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第三話 夢の都

第二章

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 私――というより、この体の本来の持ち主である夜魔Bと、我が同胞たるAがあの方に仕えるきっかけとなったのは、あの方をサルコマンドで助けたことだという。
 無論、私にそのときの記憶などあるはずもないが(しかし、翼の動かし方などは体が覚えていたようだ)、我が同胞たるAが私に言ってきかせたことには、当時あの方は同じ現世の人間と行動を共にしていたが、それがあの男の嫉妬を買い、その人間の男は化け物ども(と夜魔たる我々が言うのもおかしな話であるが)に生きながら食い殺されてしまったそうである。そのときのことを今でもあの方が恨んでいる様子はないが、以来、人間には深く関わらなくなったそうだ。あの男の嫉妬深さと強大さを思えば、それは当然の結果と言えただろう。我々は夜魔であるから、何とか殺されずに済んでいるのだ。
 また、我々はあの方をカダスの城へと連れていく役目も請け負った(そうである)。あの方とは縁もゆかりもない我々が、なぜそうまでしてあの方の手助けをしたのか疑問に思い、我が同胞たるAに訊ねたところ、実はそれは我ら夜魔の主である厳荘たるノーデンスの命によるものだったのだという答えが返ってきた。
 人には好意的であり、あの男とは反目しあう仲であった厳荘たるノーデンスは、あの男がかつてないほど執着しているあの方に深い興味と同情とを寄せ、我らにあの方の力となるよう命じたのだという。
 そのことをあの方が知っていたはずもあるまいが、城へ送ってから数日して、我らはあの男の力によって再び城へと呼び出され、以後は夜魔の中でも我々のみが、棲みかであるングラネク山とあの城とを自由に行き来できるようになったのである。
 あの方を得てからというもの、この夢の国であの男が悪事に手を染めることはほとんどなくなり、その点では、我らが主はあの方に非常に感謝していた。また。主はあれをそこまで変えたその人間に一度会って話してみたいが、それはあれが決して許すまいなとも苦笑まじりで言っていた。
 あの男がいかにしてあの方を知ったのかは我らのあずかり知らぬことだが、どれほどあの方に心を奪われているかは嫌になるほどよく知っていた。
 一方、あの方はというと、そういうあの男のことを気に入ってはいるらしいのだが、いまいち判然としない。今の自分の境遇を嘆くでもなく、適当にあの男をあしらっては、飄々と毎日を過ごしている。よく考えてみれば、あの〈這い寄る混沌〉にそのような態度をとれること自体、やはりあの方も普通ではないのかもしれない。
 普通ではないといえば、我々夜魔に対する態度も普通ではなかった。醜いものを忌み嫌うのが人の常であるのに、あの方はまるで犬猫のように平然と接した。いや、もしかしたら、人間に対するときよりも優しかったかもしれない。
 あの方にとって、それが人間であるかどうかなど、もはやどうでもいい次元の問題であるらしかった。ただそれが自分の役に立てばそれなりに応えるし、それ以外にはまったく見向きもしない。あの方を知る者は、盲愛するか毛嫌いするかの両極端に分かれるだろう。だが、それすらもあの方にはどうでもいいことなのかもしれなかった。
 我が同胞たるAがあの方に忠実なのも、それが我らが主厳荘たるノーデンスの命であるからというよりも、彼自身があの方に尽くしたいと思っているからだろう。夜魔を恐れるどころか嫌いもせず、逆に優しくしてくれた初めての人間であるあの方に。
 恐れず普通に接してくれること。
 我が同胞たるAだけではなく、もしかしたらそれこそが、あの男があの方に惹かれた最大の理由であるかもしれなかった。

 ***

 木々を分け進むと、思ったより早く視界は開け、一面に広がる眩しい光が存在しないはずの瞳を刺した。

「おー、すげぇ」

 額に手をかざして、あの方が歓声を上げる。私にも喋れる口があったら、そのような声を上げていたかもしれない。
 それは池というより小さな湖のようだった。周りは緑に囲まれ、澄んだ水面は一枚の鏡のようになって、青い空と緑とを映している。湖の近くには花をつけた木々もあり、それらが折からの清涼な風に吹かれて、あたかも我らを歓迎するかのように、可憐な白い花びらを宙へと振りまいた。
 まるで夢のようだと、実際ここはそうなのだが、それでも私は心中で呟かずにはいられなかった。それまでにも私はこの夢の国で多くの美しい風景を目にしてきていたが、これほど素直に純粋に美しいと思ったのは初めてだった。
 ――いや、美しいという客観的な感情ではなかった。何かとても神聖なものに出会ったときのような、なぜか自然に涙がこみ上げてくるような、不思議な感動の波が一気に私の胸に打ち寄せてきたのだ。
 一度も見たことのない光景なのに、そのとき確かに私はそこへ帰りたいと思った――

「やっぱ、俺はあっちの庭園みたいのより、こっちのほうが好きだな」

 そう言って、あの方は水辺の青草に腰を下ろした。

「あれはあれでいいんだけどさ。何か、ほんとに人に造られたって感じがして嫌なんだよな。同じ理由で日本庭園もあんま好きじゃない。でも、あれよりはまだましだな」
「そんなものか?」

 あの方の隣に腰を下ろしたあの男が怪訝そうに問う。

「そんなもんだよ」

 あの方は悪戯っぽく笑った。

「俺は日本人だから」
「ふむ。そうか」

 あっけなく、それであの男は納得した。あの方の発言ならば、よほどのことがないかぎり、そのまま受け入れてしまうのである。
 しばらく、沈黙が落ちた。
 あの方は膝を抱えて一心に湖を見つめ、あの男はそんなあの方ばかりを目を細めて眺めていた。
 あの男に好意など間違っても持たないが、あの男があの方以外のものに興味を示さなくなった理由は、何となくわかるような気がした。
 しかし、私は決してあの男のようにはならないだろう。
 私は、人間だから。

「……何だよ?」

 さすがにあの男の視線がうるさくなってきたのか、ようやくあの方はあの男を見た。

「いや、別に」

 とろけるような笑みを浮かべてあの男は答えた。

「ただ、おまえを見ていただけだ」
「何か用があったんじゃないのか?」

 真顔であの方は訊ねた。本気でそう思っているらしい。

「……そうだな」

 ふと何か思いついたように、あの男はさらに笑みを深めた。あの方の顔に大きな手を伸ばすと、そっと髪を払いのけて頬を包む。

「あるといえばある……」

 そんなことを呟きながら、ゆっくりとあの方に顔を近づけていったが――

「夜魔が見てる」

 我々があの男を襲う前に、冷めた調子であの方が言った。
 その細い指先は、あの男の唇に軽くあてがわれていた。

「奴らに目などない」

 不満げにあの男は言った。確かに我らに目はないが、こうして見ることはできる。そして、それによって憤ることも。このとき、我らはあの方からは少し離れた木の枝に、鳥のように留まっていた。

「ここじゃ嫌だ。神に対する冒涜だ」

 あの男は恨めしげにあの方を見つめたが、あの方はまったく動じない。おそらく、〝地球の神々〟という意味で〝神〟という語を用いたのだろうが、あの方を〝神〟とするあの男が今しようとした行為は確かに、〝冒涜〟かもしれなかった。もっとも、ここでなければ嫌ではないのかという一抹の疑惑もあるが。
 やがて、あの男は自分の口を塞いでいるあの方の手をつかんで外した。しばし自分の手のひらの上でその手を見つめたのち、あたかも紳士が貴婦人にするかのようにその指先へと接吻した。

「帰りたくなったら我を呼べ」

 唇を離してあの男は言った。立ち上がっても、なかなか手は離そうとしなかったが結局離し、あの方の背後の森のほうへ二、三歩あるいたところで、忽然と消え失せてしまった。

「あーあ、拗ねてやんの」

 その後ろ姿を見送って、あの方はくすくすと笑った。

「いつも嫌がることはしないって言ってるくせに、大人げないよな。そう思わないか? B」

 ――そのとき、私は初めて思った。もしかしたら、すでにあの方は、夜魔の中に人間の私が入っていることを知っているのではないかと。
 だが、そんなはずはなかった。Bを生き返らせた当人であるあの男でさえ、まだ気づいていないのだ。ただの人間であるあの方に、そんなことがわかるはずがない。

「おいで」

 穏やかにあの方は我らを手招きした。あの方の〝おいで〟には、墓の下の死者ですら起き上がらせてしまいそうな怖さがある。我らは無論すぐにその指示に従った。
 我らが傍らへ来たことを確認すると、再びあの方は静まり返った湖面に目を向けた。その表情は湖面以上に静かで、どこか悲しげだった。
 捕らわれの身である今の自分が悲しいのか、それともそうではないのかは我らにはわからない。しかし、あの方はあの男がいないとき、こんな表情で景色を眺めていることが多かった。まるでその景色を忘れぬよう、脳裏にしっかりと焼きつけてでもいるかのように。
 わけもない不安に駆られて、私はあの方の前へ出た。同時に顔のない黒い化け物の姿が湖面に映り、思わず身を引くと、その化け物も身を引いた。
 ――そう。それが今の私だった。夜魔となってかなりの時が過ぎ、その存在の仕方も不快ではなかったが、この姿にだけはどうしても慣れることができない。
 鯨のような黒い濡れた肌に、干からびた蝙蝠のようなこの体。物をつかめる手はあるが、人間のそれとは似ても似つかない。
 だが、最も恐ろしく醜いのは、顔がないことだ。頭からは内側に大きく湾曲した一対の角が生えていて、我が同胞たるAには左の角に赤いリボンが、私には右の角に青いリボンが結ばれている。あの方が我らに区別をつけるためにつけたのだそうだ。
 もともとが夜魔である我が同胞たるAには、自分が醜いという意識はあっても、そのことに対する劣等感はないようだった。また、醜さがすなわち悪とする道理も、少なくともこの世界ではないはずだった。
 しかし、私は思ってしまうのだ。もしも私が夜魔などではなく、色鮮やかな、たとえば美しい青い鳥であったなら、少しはあの方の憂いを和らげることができたのかもしれぬのにと。

「どうした?」

 軽く首をかしげ、笑ってあの方は私に訊ねた。
 口を持たぬ私は、何でもないと答えるかわりに、針山のついた鞭のような尾を振った。
 どこまでも湖は美しく静謐で、それはあの方も同じだった。
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