【完結】偽神外伝(ぎしんがいでん)【R18】

邦幸恵紀

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第一話 闇の城 

序幕

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 近頃、街は〝あの城〟に向こうの世界から来た人間が住んでいるとの噂でもちきりだった。
 街の誰一人として、実際にその姿を見た者はいないのだが――もっとも、そんなことは絶対に不可能だった――いつからどこからともなくその噂は、〝あの城〟の周辺都市へも広まっていったのだった。

 ――何でも、その人間の肌は黄色いそうだよ。

 土気色の肌の女が言った。

 ――へええ。で、男かい? 女かい?

 左胸だけ膨らんでいる男が訊いた。

 ――さあ……そこまでは。あたしも噂で聞いただけだからね。

 そのとき、目のない男が脇から口を出した。

 ――でも、そいつは〝あの方〟の想い人だってさ。

 一瞬の沈黙があった。人々は顔を見合わせ、すぐに口々に呟いた。

 ――〝あの方〟って……まさか……
 ――そう、〝あの方〟だよ。
 ――そんな、バカな……

 誰もその名を口にすることはできなかった。あまりに強大で恐れ多い存在であったがゆえに。この世界全体の実質的な支配者であったがゆえに。
 またそれゆえに、人々はその噂が信じられなかったのだ。偉大なる〝あの方〟が、たった一人の、それも取るに足らぬ向こうの人間に絡めとられている――
 しかし、それが真実であるかどうか確かめる術は何一つなかった。
 なぜなら、〝あの城〟とは極寒の地レンの果てカダスにあるという〈縞瑪瑙の城〉であり、〝あの方〟とは他でもない、その城に住む脆弱な地球の神々〈大いなるものども〉を守護する蕃神ばんしんどもの魂魄にして使者……〈這い寄る混沌〉とも〈無貌の神〉とも呼ばれる、あの邪神だったからである――

 ***

「あれはどこにいる?」

 召使の一人と顔を合わせるなり、彼は気ぜわしげに訊ねた。

「先ほど浴場のほうへいらっしゃいましたが……」

 黒い肌の召使はすぐにそう答えた。

「いつ行った?」
「たった今……」
「よし、ならばまだいるな」

 独り言のように呟いたが早いか、彼は長い黒髪を翻して、浴場のほうへと走っていった。
 その気になれば、召使などにいちいち訊かなくとも、一瞬にしてその場に行くことができた。それでも居場所を確認してしまうのは、すぐには会いたくないからだ。――嬉しさが薄れてしまう。
 以前までの彼なら、そんな考え方はしなかった。合理主義、現実主義をもって任ずる彼である。そんな非効率的なことはしない――はずなのであるが、現に今、こうして足を動かして走っている。
 浴場の大きな入口の前まで来て、彼は足を止めた。水音と何者かの声がする。

きょう

 この城では彼以外に呼ぶことを許していない名前を呼んで、彼は中に入った。

「……何だ?」

 少し遅れて、あの感情を抑えた声が返ってくる。
 思わずにやついてしまうのを、つとめて何でもないふりをして、わざとそっけなく言う。

「捜したぞ。おまえときたら、すぐに居場所がわからなくなる――おい、何をしている?」
「何って……見てわからないか? 風呂に入ってる」
「それはわかるが、その余計なのは何だ?」
夜魔ヤマだが?」

 何を今さらとでも言いたげに、恭司はそう答えた。
 吹き抜けの縞瑪瑙造りの浴場は、外から入ってくる眩い光に満ちていて、中にいるものはすべて逆光で黒く見えたが、彼の目にははっきりと識別することができた。
 恭司と向かい合うように、五メートルほど離れたところで湯に浸かっていたのは、滑らかな黒い皮膚と、ねじれた一対の角と、蝙蝠のような翼を持った二匹の生き物――夜魔で、逆刺さかとげのついた尻尾を水面から覗かせ、上下に動かしていた。が、夜魔に顔はなかったのである。

「それもわかる。私が言いたいのは、なぜ夜魔などとおまえが風呂に入っているか、だ」

 答えるかわりに恭司は笑った。肩まで伸びた栗色の髪から水滴をしたたらせ、気怠げに上体をそらせて彼を見上げる。
 いつも、見るたびに見とれてしまう。彼にとっては人間だろうが何だろうが、もうそんなことはどうでもよかった。恭司を手に入れるために、彼はあらゆるものを犠牲にした。自分の属性、眷属の信頼、そして――地球侵略計画。
 そこまで考えて、恭司が彼の要求を呑んだとは思っていない。眷属はそう言ったが、彼は少なくとも彼らより恭司をよく知っていた。恭司に自己犠牲の精神はほとんどない。

「何も、夜魔にまで妬くことはないだろ」

 薄く恭司が笑う。

「こいつらが汚れてたんで、洗うついでに俺も入っただけだ。角に赤いリボンが付いてるのがAで、青いリボンが付いてるのがBだ。見分けがつかないから付けてみた」

 そう言われてみれば、なるほど右の夜魔には左の角に赤いリボンが、左の夜魔には右の角に青いリボンが結んである。

「恭司……」

 しばし、彼は絶句した。時々、恭司は彼が理解に苦しむような妙なことをする。

「こいつら、意外と器用でな」

 彼の困惑も知らぬげに恭司は続けた。

「さっきまで、キャッチボールをしていた」
「…………」
「いいか、見てろよ」

 言い置いて、恭司は水面に浮かんでいた野球ボールほどの大きさの白いボールをつかむと、それを夜魔に向かって投げつけた。夜魔Aは前足ではっしと取り、そのまま恭司に投げ返す。

「どうだ、うまいもんだろう?」

 得意そうに恭司は言った。彼は何とも答えようがなくて、やはり黙っていた。

「ところで、何か俺に用があったんじゃなかったのか?」

 今度は夜魔Bにボールを投げながら、思い出したように恭司は訊ねた。そう言われて、彼はようやく我に返ることができた。

「そうだ、すっかり忘れていた。じきここへ人間が来るから、おまえに知らせにきたんだった」
「……人間?」

 夜魔Bから投げ返されてきたボールを手に持ったまま、恭司は怪訝そうに細めの眉をひそめる。

「そうだ。以前言っていただろう。もしここへ人間が来たら、いちばんに自分に会わせろと。言っておいて、もう忘れたのか?」
「ああ、そのことか。思い出した思い出した。あれからずいぶん経つんで、すっかり忘れてたよ」

 初めて合点がいったように恭司は言うと、いきなり湯から上がり、すたすたと歩きはじめた。

「きょ、きょ、恭司!」

 柄にもなく、彼は激しく狼狽した。

「何だよ。呼びにきたのはそっちだろ」

 恭司は足を止め、わずかに彼を振り返った。全身から水が滴り落ちて、縞瑪瑙の床を濡らした。無論、恭司は裸である。
 彼は口で言うより先に、まず行動で示した。
 大きな白いシーツを空中から取り出すと、頭から恭司に覆い被せたのだ。

「服くらい着ろ」

 表向きは怒ったように彼は言った。恭司の服は足元に脱ぎ散らかしてある。

「別に、見せたって減るもんじゃなし、ついてるもんは同じだろうが」
「おまえはな……」

 恭司は悪戯っぽく笑うと、シーツをマントのように羽織り直して、また歩き出した。
 その後ろ姿を眺めてから、ふと彼は背後を見た。夜魔も浴槽から出て、恭司を見送るように二匹並んで座っている。
 彼は目を細めて夜魔を見た。表情が恭司と対していたときとまったく違う。端整な浅黒い顔が、まるで能面のように非人間的になった。それに呼応するように、夜魔たちは犬ほどの大きさのある体を思いきり縮こませ、翼を小刻みに震わせた。
 明らかに彼が夜魔に何かをしようとした、まさにそのとき。

「ナイアーラトテップ」

 普段は〝ナイア〟か〝ナイアーラ〟と呼ぶ恭司が、まともに彼の名を呼んだ。あわてて恭司を振り返る。
 恭司はこちらを向いてはいなかった。立ち止まってはいたが、前を向いたままだった。だが、恭司は言った。

「そいつらに何かあったら、俺はまずおまえの仕業だと思うからな」
「そんな、無茶苦茶な……」
「おまえは、神だろう?」

 顔だけ彼のほうへ向けて、恭司は言った。

「神ならば、夜魔の一匹や二匹、守ることも見逃すこともたやすいだろう?」
「……私は神ではない」
「では何だ? 〈無貌の神〉」

 彼は答えられなかった。恭司は彼の後ろにいる夜魔たちに、帰れというように手を振った。
 夜魔二匹は心なしか安堵したように――もっとも、顔がないから正確な判断はできないが――翼を広げて外へ飛び立った。しかし、すぐには去らず、恭司に礼でも言うかのように二、三回旋回してから、棲みかのほうへと飛んでいった。
 夜魔の姿が黒い点となり、青い空に吸いこまれるようにして消えてしまうまで、恭司はずっと見ていた。
 そして、そんな恭司を、彼はずっと見ていた。
 なぜこれほどまでに惹かれるのか――などと自分の心を分析する習慣は彼にはない。だが、いつだったか冗談まじりで恭司はこう言った。

 ――魔がさしたんじゃないのか?

 確かに、そうであったかもしれない。本当は、当時、恭司のアパートの隣室に住んでいた男、おかざきひでに用があったのに、あの夜、たまたま岡崎の部屋に来ていた恭司に会ってしまった。
 もちろん、そこには岡崎もいた。しかし、彼は岡崎より恭司にその仕事――クトゥルー神話小説を書くこと――をさせたいと思った。岡崎の他に適任者はいないと知りつつもだ。
 だから、岡崎を殺した。彼らのことを知りすぎていたのと、恭司への見せしめの意味もこめて。
 彼が恭司を選んだことは、恭司に言わせれば、大いなる過ちの始まりだった。恭司は岡崎のように小説を書くことはなかったが――ゆえに、恭司は小説執筆の代理に、一応小説家である自分の兄を立てた――岡崎の代わりは充分つとまった。いや、むしろ聡明すぎた。
 恭司は最初から何もかも知っていた。彼が誰かも、なぜ岡崎が必要なのかも、またなぜ岡崎を殺したのかも。
 彼は恭司に惹かれると同時に恐れを抱いた。そこまでわかっていながら、なぜ自分たちに手を貸すのか。人類を破滅させんとする自分たちに。
 彼にとって、恭司ほど不可解で魅力的で恐ろしいものはなかった。いくら賢くても、しょせん恭司はただの無力な人間だ。彼なら何の苦もなくたやすく殺すことができる。そうとわかっていても、彼には恭司が怖い。この感情は彼以外の誰にもわかるまい。彼だって恭司に会うまではまったく知らなかった。
 そして、呑まれるとわかっていながら蛇の前で動けぬ蛙のように、彼も恭司から離れられない。そのために、破滅の道を歩まねばならないとしても、彼には恭司を手放すことはできない。
 そういったことも、とっくに恭司は知っているだろう。だが、恭司は言わない。人類を助けろとか〈旧支配者〉を滅ぼせとか、およそ普通の人間ならば言いそうなことも恭司は言わない。

「さて、その人間とやらのお出迎えに行こうかな」

 首の付け根を軽く叩きながら、恭司が歩き出す。
 それを横目で見ながら、すかさず彼は注意した。

「ちゃんと、服は着て行くのだぞ」

 ――案外、彼は今の状態を気に入っていた。
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