴったりと覆う。
数秒、父親はそのままでいた。
しかし、さすがに呼吸が苦しくなったのだろう。水の中でカッと目を見開いた。何が起こったのかわからないようだったが、自分の顔を覆うものが自分を苦しめている原因だということはわかったらしく、水の球に両手を突っこんで外そうとしたが、水は顔にしっかりと張りついていてまったく離れない。
父親は肋骨の浮いた胸を掻きむしりながら、水の中にゴボゴボと息を吐いた。寝たきりの病人のくせに、それからもしぶとく寝台の上で跳ね回っていたが、やがて脱力し、二度と動かなくなった。
彼女はその様子を、一瞬も目を離さず、ずっと見ていた。
なぜか何も感じなかった。現実の出来事だと思えなかったせいかもしれない。その光景はいつも彼女が心の奥底で思い描いていたことだった。
父親の息を文字どおり止めた水は、今度は父親の口をこじ開けると、まるで生き物のように中へと入っていき、すべて消えた。溺死だが、村の者には突然病状が悪化して死んだようにしか見えないだろう。証拠は何一つない。
「あれは、酒だ」
男が指を鳴らすと同時に、映像は掻き消えた。
夢から覚めたような心地で、彼女は男を振り返る。
「文字どおり、酒に溺れて死ぬなら本望だろう。さあ、これで約束は果たした。今度はこちらが約束を果たしてもらう番だ。これから恭司を呼んでくるが……よいな?」
否とは言えなかった。男は約束どおり父親を殺してくれたのだ。帰りたくない理由はもうどこにもなかった。
「ええ。かまいません」
覚悟を決めてそう答えたとき。
男の姿はすでになかった。
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大手食品会社営業の楠木 智也(26)はある日会社の上司一ノ瀬 和樹(34)に告白されて付き合うことになった。
彼は会社ではよくわかんない、掴みどころのない不思議な人だった。スペックは申し分なく有能。いつもニコニコしててチームの空気はいい。俺はそんな彼が分からなくて距離を置いていたんだ。まあ、俺は問題児と会社では思われてるから、変にみんなと仲良くなりたいとも思ってはいなかった。その事情は一ノ瀬は知っている。なのに告白してくるとはいい度胸だと思う。
そんな彼と俺は上手くやれるのか不安の中スタート。俺は彼との付き合いの中で苦悩し、愛されて溺れていったんだ。
社会人同士の年の差カップルのお話です。智也は優柔不断で行き当たりばったり。自分の心すらよくわかってない。そんな智也を和樹は溺愛する。自分の男の本能をくすぐる智也が愛しくて堪らなくて、自分を知って欲しいが先行し過ぎていた。結果智也が不安に思っていることを見落とし、智也去ってしまう結果に。この後和樹は智也を取り戻せるのか。
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