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第三話 夢の都
第一章
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幼時より病気がちだった私は、床に就くことが多かったせいか、夢見ることもまた多かった。しかも、それらの夢の多くは奇妙な臨場感にあふれており、どうしてこれが現実ではないのかと思えるほどに鮮明だった。
そのような夢の中では、たいがい私は一人の旅人であり、現実ではありえない、健康な体と自由を持って生きていた。まさしく夢のような美しい大自然の中を気ままに旅して歩き、不思議な響きの名を持つ都を足繁く訪れた。
時には生命の危険にさらされたこともあったが、そんなとき、私はあわてて覚醒した。現実では病弱で何の地位も名誉も権力も持たぬ私は、いつしかに現実でよりその夢の世界で生きることのほうを楽しむようになり、ついには一日の大半をまどろみの中で過ごすようになった。
その頃にはもはや夢見る達人となっていた私は、最初から夢の中の自分の行きたいところへ現れるということまでできるようになっていた。そしてあの日、私はウルタールあたりへ現れようとしていたのだが、突然何か得体の知れぬ力に引きずられ、そのまま暗く底知れぬ穴に吸いこまれるような感覚が起きたかと思うと、恐怖を覚える前に、急速に意識を失ったのである。
やがて、私は意識を取り戻し、やれやれ何とか助かったようだと周りを見回そうとした。しかし、周りを確認する前に、私はまたしても失墜感に襲われた。いや、実際に私は失墜しかけたのである。
なんと、私の周りどころか上にも下にも澄んだ青い空しか存在せず、さらに私はその空を自力で飛んでいたのだ。
とっさに私の肩をつかんで危機を救ってくれたのは、かつて一度だけングラネク山で見かけたことのある、あの黒い異形の生き物、夜魔だった。その左の角にはなぜか赤いリボンがついていたが、そのときの私にはそれを奇妙に思う余裕すらなかった。
私は助けられたのではなく、これからあのナスの谷に連れられて、ドールの餌にされるのだとばかり思っていた。どういうわけか失敗して、ングラネク山に出てしまったらしい。この夜魔からどうしたら逃れることができるだろうか。
地上を見下ろすと、まばらな人家がまるでミニチュアのように見えた。落ちたらまず命はない。そのときだった。
(まともに飛べないか?)
そんな声ならぬ声が私の頭の中で響いたのである。私はあわてて辺りを見渡したが、むろん地上遥かな空中に私以外の人間がいるはずもない。
(無理もない。おまえはつい先ほどまで死んでいたのだからな。あの方がおらねば、そのままこの世から消え失せていたぞ。まったく、柄にもなく、人間の子供など助けようとしたりするからだ。その人間に逆に殺されるとはいい笑いものだ。そうまでしてあの方に褒められたかったか?)
(……死んでいた?)
私は暗然とした。では、あの暗い穴は死の国の入口だったとでもいうのだろうか? だが、私は入ったきり、そこから出た記憶はない。もしかしたら、ここはいつもの夢の国ではなく、私がいつも恐れていた黄泉の国なのではなかろうか?
(そうだ。どうした? 体ばかりでなく、頭のほうも元に戻っていないのか? やはりあいつのこと、ただでは済まなかったな)
その謎の声の主は苦々しげに思った。この頃にはもう私にもこの声の主の見当はついていたが、それは認めがたかった。テレパシーのようなもので話しているのなら、なぜそれが私に伝わるのだ? そして、どうしてあれが私に対して、仲間のような口をきくのだ?
(……本当に大丈夫か?)
茫然自失となった私に、それはやや心配げになって訊ねた。
(今日はまっすぐに棲みかへ帰ったほうがいいかもしれん。あの方もきっとわかってくださるだろう)
(あの方……?)
先ほどから再三出てきたその呼び方には、いかにも好意と尊敬とがこめられていた。
(おまえ、あの方のこともわからなくなったのか!)
それは悲鳴に近い非難の声を上げた。
(しようのない。やはりこれはあいつの仕業だ。――見ろ。あれがあの方だ)
言い様、それは私をつかんだまま、地上に向けて急降下した。風が強く吹きつける。そのとき、初めて私は自分がいつもの自分ではない――より正確には、人間の形をしていないことに気がついた。自分が人間であることは、現実が夢ではないこと以上に、私には自明のことであったのだ。
地上はぐんぐんと大きくなって私の眼前に迫り、それと共に草原を歩く二つの人影が明瞭になった。
一人は長身な黒衣の男で、その隣を歩くもう一人の白い服の人物は、その男よりもずっと小柄だった。ゆえに、私はてっきり女性だとばかり思っていたのだが、その人物が私たちに気づいて顔を上げ、にこやかに微笑んで手を振るのを見て、それが確かに女性的なところはあるが、東洋系の少年であることを知ったのである。
それがすなわちあの方であり、その隣の黒衣の男はあの男、そして、このとき私をつかんでいた夜魔は我が同胞たるAで、私はあの方にBと呼ばれていたという夜魔へと、いつのまにか成り代わっていたのだった。
***
縞瑪瑙のアーチを潜り、素足でも決して傷つけることのない柔らかな青草に一歩足を踏み出すと、そこはもうあの夕映えの都の中だった。
夜魔である我が同胞たるAや今の私には、目どころか鼻も口も存在していなかったが、どうしたわけか人間だったときと同じように外界の様子は見てとれた。このことは私にとって不幸中の幸いだった。
私たちはオリンポスの神殿をも思わせる、縞大理石でできた宮殿を背にして立っていた。私たちの前方には、眼下の大広場へと果てしなくなだれ落ちる幅広い階段がある。大広場の中央では、大理石で造られた噴水の水煙が夕刻のオレンジ色の光を弾いており、それはあたかも光る真珠が後から後からこぼれ落ちているかのようだった。
周囲をぐるりと見渡すと、同じく大理石の用いられた迫持造りの橋や柱廊、神殿などが点在し、その間隙は完璧に手入れされた庭園の緑が埋めていた。
「ヨーロッパの庭園みたいだな」
それらを評してあの方は言った。あの城にいたときよりは確かに楽しそうだったが、東洋人であるせいか、あまり表情は豊かなほうではなかった。滅多に喜ばぬかわり、怒ることもないのがあの方だった。
「少し歩いてみたらどうだ?」
待っていましたとばかりにあの男が口を開いた。こちらは明らかに白人ではなかったが、かといって黒人とも黄色人ともつかなかった。だいたいが人間ではないのだから、それはむしろ当然のことだったかもしれぬ。
しかし、そうと知らずにあの男を見るならば、多少肌の浅黒い、秀麗な長い黒髪の男である。さらに、あの男は我らの前、すなわちあの方の前に現れるときは、常に黒のスーツ姿だった。そのまま現世に現れたとしても、誰一人としてあの男が人間ではない――狂える魔王アザトースの魂魄にして使者であり、しばしば人界に混乱と恐怖をもたらす暗黒神、〈這い寄る混沌〉ナイアーラトテップである――と見抜くことはできないだろう。
「おまえに言われなくったって、そうするつもりだったよ。せっかく来たんだから」
そんな恐ろしい相手にあの方は平然とそう言い放ち、ゆっくりと大理石の階段を下りはじめた。あの男はかなわないなといったような苦笑を漏らすと、すぐにあの方の後を追った。私と我が同胞たるAは、いつものようにかなり距離を置いてから、二人の後に続いた。
あの男がいるときに、あまりあの方に近づくと、何をされるかわからない。我が同胞たるAによると、今まで何度も我々はあの男に殺されかけたという。何とか殺されずに済んでいるのは、ひとえにあの方のおかげだそうだ。だが、元はといえば、そのあの方のせいで我らはあの男に憎まれているのだが、我が同胞たるAには、そこまで考えが及ばぬらしい。
何はともあれ、黄昏の庭園の中を、あの方は時折立ち止まっては何物かをしげしげと眺めたり、あるいはあの男と何やら言葉を交わしたりして歩いていく。
幅広い通りの両側には、葉を豊かに茂らせた木々が立ち並び、その合間合間には、色とりどりの花々が咲き乱れる壺や象牙造りの彫像が列を作っていた。
おそらく、現世ではまだ高校生くらいだろうと思われるあの方は、あの男には及ばぬにしろ、それなりに整った顔形をしていた(我が同胞たるAにこう言えば、何を馬鹿なとさぞかし憤慨することだろう)。しかし、それでもあの方は、白いシャツとジーンズ姿の、あの男ほどは長くない髪を一つに束ねた、現世ならばどこにでもいそうな少年にしかすぎぬ。当初、私はなぜあの男や我が同胞たるAがああもあの方に傅くのかわからなかった。
折しも我らの前では、小ぶりな大理石のアーチの下を流れる同じく大理石で造られた人工の小川の中の飛び石を、和やかに微笑むあの男に手を取られながら、軽やかにあの方が渡っていた。
そうしている様は確かに恋人同士に見えないこともなかったが、しかし私も我が同胞たるAも、あえてそう見なかった。現にあの方は用が済むと、さっさとあの男から手を引いてしまった。あの男は空になった自分の手を憮然と眺めていたが、やがてそれをズボンのポケットに収めると、再びあの方の後を歩きはじめた。
それは実に静謐で、それゆえに物悲しい時刻だった。東の空はすでに青く、西の空だけが赤々と燃え上がり、その中での風景は日中よりも暗いはずなのに、なぜか奇妙に生々しく鮮明に見えた。現世ならばいくらも経たぬうちに日は沈みきり夜となるが、ここでは必ずしもそうなるとは限らない。だからこそ、よりいっそうこの都の黄昏は、人に言いようのない深い寂寥を与えるのかもしれなかった。
あの方もそう感じていたのかもしれない。ふいにあの男を振り返って言った。
「ナイア、ここを昼間にすることはできるか?」
「造作もない」
破顔一笑、あの男がそう答えたが早いか、辺りは一瞬にして白い光に包まれ、赤い空はたちまちのうちに深い青に塗り替えられた。それと共に、それまでまったく聞こえなかった鳥のさえずりが、どこからかしはじめた。
青い空と鮮やかな緑の大地。陰りのない、まさに牧歌的で平和的なこの種の景観は、あの方の最も好むものであり、それゆえにあの城からも毎日望むことができた。
明るい光の下で改めてこの庭園を眺めると、先ほどまでの寂寥は嘘のように消え失せており、かわりに晴れやかで爽快な空気がその場を満たしていた。そして、それらは確かにあの方によりふさわしかった。
「……サンキュ」
あの方は少しはにかむような笑みを見せた。よほどこの光景が気に入ったらしい。礼など滅多に言われることのないあの男はいよいよ相好を崩し、どういたしましてと自分の胸に手をやった。
それから、またしばらくあの方はゆっくりと歩いていたが、ふと立ち止まると、前方の緑のひときわ濃いところに目を留めた。
「ナイア、あそこ、池か何かあるのか? 光ってる」
言われてみれば、なるほど緑の隙間から、光を反射してきらきら光るものがある。
「……らしいな」
「俺、あそこ行ってみたいんだけど」
「ならば、行けばよい」
悠然とあの男は答えた。
「先ほども言うた。おまえの行けぬところなど何一つない。ここではおまえが神なのだからな」
そのような夢の中では、たいがい私は一人の旅人であり、現実ではありえない、健康な体と自由を持って生きていた。まさしく夢のような美しい大自然の中を気ままに旅して歩き、不思議な響きの名を持つ都を足繁く訪れた。
時には生命の危険にさらされたこともあったが、そんなとき、私はあわてて覚醒した。現実では病弱で何の地位も名誉も権力も持たぬ私は、いつしかに現実でよりその夢の世界で生きることのほうを楽しむようになり、ついには一日の大半をまどろみの中で過ごすようになった。
その頃にはもはや夢見る達人となっていた私は、最初から夢の中の自分の行きたいところへ現れるということまでできるようになっていた。そしてあの日、私はウルタールあたりへ現れようとしていたのだが、突然何か得体の知れぬ力に引きずられ、そのまま暗く底知れぬ穴に吸いこまれるような感覚が起きたかと思うと、恐怖を覚える前に、急速に意識を失ったのである。
やがて、私は意識を取り戻し、やれやれ何とか助かったようだと周りを見回そうとした。しかし、周りを確認する前に、私はまたしても失墜感に襲われた。いや、実際に私は失墜しかけたのである。
なんと、私の周りどころか上にも下にも澄んだ青い空しか存在せず、さらに私はその空を自力で飛んでいたのだ。
とっさに私の肩をつかんで危機を救ってくれたのは、かつて一度だけングラネク山で見かけたことのある、あの黒い異形の生き物、夜魔だった。その左の角にはなぜか赤いリボンがついていたが、そのときの私にはそれを奇妙に思う余裕すらなかった。
私は助けられたのではなく、これからあのナスの谷に連れられて、ドールの餌にされるのだとばかり思っていた。どういうわけか失敗して、ングラネク山に出てしまったらしい。この夜魔からどうしたら逃れることができるだろうか。
地上を見下ろすと、まばらな人家がまるでミニチュアのように見えた。落ちたらまず命はない。そのときだった。
(まともに飛べないか?)
そんな声ならぬ声が私の頭の中で響いたのである。私はあわてて辺りを見渡したが、むろん地上遥かな空中に私以外の人間がいるはずもない。
(無理もない。おまえはつい先ほどまで死んでいたのだからな。あの方がおらねば、そのままこの世から消え失せていたぞ。まったく、柄にもなく、人間の子供など助けようとしたりするからだ。その人間に逆に殺されるとはいい笑いものだ。そうまでしてあの方に褒められたかったか?)
(……死んでいた?)
私は暗然とした。では、あの暗い穴は死の国の入口だったとでもいうのだろうか? だが、私は入ったきり、そこから出た記憶はない。もしかしたら、ここはいつもの夢の国ではなく、私がいつも恐れていた黄泉の国なのではなかろうか?
(そうだ。どうした? 体ばかりでなく、頭のほうも元に戻っていないのか? やはりあいつのこと、ただでは済まなかったな)
その謎の声の主は苦々しげに思った。この頃にはもう私にもこの声の主の見当はついていたが、それは認めがたかった。テレパシーのようなもので話しているのなら、なぜそれが私に伝わるのだ? そして、どうしてあれが私に対して、仲間のような口をきくのだ?
(……本当に大丈夫か?)
茫然自失となった私に、それはやや心配げになって訊ねた。
(今日はまっすぐに棲みかへ帰ったほうがいいかもしれん。あの方もきっとわかってくださるだろう)
(あの方……?)
先ほどから再三出てきたその呼び方には、いかにも好意と尊敬とがこめられていた。
(おまえ、あの方のこともわからなくなったのか!)
それは悲鳴に近い非難の声を上げた。
(しようのない。やはりこれはあいつの仕業だ。――見ろ。あれがあの方だ)
言い様、それは私をつかんだまま、地上に向けて急降下した。風が強く吹きつける。そのとき、初めて私は自分がいつもの自分ではない――より正確には、人間の形をしていないことに気がついた。自分が人間であることは、現実が夢ではないこと以上に、私には自明のことであったのだ。
地上はぐんぐんと大きくなって私の眼前に迫り、それと共に草原を歩く二つの人影が明瞭になった。
一人は長身な黒衣の男で、その隣を歩くもう一人の白い服の人物は、その男よりもずっと小柄だった。ゆえに、私はてっきり女性だとばかり思っていたのだが、その人物が私たちに気づいて顔を上げ、にこやかに微笑んで手を振るのを見て、それが確かに女性的なところはあるが、東洋系の少年であることを知ったのである。
それがすなわちあの方であり、その隣の黒衣の男はあの男、そして、このとき私をつかんでいた夜魔は我が同胞たるAで、私はあの方にBと呼ばれていたという夜魔へと、いつのまにか成り代わっていたのだった。
***
縞瑪瑙のアーチを潜り、素足でも決して傷つけることのない柔らかな青草に一歩足を踏み出すと、そこはもうあの夕映えの都の中だった。
夜魔である我が同胞たるAや今の私には、目どころか鼻も口も存在していなかったが、どうしたわけか人間だったときと同じように外界の様子は見てとれた。このことは私にとって不幸中の幸いだった。
私たちはオリンポスの神殿をも思わせる、縞大理石でできた宮殿を背にして立っていた。私たちの前方には、眼下の大広場へと果てしなくなだれ落ちる幅広い階段がある。大広場の中央では、大理石で造られた噴水の水煙が夕刻のオレンジ色の光を弾いており、それはあたかも光る真珠が後から後からこぼれ落ちているかのようだった。
周囲をぐるりと見渡すと、同じく大理石の用いられた迫持造りの橋や柱廊、神殿などが点在し、その間隙は完璧に手入れされた庭園の緑が埋めていた。
「ヨーロッパの庭園みたいだな」
それらを評してあの方は言った。あの城にいたときよりは確かに楽しそうだったが、東洋人であるせいか、あまり表情は豊かなほうではなかった。滅多に喜ばぬかわり、怒ることもないのがあの方だった。
「少し歩いてみたらどうだ?」
待っていましたとばかりにあの男が口を開いた。こちらは明らかに白人ではなかったが、かといって黒人とも黄色人ともつかなかった。だいたいが人間ではないのだから、それはむしろ当然のことだったかもしれぬ。
しかし、そうと知らずにあの男を見るならば、多少肌の浅黒い、秀麗な長い黒髪の男である。さらに、あの男は我らの前、すなわちあの方の前に現れるときは、常に黒のスーツ姿だった。そのまま現世に現れたとしても、誰一人としてあの男が人間ではない――狂える魔王アザトースの魂魄にして使者であり、しばしば人界に混乱と恐怖をもたらす暗黒神、〈這い寄る混沌〉ナイアーラトテップである――と見抜くことはできないだろう。
「おまえに言われなくったって、そうするつもりだったよ。せっかく来たんだから」
そんな恐ろしい相手にあの方は平然とそう言い放ち、ゆっくりと大理石の階段を下りはじめた。あの男はかなわないなといったような苦笑を漏らすと、すぐにあの方の後を追った。私と我が同胞たるAは、いつものようにかなり距離を置いてから、二人の後に続いた。
あの男がいるときに、あまりあの方に近づくと、何をされるかわからない。我が同胞たるAによると、今まで何度も我々はあの男に殺されかけたという。何とか殺されずに済んでいるのは、ひとえにあの方のおかげだそうだ。だが、元はといえば、そのあの方のせいで我らはあの男に憎まれているのだが、我が同胞たるAには、そこまで考えが及ばぬらしい。
何はともあれ、黄昏の庭園の中を、あの方は時折立ち止まっては何物かをしげしげと眺めたり、あるいはあの男と何やら言葉を交わしたりして歩いていく。
幅広い通りの両側には、葉を豊かに茂らせた木々が立ち並び、その合間合間には、色とりどりの花々が咲き乱れる壺や象牙造りの彫像が列を作っていた。
おそらく、現世ではまだ高校生くらいだろうと思われるあの方は、あの男には及ばぬにしろ、それなりに整った顔形をしていた(我が同胞たるAにこう言えば、何を馬鹿なとさぞかし憤慨することだろう)。しかし、それでもあの方は、白いシャツとジーンズ姿の、あの男ほどは長くない髪を一つに束ねた、現世ならばどこにでもいそうな少年にしかすぎぬ。当初、私はなぜあの男や我が同胞たるAがああもあの方に傅くのかわからなかった。
折しも我らの前では、小ぶりな大理石のアーチの下を流れる同じく大理石で造られた人工の小川の中の飛び石を、和やかに微笑むあの男に手を取られながら、軽やかにあの方が渡っていた。
そうしている様は確かに恋人同士に見えないこともなかったが、しかし私も我が同胞たるAも、あえてそう見なかった。現にあの方は用が済むと、さっさとあの男から手を引いてしまった。あの男は空になった自分の手を憮然と眺めていたが、やがてそれをズボンのポケットに収めると、再びあの方の後を歩きはじめた。
それは実に静謐で、それゆえに物悲しい時刻だった。東の空はすでに青く、西の空だけが赤々と燃え上がり、その中での風景は日中よりも暗いはずなのに、なぜか奇妙に生々しく鮮明に見えた。現世ならばいくらも経たぬうちに日は沈みきり夜となるが、ここでは必ずしもそうなるとは限らない。だからこそ、よりいっそうこの都の黄昏は、人に言いようのない深い寂寥を与えるのかもしれなかった。
あの方もそう感じていたのかもしれない。ふいにあの男を振り返って言った。
「ナイア、ここを昼間にすることはできるか?」
「造作もない」
破顔一笑、あの男がそう答えたが早いか、辺りは一瞬にして白い光に包まれ、赤い空はたちまちのうちに深い青に塗り替えられた。それと共に、それまでまったく聞こえなかった鳥のさえずりが、どこからかしはじめた。
青い空と鮮やかな緑の大地。陰りのない、まさに牧歌的で平和的なこの種の景観は、あの方の最も好むものであり、それゆえにあの城からも毎日望むことができた。
明るい光の下で改めてこの庭園を眺めると、先ほどまでの寂寥は嘘のように消え失せており、かわりに晴れやかで爽快な空気がその場を満たしていた。そして、それらは確かにあの方によりふさわしかった。
「……サンキュ」
あの方は少しはにかむような笑みを見せた。よほどこの光景が気に入ったらしい。礼など滅多に言われることのないあの男はいよいよ相好を崩し、どういたしましてと自分の胸に手をやった。
それから、またしばらくあの方はゆっくりと歩いていたが、ふと立ち止まると、前方の緑のひときわ濃いところに目を留めた。
「ナイア、あそこ、池か何かあるのか? 光ってる」
言われてみれば、なるほど緑の隙間から、光を反射してきらきら光るものがある。
「……らしいな」
「俺、あそこ行ってみたいんだけど」
「ならば、行けばよい」
悠然とあの男は答えた。
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