【完結】Doctor Master

邦幸恵紀

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第三話 若林博士、最後の挑戦!

第七章 Wの食卓(1) 若林宅(1)

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 若林たちが帰ってきたのは午後五時ちょっと過ぎだった。夕食ができるのを待つのは嫌ではなかったようだ。
 玄関で若林と美奈のふぞろいな「ただいまー」という声がしたかと思うと、廊下を勢いよく走ってくる足音がして、美奈がキッチンに飛びこんできた。

「ただいまぁー!」

 もう玄関で言っているのに、ちょうどシンクの下から土鍋を引っ張り出そうとしていた正木と夕夜の顔を見て、美奈はもう一度言った。よほど機嫌がいいらしい。

「おー、おかえり。……何だ、ペンギンは買ってもらえなかったのか?」

 妙に平べったい箱を美奈が抱えていることに気がついて、正木は意地悪く笑った。

「本物みたいに動くペンギンが欲しいんなら、最初からそれ用に作ってやるって言ったんだよ」

 遅れてダイニングに到着した若林がすかさず説明を加えた。自分が約束を果たさなかったと正木に思われたくなかったようである。

「そしたら、美奈が突然、オセロが欲しいって言い出したんだ。アプリじゃなくて本物が欲しいってきかなくて……でも、こんなアナクロなものがまだ売ってるんだな。もうおもちゃ屋なんて行かないから知らなかったよ」
「オセロ……そりゃまた渋いな」

 さすがに正木も呆れたように美奈を見やった。美奈だけは嬉しそうにオセロの箱を抱えつづけている。

「でもよ、若林。おまえ、ほんとにペンギンなんか作るのか? 俺は美奈のオセロより、そっちのほうがすごく気になるぞ?」
「まあ、動物ロボットは大学のときに実習で作ったこともあるから……何とかなるだろ」
「バカ、ああいうのって人間のよりも難しいんだぞ。徹底したリアリティが要求されるからな。その証拠に、誰もペット用ロボットなんか作ろうともしねえ。どんなに一生懸命真似したって、しょせん本物にゃかなわないからな。だから、もしおまえがほんとに本物そっくりのペンギン作ったら、俺がまた特許申請して企業に売りこんできてやるよ。ペンギンならかなり受けるんじゃねーかなー。おまえ、早いとこ作れよ」
「そーよー。作ってよー」

 もう欲しいものは買ってもらったはずなのに、美奈はちゃっかり正木の尻馬に乗った。
 美奈ばかりか金銭欲にかられた正木にまでペンギン型ロボット製作を要望された若林博士は、苦悩とも苦笑ともつかない複雑な表情を浮かべたまま、おそらくは着替えをするために二階に上がっていった。ああいう姿を見ていると、夕夜は正木より若林のほうに肩入れしてやりたくなる。

「しっかし、美奈。おまえ、何だってオセロなんか買ってもらったんだ?」

 若林が逃亡してしまったので、正木は今度は美奈に矛先を変えた。

「うーん、何かね。欲しかったの」

 美奈は答えになっていない答えを返した。

「ペンギンといいオセロといい、おまえ、妙なもん欲しがるよな」

 そう言いながら、正木は再び土鍋を取り出す作業に戻った。
 かなり奥のほうにしまわれていることから、最近、鍋物は作られていなかったことがわかる。

「だってぇー、欲しかったんだもーん。理由はわかんないけどー」

 妙なものと言われて、美奈はすねたように赤い唇をとがらせた。

「はいはい、わかりましたよ。何はともあれ、買ってもらえてよかったな。若林とのドライブは楽しかったか?」

 適当な話題を与えるつもりで、何の気なしに正木は言った。

「うん。でも、みんなも一緒だったら、もっと楽しかったと思うよ」

 ダイニングのテーブルで、美奈にしては丁寧にオセロの箱を開ける。

「そう若ちゃんに言ったら、若ちゃんもそうだなって言ったよ。今度はみんなでどっかに出かけようかって。私は別に遠くでなくてもいいから、また今日のお昼みたいにみんなで食べにいきたーい。私ねー、ほんとは今日のお昼がいちばんとっても楽しかったのー。あんなに楽しかったの生まれて初めて。何でかなー。杏仁豆腐食べれたからかなー」

 そこで美奈は少し不可解そうに首をかしげたが、オセロの緑色の盤を見たとたん、そんなことは忘れてしまったらしい。

「夕夜ー。ヒマなら私にオセロ教えてー。やり方わかんないのー」

 そのとき、正木は埃をかぶっていた土鍋を洗っていて、美奈には背中を向けていた。
 だが、さりげなく夕夜がその横顔を覗くと、彼もまた夕夜を見て、いかにもまいったという苦笑をしてみせた。
 これには夕夜も苦笑で答えるしかなかった。正木はよくわからないが、少なくとも自分たち三人はみな同じことを感じている。

「夕夜はヒマじゃねー。俺の手伝いするんだ。おまえは邪魔だから、そのオセロで若林と遊んでろ」

 苦笑を収めて、正木は夕夜の代わりに怒鳴り返した。
 確かに美奈はまだ料理には不慣れで、即戦力にはならない。
 正木はその非家庭的な雰囲気に反して料理は得意で(ただし掃除は嫌いだ)、本人の言によると調理師の免許も持っているそうだ。つくづく何でもやっている男である。

「俺が何だって?」

 いいタイミングで、普段着に着替えてきた若林がキッチンに入ってきた。
 両手をズボンのポケットに突っこんだまま、そっと背後から正木を覗きこんでいる。
 その様子が何だか新婚妻をもてあましている男のようだったので、夕夜はつい笑ってしまった。

「飯の支度ができるまで、しばらく美奈と遊んでやってくれ。オセロのやり方知らないそうだから、最初から教えてやれよ」

 少し振り返って正木が言った。
 若林家にいると、彼はどうしても仕切り屋にならざるを得なくなる。ここでは正木が最高権力者だからだ。そして、若林は正木がいてもいなくても非権力者なのである。

「おまえが作るのか?」

 ひどく不思議そうな顔をして若林は正木を見た。
 洗い終わった土鍋をガスレンジの上に置こうとしていた正木は、訝しげに若林の顔を見返した。

「じゃあおまえ、誰が作ると思ってたんだ?」
「いや、そう言われてみればそうなんだが……」

 返事に困って若林は口ごもった。
 彼にしてみれば、あの正木が今再び自分の家にいて、またあの頃のように夕飯の支度をしてくれるなんて、とても信じがたい。
 まるで夢の中の出来事のように実感が湧かなくて、ついついあんな間抜けなことを言ってしまったのだ。
 しかし、若林にはそれらのことをうまく言葉にすることができなかった。そんな自分がもどかしくてたまらなかったが、結局あきらめてリビングに行った。

「相変わらず、わけわかんねーよな」

 若林の広い背中を見送って、正木は苦笑を漏らした。
 昼間、自分に向かって今日の夕飯は何かと訊ねたくせに、今になってあんなとぼけたことを訊いてくる。聡明な彼も、さすがに今の若林の発言の意図はまったくつかめなかった。まさか、昔あれだけうまいうまいと食べていて、今さら自分の料理の腕を疑っているとも思えないし。

「そうですね」

 本当は夕夜にはなぜ若林があんなことを言ったのかわかっていたのだが、言ったところで正木には理解できないだろうと思い、今はあえて何も言わずに同意しておいた。

 リビングでは、実際にオセロをしながら、若林が美奈にやり方を教えていた。
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