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第二話 呉博士の逆襲!
07 某総合格闘技道場
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――夕夜。ゲームをしよう。
あの日、正木はそう言って、庭へ夕夜を連れ出した。
あの当時、若林と正木は講師として大学に勤務していたが、正木は旅行中と偽って、若林の家に居候していた。だから、夕夜は必然的に、若林よりも正木と二人きりでいる時間のほうが、ずっと長くなった。
人間の子供であったなら、夕夜にとっての〝母親〟は間違いなく正木だった。
かなり口が悪くて少し乱暴だったけれど。綺麗で聡明で優しくて、唯一無二の、絶対の存在。
――ルールは簡単だ。今から俺はおまえを素手で殺そうとしてるイカれた男だ。おまえは俺を殺すつもりで戦え。戦い方は今まで教えたとおりだ。できるな?
言われるまま、夕夜はうなずいた。今だったら、嘘でもそんなことはできませんと拒否するだろうが、この頃はそんなことは言えなかった。正木に逆らうことなど、考えることすらできなかったのだ。
――よし。でも、一応これはゲームだからな。ゲーム終了の合図を決めとこう。そうだな……俺かおまえどっちかが、『参った』って言った時点でゲームは終了だ。即刻攻撃をやめる。……わかったな?
もちろん、夕夜は今度もうなずいた。
――じゃあ、始めよう。
正木が笑って言った。
その後、一分間の記憶が、夕夜にはない。
「いやー、あれは俺も予想外だった」
道場の片隅で、正木はあっけらかんと答えた。ちなみに、彼の服装は普段のままである。
「危なかったなあ。今だったら体なまってるから、逃げきれなかったかもしれねえや。はっはっはっ」
「笑い事じゃないですよ」
さすがに今は紺色のジャージ姿の夕夜は、端整な顔を思いきりしかめた。
汗によって体内の熱を排出することのできない夕夜は、こまめに休憩を挟まなければならない。今は正木の横でパイプ椅子に座って休憩中だった。
もっとも、今日は初日ということで、型合わせ程度のことしかしていない。もちろん、筋トレのたぐいはいっさいなしである。ロボットにそれは無意味以外の何ものでもない。
「あのときは電脳が崩壊するかと思いましたよ。我に返ったら、あなたが頬から血を流しているんですから。もし傷が残ったらどうしようかと……」
「心配するポイントが違うだろ、それ」
「あのときはそれが最重要項目だったんです。若林博士もそればっかり心配していたでしょ」
「ああ、形成外科行ったほうがいいんじゃないかって、何度も言われたっけな。ついでにプチ整形してくるかって冗談言ったら、それだけはやめてくれって真顔で言われたっけ」
「……そんなこと言ってたんですか」
「おまえはあのとき、すっげー落ちこんでたから、記録できなかったんだろ。俺はむしろ、おまえのほうが心配だったよ。トラウマになっちまったんじゃないかって」
「トラウマ……まあ、そう言えないこともないですね」
考え深く夕夜は呟く。
「だから、僕は試合形式であっても、殴り合いはしたくないのかもしれません。ロボットが自分で自分の電脳を把握しきれないのも妙な話ですが」
「別に何の不思議もないさ」
正木は小さく肩をすくませた。
「おまえらのモデルは、人間なんだからよ」
「より正確には、あなたですね」
しれっと夕夜は補足する。
「そして、あなたが人間であり、人間は自分の心を把握しきれていないのなら、三段論法により、あなたも自分の心を把握しきれていないことになりますね」
正木はあからさまに嫌そうな顔をして、自分によく似たロボットを睨んだ。
「おまえのその性格は、絶対若林をモデリングしてる」
「否定はしません」
わざとにっこりと夕夜が答えたとき、先ほどから正木に声をかけたそうにしていた男が、チャンスとばかりに割りこんできた。
「凱さん! よかったらどうぞ!」
身長は若林より低いが、厚みは倍以上ありそうな男である。髪を短く刈り上げ、顔の半分は無精髭に覆われていたが、その表情は若い女を前にした中年男のごとくゆるみきっていた。
正木の知り合い――どういう知り合いか、一応夕夜は正木に訊いてみたが、彼は知り合いは知り合いだとまともに答えてくれなかった――というこの総合格闘技道場の道場主は、よく冷えたスポーツドリンクのペットボトルを自ら持参して、休憩中の正木に差し出していた。夕夜がロボットだということを、さすがにこの男だけには話したそうだから、当然のように夕夜の分はない。
道場には、夕夜たち以外にも男たちが二、三人いたが、彼らには自分たちのことをどう説明してあるのか、興味深そうな視線を向けはするものの、今までこの道場主のように話しかけてきた者は一人もいなかった。
「おう、サンキュー」
正木は恐縮した様子もなく――そんなところ、夕夜だって一度も見たことがない――道場主からペットボトルを受け取った。
ビールがよかったなと正木が考えていることを夕夜だけはわかったが、ただで場所を借りている以上わがままは言えないと正木も思ったのか、素直にキャップをはずして飲んだ。それをまた嬉しそうに道場主が眺める。彼らの関係はともかく、どちらに主導権があるかは一目瞭然だった。
格闘技にまったく興味のない夕夜には、この薄汚れた雑居ビルの一画に居を構える道場が有名なのかそうでないのかはさっぱりわからなかったが、正木が自分から知り合いと言う以上、この道場主は悪い人間ではないのだろう。この際、それだけわかれば充分だった。
「よかったら……」
その道場主はもじもじしながら――大の男のそんな姿を、夕夜はこのとき若林以外で初めて見た――正木に切り出した。
「その……俺も、稽古つけようか……」
「あ、いい」
即答。
少しは考える時間をおいてやってもいいんじゃないかと、夕夜でさえ思った。
「今日はもうこれで上がるわ。明日も同じくらいの時間に来るから。じゃ、お先」
自分の言いたいことだけ言って、正木は道場主に背を向けた。
ついてこいとは言われなかったが、正木がいないのに自分だけいてもしょうがない。夕夜は椅子から立ち上がると、呆然としている道場主に軽く頭を下げてから、早足で正木の後を追った。
あの日、正木はそう言って、庭へ夕夜を連れ出した。
あの当時、若林と正木は講師として大学に勤務していたが、正木は旅行中と偽って、若林の家に居候していた。だから、夕夜は必然的に、若林よりも正木と二人きりでいる時間のほうが、ずっと長くなった。
人間の子供であったなら、夕夜にとっての〝母親〟は間違いなく正木だった。
かなり口が悪くて少し乱暴だったけれど。綺麗で聡明で優しくて、唯一無二の、絶対の存在。
――ルールは簡単だ。今から俺はおまえを素手で殺そうとしてるイカれた男だ。おまえは俺を殺すつもりで戦え。戦い方は今まで教えたとおりだ。できるな?
言われるまま、夕夜はうなずいた。今だったら、嘘でもそんなことはできませんと拒否するだろうが、この頃はそんなことは言えなかった。正木に逆らうことなど、考えることすらできなかったのだ。
――よし。でも、一応これはゲームだからな。ゲーム終了の合図を決めとこう。そうだな……俺かおまえどっちかが、『参った』って言った時点でゲームは終了だ。即刻攻撃をやめる。……わかったな?
もちろん、夕夜は今度もうなずいた。
――じゃあ、始めよう。
正木が笑って言った。
その後、一分間の記憶が、夕夜にはない。
「いやー、あれは俺も予想外だった」
道場の片隅で、正木はあっけらかんと答えた。ちなみに、彼の服装は普段のままである。
「危なかったなあ。今だったら体なまってるから、逃げきれなかったかもしれねえや。はっはっはっ」
「笑い事じゃないですよ」
さすがに今は紺色のジャージ姿の夕夜は、端整な顔を思いきりしかめた。
汗によって体内の熱を排出することのできない夕夜は、こまめに休憩を挟まなければならない。今は正木の横でパイプ椅子に座って休憩中だった。
もっとも、今日は初日ということで、型合わせ程度のことしかしていない。もちろん、筋トレのたぐいはいっさいなしである。ロボットにそれは無意味以外の何ものでもない。
「あのときは電脳が崩壊するかと思いましたよ。我に返ったら、あなたが頬から血を流しているんですから。もし傷が残ったらどうしようかと……」
「心配するポイントが違うだろ、それ」
「あのときはそれが最重要項目だったんです。若林博士もそればっかり心配していたでしょ」
「ああ、形成外科行ったほうがいいんじゃないかって、何度も言われたっけな。ついでにプチ整形してくるかって冗談言ったら、それだけはやめてくれって真顔で言われたっけ」
「……そんなこと言ってたんですか」
「おまえはあのとき、すっげー落ちこんでたから、記録できなかったんだろ。俺はむしろ、おまえのほうが心配だったよ。トラウマになっちまったんじゃないかって」
「トラウマ……まあ、そう言えないこともないですね」
考え深く夕夜は呟く。
「だから、僕は試合形式であっても、殴り合いはしたくないのかもしれません。ロボットが自分で自分の電脳を把握しきれないのも妙な話ですが」
「別に何の不思議もないさ」
正木は小さく肩をすくませた。
「おまえらのモデルは、人間なんだからよ」
「より正確には、あなたですね」
しれっと夕夜は補足する。
「そして、あなたが人間であり、人間は自分の心を把握しきれていないのなら、三段論法により、あなたも自分の心を把握しきれていないことになりますね」
正木はあからさまに嫌そうな顔をして、自分によく似たロボットを睨んだ。
「おまえのその性格は、絶対若林をモデリングしてる」
「否定はしません」
わざとにっこりと夕夜が答えたとき、先ほどから正木に声をかけたそうにしていた男が、チャンスとばかりに割りこんできた。
「凱さん! よかったらどうぞ!」
身長は若林より低いが、厚みは倍以上ありそうな男である。髪を短く刈り上げ、顔の半分は無精髭に覆われていたが、その表情は若い女を前にした中年男のごとくゆるみきっていた。
正木の知り合い――どういう知り合いか、一応夕夜は正木に訊いてみたが、彼は知り合いは知り合いだとまともに答えてくれなかった――というこの総合格闘技道場の道場主は、よく冷えたスポーツドリンクのペットボトルを自ら持参して、休憩中の正木に差し出していた。夕夜がロボットだということを、さすがにこの男だけには話したそうだから、当然のように夕夜の分はない。
道場には、夕夜たち以外にも男たちが二、三人いたが、彼らには自分たちのことをどう説明してあるのか、興味深そうな視線を向けはするものの、今までこの道場主のように話しかけてきた者は一人もいなかった。
「おう、サンキュー」
正木は恐縮した様子もなく――そんなところ、夕夜だって一度も見たことがない――道場主からペットボトルを受け取った。
ビールがよかったなと正木が考えていることを夕夜だけはわかったが、ただで場所を借りている以上わがままは言えないと正木も思ったのか、素直にキャップをはずして飲んだ。それをまた嬉しそうに道場主が眺める。彼らの関係はともかく、どちらに主導権があるかは一目瞭然だった。
格闘技にまったく興味のない夕夜には、この薄汚れた雑居ビルの一画に居を構える道場が有名なのかそうでないのかはさっぱりわからなかったが、正木が自分から知り合いと言う以上、この道場主は悪い人間ではないのだろう。この際、それだけわかれば充分だった。
「よかったら……」
その道場主はもじもじしながら――大の男のそんな姿を、夕夜はこのとき若林以外で初めて見た――正木に切り出した。
「その……俺も、稽古つけようか……」
「あ、いい」
即答。
少しは考える時間をおいてやってもいいんじゃないかと、夕夜でさえ思った。
「今日はもうこれで上がるわ。明日も同じくらいの時間に来るから。じゃ、お先」
自分の言いたいことだけ言って、正木は道場主に背を向けた。
ついてこいとは言われなかったが、正木がいないのに自分だけいてもしょうがない。夕夜は椅子から立ち上がると、呆然としている道場主に軽く頭を下げてから、早足で正木の後を追った。
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