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第二話 カダスの猫
カダスの猫
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ングラネク山の守護者たる、闇と沈黙の生き物夜魔を恐れるのは、夢見る者は無論のこと、大いなるものどもと称される、地球の神々ですらその外ではなかった。
しかし、夜魔は〈這い寄る混沌〉ナイアルラトホテップを主とはせず、人には好意的であると伝えられる厳壮たるノーデンスを主とし、またングラネク山に立ち入らぬ人を襲うことはないゆえに、人里で暮らす者らにとっては、さほど恐れるものではなかった。
だが、何人も猫を殺してはならぬというかのウルタールにほど近い村で起こったその悲劇は、近隣はおろか遠い都の人々すら震撼させ、どうかこの地にはかの醜き深淵の守護者が舞い降りきたらぬようにと願わずにはいられなくさせたのだった。
それがいつのことか、詳しくは誰も知らぬ。
ありふれたごくごく平凡なその村の夕刻、井戸の水を汲んでいた娘に、黒髪の旅人が挨拶の声をかけたことからすべては端を発した。
娘はまず突然声をかけられたことに驚き、次に旅人の美貌に驚いた。言い伝えられるところによると、その旅人は若く非常に美しい男で、一見たおやかな乙女のようにも見えたという。しかし、とりあえず娘はためらいながらも挨拶を返した。怪しい人間には見えなかったからだ。
旅人はウルタールへ猫を届けにいった帰りなのだと言った。だが、もう日が暮れるので、今夜はこの村に泊まりたい。どこか泊まれるところはないだろうか。
「ないことはありませんが……」
赤くなって娘は言った。
「でも、もしよかったら、私の家に泊まりませんか? うちには両親と弟がいます」
見る者の警戒心を即座に解かす柔和な笑みで旅人は答えた。
「それは有り難い」
そんな旅人は、娘の家族にも非常に好感をもって迎えられた。夜中に彼らを惨殺し、わずかな金銭を奪って逃げていくような悪党にはとても見えなかったこともあるし、彼らが一生行くことは叶わない、各地の珍しい話を巧みな話術で聴かせてくれたからでもあった。
しかし、旅人は自分がどこの出身でどこへ帰るのかについては、とうとう言わずじまいだった。訊かれても、ただ曖昧に微笑んで北へと繰り返すのみ。また、彼らに進められた料理や酒にはいっさい手をつけず、その優美な唇を水で湿すこともなかった。
口に合わぬのかと訊ねると、自分はゆえあって飲食できぬ身なので気を悪くしないでほしい、空腹もまったく感じていないから気にする必要もないと答えた。
彼らは旅人に一室を供した。どこか浮き世離れしたその風情が、決して無下に扱ってはならぬという思いを彼らに抱かせたのである。
翌朝になると、その旅人のことは村中に知れ渡った。このあたりでは見ない黒髪であることや、その優しげな物腰がことさらに村人の興味を引いた。旅人自身は朝の訪れと共にこの村を発ちたかったらしいが、娘とその家族が強引に彼を引き止めた。なにぶん彼らには娯楽が少なかったのである。
旅の優男を嫌うのが村の男の常だが、どういうわけかこの旅人、男にも好かれた。自分に気のあるようだった幼なじみの若者が、迷惑顔の旅人の肩に馴れ馴れしく手を回し、何事か囁いているのを見かけた娘は、すぐさまその若者の腕をつねりあげ、旅人の腕を引っ張っていってその場から救出した。
「助かった」
家の裏手で旅人は娘に礼を言った。
「あんな奴、さっさと振り払ってしまえばいいのに」
どちらに嫉妬しているのかも定まらぬまま、娘は憤然とした。
「ここにいさせてもらった以上、そういうわけにもいかなくて。でも、もうそろそろここを出ようと思う。何か面倒が起こる前に」
「面倒?」
怪訝に問い返す娘に、旅人はただ笑みを返した。それだけで娘は何も問えなくなった。
「いろいろよくしてくれてありがとう」
旅人は言った。
「これは宿賃。――足りるかな」
そう言いながら、旅人が娘に手渡したのは、希少な金貨五枚だった。これ一枚で牛が一頭買える。
「こんな……いただけません!」
法外な宿賃に、娘はあわてて金貨をつっかえした。
「いいんだよ。もらえるものはもらっときな。どうせ俺には必要ないんだから」
「え?」
「じゃ、あとはよろしく。元気でね」
娘に金貨を握らせ――とても柔らかく温かい手だった――旅人は笑ってそこから立ち去ろうとした。
悲鳴が上がった。
旅人も娘も、はっとして声がしたほうを見た。
この家の前。
旅人が走り出した。娘も走った。
そこには、すでに血相を変えた村人たちが数人駆けつけていて、斧やら鎌やら棒切れやら、武器になりそうな手近なものを、手当たりしだいにそれに投げつけていた。
その上空にはもう一匹、それの仲間が戸惑うように何度も弧を描いていたのだが、そのことに気づいた村人はいなかった。
茫然としている娘に、泣きじゃくった弟が体当たりでもするようにして抱きついてきた。
「どうしたの? 何があったの?」
あわてて娘は弟に訊ねた。
「化け物が……化け物が……!」
だが、弟はそれだけしか言わない。
やがて、村人たちは手を止めた。もはやそれが身動き一つとれなくなったことを知ったからだった。
やったぞ――村人たちの顔に安堵が湧いた。そんな人々をかきわけて、旅人は串刺しにされて赤黒い血にまみれているそれに静かに歩み寄った。
そのとき、空にいたそれの仲間が、旅人の傍らに舞い降りてきた。危ない、逃げろ。村人たちは叫んだ。しかし、旅人は相変わらずそこに立ちつくしたままだった。
「B」
低く旅人は呟いた。その声に反応したのか、それは自由にならぬ体をぴくりと動かした。
「何があった?」
優しく旅人はそれに問うた。それは最後の力を振り絞って、自らの体を横へずらした。翼がちぎれ、腕がもげた。
――草むらの中で、一匹の毒蛇がそれの鋭い爪に貫かれて死んでいた。
「そうか」
旅人は微笑んだ。村の誰にも、娘にも見せたことがないほど優しい笑みだった。
「わかった……もういい。おまえは本当によくやったよ、B」
それは旅人のその言葉に、ことのほか満足した様子だった。それだけはまだ動かせた凶々しい黒い尾が力を失ってぱたりと地に落ち、それきり二度と動かなかった。
なぜか、村人たちは沈黙した。
彼らは正しいことをしたはずだった。
突然、空から娘の弟を襲ってきた化け物を、力を合わせて倒したのだ。
あの化け物――ぬらぬらと黒光りのする皮膚を持つ、不快なまでに痩せこけた忌まわしい生き物。その背には蝙蝠の翼。尻には逆刺の尾。そして、最も不気味なことには、顔がない。頭部にはねじくれて内側に湾曲した角が二本生えていて、その右の角だけに青い布切れがしっかりとゆわえられているのもまた怪しい。旅人の横にいるそれの仲間には、左の角に同様の赤い布切れがついている。
「ナイア」
化け物の屍を見下ろしたまま、ふいに旅人が言った。
「何だ」
返事は一瞬の停滞もなく返ってきた。
いつのまに現れたのか、旅人の背後には、秀麗な黒衣の男が一人立っていた。この男もまた黒髪で、旅人より長く伸ばしている。長身で、旅人より頭一つ高い。
「もう駄目か?」
男を振り返りもせず、旅人は訊ねた。
「駄目だな」
そっけなく男は答えた。
「生き返らせられるか?」
「夜魔などまだいくらでも代わりがいるだろう」
男の声はあくまで冷ややかだ。
「それと同じ論法が俺にも当てはまるぞ」
旅人は初めて男を顧みた。
「俺じゃなくても、まだ人間は腐るほどいるはずだな?」
「……わかった」
苦虫を噛みつぶしたような顔をして男は言った。
同時に、化け物――夜魔に突き刺さっていたもろもろの凶器がふわりと一斉に浮き上がり、その周りにばらばらと落ちた。さらに、夜魔のもげた腕が磁石で引きつけられたかのように再び体にくっつき、夜魔の全身を覆う傷がみるみるうちに塞がっていった。
やがて、そこに村人たちに殺される前の夜魔がそっくりそのまま再現され、ぴくんとその翼が動いた。
戦慄が走った。いったいこの男は……この旅人は……
人々の恐怖をよそに、夜魔はゆっくりと身を起こし、まるで羽化した蝶のように翼を広げた。
そのとき、旅人は正面から村人たちを見た。
不思議とその表情は穏やかだった。否、かえってそうだったからこそ、村人たちは、娘は、旅人の底知れぬ怒りをひしひしと感じた。
すっと旅人は右手を上げ、彼らのほうを指さした。
誰を指しているわけでもないその細い指先を、誰もが自分に向けられていると思った。
「汝らが命、あと一年」
無感情な声で、確かにそう旅人は言った。
そして、すぐに身を翻し、行くぞと言って歩き出した。それを合図に、夜魔二匹は再び空へと音もなく戻り、男は村人たちを一瞥してから、旅人の後を追った。
それが村人たちの見た旅人の最後であり、その宣告は村人たちの脳裏に深く刻みこまれたのだった。
***
「おい! 恭司!」
さっさと歩いていく恭司を、彼はあわてて呼び止めた。
数日前、カダスの城の外を自由に歩くくらいなら許してやってもいいと彼が言った、そのわずか数時間後には召使にシャンタク鳥を用意させ、インクアノクで商売していた恭司である。すでに彼は外へ出てもよいなどと言った自分を激しく後悔していたが、今さら撤回するわけにもいかず、ただひたすら恭司が自分から城へ帰ると言い出すのを待ち望んでいた。
だが、恭司はこれまで一言も外へ出たいと言わなかった代償とばかりに、いつまでたっても帰ると言わぬ。無理やり城へ連れ帰ることもできないわけではないが、やはり彼には恭司が可愛い。仕方がないので、城にいるときと同様、恭司自身の時を止め――ゆえに飲食物は必要ない――彼は恭司に呼ばれなければ姿は現さないが、そこはそれ、常に恭司の身に危険が及ぶことのないように――と言えば聞こえはいいが、ようするに浮気なんぞをされないように――見守りつづけていた。
ところが、ようやく呼んでくれたと思ったら、夜魔の再生である。
彼にとって、恭司が非常に可愛がっている夜魔は、目障りこの上ないものであった。隙あらば即刻抹殺したいと思っているが、それに気づかぬ恭司ではない。すでにしっかり釘を刺されている。
だからこそ、今回の夜魔の死は望外の幸運であったのだが、しかし、やはりその幸運を自分で返上しなければならない羽目に陥った。
仕方あるまい。恭司がそれを望むのだから。そして、それ以上を望まぬ恭司を奇異に思って、彼は恭司を呼び止めようとしたのだった。
「何だよ」
うるさそうに恭司は応えた。が、足は止めない。
「何だよではない。奴らに罰を与えなくてもいいのか?」
当然、彼は恭司がそうするものだと思っていた。彼もそういうのは嫌いではない。むしろ喜んでやるほうである。
「いい。かまうな」
だが、恭司はすげなくそう言った。
「しかし、おまえは奴らの命はあと一年と言ったではないか」
「ああ、あれね」
ようやく恭司は立ち止まり、悪戯っぽく笑って彼を見た。
「あれは単なるかっこつけ」
「――きょーじぃー……」
「大丈夫。俺たちがわざわざ仕返ししなくても、奴らは必ずそれだけの罰を受ける。だから、間違っても俺の予言を成就させようと思うな。人を呪わば穴二つだぞ」
「……それは確信か?」
あの圧倒される思いにとらわれて彼は訊ねた。
「いいや」
あのあらゆるものを見透かすような鳶色の目を細めて恭司が答える。
「真理さ」
――やはり恭司は手放せない。
〈這い寄る混沌〉はしみじみと思い、反射的に恭司を抱きしめようとしたが、それを予期していたかのようにするりとかわされ、また置き去りにされかけた。
***
そのときは旅人の不吉な宣告に肝を冷やした村人たちだったが、それからは特に変わったこともなく、平凡だが平穏な毎日が続いていった。
あの旅人や男の正体は、結局、謎のままだった。
旅人の怒りからして、あの夜魔は旅人の僕であったらしいのだが、だからといって村の子供を襲ってもいい道理などない。あとであの夜魔が倒れていたところを見ると、一匹の毒蛇が死んでいたが、たぶんあのどさくさで夜魔と一緒に殺されたのだろうと村人たちは思った。
月日が経ち、あの旅人の宣告はしだいに村人たちの記憶から薄れていき、ついにはあれは旅人の単なるはったりだと思われるようになった。
そんなある日のことだった。
娘とその家族は、旅人からもらった金貨を他の村人たちには伏せて大切に保管していたが、いったいどこから漏れたのか、村人数人が集って借金を申し入れてきた。
娘とその家族は困惑したが、貧しいながらも何とか食べていけるので、渋々それを承諾した。
しかし、彼らと同じような生活をしている村人たちにすぐに金が返せるはずもなく、両者の仲はその返済が延びるにつれしだいに険悪化していった。いつの世も金が絡むとろくなことがない。
金を借りた村人の中には性悪な者がいて、いっそ娘とその家族を殺してしまえば借金は帳消しになると考えた。だが、あからさまにやってはすぐに自分の仕業だとばれてしまう。そこでまずその村人は、この付近には多い毒蛇を娘の家に放って様子を窺った。その毒蛇の牙にかかった哀れな犠牲者は、まだ幼い娘の弟だった。
悲嘆に沈む家族の家を、村人たちは次々と弔った。そして、邪悪なその村人は、いかにも気の毒げな顔をして悔やみを言い、その家の飲み水の瓶の蓋の隙間から、ひそかに猛毒を流し入れた。
しかし、実はその瓶には、参列者にふるまうべく用意された酒が入っていた。酒は男の見えないところで器につがれ、酒には目のない質のその男の前にも運ばれ、息子を失った悲しみをこらえている家の主や村人たちと共に、男は一気にその杯を飲み干した。
その毒は一口なめただけでも死に至らしめるほど強力だった。男も女も興味本位で飲んだ子供も、すぐさま顔色を変え、血を吐き出し、胸を掻きむしり、地をのたうちまわって死んだ。
葬儀の酒は全員飲むのがしきたりである。娘もまたその酒を口にしていた。
内臓が焼けただれるような苦痛に苛まれながら、娘は驚くほど冷静にこれは罰だと思っていた。おそらく、村人のほとんどが娘と同じ思いを噛みしめていたことだろう。この悲劇をもたらした張本人である男は特に。
汝らが命あと一年――
あの美しい黒髪の旅人が、自分たちを指さしてそう告げるのを娘は聞いた。
確かに正しいことをしたはず。化け物から子供を守るという当然のことをしたまでのはず。
なのになぜ今このように、ことさらに苦しい思いをして死なねばならぬのか。これなら毒蛇の一噛みであの世へ行った、あの子供のほうがまだ幸せだ。何も悪いことはしていないのに、なぜ!
だが――
混濁する意識の底で彼らは思う。
だが、我らは本当に無実だっただろうか。あの化け物は本当に子供を襲ったのだっただろうか。もしかしたら子供ではなく、別の何かを捕らえようとしていたのではなかっただろうか……
しかし、すべては遅かった。
数分後、村人たちは全員息絶えた。
その酒を口にしなかった幸運な人間は、なぜか一人も出なかった。
累々たる屍を黄昏が赤く染めたその日はまさに一年前、旅人がその死を宣告した日の前日であり、それゆえにこの村の悲劇を伝え聞いた者たちは、その黒髪の旅人とその僕たる夜魔とを恐れ、もし夜魔らしき化け物を見かけたとしても、何の手出しもしてはならぬと口々に囁きあった。
そして、かの村に生き残った者はないゆえに、その旅人の名を知る者ももはやない。
しかし、夜魔は〈這い寄る混沌〉ナイアルラトホテップを主とはせず、人には好意的であると伝えられる厳壮たるノーデンスを主とし、またングラネク山に立ち入らぬ人を襲うことはないゆえに、人里で暮らす者らにとっては、さほど恐れるものではなかった。
だが、何人も猫を殺してはならぬというかのウルタールにほど近い村で起こったその悲劇は、近隣はおろか遠い都の人々すら震撼させ、どうかこの地にはかの醜き深淵の守護者が舞い降りきたらぬようにと願わずにはいられなくさせたのだった。
それがいつのことか、詳しくは誰も知らぬ。
ありふれたごくごく平凡なその村の夕刻、井戸の水を汲んでいた娘に、黒髪の旅人が挨拶の声をかけたことからすべては端を発した。
娘はまず突然声をかけられたことに驚き、次に旅人の美貌に驚いた。言い伝えられるところによると、その旅人は若く非常に美しい男で、一見たおやかな乙女のようにも見えたという。しかし、とりあえず娘はためらいながらも挨拶を返した。怪しい人間には見えなかったからだ。
旅人はウルタールへ猫を届けにいった帰りなのだと言った。だが、もう日が暮れるので、今夜はこの村に泊まりたい。どこか泊まれるところはないだろうか。
「ないことはありませんが……」
赤くなって娘は言った。
「でも、もしよかったら、私の家に泊まりませんか? うちには両親と弟がいます」
見る者の警戒心を即座に解かす柔和な笑みで旅人は答えた。
「それは有り難い」
そんな旅人は、娘の家族にも非常に好感をもって迎えられた。夜中に彼らを惨殺し、わずかな金銭を奪って逃げていくような悪党にはとても見えなかったこともあるし、彼らが一生行くことは叶わない、各地の珍しい話を巧みな話術で聴かせてくれたからでもあった。
しかし、旅人は自分がどこの出身でどこへ帰るのかについては、とうとう言わずじまいだった。訊かれても、ただ曖昧に微笑んで北へと繰り返すのみ。また、彼らに進められた料理や酒にはいっさい手をつけず、その優美な唇を水で湿すこともなかった。
口に合わぬのかと訊ねると、自分はゆえあって飲食できぬ身なので気を悪くしないでほしい、空腹もまったく感じていないから気にする必要もないと答えた。
彼らは旅人に一室を供した。どこか浮き世離れしたその風情が、決して無下に扱ってはならぬという思いを彼らに抱かせたのである。
翌朝になると、その旅人のことは村中に知れ渡った。このあたりでは見ない黒髪であることや、その優しげな物腰がことさらに村人の興味を引いた。旅人自身は朝の訪れと共にこの村を発ちたかったらしいが、娘とその家族が強引に彼を引き止めた。なにぶん彼らには娯楽が少なかったのである。
旅の優男を嫌うのが村の男の常だが、どういうわけかこの旅人、男にも好かれた。自分に気のあるようだった幼なじみの若者が、迷惑顔の旅人の肩に馴れ馴れしく手を回し、何事か囁いているのを見かけた娘は、すぐさまその若者の腕をつねりあげ、旅人の腕を引っ張っていってその場から救出した。
「助かった」
家の裏手で旅人は娘に礼を言った。
「あんな奴、さっさと振り払ってしまえばいいのに」
どちらに嫉妬しているのかも定まらぬまま、娘は憤然とした。
「ここにいさせてもらった以上、そういうわけにもいかなくて。でも、もうそろそろここを出ようと思う。何か面倒が起こる前に」
「面倒?」
怪訝に問い返す娘に、旅人はただ笑みを返した。それだけで娘は何も問えなくなった。
「いろいろよくしてくれてありがとう」
旅人は言った。
「これは宿賃。――足りるかな」
そう言いながら、旅人が娘に手渡したのは、希少な金貨五枚だった。これ一枚で牛が一頭買える。
「こんな……いただけません!」
法外な宿賃に、娘はあわてて金貨をつっかえした。
「いいんだよ。もらえるものはもらっときな。どうせ俺には必要ないんだから」
「え?」
「じゃ、あとはよろしく。元気でね」
娘に金貨を握らせ――とても柔らかく温かい手だった――旅人は笑ってそこから立ち去ろうとした。
悲鳴が上がった。
旅人も娘も、はっとして声がしたほうを見た。
この家の前。
旅人が走り出した。娘も走った。
そこには、すでに血相を変えた村人たちが数人駆けつけていて、斧やら鎌やら棒切れやら、武器になりそうな手近なものを、手当たりしだいにそれに投げつけていた。
その上空にはもう一匹、それの仲間が戸惑うように何度も弧を描いていたのだが、そのことに気づいた村人はいなかった。
茫然としている娘に、泣きじゃくった弟が体当たりでもするようにして抱きついてきた。
「どうしたの? 何があったの?」
あわてて娘は弟に訊ねた。
「化け物が……化け物が……!」
だが、弟はそれだけしか言わない。
やがて、村人たちは手を止めた。もはやそれが身動き一つとれなくなったことを知ったからだった。
やったぞ――村人たちの顔に安堵が湧いた。そんな人々をかきわけて、旅人は串刺しにされて赤黒い血にまみれているそれに静かに歩み寄った。
そのとき、空にいたそれの仲間が、旅人の傍らに舞い降りてきた。危ない、逃げろ。村人たちは叫んだ。しかし、旅人は相変わらずそこに立ちつくしたままだった。
「B」
低く旅人は呟いた。その声に反応したのか、それは自由にならぬ体をぴくりと動かした。
「何があった?」
優しく旅人はそれに問うた。それは最後の力を振り絞って、自らの体を横へずらした。翼がちぎれ、腕がもげた。
――草むらの中で、一匹の毒蛇がそれの鋭い爪に貫かれて死んでいた。
「そうか」
旅人は微笑んだ。村の誰にも、娘にも見せたことがないほど優しい笑みだった。
「わかった……もういい。おまえは本当によくやったよ、B」
それは旅人のその言葉に、ことのほか満足した様子だった。それだけはまだ動かせた凶々しい黒い尾が力を失ってぱたりと地に落ち、それきり二度と動かなかった。
なぜか、村人たちは沈黙した。
彼らは正しいことをしたはずだった。
突然、空から娘の弟を襲ってきた化け物を、力を合わせて倒したのだ。
あの化け物――ぬらぬらと黒光りのする皮膚を持つ、不快なまでに痩せこけた忌まわしい生き物。その背には蝙蝠の翼。尻には逆刺の尾。そして、最も不気味なことには、顔がない。頭部にはねじくれて内側に湾曲した角が二本生えていて、その右の角だけに青い布切れがしっかりとゆわえられているのもまた怪しい。旅人の横にいるそれの仲間には、左の角に同様の赤い布切れがついている。
「ナイア」
化け物の屍を見下ろしたまま、ふいに旅人が言った。
「何だ」
返事は一瞬の停滞もなく返ってきた。
いつのまに現れたのか、旅人の背後には、秀麗な黒衣の男が一人立っていた。この男もまた黒髪で、旅人より長く伸ばしている。長身で、旅人より頭一つ高い。
「もう駄目か?」
男を振り返りもせず、旅人は訊ねた。
「駄目だな」
そっけなく男は答えた。
「生き返らせられるか?」
「夜魔などまだいくらでも代わりがいるだろう」
男の声はあくまで冷ややかだ。
「それと同じ論法が俺にも当てはまるぞ」
旅人は初めて男を顧みた。
「俺じゃなくても、まだ人間は腐るほどいるはずだな?」
「……わかった」
苦虫を噛みつぶしたような顔をして男は言った。
同時に、化け物――夜魔に突き刺さっていたもろもろの凶器がふわりと一斉に浮き上がり、その周りにばらばらと落ちた。さらに、夜魔のもげた腕が磁石で引きつけられたかのように再び体にくっつき、夜魔の全身を覆う傷がみるみるうちに塞がっていった。
やがて、そこに村人たちに殺される前の夜魔がそっくりそのまま再現され、ぴくんとその翼が動いた。
戦慄が走った。いったいこの男は……この旅人は……
人々の恐怖をよそに、夜魔はゆっくりと身を起こし、まるで羽化した蝶のように翼を広げた。
そのとき、旅人は正面から村人たちを見た。
不思議とその表情は穏やかだった。否、かえってそうだったからこそ、村人たちは、娘は、旅人の底知れぬ怒りをひしひしと感じた。
すっと旅人は右手を上げ、彼らのほうを指さした。
誰を指しているわけでもないその細い指先を、誰もが自分に向けられていると思った。
「汝らが命、あと一年」
無感情な声で、確かにそう旅人は言った。
そして、すぐに身を翻し、行くぞと言って歩き出した。それを合図に、夜魔二匹は再び空へと音もなく戻り、男は村人たちを一瞥してから、旅人の後を追った。
それが村人たちの見た旅人の最後であり、その宣告は村人たちの脳裏に深く刻みこまれたのだった。
***
「おい! 恭司!」
さっさと歩いていく恭司を、彼はあわてて呼び止めた。
数日前、カダスの城の外を自由に歩くくらいなら許してやってもいいと彼が言った、そのわずか数時間後には召使にシャンタク鳥を用意させ、インクアノクで商売していた恭司である。すでに彼は外へ出てもよいなどと言った自分を激しく後悔していたが、今さら撤回するわけにもいかず、ただひたすら恭司が自分から城へ帰ると言い出すのを待ち望んでいた。
だが、恭司はこれまで一言も外へ出たいと言わなかった代償とばかりに、いつまでたっても帰ると言わぬ。無理やり城へ連れ帰ることもできないわけではないが、やはり彼には恭司が可愛い。仕方がないので、城にいるときと同様、恭司自身の時を止め――ゆえに飲食物は必要ない――彼は恭司に呼ばれなければ姿は現さないが、そこはそれ、常に恭司の身に危険が及ぶことのないように――と言えば聞こえはいいが、ようするに浮気なんぞをされないように――見守りつづけていた。
ところが、ようやく呼んでくれたと思ったら、夜魔の再生である。
彼にとって、恭司が非常に可愛がっている夜魔は、目障りこの上ないものであった。隙あらば即刻抹殺したいと思っているが、それに気づかぬ恭司ではない。すでにしっかり釘を刺されている。
だからこそ、今回の夜魔の死は望外の幸運であったのだが、しかし、やはりその幸運を自分で返上しなければならない羽目に陥った。
仕方あるまい。恭司がそれを望むのだから。そして、それ以上を望まぬ恭司を奇異に思って、彼は恭司を呼び止めようとしたのだった。
「何だよ」
うるさそうに恭司は応えた。が、足は止めない。
「何だよではない。奴らに罰を与えなくてもいいのか?」
当然、彼は恭司がそうするものだと思っていた。彼もそういうのは嫌いではない。むしろ喜んでやるほうである。
「いい。かまうな」
だが、恭司はすげなくそう言った。
「しかし、おまえは奴らの命はあと一年と言ったではないか」
「ああ、あれね」
ようやく恭司は立ち止まり、悪戯っぽく笑って彼を見た。
「あれは単なるかっこつけ」
「――きょーじぃー……」
「大丈夫。俺たちがわざわざ仕返ししなくても、奴らは必ずそれだけの罰を受ける。だから、間違っても俺の予言を成就させようと思うな。人を呪わば穴二つだぞ」
「……それは確信か?」
あの圧倒される思いにとらわれて彼は訊ねた。
「いいや」
あのあらゆるものを見透かすような鳶色の目を細めて恭司が答える。
「真理さ」
――やはり恭司は手放せない。
〈這い寄る混沌〉はしみじみと思い、反射的に恭司を抱きしめようとしたが、それを予期していたかのようにするりとかわされ、また置き去りにされかけた。
***
そのときは旅人の不吉な宣告に肝を冷やした村人たちだったが、それからは特に変わったこともなく、平凡だが平穏な毎日が続いていった。
あの旅人や男の正体は、結局、謎のままだった。
旅人の怒りからして、あの夜魔は旅人の僕であったらしいのだが、だからといって村の子供を襲ってもいい道理などない。あとであの夜魔が倒れていたところを見ると、一匹の毒蛇が死んでいたが、たぶんあのどさくさで夜魔と一緒に殺されたのだろうと村人たちは思った。
月日が経ち、あの旅人の宣告はしだいに村人たちの記憶から薄れていき、ついにはあれは旅人の単なるはったりだと思われるようになった。
そんなある日のことだった。
娘とその家族は、旅人からもらった金貨を他の村人たちには伏せて大切に保管していたが、いったいどこから漏れたのか、村人数人が集って借金を申し入れてきた。
娘とその家族は困惑したが、貧しいながらも何とか食べていけるので、渋々それを承諾した。
しかし、彼らと同じような生活をしている村人たちにすぐに金が返せるはずもなく、両者の仲はその返済が延びるにつれしだいに険悪化していった。いつの世も金が絡むとろくなことがない。
金を借りた村人の中には性悪な者がいて、いっそ娘とその家族を殺してしまえば借金は帳消しになると考えた。だが、あからさまにやってはすぐに自分の仕業だとばれてしまう。そこでまずその村人は、この付近には多い毒蛇を娘の家に放って様子を窺った。その毒蛇の牙にかかった哀れな犠牲者は、まだ幼い娘の弟だった。
悲嘆に沈む家族の家を、村人たちは次々と弔った。そして、邪悪なその村人は、いかにも気の毒げな顔をして悔やみを言い、その家の飲み水の瓶の蓋の隙間から、ひそかに猛毒を流し入れた。
しかし、実はその瓶には、参列者にふるまうべく用意された酒が入っていた。酒は男の見えないところで器につがれ、酒には目のない質のその男の前にも運ばれ、息子を失った悲しみをこらえている家の主や村人たちと共に、男は一気にその杯を飲み干した。
その毒は一口なめただけでも死に至らしめるほど強力だった。男も女も興味本位で飲んだ子供も、すぐさま顔色を変え、血を吐き出し、胸を掻きむしり、地をのたうちまわって死んだ。
葬儀の酒は全員飲むのがしきたりである。娘もまたその酒を口にしていた。
内臓が焼けただれるような苦痛に苛まれながら、娘は驚くほど冷静にこれは罰だと思っていた。おそらく、村人のほとんどが娘と同じ思いを噛みしめていたことだろう。この悲劇をもたらした張本人である男は特に。
汝らが命あと一年――
あの美しい黒髪の旅人が、自分たちを指さしてそう告げるのを娘は聞いた。
確かに正しいことをしたはず。化け物から子供を守るという当然のことをしたまでのはず。
なのになぜ今このように、ことさらに苦しい思いをして死なねばならぬのか。これなら毒蛇の一噛みであの世へ行った、あの子供のほうがまだ幸せだ。何も悪いことはしていないのに、なぜ!
だが――
混濁する意識の底で彼らは思う。
だが、我らは本当に無実だっただろうか。あの化け物は本当に子供を襲ったのだっただろうか。もしかしたら子供ではなく、別の何かを捕らえようとしていたのではなかっただろうか……
しかし、すべては遅かった。
数分後、村人たちは全員息絶えた。
その酒を口にしなかった幸運な人間は、なぜか一人も出なかった。
累々たる屍を黄昏が赤く染めたその日はまさに一年前、旅人がその死を宣告した日の前日であり、それゆえにこの村の悲劇を伝え聞いた者たちは、その黒髪の旅人とその僕たる夜魔とを恐れ、もし夜魔らしき化け物を見かけたとしても、何の手出しもしてはならぬと口々に囁きあった。
そして、かの村に生き残った者はないゆえに、その旅人の名を知る者ももはやない。
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