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第三話 夢の都
第四章
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階段を上り、どうやら客室であるらしい部屋のドアを開け、そのまま正面に見えるバルコニーへ出ると、外はもう最初に目にしたあの黄昏色に沈みはじめていた。
バルコニーはちょうど崖に面していて、それと向かい合うようにある山裾には、赤い屋根や古さびた尖り破風の家々が密集していた。刻一刻とまさに秒刻みに暗くなっていく中、一つ二つまた一つとその窓に黄色い光が点っていった。
「あそこには誰が住んでるんだろうな」
その様子を青白いバルコニーの欄干にもたれて眺めながら、あの方は言った。
「案外……誰もいやしないのかもな。時間になれば勝手につくとか」
口調とは裏腹に、あの方の表情は決して楽しそうではなかった。少しでも楽しそうなそぶりを見せたのは、あの庭園と湖にいたときくらいのものだ。なのになぜわざわざここへ来て悲しげな顔をするのか、我らにはわからなかった。
あの方のそんな顔は我々も見ていたくはない。悲しげな顔をするその理由を訊ねて、何とか慰めてあげたかったが、我らにはあの方と話せる口がなかった。ただ黙ってあの方に付き従い、あなたは一人ではないのだと、無言で主張しつづけているより他はなかった。
「――こら」
だしぬけに、背後でそんな男の声がした。
この都であの方以外に話すことができる者といえば、あと一人しかいない。
「俺はまだおまえを呼んでないぞ」
振り返りもせずにあの方は言ったが、その口元に笑みが浮かんだのを、我らは見逃さなかった。
「馬鹿正直に、おまえが呼ぶまで待っていたら、いつになるかわからんわ」
腕を組み、入口に寄りかかって立っていたあの男は、呆れ果てたようにそう言うと、さも当然と言わんばかりにあの方の隣に立った。
無論、我らはあの男が現れた時点で、あの方の足元から部屋の隅へと緊急避難していたが、このときばかりはあの男の出現に多少は感謝せざるを得なかった。
なんのかんの言っていても、やはりあの方は話す口のあるあの男のほうを好いている。確かに我らには優しいが、それはあくまでペットに対する愛情の域を出ない。あの男が我らに嫉妬するのは見当違いもいいところだ。あの方はあの男の前では、見ているこちらも切なくさせるようなあの悲しげな顔をしない。
そのことを、あの男は知らないだろう。自分がどれほどの優遇を受けているか、どれほどの幸福を貪っているか、思い返しもしないだろう。あの男に嫉妬したいのは我らのほうだ。どれだけ我らが望んでも、我らはあの方とは対等の立場にはなれぬのだ。
「もう全部見終えたのか?」
あの男はあの方の横顔に目を細めた。すでに日の沈みきった郷愁をそそるような小さな集落の風景なぞ、最初から視界に入れていない。
「全部とは言えないけど……まあ、だいたい見たかな」
そんな男のことなど気にしたふうもなくあの方は答えた。こういうところがあの男の嫉妬を買う一因となっているのだが、どうやら意識的にそのようなそっけない態度をとっているらしい。あの方のことだ、何か考えがあってそうしているのだろうが、私には猛火を煽っているとしか思えない。
「まだここにいるか? 私はかまわないが」
「いや、もういいけど……うーん、そうだな」
頬杖をついて、何かを思い出すような仕草をした後、急にあの方は言った。
「よし、もう一度外に出よう」
***
もう何度も眺めたはずの庭園は、夜になってまたその表情を一変させていた。
昼はほどよく暖かかった空気が少し冷たい。大理石の壮麗な建築物の数々は、そんな冴え冴えとした闇の中に白くぼんやりと浮かび上がっており、その上に広がる空を覆いつくすほどの星々は、手を伸ばせばすぐにつかめそうなほど近かった。
太陽の光を乱反射していた噴水は、今はそんな星の光を柔らかく吸いこみつづけている。いずれにせよ、それらは昼と同じくらい見事な光景だった。
あの方はそんな周囲にすっかり気をとられていた。それを見かねたあの男は、あの方の手を丁重に取り、あの方の代わりに足元に細心の注意を払いつつ歩きはじめた。
まるで中世の騎士が姫君を導いているようにも見える。昼にも同じようなことをしていたが、夜である今は不本意ながらひどく幻想的な感じがした。薄く霧が立ちこめているせいもあるだろう。あの方とあの男の共通点をあえて言えば、どちらも生活臭がないということだった。
やがて、あの方は迫持造りの橋の上でようやく立ち止まった。大理石の欄干の上に両手を乗せ、背を反るようにして空を見上げる。橋の下では、人工の川がせせらぎの音を立てていた。
やはり、あの方はこういったもののほうが好きらしい。先ほどまでの悲しそうな様子はすっかり影を潜め、今では実に気持ちよさそうにしている。何はともあれよかったと、我らはほっと胸を撫で下ろした。
「ここが気に入ったか?」
欄干に腰かけて、あの男はにこやかに問うた。
「それほど気に入ったのなら、おまえのものにしてやるぞ」
それを聞いたあの方は、星空からあの男に目を巡らせ、少し責めるように言った。
「じゃあ、地球の神々はどうなる?」
「あんなもの、毛ほどでもないわ」
吐き捨てるようにあの男は言った。そのとき、かつての邪神の性が一瞬顔を覗かせた。
「俺はいいよ」
薄くあの方は笑った。
「ここは地球の神々の……いや、ラヴクラフトのものだ。人のものまで取ろうとは思わない。あの城だって、俺の好きにしてるのに」
あの男は意外そうにあの方の顔を見たが、すぐに呆れたような苦笑を漏らした。
「やれ、おまえときたら、つくづく欲というものがないのだな」
「別に欲がないわけじゃない。いらないものは欲しくないだけだ」
「そうか。ならばよい」
それであの男はその話を終わりにした。そして、再びあの方を眺めることに専念しだした。
あの方と共にいるかぎり、あの男はあの方から一秒たりとも目を離さない。いや、離すことができないのだ。
だが、あの男の見つめ方は、肉欲に駆られたそれではなく、幼い我が子を見守る父親のようなそれだった。
その穏やかさは、とてもよくあの方に似ていた。もしかしたら、それをあの男に初めて教えたのは、あの方だったのかもしれなかった。
「星が綺麗だぞ」
夜空を見上げて、ぼそりとあの方が言った。
「ああ。そうだな」
そう言って、あの男はちらりと夜空に目をやったが、すぐにまたあの方に視線を戻してにやりと笑った。
「本当に綺麗だ」
「……どこ見て言ってる」
「最初から、おまえしか見ていない」
「視野が狭いぞ。近眼か」
「かもしれんな」
あの方の嫌味を軽く受け流してあの男は笑い、あの方の頬にそっと手を添えると、息がかかるくらい近くに顔を寄せた。
「だから、このくらい近づかないと、おまえの顔がはっきり見えない」
「そんな話、初めて知ったぞ」
「私も今、初めて知ったわ」
それであの方は表情を和らげた。見かけによらず、冗談好きでもある。
たとえ尻に敷かれていても、やはりあの男がいちばんあの方の機嫌のとり方をよく心得ていた。あからさまにご機嫌とりをすれば、逆にあの方の怒りを買うことになる。あの方は何よりも、人に思いどおりに動かされることを嫌っていた。
あの方が気をよくしたのを認めて、あの男は微笑んだ。さらに顔を近づけかけたところで、橋の袂の木の枝に留まっていた我らをふと横目で見やった。
「そろそろ夜魔を帰らせないか?」
「やだね」
小憎らしい調子であの方は言った。
「あいつら帰したら、何されるかわかんないから」
「心外な。私が何をするというのだ?」
「今しようとしてるじゃないか」
あの方は悪戯っぽく笑った。しかし、今度はあの方に拒む気はなさそうだった。
あの湖ではないからか。だが、我らはここにいる。昼は我らが見ているから嫌だと言ったのに、夜ならばかまわないのか。これまで、我らの前では決してそのようなことはしなかったのに、なぜ今になって、わざわざ見せつけるような真似をするのか――
その瞬間、あの方に対する失望と激怒とが、同時に私の中に湧き起こった。
確かに、関係があることは知っていた。しかし、実際現場を見なければ、それはないも同然だった。私はあの方を神聖視していた。あの方だけはそのようなことと無縁でいてほしかった。なのに。
私はあの方をあの男よりも憎悪した。許せなかった。裏切られたと思った。結局、あの方はあの男を愛しているのか――
気づいたときには、私はもう枝を飛び立って、あの男へと襲いかかっていた。私はあの男よりあの方のほうを憎んだが、それでもあの方を傷つけることはできなかった。ゆえに、私はあの方への怒りを、すべてあの男のほうへと振り向けたのである。
だが、私があの男を引き裂く前に、あの男が鷹揚に私を右手で追い払った。直接触れられていないのに、私は目に見えぬ巨大な力に吹き飛ばされ、大理石の地上にしたたかに打ちすえられた。骨が折れでもしたのか、激しい痛みが全身に絡みつき、身動き一つとれなかった。
馬鹿がと我が同胞たるAが苦々しく呟いた。それほどおまえは死にたいのか。我が同胞たるAは賢明だ。彼は木の枝に留まったまま動かなかった。
「おまえ、人間だな」
酷薄な目で、あの男は私を見下ろした。
戦慄が、一瞬私の痛みを止めた。
「あのとき、誤って人間の意識を拾ってしまったか。しくじったな」
そう言いながら、あの男はあの方を自分の陰に置き、大理石の上に這いつくばって震えていることしかできない私に、その手をかざした。
「殺す気か?」
あの男の腕をつかんで、あの方があの男を睨む。
「違う。やり直すだけよ。本来あるべきところへあるべきものを戻す」
「殺すなよ。絶対に」
「わかっておるわ」
うんざりしたようにあの男は言った。それを聞いて、あの方はようやく安心した様子を見せたが、あの男の腕は放さなかった。
それから、あの方は初めて私のほうを見、笑んだ。それが私が最後に見たあの方だった。
「縁があったら、また会おう」
淡い星明かりの下、あの方は穏やかに微笑んだ。
「今度は人間として」
愕然としてあの方を見上げようとした瞬間、急速に眠りに落ちていくときのような失墜感が私を襲った。あのときと同じだ。意識が一気に遠のいていく。そうはさせじと抵抗したが、その力は圧倒的だった。私は再びあの暗い穴に吸いこまれるのを感じ、そして、意識を失った。
バルコニーはちょうど崖に面していて、それと向かい合うようにある山裾には、赤い屋根や古さびた尖り破風の家々が密集していた。刻一刻とまさに秒刻みに暗くなっていく中、一つ二つまた一つとその窓に黄色い光が点っていった。
「あそこには誰が住んでるんだろうな」
その様子を青白いバルコニーの欄干にもたれて眺めながら、あの方は言った。
「案外……誰もいやしないのかもな。時間になれば勝手につくとか」
口調とは裏腹に、あの方の表情は決して楽しそうではなかった。少しでも楽しそうなそぶりを見せたのは、あの庭園と湖にいたときくらいのものだ。なのになぜわざわざここへ来て悲しげな顔をするのか、我らにはわからなかった。
あの方のそんな顔は我々も見ていたくはない。悲しげな顔をするその理由を訊ねて、何とか慰めてあげたかったが、我らにはあの方と話せる口がなかった。ただ黙ってあの方に付き従い、あなたは一人ではないのだと、無言で主張しつづけているより他はなかった。
「――こら」
だしぬけに、背後でそんな男の声がした。
この都であの方以外に話すことができる者といえば、あと一人しかいない。
「俺はまだおまえを呼んでないぞ」
振り返りもせずにあの方は言ったが、その口元に笑みが浮かんだのを、我らは見逃さなかった。
「馬鹿正直に、おまえが呼ぶまで待っていたら、いつになるかわからんわ」
腕を組み、入口に寄りかかって立っていたあの男は、呆れ果てたようにそう言うと、さも当然と言わんばかりにあの方の隣に立った。
無論、我らはあの男が現れた時点で、あの方の足元から部屋の隅へと緊急避難していたが、このときばかりはあの男の出現に多少は感謝せざるを得なかった。
なんのかんの言っていても、やはりあの方は話す口のあるあの男のほうを好いている。確かに我らには優しいが、それはあくまでペットに対する愛情の域を出ない。あの男が我らに嫉妬するのは見当違いもいいところだ。あの方はあの男の前では、見ているこちらも切なくさせるようなあの悲しげな顔をしない。
そのことを、あの男は知らないだろう。自分がどれほどの優遇を受けているか、どれほどの幸福を貪っているか、思い返しもしないだろう。あの男に嫉妬したいのは我らのほうだ。どれだけ我らが望んでも、我らはあの方とは対等の立場にはなれぬのだ。
「もう全部見終えたのか?」
あの男はあの方の横顔に目を細めた。すでに日の沈みきった郷愁をそそるような小さな集落の風景なぞ、最初から視界に入れていない。
「全部とは言えないけど……まあ、だいたい見たかな」
そんな男のことなど気にしたふうもなくあの方は答えた。こういうところがあの男の嫉妬を買う一因となっているのだが、どうやら意識的にそのようなそっけない態度をとっているらしい。あの方のことだ、何か考えがあってそうしているのだろうが、私には猛火を煽っているとしか思えない。
「まだここにいるか? 私はかまわないが」
「いや、もういいけど……うーん、そうだな」
頬杖をついて、何かを思い出すような仕草をした後、急にあの方は言った。
「よし、もう一度外に出よう」
***
もう何度も眺めたはずの庭園は、夜になってまたその表情を一変させていた。
昼はほどよく暖かかった空気が少し冷たい。大理石の壮麗な建築物の数々は、そんな冴え冴えとした闇の中に白くぼんやりと浮かび上がっており、その上に広がる空を覆いつくすほどの星々は、手を伸ばせばすぐにつかめそうなほど近かった。
太陽の光を乱反射していた噴水は、今はそんな星の光を柔らかく吸いこみつづけている。いずれにせよ、それらは昼と同じくらい見事な光景だった。
あの方はそんな周囲にすっかり気をとられていた。それを見かねたあの男は、あの方の手を丁重に取り、あの方の代わりに足元に細心の注意を払いつつ歩きはじめた。
まるで中世の騎士が姫君を導いているようにも見える。昼にも同じようなことをしていたが、夜である今は不本意ながらひどく幻想的な感じがした。薄く霧が立ちこめているせいもあるだろう。あの方とあの男の共通点をあえて言えば、どちらも生活臭がないということだった。
やがて、あの方は迫持造りの橋の上でようやく立ち止まった。大理石の欄干の上に両手を乗せ、背を反るようにして空を見上げる。橋の下では、人工の川がせせらぎの音を立てていた。
やはり、あの方はこういったもののほうが好きらしい。先ほどまでの悲しそうな様子はすっかり影を潜め、今では実に気持ちよさそうにしている。何はともあれよかったと、我らはほっと胸を撫で下ろした。
「ここが気に入ったか?」
欄干に腰かけて、あの男はにこやかに問うた。
「それほど気に入ったのなら、おまえのものにしてやるぞ」
それを聞いたあの方は、星空からあの男に目を巡らせ、少し責めるように言った。
「じゃあ、地球の神々はどうなる?」
「あんなもの、毛ほどでもないわ」
吐き捨てるようにあの男は言った。そのとき、かつての邪神の性が一瞬顔を覗かせた。
「俺はいいよ」
薄くあの方は笑った。
「ここは地球の神々の……いや、ラヴクラフトのものだ。人のものまで取ろうとは思わない。あの城だって、俺の好きにしてるのに」
あの男は意外そうにあの方の顔を見たが、すぐに呆れたような苦笑を漏らした。
「やれ、おまえときたら、つくづく欲というものがないのだな」
「別に欲がないわけじゃない。いらないものは欲しくないだけだ」
「そうか。ならばよい」
それであの男はその話を終わりにした。そして、再びあの方を眺めることに専念しだした。
あの方と共にいるかぎり、あの男はあの方から一秒たりとも目を離さない。いや、離すことができないのだ。
だが、あの男の見つめ方は、肉欲に駆られたそれではなく、幼い我が子を見守る父親のようなそれだった。
その穏やかさは、とてもよくあの方に似ていた。もしかしたら、それをあの男に初めて教えたのは、あの方だったのかもしれなかった。
「星が綺麗だぞ」
夜空を見上げて、ぼそりとあの方が言った。
「ああ。そうだな」
そう言って、あの男はちらりと夜空に目をやったが、すぐにまたあの方に視線を戻してにやりと笑った。
「本当に綺麗だ」
「……どこ見て言ってる」
「最初から、おまえしか見ていない」
「視野が狭いぞ。近眼か」
「かもしれんな」
あの方の嫌味を軽く受け流してあの男は笑い、あの方の頬にそっと手を添えると、息がかかるくらい近くに顔を寄せた。
「だから、このくらい近づかないと、おまえの顔がはっきり見えない」
「そんな話、初めて知ったぞ」
「私も今、初めて知ったわ」
それであの方は表情を和らげた。見かけによらず、冗談好きでもある。
たとえ尻に敷かれていても、やはりあの男がいちばんあの方の機嫌のとり方をよく心得ていた。あからさまにご機嫌とりをすれば、逆にあの方の怒りを買うことになる。あの方は何よりも、人に思いどおりに動かされることを嫌っていた。
あの方が気をよくしたのを認めて、あの男は微笑んだ。さらに顔を近づけかけたところで、橋の袂の木の枝に留まっていた我らをふと横目で見やった。
「そろそろ夜魔を帰らせないか?」
「やだね」
小憎らしい調子であの方は言った。
「あいつら帰したら、何されるかわかんないから」
「心外な。私が何をするというのだ?」
「今しようとしてるじゃないか」
あの方は悪戯っぽく笑った。しかし、今度はあの方に拒む気はなさそうだった。
あの湖ではないからか。だが、我らはここにいる。昼は我らが見ているから嫌だと言ったのに、夜ならばかまわないのか。これまで、我らの前では決してそのようなことはしなかったのに、なぜ今になって、わざわざ見せつけるような真似をするのか――
その瞬間、あの方に対する失望と激怒とが、同時に私の中に湧き起こった。
確かに、関係があることは知っていた。しかし、実際現場を見なければ、それはないも同然だった。私はあの方を神聖視していた。あの方だけはそのようなことと無縁でいてほしかった。なのに。
私はあの方をあの男よりも憎悪した。許せなかった。裏切られたと思った。結局、あの方はあの男を愛しているのか――
気づいたときには、私はもう枝を飛び立って、あの男へと襲いかかっていた。私はあの男よりあの方のほうを憎んだが、それでもあの方を傷つけることはできなかった。ゆえに、私はあの方への怒りを、すべてあの男のほうへと振り向けたのである。
だが、私があの男を引き裂く前に、あの男が鷹揚に私を右手で追い払った。直接触れられていないのに、私は目に見えぬ巨大な力に吹き飛ばされ、大理石の地上にしたたかに打ちすえられた。骨が折れでもしたのか、激しい痛みが全身に絡みつき、身動き一つとれなかった。
馬鹿がと我が同胞たるAが苦々しく呟いた。それほどおまえは死にたいのか。我が同胞たるAは賢明だ。彼は木の枝に留まったまま動かなかった。
「おまえ、人間だな」
酷薄な目で、あの男は私を見下ろした。
戦慄が、一瞬私の痛みを止めた。
「あのとき、誤って人間の意識を拾ってしまったか。しくじったな」
そう言いながら、あの男はあの方を自分の陰に置き、大理石の上に這いつくばって震えていることしかできない私に、その手をかざした。
「殺す気か?」
あの男の腕をつかんで、あの方があの男を睨む。
「違う。やり直すだけよ。本来あるべきところへあるべきものを戻す」
「殺すなよ。絶対に」
「わかっておるわ」
うんざりしたようにあの男は言った。それを聞いて、あの方はようやく安心した様子を見せたが、あの男の腕は放さなかった。
それから、あの方は初めて私のほうを見、笑んだ。それが私が最後に見たあの方だった。
「縁があったら、また会おう」
淡い星明かりの下、あの方は穏やかに微笑んだ。
「今度は人間として」
愕然としてあの方を見上げようとした瞬間、急速に眠りに落ちていくときのような失墜感が私を襲った。あのときと同じだ。意識が一気に遠のいていく。そうはさせじと抵抗したが、その力は圧倒的だった。私は再びあの暗い穴に吸いこまれるのを感じ、そして、意識を失った。
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