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第二話 呉博士の逆襲!
05 豆の樹
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正木にとって、大学の入学式が人生最大のショックなことが起こった日なら、千代子にとっては、それから約一ヶ月後のその日がそうだった。
よりにもよってこの男は、結婚するならこの男だとひそかに決めこんでいた千代子の前で、あの男が好きなのだと告白しやがったのだ。
「あんた、ゲイだったんだ……」
淡々と千代子は言ったが、それはあまりのことに、さすがの彼女も感情がついていけなかったからだ。
「自分では、特にそうだと思ったことはないんだけどな」
答える正木もさばさばしていた。
「女除外したら、男しか残らなかったんだ」
「女は全然ダメ?」
「ベタベタするのは好きなんだけど」
本当に好きそうに正木は笑う。
「たぶん、キスもできそうにない」
それから、二人はキャンパス内のベンチに並んで座ったまま、長い時間黙っていた。
正木がゲイだったのは確かにショックだ。だが、それを自ら明かしたのは、自分を信頼してくれている証ではないか。
千代子は自分の隣に座る男をそっと盗み見た。
何度見ても美しい男だ。ゲイの目にはどう映るのかわからないが、もし自分が男だったら、たとえその趣味はなくとも、クラッと来てしまうのではないかと思う。この正木が赤面して好きだと言ったあの男も、正木なら無下に断りはしないのではないだろうか。
「ねー、正木」
「うん?」
「あの男のどこがいいの?」
だらしなくベンチに寄りかかっていた正木は、そのまま下へずり落ちた。
「ど、ど、どこって……!」
「やっぱり顔? あんたって意外と少女趣味?」
「……おまえ、ほんっとに容赦ねえよな……」
ぶつぶつ言いながら正木はベンチに座り直し、自分の細い顎に手を添えた。
「結論から言うと、やっぱ顔だな」
「ああいう顔が好みなの?」
半ば呆れてそう訊くと、正木は満面の笑みで答えた。
「うん! 理想的!」
――訊かなきゃよかった……
千代子は内心うんざりしたが、怖いもの見たさでまた訊ねた。
「好きなの、顔だけ?」
「いーや。あと身長! 俺、男は自分より身長がなきゃ絶対駄目なんだ。あいつ一九〇はあるよ。理想的だろ!」
――そりゃ、身長一八二のあんたにとっちゃ理想的でしょうよ。
しかし、千代子は実際そう毒づくかわりに、別のことを言った。
「じゃあ、そんなに理想的なら、あんたのほうから告白したらいいのに」
正木は一瞬ぽかんとした顔になり――
まったく想像もしなかったことに、寂しげに笑った。
「そんなの、できるわけないだろうが」
「何でよ? そりゃ、あんたは男だけどさ。あんたなら、あの男もすぐに落とせると思うわよ?」
「夜店の射的か、そりゃ。でもまあ、慰めてくれてありがとよ」
「慰めじゃないわよ。私、本気よ?」
少し苛立ってそう言ってみたが、それでも正木は困ったように笑うばかり。
そんな正木を、千代子はこのとき初めて見た。まだ一月ほどのつきあいだが、千代子の知る正木は、いつだって自信にあふれていて、堂々としていた。
それが、同学年のあんな男――たとえ顔がよかろうが、身長が高かろうが、千代子にとっては興味の範疇外だった――に片思いしていて、しかも、告白することもできずにいる。
「ねえ。だったら、ずっと片思いのままでいいの?」
自分が失恋した男の恋の手助けなどしてやる気はさらさらないが、これほど寂しげな正木を見るのは嫌だった。
「こうして遠くから眺めてるだけで、あんたは満足できるの?」
「満足はしてないよ」
正木は頬杖をついて、先ほどまであの男が歩いていた方向を見た。
「でも、しょうがないだろ。俺、あいつに振られてるから」
驚きすぎて、千代子はすぐには何も言えなかった。
「振られた? あんたが?」
「正確には振られたわけじゃないが……でも、同じことだ。女と間違えられて逃げられたんだから」
「……それって」
〝女に間違えられた〟というのにピンと来て、千代子は言った。
「もしかして……あんたが入学式の日に落ちこんでたのって……あいつのせい?」
正木は肯定も否定もしなかったが……切れ長の色素の薄い目が少し潤んでいた。
それを見たとたん、千代子はベンチから立ち上がり、猛然と歩き出した。
「千代子?」
あわてて正木も立ち上がる。
「おい、どこ行くんだよ?」
「もちろん、あの男を捜し出して、抗議してやるのよ!」
顔だけ振り返って、千代子は怒鳴り返した。
「何よそれ? 馬鹿にするにもほどがあるわ! あんたが男で、いったい何が悪いのよ!」
千代子は本気で腹を立てていた。自分は女だから、正木とはたぶん一生恋愛関係にはなれないのに、あの男は正木が男だったから逃げたというのだ。これほど腹立たしいことがあるだろうか。
「千代子、待て! 落ち着けって!」
正木は千代子の腕をつかんで、強引に引っ張った。女顔でもさすがに男だ。難なくベンチまで引きずり戻されてしまった。
「何よ、そんな泣きそうな顔しながら、まだあの男をかばうわけ?」
八つ当たり気味に千代子は正木をなじった。
「かばってるわけじゃねえよ。ただ……俺はおまえに文句を言いにいってもらいたくて話したわけじゃないから……」
「じゃあ何? そんな話を聞かされたら、私が怒るの、当たり前じゃない!」
正木は大きく目を見張っていた。何か信じられない言葉でも聞かされたように。千代子は不審に思って正木を睨んだ。
「何よ?」
「千代子……おまえ、ほんっとにいい奴だなあ……」
しみじみと感激したように正木は言うと、千代子の首に腕を回して、そのままぎゅっと抱きしめた。
(ああ……これでもう完璧に、一生〝いい奴〟としか思ってもらえなくなった)
正木に抱きつかれながら、冷静に千代子は思った。
何も知らない人間が見たら、自分たちは痴話喧嘩をして、また仲直りしているバカップルに見えるのかもしれない。だが、女である自分がこの正木と一生つきあっていくためには、もうその道しか残されてはいないのだ。
「そうよ。私は〝いい奴〟よ」
正木の栗色の髪を撫でながら、千代子は囁いた。
「何があっても、私だけはあんたの味方よ。あんたが話したいなら、どんなことでも私が聞いてあげる。……あんたはただ、誰かに自分の気持ちをわかってもらいたかっただけなのよね?」
「千代子ォ……」
正木の声はもう泣き声だ。
そうとも。正木が望んでいることを言うことなんて、千代子にはたやすい。正木の考えていることは、手にとるようにわかる。
だから。
たぶん。
自分はもうどれほど望んでも、正木の〝親友〟にしかなれない。
「千代子……実は俺……」
ためらいながら、しかし、なぜか嬉しげに正木は千代子の耳元で言った。
「女と間違えたって言われる前にさ……あいつに――」
そのとき、正木がした告白は、千代子にしばらく再起不能に陥りそうな衝撃を与えた。
そして、正木が思いを寄せるあの男は――若林修人は。
永劫に千代子の〝敵〟となったのだ。
「どう? やっぱりあいつはやめなかったでしょ?」
携帯電話をかけるために、わざわざ店の外へ出た正木が戻ってきたとき、千代子はにやにやしてそう声をかけた。
「俺だって、予想はついてたよ」
ふてくされた顔で正木は答え、また千代子の対面の席に戻った。千代子も正木の渋い顔を見ただけで、結果はもうわかっていたのだが、それでもあえて口にしたのは、少しばかり得意になってみたかっただけだ。
「で、これからどうするの? これを機に、本当に若林と縁を切る?」
からかい半分で正木を窺うと、正木は本気で嫌そうに千代子を睨み返してきた。
もちろん、正木にそんなことはできないとわかった上でこんなことを言っている。そんなことができるのなら、とうの昔に正木はそうしていたはずだ。そして、正木がそうしていたなら、きっと今現在も夕夜や美奈は存在していなかっただろう。
「そういうわけにもいかねえだろ。夕夜には俺も関わってる。若林はどうでもいいが、夕夜がな。あいつは俺への依存度が高いから、俺の〝命令〟がないと感情システムが不安定になる。あいつとも今話したが、やっぱり相当嫌がってたよ。どうしてわざわざそんなことをしなけりゃならんのかわからんとさ。まあ、あの夕夜ならそう言うだろうな」
「でしょうね。自分が嫌だと思ったら、たとえ自分を作った人間にでも平気で意見する。そんなロボットよね、夕夜って」
――あんたが望んだとおりの。
どこか自慢げな正木の顔を見つめながら、千代子は心の中だけで呟いた。
「それで、結局どうなの? 今度の日曜日、夕夜はモエと戦ってくれるの?」
「おまえにやめる気がまったくなくて、若林にもそのつもりがないんなら、俺や夕夜が何言ったってしょうがねえだろうが」
正木はこれ見よがしに大きく溜め息をついてみせる。
「あら、そんなことはないんじゃない? 私はともかく、若林にはそんなことしたら絶交だって言ったらやめてくれるんじゃないの?」
「絶交も何も……つきあいはねえよ」
正木が照れることを予想して冷やかすと、意外なことに正木は真顔でそう返してきた。
「それ、何の冗談?」
「俺は今年の三月に退職してから、若林には会ってねえよ。こないだ、川路の件で七ヶ月ぶりに会ったんだ。それから夕夜や美奈には時々会ってるが、若林には会ってない」
「何でまた?」
「何でって……いいだろ、別に」
「まあ、あんたがそれでいいって言うんならいいけど。でも正木。夕夜はあんたも一緒に作ったんでしょ? あんたはその限界を知りたいとは思わないの?」
正木は苦く笑い、首を横に振った。
「思わないね。そんなの知ってどうする? 基本的に、俺は夕夜が望まないことはさせたくない。でも、おまえや若林が望むんなら、不本意だが仕方がないとあきらめるよ。おまえは俺の親友だし、若林は夕夜の主人だ。せいぜい、どちらにも怪我がないことを祈ってるよ」
「あら。私たちのためにも祈ってくれるの? 優しいわね」
嫌味をこめて言うと、正木はにやりと笑って返した。
「たとえ若林が負けたって、おまえは美奈を取りゃしないだろ?」
――単純なように見えて、結構計算高いのよね、この男。
心の中で毒づきながら、千代子は自分の携帯電話を取り出し、ある番号を電話帳から検索した。
「じゃあ正木。今から私の携帯貸すから、ちょっと交渉してくんない? あんたなら、絶対確実だと思うから」
「何だよ。いったいどこにかけろってんだよ?」
少し不安げな顔になった正木に、千代子はここぞとばかりににっこり笑う。
「あら、さっき言わなかったかしら? 私、まだスリー・アールに何の話もしてないのよ。せっかく決闘の約束とりつけても、会場が確保できないんじゃ、元も子もないじゃない? そりゃ、私が直接話してもいいけど、あんた通したほうが早いでしょ? 何しろあんたは……」
「ああ、わかった! わかったから皆まで言うな! 電話でも何でもしてやるから!」
正木はあわてて千代子の手から携帯電話を引ったくると、自分の携帯電話を取り出した。
「あんた、どこにかける気なの?」
不思議に思ってそう問うと、正木は横目で千代子を睨んだ。
「こんな恥ずかしい話、一般社員に聞かせられるか。一人にしときゃ一回で済むだろ」
その間に向こうが出たらしい。正木は千代子から目を離した。
「……ああ、俺。……ああ、久しぶり。悪かったよ。それで、ちょっと話があるんだけど、今いいか?」
――まさか……
スリー・アールで、他の社員に伺いを立てることなく、たった一人で決定を下せる人間。
千代子はすぐにそんな人間に思い当たったが、さすがの彼女も恐れをなして、冷めきったコーヒーに口をつけた。
――恐るべし、正木凱。直接あの人にかけるとは。
「……うん、だから、若林――ああ、そんなんじゃないって! 何度言やぁわかるんだよ! しまいにゃ切るぞ!」
何を話しているのやら、叫ぶ正木の顔は真っ赤だった。
よりにもよってこの男は、結婚するならこの男だとひそかに決めこんでいた千代子の前で、あの男が好きなのだと告白しやがったのだ。
「あんた、ゲイだったんだ……」
淡々と千代子は言ったが、それはあまりのことに、さすがの彼女も感情がついていけなかったからだ。
「自分では、特にそうだと思ったことはないんだけどな」
答える正木もさばさばしていた。
「女除外したら、男しか残らなかったんだ」
「女は全然ダメ?」
「ベタベタするのは好きなんだけど」
本当に好きそうに正木は笑う。
「たぶん、キスもできそうにない」
それから、二人はキャンパス内のベンチに並んで座ったまま、長い時間黙っていた。
正木がゲイだったのは確かにショックだ。だが、それを自ら明かしたのは、自分を信頼してくれている証ではないか。
千代子は自分の隣に座る男をそっと盗み見た。
何度見ても美しい男だ。ゲイの目にはどう映るのかわからないが、もし自分が男だったら、たとえその趣味はなくとも、クラッと来てしまうのではないかと思う。この正木が赤面して好きだと言ったあの男も、正木なら無下に断りはしないのではないだろうか。
「ねー、正木」
「うん?」
「あの男のどこがいいの?」
だらしなくベンチに寄りかかっていた正木は、そのまま下へずり落ちた。
「ど、ど、どこって……!」
「やっぱり顔? あんたって意外と少女趣味?」
「……おまえ、ほんっとに容赦ねえよな……」
ぶつぶつ言いながら正木はベンチに座り直し、自分の細い顎に手を添えた。
「結論から言うと、やっぱ顔だな」
「ああいう顔が好みなの?」
半ば呆れてそう訊くと、正木は満面の笑みで答えた。
「うん! 理想的!」
――訊かなきゃよかった……
千代子は内心うんざりしたが、怖いもの見たさでまた訊ねた。
「好きなの、顔だけ?」
「いーや。あと身長! 俺、男は自分より身長がなきゃ絶対駄目なんだ。あいつ一九〇はあるよ。理想的だろ!」
――そりゃ、身長一八二のあんたにとっちゃ理想的でしょうよ。
しかし、千代子は実際そう毒づくかわりに、別のことを言った。
「じゃあ、そんなに理想的なら、あんたのほうから告白したらいいのに」
正木は一瞬ぽかんとした顔になり――
まったく想像もしなかったことに、寂しげに笑った。
「そんなの、できるわけないだろうが」
「何でよ? そりゃ、あんたは男だけどさ。あんたなら、あの男もすぐに落とせると思うわよ?」
「夜店の射的か、そりゃ。でもまあ、慰めてくれてありがとよ」
「慰めじゃないわよ。私、本気よ?」
少し苛立ってそう言ってみたが、それでも正木は困ったように笑うばかり。
そんな正木を、千代子はこのとき初めて見た。まだ一月ほどのつきあいだが、千代子の知る正木は、いつだって自信にあふれていて、堂々としていた。
それが、同学年のあんな男――たとえ顔がよかろうが、身長が高かろうが、千代子にとっては興味の範疇外だった――に片思いしていて、しかも、告白することもできずにいる。
「ねえ。だったら、ずっと片思いのままでいいの?」
自分が失恋した男の恋の手助けなどしてやる気はさらさらないが、これほど寂しげな正木を見るのは嫌だった。
「こうして遠くから眺めてるだけで、あんたは満足できるの?」
「満足はしてないよ」
正木は頬杖をついて、先ほどまであの男が歩いていた方向を見た。
「でも、しょうがないだろ。俺、あいつに振られてるから」
驚きすぎて、千代子はすぐには何も言えなかった。
「振られた? あんたが?」
「正確には振られたわけじゃないが……でも、同じことだ。女と間違えられて逃げられたんだから」
「……それって」
〝女に間違えられた〟というのにピンと来て、千代子は言った。
「もしかして……あんたが入学式の日に落ちこんでたのって……あいつのせい?」
正木は肯定も否定もしなかったが……切れ長の色素の薄い目が少し潤んでいた。
それを見たとたん、千代子はベンチから立ち上がり、猛然と歩き出した。
「千代子?」
あわてて正木も立ち上がる。
「おい、どこ行くんだよ?」
「もちろん、あの男を捜し出して、抗議してやるのよ!」
顔だけ振り返って、千代子は怒鳴り返した。
「何よそれ? 馬鹿にするにもほどがあるわ! あんたが男で、いったい何が悪いのよ!」
千代子は本気で腹を立てていた。自分は女だから、正木とはたぶん一生恋愛関係にはなれないのに、あの男は正木が男だったから逃げたというのだ。これほど腹立たしいことがあるだろうか。
「千代子、待て! 落ち着けって!」
正木は千代子の腕をつかんで、強引に引っ張った。女顔でもさすがに男だ。難なくベンチまで引きずり戻されてしまった。
「何よ、そんな泣きそうな顔しながら、まだあの男をかばうわけ?」
八つ当たり気味に千代子は正木をなじった。
「かばってるわけじゃねえよ。ただ……俺はおまえに文句を言いにいってもらいたくて話したわけじゃないから……」
「じゃあ何? そんな話を聞かされたら、私が怒るの、当たり前じゃない!」
正木は大きく目を見張っていた。何か信じられない言葉でも聞かされたように。千代子は不審に思って正木を睨んだ。
「何よ?」
「千代子……おまえ、ほんっとにいい奴だなあ……」
しみじみと感激したように正木は言うと、千代子の首に腕を回して、そのままぎゅっと抱きしめた。
(ああ……これでもう完璧に、一生〝いい奴〟としか思ってもらえなくなった)
正木に抱きつかれながら、冷静に千代子は思った。
何も知らない人間が見たら、自分たちは痴話喧嘩をして、また仲直りしているバカップルに見えるのかもしれない。だが、女である自分がこの正木と一生つきあっていくためには、もうその道しか残されてはいないのだ。
「そうよ。私は〝いい奴〟よ」
正木の栗色の髪を撫でながら、千代子は囁いた。
「何があっても、私だけはあんたの味方よ。あんたが話したいなら、どんなことでも私が聞いてあげる。……あんたはただ、誰かに自分の気持ちをわかってもらいたかっただけなのよね?」
「千代子ォ……」
正木の声はもう泣き声だ。
そうとも。正木が望んでいることを言うことなんて、千代子にはたやすい。正木の考えていることは、手にとるようにわかる。
だから。
たぶん。
自分はもうどれほど望んでも、正木の〝親友〟にしかなれない。
「千代子……実は俺……」
ためらいながら、しかし、なぜか嬉しげに正木は千代子の耳元で言った。
「女と間違えたって言われる前にさ……あいつに――」
そのとき、正木がした告白は、千代子にしばらく再起不能に陥りそうな衝撃を与えた。
そして、正木が思いを寄せるあの男は――若林修人は。
永劫に千代子の〝敵〟となったのだ。
「どう? やっぱりあいつはやめなかったでしょ?」
携帯電話をかけるために、わざわざ店の外へ出た正木が戻ってきたとき、千代子はにやにやしてそう声をかけた。
「俺だって、予想はついてたよ」
ふてくされた顔で正木は答え、また千代子の対面の席に戻った。千代子も正木の渋い顔を見ただけで、結果はもうわかっていたのだが、それでもあえて口にしたのは、少しばかり得意になってみたかっただけだ。
「で、これからどうするの? これを機に、本当に若林と縁を切る?」
からかい半分で正木を窺うと、正木は本気で嫌そうに千代子を睨み返してきた。
もちろん、正木にそんなことはできないとわかった上でこんなことを言っている。そんなことができるのなら、とうの昔に正木はそうしていたはずだ。そして、正木がそうしていたなら、きっと今現在も夕夜や美奈は存在していなかっただろう。
「そういうわけにもいかねえだろ。夕夜には俺も関わってる。若林はどうでもいいが、夕夜がな。あいつは俺への依存度が高いから、俺の〝命令〟がないと感情システムが不安定になる。あいつとも今話したが、やっぱり相当嫌がってたよ。どうしてわざわざそんなことをしなけりゃならんのかわからんとさ。まあ、あの夕夜ならそう言うだろうな」
「でしょうね。自分が嫌だと思ったら、たとえ自分を作った人間にでも平気で意見する。そんなロボットよね、夕夜って」
――あんたが望んだとおりの。
どこか自慢げな正木の顔を見つめながら、千代子は心の中だけで呟いた。
「それで、結局どうなの? 今度の日曜日、夕夜はモエと戦ってくれるの?」
「おまえにやめる気がまったくなくて、若林にもそのつもりがないんなら、俺や夕夜が何言ったってしょうがねえだろうが」
正木はこれ見よがしに大きく溜め息をついてみせる。
「あら、そんなことはないんじゃない? 私はともかく、若林にはそんなことしたら絶交だって言ったらやめてくれるんじゃないの?」
「絶交も何も……つきあいはねえよ」
正木が照れることを予想して冷やかすと、意外なことに正木は真顔でそう返してきた。
「それ、何の冗談?」
「俺は今年の三月に退職してから、若林には会ってねえよ。こないだ、川路の件で七ヶ月ぶりに会ったんだ。それから夕夜や美奈には時々会ってるが、若林には会ってない」
「何でまた?」
「何でって……いいだろ、別に」
「まあ、あんたがそれでいいって言うんならいいけど。でも正木。夕夜はあんたも一緒に作ったんでしょ? あんたはその限界を知りたいとは思わないの?」
正木は苦く笑い、首を横に振った。
「思わないね。そんなの知ってどうする? 基本的に、俺は夕夜が望まないことはさせたくない。でも、おまえや若林が望むんなら、不本意だが仕方がないとあきらめるよ。おまえは俺の親友だし、若林は夕夜の主人だ。せいぜい、どちらにも怪我がないことを祈ってるよ」
「あら。私たちのためにも祈ってくれるの? 優しいわね」
嫌味をこめて言うと、正木はにやりと笑って返した。
「たとえ若林が負けたって、おまえは美奈を取りゃしないだろ?」
――単純なように見えて、結構計算高いのよね、この男。
心の中で毒づきながら、千代子は自分の携帯電話を取り出し、ある番号を電話帳から検索した。
「じゃあ正木。今から私の携帯貸すから、ちょっと交渉してくんない? あんたなら、絶対確実だと思うから」
「何だよ。いったいどこにかけろってんだよ?」
少し不安げな顔になった正木に、千代子はここぞとばかりににっこり笑う。
「あら、さっき言わなかったかしら? 私、まだスリー・アールに何の話もしてないのよ。せっかく決闘の約束とりつけても、会場が確保できないんじゃ、元も子もないじゃない? そりゃ、私が直接話してもいいけど、あんた通したほうが早いでしょ? 何しろあんたは……」
「ああ、わかった! わかったから皆まで言うな! 電話でも何でもしてやるから!」
正木はあわてて千代子の手から携帯電話を引ったくると、自分の携帯電話を取り出した。
「あんた、どこにかける気なの?」
不思議に思ってそう問うと、正木は横目で千代子を睨んだ。
「こんな恥ずかしい話、一般社員に聞かせられるか。一人にしときゃ一回で済むだろ」
その間に向こうが出たらしい。正木は千代子から目を離した。
「……ああ、俺。……ああ、久しぶり。悪かったよ。それで、ちょっと話があるんだけど、今いいか?」
――まさか……
スリー・アールで、他の社員に伺いを立てることなく、たった一人で決定を下せる人間。
千代子はすぐにそんな人間に思い当たったが、さすがの彼女も恐れをなして、冷めきったコーヒーに口をつけた。
――恐るべし、正木凱。直接あの人にかけるとは。
「……うん、だから、若林――ああ、そんなんじゃないって! 何度言やぁわかるんだよ! しまいにゃ切るぞ!」
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