1 / 21
第一話 闇の城
序幕
しおりを挟む
近頃、街は〝あの城〟に向こうの世界から来た人間が住んでいるとの噂でもちきりだった。
街の誰一人として、実際にその姿を見た者はいないのだが――もっとも、そんなことは絶対に不可能だった――いつからどこからともなくその噂は、〝あの城〟の周辺都市へも広まっていったのだった。
――何でも、その人間の肌は黄色いそうだよ。
土気色の肌の女が言った。
――へええ。で、男かい? 女かい?
左胸だけ膨らんでいる男が訊いた。
――さあ……そこまでは。あたしも噂で聞いただけだからね。
そのとき、目のない男が脇から口を出した。
――でも、そいつは〝あの方〟の想い人だってさ。
一瞬の沈黙があった。人々は顔を見合わせ、すぐに口々に呟いた。
――〝あの方〟って……まさか……
――そう、〝あの方〟だよ。
――そんな、バカな……
誰もその名を口にすることはできなかった。あまりに強大で恐れ多い存在であったがゆえに。この世界全体の実質的な支配者であったがゆえに。
またそれゆえに、人々はその噂が信じられなかったのだ。偉大なる〝あの方〟が、たった一人の、それも取るに足らぬ向こうの人間に絡めとられている――
しかし、それが真実であるかどうか確かめる術は何一つなかった。
なぜなら、〝あの城〟とは極寒の地レンの果てカダスにあるという〈縞瑪瑙の城〉であり、〝あの方〟とは他でもない、その城に住む脆弱な地球の神々〈大いなるものども〉を守護する蕃神どもの魂魄にして使者……〈這い寄る混沌〉とも〈無貌の神〉とも呼ばれる、あの邪神だったからである――
***
「あれはどこにいる?」
召使の一人と顔を合わせるなり、彼は気ぜわしげに訊ねた。
「先ほど浴場のほうへいらっしゃいましたが……」
黒い肌の召使はすぐにそう答えた。
「いつ行った?」
「たった今……」
「よし、ならばまだいるな」
独り言のように呟いたが早いか、彼は長い黒髪を翻して、浴場のほうへと走っていった。
その気になれば、召使などにいちいち訊かなくとも、一瞬にしてその場に行くことができた。それでも居場所を確認してしまうのは、すぐには会いたくないからだ。――嬉しさが薄れてしまう。
以前までの彼なら、そんな考え方はしなかった。合理主義、現実主義をもって任ずる彼である。そんな非効率的なことはしない――はずなのであるが、現に今、こうして足を動かして走っている。
浴場の大きな入口の前まで来て、彼は足を止めた。水音と何者かの声がする。
「恭司」
この城では彼以外に呼ぶことを許していない名前を呼んで、彼は中に入った。
「……何だ?」
少し遅れて、あの感情を抑えた声が返ってくる。
思わずにやついてしまうのを、つとめて何でもないふりをして、わざとそっけなく言う。
「捜したぞ。おまえときたら、すぐに居場所がわからなくなる――おい、何をしている?」
「何って……見てわからないか? 風呂に入ってる」
「それはわかるが、その余計なのは何だ?」
「夜魔だが?」
何を今さらとでも言いたげに、恭司はそう答えた。
吹き抜けの縞瑪瑙造りの浴場は、外から入ってくる眩い光に満ちていて、中にいるものはすべて逆光で黒く見えたが、彼の目にははっきりと識別することができた。
恭司と向かい合うように、五メートルほど離れたところで湯に浸かっていたのは、滑らかな黒い皮膚と、ねじれた一対の角と、蝙蝠のような翼を持った二匹の生き物――夜魔で、逆刺のついた尻尾を水面から覗かせ、上下に動かしていた。が、夜魔に顔はなかったのである。
「それもわかる。私が言いたいのは、なぜ夜魔などとおまえが風呂に入っているか、だ」
答えるかわりに恭司は笑った。肩まで伸びた栗色の髪から水滴をしたたらせ、気怠げに上体をそらせて彼を見上げる。
いつも、見るたびに見とれてしまう。彼にとっては人間だろうが何だろうが、もうそんなことはどうでもよかった。恭司を手に入れるために、彼はあらゆるものを犠牲にした。自分の属性、眷属の信頼、そして――地球侵略計画。
そこまで考えて、恭司が彼の要求を呑んだとは思っていない。眷属はそう言ったが、彼は少なくとも彼らより恭司をよく知っていた。恭司に自己犠牲の精神はほとんどない。
「何も、夜魔にまで妬くことはないだろ」
薄く恭司が笑う。
「こいつらが汚れてたんで、洗うついでに俺も入っただけだ。角に赤いリボンが付いてるのがAで、青いリボンが付いてるのがBだ。見分けがつかないから付けてみた」
そう言われてみれば、なるほど右の夜魔には左の角に赤いリボンが、左の夜魔には右の角に青いリボンが結んである。
「恭司……」
しばし、彼は絶句した。時々、恭司は彼が理解に苦しむような妙なことをする。
「こいつら、意外と器用でな」
彼の困惑も知らぬげに恭司は続けた。
「さっきまで、キャッチボールをしていた」
「…………」
「いいか、見てろよ」
言い置いて、恭司は水面に浮かんでいた野球ボールほどの大きさの白いボールをつかむと、それを夜魔に向かって投げつけた。夜魔Aは前足ではっしと取り、そのまま恭司に投げ返す。
「どうだ、うまいもんだろう?」
得意そうに恭司は言った。彼は何とも答えようがなくて、やはり黙っていた。
「ところで、何か俺に用があったんじゃなかったのか?」
今度は夜魔Bにボールを投げながら、思い出したように恭司は訊ねた。そう言われて、彼はようやく我に返ることができた。
「そうだ、すっかり忘れていた。じきここへ人間が来るから、おまえに知らせにきたんだった」
「……人間?」
夜魔Bから投げ返されてきたボールを手に持ったまま、恭司は怪訝そうに細めの眉をひそめる。
「そうだ。以前言っていただろう。もしここへ人間が来たら、いちばんに自分に会わせろと。言っておいて、もう忘れたのか?」
「ああ、そのことか。思い出した思い出した。あれからずいぶん経つんで、すっかり忘れてたよ」
初めて合点がいったように恭司は言うと、いきなり湯から上がり、すたすたと歩きはじめた。
「きょ、きょ、恭司!」
柄にもなく、彼は激しく狼狽した。
「何だよ。呼びにきたのはそっちだろ」
恭司は足を止め、わずかに彼を振り返った。全身から水が滴り落ちて、縞瑪瑙の床を濡らした。無論、恭司は裸である。
彼は口で言うより先に、まず行動で示した。
大きな白いシーツを空中から取り出すと、頭から恭司に覆い被せたのだ。
「服くらい着ろ」
表向きは怒ったように彼は言った。恭司の服は足元に脱ぎ散らかしてある。
「別に、見せたって減るもんじゃなし、ついてるもんは同じだろうが」
「おまえはな……」
恭司は悪戯っぽく笑うと、シーツをマントのように羽織り直して、また歩き出した。
その後ろ姿を眺めてから、ふと彼は背後を見た。夜魔も浴槽から出て、恭司を見送るように二匹並んで座っている。
彼は目を細めて夜魔を見た。表情が恭司と対していたときとまったく違う。端整な浅黒い顔が、まるで能面のように非人間的になった。それに呼応するように、夜魔たちは犬ほどの大きさのある体を思いきり縮こませ、翼を小刻みに震わせた。
明らかに彼が夜魔に何かをしようとした、まさにそのとき。
「ナイアーラトテップ」
普段は〝ナイア〟か〝ナイアーラ〟と呼ぶ恭司が、まともに彼の名を呼んだ。あわてて恭司を振り返る。
恭司はこちらを向いてはいなかった。立ち止まってはいたが、前を向いたままだった。だが、恭司は言った。
「そいつらに何かあったら、俺はまずおまえの仕業だと思うからな」
「そんな、無茶苦茶な……」
「おまえは、神だろう?」
顔だけ彼のほうへ向けて、恭司は言った。
「神ならば、夜魔の一匹や二匹、守ることも見逃すこともたやすいだろう?」
「……私は神ではない」
「では何だ? 〈無貌の神〉」
彼は答えられなかった。恭司は彼の後ろにいる夜魔たちに、帰れというように手を振った。
夜魔二匹は心なしか安堵したように――もっとも、顔がないから正確な判断はできないが――翼を広げて外へ飛び立った。しかし、すぐには去らず、恭司に礼でも言うかのように二、三回旋回してから、棲みかのほうへと飛んでいった。
夜魔の姿が黒い点となり、青い空に吸いこまれるようにして消えてしまうまで、恭司はずっと見ていた。
そして、そんな恭司を、彼はずっと見ていた。
なぜこれほどまでに惹かれるのか――などと自分の心を分析する習慣は彼にはない。だが、いつだったか冗談まじりで恭司はこう言った。
――魔がさしたんじゃないのか?
確かに、そうであったかもしれない。本当は、当時、恭司のアパートの隣室に住んでいた男、岡崎英夫に用があったのに、あの夜、たまたま岡崎の部屋に来ていた恭司に会ってしまった。
もちろん、そこには岡崎もいた。しかし、彼は岡崎より恭司にその仕事――本物のクトゥルー神話小説を書くこと――をさせたいと思った。岡崎の他に適任者はいないと知りつつもだ。
だから、岡崎を殺した。彼らのことを知りすぎていたのと、恭司への見せしめの意味もこめて。
彼が恭司を選んだことは、恭司に言わせれば、大いなる過ちの始まりだった。恭司は岡崎のように小説を書くことはなかったが――ゆえに、恭司は小説執筆の代理に、一応小説家である自分の兄を立てた――岡崎の代わりは充分つとまった。いや、むしろ聡明すぎた。
恭司は最初から何もかも知っていた。彼が誰かも、なぜ岡崎が必要なのかも、またなぜ岡崎を殺したのかも。
彼は恭司に惹かれると同時に恐れを抱いた。そこまでわかっていながら、なぜ自分たちに手を貸すのか。人類を破滅させんとする自分たちに。
彼にとって、恭司ほど不可解で魅力的で恐ろしいものはなかった。いくら賢くても、しょせん恭司はただの無力な人間だ。彼なら何の苦もなくたやすく殺すことができる。そうとわかっていても、彼には恭司が怖い。この感情は彼以外の誰にもわかるまい。彼だって恭司に会うまではまったく知らなかった。
そして、呑まれるとわかっていながら蛇の前で動けぬ蛙のように、彼も恭司から離れられない。そのために、破滅の道を歩まねばならないとしても、彼には恭司を手放すことはできない。
そういったことも、とっくに恭司は知っているだろう。だが、恭司は言わない。人類を助けろとか〈旧支配者〉を滅ぼせとか、およそ普通の人間ならば言いそうなことも恭司は言わない。
「さて、その人間とやらのお出迎えに行こうかな」
首の付け根を軽く叩きながら、恭司が歩き出す。
それを横目で見ながら、すかさず彼は注意した。
「ちゃんと、服は着て行くのだぞ」
――案外、彼は今の状態を気に入っていた。
街の誰一人として、実際にその姿を見た者はいないのだが――もっとも、そんなことは絶対に不可能だった――いつからどこからともなくその噂は、〝あの城〟の周辺都市へも広まっていったのだった。
――何でも、その人間の肌は黄色いそうだよ。
土気色の肌の女が言った。
――へええ。で、男かい? 女かい?
左胸だけ膨らんでいる男が訊いた。
――さあ……そこまでは。あたしも噂で聞いただけだからね。
そのとき、目のない男が脇から口を出した。
――でも、そいつは〝あの方〟の想い人だってさ。
一瞬の沈黙があった。人々は顔を見合わせ、すぐに口々に呟いた。
――〝あの方〟って……まさか……
――そう、〝あの方〟だよ。
――そんな、バカな……
誰もその名を口にすることはできなかった。あまりに強大で恐れ多い存在であったがゆえに。この世界全体の実質的な支配者であったがゆえに。
またそれゆえに、人々はその噂が信じられなかったのだ。偉大なる〝あの方〟が、たった一人の、それも取るに足らぬ向こうの人間に絡めとられている――
しかし、それが真実であるかどうか確かめる術は何一つなかった。
なぜなら、〝あの城〟とは極寒の地レンの果てカダスにあるという〈縞瑪瑙の城〉であり、〝あの方〟とは他でもない、その城に住む脆弱な地球の神々〈大いなるものども〉を守護する蕃神どもの魂魄にして使者……〈這い寄る混沌〉とも〈無貌の神〉とも呼ばれる、あの邪神だったからである――
***
「あれはどこにいる?」
召使の一人と顔を合わせるなり、彼は気ぜわしげに訊ねた。
「先ほど浴場のほうへいらっしゃいましたが……」
黒い肌の召使はすぐにそう答えた。
「いつ行った?」
「たった今……」
「よし、ならばまだいるな」
独り言のように呟いたが早いか、彼は長い黒髪を翻して、浴場のほうへと走っていった。
その気になれば、召使などにいちいち訊かなくとも、一瞬にしてその場に行くことができた。それでも居場所を確認してしまうのは、すぐには会いたくないからだ。――嬉しさが薄れてしまう。
以前までの彼なら、そんな考え方はしなかった。合理主義、現実主義をもって任ずる彼である。そんな非効率的なことはしない――はずなのであるが、現に今、こうして足を動かして走っている。
浴場の大きな入口の前まで来て、彼は足を止めた。水音と何者かの声がする。
「恭司」
この城では彼以外に呼ぶことを許していない名前を呼んで、彼は中に入った。
「……何だ?」
少し遅れて、あの感情を抑えた声が返ってくる。
思わずにやついてしまうのを、つとめて何でもないふりをして、わざとそっけなく言う。
「捜したぞ。おまえときたら、すぐに居場所がわからなくなる――おい、何をしている?」
「何って……見てわからないか? 風呂に入ってる」
「それはわかるが、その余計なのは何だ?」
「夜魔だが?」
何を今さらとでも言いたげに、恭司はそう答えた。
吹き抜けの縞瑪瑙造りの浴場は、外から入ってくる眩い光に満ちていて、中にいるものはすべて逆光で黒く見えたが、彼の目にははっきりと識別することができた。
恭司と向かい合うように、五メートルほど離れたところで湯に浸かっていたのは、滑らかな黒い皮膚と、ねじれた一対の角と、蝙蝠のような翼を持った二匹の生き物――夜魔で、逆刺のついた尻尾を水面から覗かせ、上下に動かしていた。が、夜魔に顔はなかったのである。
「それもわかる。私が言いたいのは、なぜ夜魔などとおまえが風呂に入っているか、だ」
答えるかわりに恭司は笑った。肩まで伸びた栗色の髪から水滴をしたたらせ、気怠げに上体をそらせて彼を見上げる。
いつも、見るたびに見とれてしまう。彼にとっては人間だろうが何だろうが、もうそんなことはどうでもよかった。恭司を手に入れるために、彼はあらゆるものを犠牲にした。自分の属性、眷属の信頼、そして――地球侵略計画。
そこまで考えて、恭司が彼の要求を呑んだとは思っていない。眷属はそう言ったが、彼は少なくとも彼らより恭司をよく知っていた。恭司に自己犠牲の精神はほとんどない。
「何も、夜魔にまで妬くことはないだろ」
薄く恭司が笑う。
「こいつらが汚れてたんで、洗うついでに俺も入っただけだ。角に赤いリボンが付いてるのがAで、青いリボンが付いてるのがBだ。見分けがつかないから付けてみた」
そう言われてみれば、なるほど右の夜魔には左の角に赤いリボンが、左の夜魔には右の角に青いリボンが結んである。
「恭司……」
しばし、彼は絶句した。時々、恭司は彼が理解に苦しむような妙なことをする。
「こいつら、意外と器用でな」
彼の困惑も知らぬげに恭司は続けた。
「さっきまで、キャッチボールをしていた」
「…………」
「いいか、見てろよ」
言い置いて、恭司は水面に浮かんでいた野球ボールほどの大きさの白いボールをつかむと、それを夜魔に向かって投げつけた。夜魔Aは前足ではっしと取り、そのまま恭司に投げ返す。
「どうだ、うまいもんだろう?」
得意そうに恭司は言った。彼は何とも答えようがなくて、やはり黙っていた。
「ところで、何か俺に用があったんじゃなかったのか?」
今度は夜魔Bにボールを投げながら、思い出したように恭司は訊ねた。そう言われて、彼はようやく我に返ることができた。
「そうだ、すっかり忘れていた。じきここへ人間が来るから、おまえに知らせにきたんだった」
「……人間?」
夜魔Bから投げ返されてきたボールを手に持ったまま、恭司は怪訝そうに細めの眉をひそめる。
「そうだ。以前言っていただろう。もしここへ人間が来たら、いちばんに自分に会わせろと。言っておいて、もう忘れたのか?」
「ああ、そのことか。思い出した思い出した。あれからずいぶん経つんで、すっかり忘れてたよ」
初めて合点がいったように恭司は言うと、いきなり湯から上がり、すたすたと歩きはじめた。
「きょ、きょ、恭司!」
柄にもなく、彼は激しく狼狽した。
「何だよ。呼びにきたのはそっちだろ」
恭司は足を止め、わずかに彼を振り返った。全身から水が滴り落ちて、縞瑪瑙の床を濡らした。無論、恭司は裸である。
彼は口で言うより先に、まず行動で示した。
大きな白いシーツを空中から取り出すと、頭から恭司に覆い被せたのだ。
「服くらい着ろ」
表向きは怒ったように彼は言った。恭司の服は足元に脱ぎ散らかしてある。
「別に、見せたって減るもんじゃなし、ついてるもんは同じだろうが」
「おまえはな……」
恭司は悪戯っぽく笑うと、シーツをマントのように羽織り直して、また歩き出した。
その後ろ姿を眺めてから、ふと彼は背後を見た。夜魔も浴槽から出て、恭司を見送るように二匹並んで座っている。
彼は目を細めて夜魔を見た。表情が恭司と対していたときとまったく違う。端整な浅黒い顔が、まるで能面のように非人間的になった。それに呼応するように、夜魔たちは犬ほどの大きさのある体を思いきり縮こませ、翼を小刻みに震わせた。
明らかに彼が夜魔に何かをしようとした、まさにそのとき。
「ナイアーラトテップ」
普段は〝ナイア〟か〝ナイアーラ〟と呼ぶ恭司が、まともに彼の名を呼んだ。あわてて恭司を振り返る。
恭司はこちらを向いてはいなかった。立ち止まってはいたが、前を向いたままだった。だが、恭司は言った。
「そいつらに何かあったら、俺はまずおまえの仕業だと思うからな」
「そんな、無茶苦茶な……」
「おまえは、神だろう?」
顔だけ彼のほうへ向けて、恭司は言った。
「神ならば、夜魔の一匹や二匹、守ることも見逃すこともたやすいだろう?」
「……私は神ではない」
「では何だ? 〈無貌の神〉」
彼は答えられなかった。恭司は彼の後ろにいる夜魔たちに、帰れというように手を振った。
夜魔二匹は心なしか安堵したように――もっとも、顔がないから正確な判断はできないが――翼を広げて外へ飛び立った。しかし、すぐには去らず、恭司に礼でも言うかのように二、三回旋回してから、棲みかのほうへと飛んでいった。
夜魔の姿が黒い点となり、青い空に吸いこまれるようにして消えてしまうまで、恭司はずっと見ていた。
そして、そんな恭司を、彼はずっと見ていた。
なぜこれほどまでに惹かれるのか――などと自分の心を分析する習慣は彼にはない。だが、いつだったか冗談まじりで恭司はこう言った。
――魔がさしたんじゃないのか?
確かに、そうであったかもしれない。本当は、当時、恭司のアパートの隣室に住んでいた男、岡崎英夫に用があったのに、あの夜、たまたま岡崎の部屋に来ていた恭司に会ってしまった。
もちろん、そこには岡崎もいた。しかし、彼は岡崎より恭司にその仕事――本物のクトゥルー神話小説を書くこと――をさせたいと思った。岡崎の他に適任者はいないと知りつつもだ。
だから、岡崎を殺した。彼らのことを知りすぎていたのと、恭司への見せしめの意味もこめて。
彼が恭司を選んだことは、恭司に言わせれば、大いなる過ちの始まりだった。恭司は岡崎のように小説を書くことはなかったが――ゆえに、恭司は小説執筆の代理に、一応小説家である自分の兄を立てた――岡崎の代わりは充分つとまった。いや、むしろ聡明すぎた。
恭司は最初から何もかも知っていた。彼が誰かも、なぜ岡崎が必要なのかも、またなぜ岡崎を殺したのかも。
彼は恭司に惹かれると同時に恐れを抱いた。そこまでわかっていながら、なぜ自分たちに手を貸すのか。人類を破滅させんとする自分たちに。
彼にとって、恭司ほど不可解で魅力的で恐ろしいものはなかった。いくら賢くても、しょせん恭司はただの無力な人間だ。彼なら何の苦もなくたやすく殺すことができる。そうとわかっていても、彼には恭司が怖い。この感情は彼以外の誰にもわかるまい。彼だって恭司に会うまではまったく知らなかった。
そして、呑まれるとわかっていながら蛇の前で動けぬ蛙のように、彼も恭司から離れられない。そのために、破滅の道を歩まねばならないとしても、彼には恭司を手放すことはできない。
そういったことも、とっくに恭司は知っているだろう。だが、恭司は言わない。人類を助けろとか〈旧支配者〉を滅ぼせとか、およそ普通の人間ならば言いそうなことも恭司は言わない。
「さて、その人間とやらのお出迎えに行こうかな」
首の付け根を軽く叩きながら、恭司が歩き出す。
それを横目で見ながら、すかさず彼は注意した。
「ちゃんと、服は着て行くのだぞ」
――案外、彼は今の状態を気に入っていた。
0
お気に入りに追加
16
あなたにおすすめの小説
【完結】相談する相手を、間違えました
ryon*
BL
長い間片想いしていた幼なじみの結婚を知らされ、30歳の誕生日前日に失恋した大晴。
自棄になり訪れた結婚相談所で、高校時代の同級生にして学内のカースト最上位に君臨していた男、早乙女 遼河と再会して・・・
***
執着系美形攻めに、あっさりカラダから堕とされる自称平凡地味陰キャ受けを書きたかった。
ただ、それだけです。
***
他サイトにも、掲載しています。
てんぱる1様の、フリー素材を表紙にお借りしています。
***
エブリスタで2022/5/6~5/11、BLトレンドランキング1位を獲得しました。
ありがとうございました。
***
閲覧への感謝の気持ちをこめて、5/8 遼河視点のSSを追加しました。
ちょっと闇深い感じですが、楽しんで頂けたら幸いです(*´ω`*)
***
2022/5/14 エブリスタで保存したデータが飛ぶという不具合が出ているみたいで、ちょっとこわいのであちらに置いていたSSを念のためこちらにも転載しておきます。

【完結】ぎゅって抱っこして
かずえ
BL
幼児教育学科の短大に通う村瀬一太。訳あって普通の高校に通えなかったため、働いて貯めたお金で二年間だけでもと大学に入学してみたが、学費と生活費を稼ぎつつ学校に通うのは、考えていたよりも厳しい……。
でも、頼れる者は誰もいない。
自分で頑張らなきゃ。
本気なら何でもできるはず。
でも、ある日、金持ちの坊っちゃんと心の中で呼んでいた松島晃に苦手なピアノの課題で助けてもらってから、どうにも自分の心がコントロールできなくなって……。
完結・オメガバース・虐げられオメガ側妃が敵国に売られたら激甘ボイスのイケメン王から溺愛されました
美咲アリス
BL
虐げられオメガ側妃のシャルルは敵国への貢ぎ物にされた。敵国のアルベルト王は『人間を食べる』という恐ろしい噂があるアルファだ。けれども実際に会ったアルベルト王はものすごいイケメン。しかも「今日からそなたは国宝だ」とシャルルに激甘ボイスで囁いてくる。「もしかして僕は国宝級の『食材』ということ?」シャルルは恐怖に怯えるが、もちろんそれは大きな勘違いで⋯⋯? 虐げられオメガと敵国のイケメン王、ふたりのキュン&ハッピーな異世界恋愛オメガバースです!
【完結】世界の果てで君を待つ
邦幸恵紀
BL
【ファンタジー/傭兵と王子/年齢差/残酷描写多少あり】
宿屋の息子リダルは、〝世界の果て〟を探す中年剣士ウィングエンを護衛に雇い、旅に出た。いつの日か、二人で〝世界の果て〟を見るために。

オッサン、エルフの森の歌姫【ディーバ】になる
クロタ
BL
召喚儀式の失敗で、現代日本から異世界に飛ばされて捨てられたオッサン(39歳)と、彼を拾って過保護に庇護するエルフ(300歳、外見年齢20代)のお話です。

聖獣王~アダムは甘い果実~
南方まいこ
BL
日々、慎ましく過ごすアダムの元に、神殿から助祭としての資格が送られてきた。神殿で登録を得た後、自分の町へ帰る際、乗り込んだ馬車が大規模の竜巻に巻き込まれ、アダムは越えてはいけない国境を越えてしまう。
アダムが目覚めると、そこはディガ王国と呼ばれる獣人が暮らす国だった。竜巻により上空から落ちて来たアダムは、ディガ王国を脅かす存在だと言われ処刑対象になるが、右手の刻印が聖天を示す文様だと気が付いた兵士が、この方は聖天様だと言い、聖獣王への貢ぎ物として捧げられる事になった。
竜巻に遭遇し偶然ここへ投げ出されたと、何度説明しても取り合ってもらえず。自分の家に帰りたいアダムは逃げ出そうとする。
※私の小説で「大人向け」のタグが表示されている場合、性描写が所々に散りばめられているということになります。タグのついてない小説は、その後の二人まで性描写はありません
学院のモブ役だったはずの青年溺愛物語
紅林
BL
『桜田門学院高等学校』
日本中の超金持ちの子息子女が通うこの学校は東京都内に位置する野球ドーム五個分の土地が学院としてなる巨大学園だ
しかし生徒数は300人程の少人数の学院だ
そんな学院でモブとして役割を果たすはずだった青年の物語である
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる