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第三話 夢の都
終章
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瞼の上に降りそそぐ日の光と、鳥のさえずる声に気がついて、私はゆっくりと目を覚ました。
まだはっきりしない頭で、いつもの習慣どおりに枕元の置時計を見る。最後に確認したときから、八時間以上経っていた。時刻はすでに昼に近い。
先日、大きく体調を崩した私は、しばらく療養するため、この実家へと帰ってきていた。両親はすでに亡いが、婚期を逃した姉が一人でこの家に住んでいる。私の面倒はこの世話好きの姉が見てくれていた。
私のベッドは南向きの窓の前に置かれている。日ざしは厚いカーテンに遮られ、かなり弱められていた。何の気なしにカーテンを開けた私は、窓の外を見た瞬間、今の今まで見ていたあの長い夢を思い出し、いっさいの言葉を失った。
夢――そう、あれは夢だ。私は再びこうして現実へと帰ってきた。あの醜い夜魔の体からようやく解放され、貧弱だけれどこの元の人間の体に戻ることができた。
あれは夢だ。この世のどこにも存在しない。なのに今、どうしてこれほど懐かしく、そして悲しいのだろう――
いつしか私の視界はぼやけ、涙が私の痩けた頬を伝っては落ちた。窓の外を眺めながら、しばらく私は泣きつづけていた。
なぜなら、窓の外にあったのは、雲一つなく澄み渡る青い空と、初夏の緑に囲まれた光り輝く湖と、その水面にまるで模型のように浮かぶ一艘の白いヨットと……
まさしく、あのときあの方と共に見た、あのままの風景であったからだった。
***
その日を境に、私はあの夢の国へは行けなくなった。おそらくはあの男――ナイアーラトテップの仕業だろう。命を取られなかっただけ、私は幸運であったかもしれない。無論、その幸運はあの方が与えてくれたものであったが。
後日、私はある一冊の本から、〝ラヴクラフト〟というのが我が国の二十世紀初頭の怪奇幻想作家の名前であり、その作家が作り上げた〝クトゥルー神話〟と呼ばれる作品群の中には、あの夢の国のことも、あの男のことも描かれているということを知った。
だが、もうそんなことは私にはどうでもいいことだ。私はもうあの夢の国には行けない。あの方に会うことはできない。
あの方は日本人だと言った。しかし、今日本へ行ったとしても、あの方はいないだろう。もしいたとしても、私があの方を捜す手がかりといえば、唯一〝恭司〟という名前しかない。第一、私にはもうあの方を捜し出す体力も残されてはいない。じき、私はあの夢の国とは別の国へ行く。
今にして私は思うのだ。私が夜魔Bとなったのは、ただの偶然ではなかったのかもしれないと。あれは神が最後に私に与えたもうた、幸福な時間だったのかもしれないと。
あの夢の国へは行けなくなったが、今でも時々私は夢に見る。縞瑪瑙の城の白い光のあふれる一室で、黒い異形の生き物と遊びたわむれる人の姿を。
そして、私はもう二度とその中に立ち交ざることのできない悲しさに、ただ涙ぐむのである。
まだはっきりしない頭で、いつもの習慣どおりに枕元の置時計を見る。最後に確認したときから、八時間以上経っていた。時刻はすでに昼に近い。
先日、大きく体調を崩した私は、しばらく療養するため、この実家へと帰ってきていた。両親はすでに亡いが、婚期を逃した姉が一人でこの家に住んでいる。私の面倒はこの世話好きの姉が見てくれていた。
私のベッドは南向きの窓の前に置かれている。日ざしは厚いカーテンに遮られ、かなり弱められていた。何の気なしにカーテンを開けた私は、窓の外を見た瞬間、今の今まで見ていたあの長い夢を思い出し、いっさいの言葉を失った。
夢――そう、あれは夢だ。私は再びこうして現実へと帰ってきた。あの醜い夜魔の体からようやく解放され、貧弱だけれどこの元の人間の体に戻ることができた。
あれは夢だ。この世のどこにも存在しない。なのに今、どうしてこれほど懐かしく、そして悲しいのだろう――
いつしか私の視界はぼやけ、涙が私の痩けた頬を伝っては落ちた。窓の外を眺めながら、しばらく私は泣きつづけていた。
なぜなら、窓の外にあったのは、雲一つなく澄み渡る青い空と、初夏の緑に囲まれた光り輝く湖と、その水面にまるで模型のように浮かぶ一艘の白いヨットと……
まさしく、あのときあの方と共に見た、あのままの風景であったからだった。
***
その日を境に、私はあの夢の国へは行けなくなった。おそらくはあの男――ナイアーラトテップの仕業だろう。命を取られなかっただけ、私は幸運であったかもしれない。無論、その幸運はあの方が与えてくれたものであったが。
後日、私はある一冊の本から、〝ラヴクラフト〟というのが我が国の二十世紀初頭の怪奇幻想作家の名前であり、その作家が作り上げた〝クトゥルー神話〟と呼ばれる作品群の中には、あの夢の国のことも、あの男のことも描かれているということを知った。
だが、もうそんなことは私にはどうでもいいことだ。私はもうあの夢の国には行けない。あの方に会うことはできない。
あの方は日本人だと言った。しかし、今日本へ行ったとしても、あの方はいないだろう。もしいたとしても、私があの方を捜す手がかりといえば、唯一〝恭司〟という名前しかない。第一、私にはもうあの方を捜し出す体力も残されてはいない。じき、私はあの夢の国とは別の国へ行く。
今にして私は思うのだ。私が夜魔Bとなったのは、ただの偶然ではなかったのかもしれないと。あれは神が最後に私に与えたもうた、幸福な時間だったのかもしれないと。
あの夢の国へは行けなくなったが、今でも時々私は夢に見る。縞瑪瑙の城の白い光のあふれる一室で、黒い異形の生き物と遊びたわむれる人の姿を。
そして、私はもう二度とその中に立ち交ざることのできない悲しさに、ただ涙ぐむのである。
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