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第一話 正木博士の遺産!
12 ロビー
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「とまあ、こういうわけだ」
これまでの経緯をかいつまんで話した後、正木はそう締めくくった。
「あのお姉ちゃん――彩は、若林の控室に置きっ放しにしてある。これがその部屋のカードキーだ。あとで自分で取りに行ってくれ。カードキーはあんたが受付に返せよ」
正木は青い綿シャツの胸ポケットから、若林から預かってきたカードキーを取り出すと、川路の前に差し出した。
「おっと。あと、これもな」
思い出したように正木は言い、今度はジーンズのポケットから彩のナイフを引っ張り出して、テーブルの上に無造作に転がした。
明らかに嫌がらせである。さすがに川路も苦い表情になったが、正木が差し出した品々を、自分の背広のポケットにぎごちなく収めた。
「ああ、それと、一応訊いとくが」
正木は綺麗な小顔に、意地の悪い笑みを浮かべた。
「あの彩には、俺のプログラムは使ってないな?」
「……ああ」
これだけ答えるのに、川路はかなりためらった。
「だろうな。俺のプログラムだったら、ああなるはずがない」
正木は簡単に言ってのけた。
それがきっかけになって、川路は先ほどから気になっていたことをついに口にした。
「若林は……できたのか?」
「ああ?」
意味がわからなかったのか、正木が怪訝そうに眉をひそめる。
「若林は、おまえのプログラムを組みこめたのか?」
正木はにやりと笑った。いかにも嬉しそうに。誇らしそうに。
「でなきゃ、あいつも今日棄権してただろうさ。ま、優勝するかどうかはわかんねえけどな」
口ではそう言っていたが、正木が若林の優勝を疑っていないのはその表情を見るだけでわかる。川路はまたいつもの嫉妬を覚えたが、正木のプログラムを組みこんだ若林のロボットを一目見てみたい衝動にも駆られた。今度のロボットも、この夕夜のように美しいだろうか。
「若林で思い出したが、あんた、あとで若林に謝っとけよ。理由はどうあれ、あんたの作ったロボットが若林を殺そうとしたのは事実だからな。若林にはあんたを訴えるつもりは全然ないそうだから、ややこしいことにはなんねえだろ……と、もひとつ重要な話があったんだ」
それまでソファに深く腰かけていた正木は、急に身を起こして、隣の彰を親指でさした。
「あんた、こいつに家の外に出たらスクラップにするって言ってたんだって?」
まったく不意を突かれて、川路はとっさには何も言えなかった。
「言ってたんだろ?」
冷ややかに正木が確認する。
「ああ。確かに、そんなことは言っていた。しかし、それは彰を外に出さないための――」
「ああ、わかってる、わかってる」
正木はうるさそうに手を振って、川路を遮った。
「まあ、そんなこったろうと俺らも思ってたけどよ。でも、彩ちゃんによると、あんたはこいつを気に入ってなかったそうじゃねえか。そこでだ」
今度は何を言われても動揺しないようにと川路は身構えたが、結局、それは無駄な抵抗に終わった。
「どうせスクラップにするんなら、こいつ、俺にくれないか?」
人はあまりに驚くと、声が出なくなるのはもちろん、思考そのものが止まってしまうものらしい。
川路は細い目を限界まで見開いて、しばらく彫像と化していた。
それは夕夜も同じだった。正木がこんなことを言い出すとは夢にも思わなかった。もちろん、事前に聞かされてもいない。
今、表面上だけでも平静を保っているのは、言い出しっぺの正木と、そして、いついかなるときでも無表情な彰だけだった。
「もちろん、ただでとは言わねえぜ」
機能停止状態の川路にかまわず、正木は勝手に話を進めた。
「とりあえず、これでどうだ?」
そう言って、正木は人差指を一本立てた。
「百万か?」
自分でも驚くほど冷静な声が出た。ある一定ラインを超えると、感情は鈍化するようだ。
「バーカ。そんな端金でこのタイプのロボットが買えるかよ。――一千万だ」
川路は酸欠の金魚のように、何度も口をぱくぱくさせた。
「いっ……一千万ッ!?」
「何だよ。別にそんなに驚くほどの額じゃねえだろうが。それとも、これじゃまだ足りねえか? じゃあ、これでどうだ?」
正木はさらに、中指も立てた。
「そんな……彰に二千万? 第一、どうしておまえがこんな失敗作のロボットを欲しがる? こいつより彩のほうがずっと出来がいいはずだ」
正木は答えず、薬指を追加した。
「三千万」
「正木……」
「何だ、これでも駄目か? じゃあ、一気に増やして」
正木はニッと笑い、再び人差指だけにした。
「一億。これでどうだ?」
もう、何も言えなかった。
なぜ正木がこんな法外な額を提示してまで出来損ないの彰を欲しがるのか、川路にはさっぱりわからなかった。
夕夜もまた茫然としていた。いったいこの人は突然何を言い出すのか。よりにもよって、川路のロボットをそんな大金で買い取るなんて。それほどこの彰を気に入ったのだろうか。
あまり人の悪口は言いたくないが、彰はお世辞にも〝優秀な〟ロボットとは言えない。現に、自分が売り買いされようとしているのに、やはり無表情のままである。
だが、本当に彼は何も感じていないのだろうか。運動性が悪くて、表情に出せないだけなのではないだろうか。隣の彰を覗き見ながら、夕夜はふとそう思った。
「どうして」
喉から絞り出すようにして、川路はようやく声を発することができた。
「見てのとおり、彰は欠陥品だ。こんなものを、どうしておまえが欲しがる?」
「欠陥品なら、どうして今まで、改良するなり処分するなりしなかったんだ?」
間髪を入れず切り返されて、川路は口ごもった。
「そ、それは……」
「俺はこいつの頭ん中に興味がある」
正木は腕組みして、ソファの背もたれに寄りかかった。
「あんたはこいつを欠陥品って言うが、俺にしてみれば彩のほうが欠陥品だ。あいつはロボットとして正しくない。俺は人間みたいなロボットは好きじゃないんだ。彩は一万円だって欲しくないな」
「そんな……じゃあ、その夕夜はどうなるんだ? 夕夜は人間そのものじゃないか」
思わず、川路はそう言い返していた。
製作者である自分に反抗的な彩は、確かに〝ロボットとして正しくない〟のかもしれない。しかし、夕夜も若林に対して批判的な態度をとるではないか。外見の美しさは別として(彩も充分美しい範疇に入っていたが、やはり夕夜には及ばなかった)、彩と夕夜との間にいったいどんな差があるというのか。
「夕夜?」
正木はきょとんとした顔をして、彰の向こうの夕夜を見やると、すぐに、がははと笑った。
「こいつか? こいつは別だ。何たってこいつは、ロボットのふりしてる人間なんだからよ」
「えッ?」
「博士、なに馬鹿なこと言ってるんですか。私が正真正銘ロボットなことは、博士がいちばんよくご存じでしょう?」
またとんでもないことを言い出した正木に、夕夜はあせりまくった。
実は夕夜はロボット工学関係者に人間ではないのかと疑われたこともある。若林が夕夜を公式の場に出したがらないため(そのくせ、買い物には平気で行かせる)、その疑いは今でも完全に晴れてはいない。
正木にしてみれば、これは彼流のほめ言葉なのかもしれないが、川路相手では冗談になっていない。その証拠に、川路は妙に納得したような顔をしているではないか。
「まあ、こいつのことは置いといて、川路先生(これはもちろん嫌味である)、さっきの返事はどうなんだ? こっちももうそんなに時間がない。結局、彰を譲ってくれるのかくれないのか。一億で足りないって言うんなら、こっちはいくらでも出す用意がある。何だったらキャッシュでもいいぜ。さあ、どうなんだ?」
「どうって……」
再び選択を迫られて、川路は困惑した。
金のことはこの際、どうでもよかった。川路の実家は資産家で、金には不自由していない。問題は、自分が彰をどうしたいのか、その一点だけだった。結果は同じ自分の前からいなくなることでも、自分の手で壊すのと人の手に委ねるのとでは、まったく意味合いが違う。ましてや、それが失敗作ならば、人にやるのは恥というものだろう。
だが、失敗作だからと断ろうとしても、正木は引き下がらなかった。他に断る理由を見つけなければと考えて、川路はそんなことを考えている自分に愕然とした。
(俺は、こいつを嫌っていたはずじゃなかったのか?)
自分の正面に座っている彰を、川路はまじまじと見つめた。
彰は無表情だ。いつだってそうだ。だから、彰は無感情なのだと思っていた。もし感情があるのなら、あれだけ毎日頭ごなしに怒鳴られていたら、自分に反抗しようとするのではないか。彩がそうであったように。
「彰……おまえはどうなんだ?」
おそらく、川路は初めて彰の意志というものを確かめようとしていた。本当に、彰は何も感じていないのか、どうなのか。
「おまえは正木に引き取られたほうがいいのか? 正木なら、きっと俺よりずっと大事にしてもらえるぞ。少なくとも、おまえを出来損ないと罵りはしないだろう。……どうなんだ?」
我知らず、苦笑が漏れた。いったい自分はどんな答えを期待しているのだろう。〝先生の元を離れたくありません〟とでも? 今までにもそんな答えを期待してきて、ことごとく裏切られてきたではないか。
今回、初めて川路の言いつけに背いたのも、彩と同じ反抗の精神が芽生えたからではないのか。スクラップにされてでも、川路の支配から逃れたかっただけではないのか。
「先生が、そうされたいなら、そうします」
ゆっくりと彰は答えた。また裏切られた。瞬間、川路はそう思った。
「俺のことはどうでもいい。おまえだ。おまえはどうしたいんだ?」
彰は黙りこんだ。考えている。表情のほうはさして変わらなかったのだが、夕夜には何となく、困惑しているように見えた。
「私は、先生の決定に従います」
前と表現は違うが、同じことを彰は言った。
やはりこいつはこうなのだ。〝自我〟というものがないのだ。半ば予想していたことだったので、もう怒りさえも起こらなかった。
「じゃあ、俺がおまえを売ると言ったら、おまえはそれに従うのか?」
「先生がそうしたいとおっしゃるなら、そうします」
「それで……おまえは何も感じないのか?」
これ以上、彰の無表情を見るのが嫌になって、川路はテーブルの上で額を覆った。
「俺が憎いとか、やっと自由になれるとか。そんなことは、おまえは思わないのか?」
「おっしゃる意味がよくわかりません」
「……そうか。わからないか。そうだろうな。やっぱりおまえは――」
出来損ないのロボットだと続けようとした。が。
「彰は正しい」
心底感心したような声で正木が言った。
「正しい?」
川路は額に当てていた手をはずして顔を上げた。
「ああ。ロボットとして、これ以上はないくらい正しい」
そう言いながら、正木は彰の黒髪を軽く引っ張った。
「ロボットってのはそういうもんだ。主人の命令が絶対。それに逆らったり、主人自身に批判的感情を持ったりするのは、人間にとっては普通でも、ロボットにとってはタブーだ。その意味で彰は正しい。彰はあんたの命令なら何でも黙って従うし、そのことであんたを恨んだりもしないだろう。でも、そこがあんたには不満なわけだな?」
まさに図星を突かれて、川路はぐうの音も出なかった。
そんな川路を見て正木はにやりと笑い、彰の髪から手を離した。
「でも、考えてもみろよ。今回、こいつはあんたの命令破って、わざわざここに来たんだぜ。スクラップにされるの覚悟でさ。それもこれも、みんなあんたのためだ。あんたの名前もこいつは最後まで出さなかった。まったく、健気なもんじゃないか。結局、すべてはあんたしだいってことだ。あんたが彰を手放したいのか、手放したくないのか。どっちでも、彰はそれに従うだけだ。そうだろう? 彰」
「はい」
正木のほうは見ずに、彰はうなずいた。
「先生が、私をいらないとおっしゃるなら、私はいりません。先生、先生は私がいりませんか?」
まるで喉元に彩のナイフを突きつけられたような心地がした。
いったい自分は彰をどうしたいのか。
――そんなに気に入らないなら、壊しちゃえばいいのに。
いつか、彩はそう言って川路を責めた。
――彰は人間じゃないんだから、いくらだって作り直せるのよ。っていうか、あんたが作り直さなきゃ、彰はいつまでたってもあのままなのよ。いくらあんたが願ったって、彰は人間にはならない。人形が人間になれるのはお話の中だけよ。あんたの勝手な願望を彰に押しつけないで。
「俺は……」
川路の呟きは、扉の向こうの観客の拍手にかき消された。
たった一人の弟だった。
生まれつき体が弱くて、二十歳まではとても生きられまいと言われていた。
金でどうにかできるものなら、両親も川路も迷わずそうしただろう。だが、彼らにできたことは、考え得る限りの最高の治療を弟に施すことと、せめてその短い一生を幸福なものにしてやることだけだった。
生まれてからほとんど寝たきりの弟は、数あるおもちゃの中でも動くもの、特にロボットが大好きだった。もともとロボット好きだった川路は、一回り年下の弟のために、次々とロボットを買い与え、時には自分で作ったりもした。たとえそれがどんなに稚拙なものであっても、弟は青白い顔をほころばせて、きゃっときゃっと喜んでくれた。
あの笑顔を見るためになら、川路は何でもしただろう。ロボット工学者になろうと思ったのも弟のためだ。将来ロボット工学者になるつもりだと半ば冗談で口にしたら、絶対なってね、僕のためにロボット作ってね、そしたら僕にいちばんに見せてねと、あどけない瞳を輝かした。川路は、ああもちろんと答えたが、その内心は暗かった。たぶん、この弟はそれを目にすることはできないだろうから。
弟には頑張ればいつかは健康になれると言い聞かせていた。だが、その見込みはほとんどないことを、弟はそれとなく知っていたらしい。年ふるごとに悪くなる病状と共に、弟の表情は曇りがちになっていった。
――ロボットはいいね。
病院以上の設備を備えた自宅の自室で、弟はぽつりと言った。
――壊れたら、直してもらえばいいんだもの。電池が切れたら、入れ換えればいいんだもの。僕ね、人間にも電池があると思うんだ。人間は、それが切れたときに死ぬんだよ。で、その電池の電力量は、人によって違ってて、僕のはきっと、みんなよりも少ないんだ。みんなと同じように動いてたら、あっというまになくなっちゃうくらい。
そう言って、力なく笑う弟に、川路は何も言ってやれなかった。そんなことはないと言って慰められるほど、弟はもう幼くはなかった。
そして――あの日。
例年のように、クリスマス・プレゼントを持って実家に戻ったあの日。川路が到着するその直前に、弟の容体は急変して、あっというまに逝ってしまった。
あともう少し早かったら。川路は幾度そう悔やんだかしれない。
たった一人の弟。満足に動くこともできず、家の中以外の世界を知らず、たった十三で死んだ弟。生きていたら、今年で二十四。二年前には二十二。
――彰の設定年齢。
たった一人の弟の名は、〝成彰〟といった。
そうだった。
彰は成彰をモデルに作った。十三までしか生きられなかった弟の、成長した姿を思い描いて。
だが、完成した彰は、姿形は同じでも、あの弟とは似ても似つかなかった。熱があっても苦しくても、心配をかけまいとして、川路に大丈夫と儚げに微笑んだ、あの弟とは。
だから苛立って、彰に八つ当たりに近い怒りをぶつけてきた。おまえは失敗作だ、出来損ないだと。
――ごめんね。
昔、弟はよくそう口にした。
――こんなに弱い体で、みんなに迷惑をかけて。僕なんか、生まれてこないほうがよかったんだ。僕は出来損ないなんだよ。不良品なんだ。
――そんなことはない。
弟がそう言うたび、川路は必死になって否定した。
――お父さんもお母さんも俺も、そんなことは全然思ってない。みんなおまえが生まれてきてよかったと思ってる。成彰、おまえはこの世に生きて存在してるだけでいいんだ。それだけで兄さんたちは嬉しいんだよ。
「すまないが、彰はやれない」
川路は深く頭を垂れた。今は罪悪感から、彰の顔は見られなかった。
「いくら大金を積まれても、俺には彰を手放すことはできない。勝負のことも、もうどうでもいい。若林が優勝してもしなくても、あのことをバラすつもりはない。だから、彰だけは勘弁してくれ。このとおりだ」
川路はさらに頭を下げて、テーブルに額をこすりつけた。
「なら、こいつをスクラップにするってのは?」
「しない。できるわけがない。彰はもう、この世に〝生きて〟いるんだ」
その答えを聞いて、正木は満足そうに笑った。おそらく、今まで川路の前でそんな表情をしたことはなかったし、これからもないだろう。だが、そのせっかくの笑顔も、川路は下を向いていたために見ることはできなかった。
「なら、あきらめよう」
あっさり正木はそう言った。川路は驚いて顔を上げたが、そのときにはもう正木の顔にあの笑みはなかった。
「ちょうどそろそろ若林の出番だ。俺はこれで失礼するぜ。おい、夕夜、行くぞ」
「あ、はい……」
さっさと立ち上がった正木に倣って夕夜もソファから立ち上がりかけたが、思い直して腰を下ろした。
「すみませんが、先に行っててもらえませんか? 少し、川路先生にお話したいことがあるんです」
「お話だあー?」
正木は露骨に不審そうに眉をひそめたが、何を言ってもきかないと判断したのか、「んじゃ、先行ってるわ。変なこと言うなよな」と言い残して場内に入っていった。案外、彼は物わかりがいいところもある。
「話というのは?」
川路にはまったく見当がつかなかった。正木があっけなく引き下がっていったのにも困惑している。いったい正木は何のつもりであんなことを言い出してきたのだろうか。
「内緒話ですよ」
夕夜は微笑んだ。天使の笑み。夕夜を見た誰もがそう言うだろう。顔は正木と似ていても、作る表情はずいぶん違う。その隣の彰とつい見比べてしまい、川路は彰もこんなふうに笑ってくれたらなと思ってしまった。これも若林と自分との才能の差というものだろうか。
「正当防衛とはいえ、正木博士が彩さんを壊してしまったお詫びに、一つ、秘密をお教えしましょう。正木博士が僕のことを、〝ロボットのふりをしている人間〟なんて言う理由です」
「理由?」
夕夜の笑みに引きこまれて、川路はつい身を乗り出した。彰は夕夜のほうは見向きもせずに、川路をじっと見つめている。
「ええ。あれはもちろん言葉のあやであって、僕自身は本当にロボットなんですが……」
そう前置きして、夕夜は笑みを潜めた。
「そういうふうに、正木博士が〝僕〟を作ったからですよ」
「……え?」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。
正木が、夕夜を作った?
「正確には、僕のプログラムを。この体のほうは、若林博士が作りました。もっとも、設計は〝桜〟のときと同じように、二人でしたそうですが」
にっこり夕夜は笑った。まるで何でもないことのように。
「そんな……じゃあ、おまえは……」
川路は混乱して額を押さえた。
夕夜が、若林と正木の共同製作?
だが、そう考えれば、明らかに自分をモデルに夕夜を作った若林に対して、正木が何も言わなかったのも納得がいく。正木と夕夜が妙に親密なのも。夕夜がこれほど〝優秀〟なのも。
彼のプログラムは、『感情論』で世界を席巻した正木が作り上げたものだったのだ。
「一つだけ、誤解のないようにつけくわえておきますが」
〝人間型ロボットの最高傑作〟は、相変わらず穏やかに微笑みつづける。
「若林博士には、僕を自分一人で作ったことにするつもりはありませんでした。そうするように言ったのは、正木博士です。何でも、それが正木博士が出した共同製作の条件だったそうです。いったいどうしてそんなことをしたのかは、本人に訊いてみないとわかりませんが」
最後には苦笑になった。本当は夕夜にはわかっている。正木は若林に〝名誉〟を与えてやりたかったのだ。
「それでは、僕もこれで失礼します。〝妹〟の応援をしなくてはなりませんので」
夕夜は丁寧に頭を下げて、ソファから立ち上がった。
「待ってくれ!」
とっさにそう呼び止めた。夕夜は小首をかしげて川路を見下ろす。
「なぜ、俺にそんなことを言う?」
夕夜はくすりと笑った。
「言ったでしょう? お詫びですよ。……と言いたいところですが。本当のところは、〝王様の耳はロバの耳〟です」
「は?」
「誰でもいいから、本当のことを言いたかっただけです。僕も若林博士と正木博士に作られたんだって」
あっけにとられる川路を尻目に、夕夜はテーブルを離れて、扉の向こうへと消えてしまった。
やはりあれは〝ロボットのふりをしている人間〟なのかもしれない。従順なようでしたたかで、理性的なようで感情的。あんなことを言って、自分が世間にバラすとは考えなかったのだろうか。それとも、他言はすまいと踏んだ上でのことか。いずれにしろ、川路には正木と同じくらい凶悪に思えた。
「先生」
突然、彰が川路を呼んだ。茫然と夕夜を見送っていた川路は、それで我に返った。
「何だ? 彰」
「先生は、本当に私をスクラップになさらないのですか?」
その声音は相変わらず平坦だったが、以前ほどは川路を苛つかせなかった。
「ああ、しない。そう言っただろ?」
「なぜですか?」
昨日までなら、ここでくどいと怒鳴っていたかもしれない。だが、川路はそうするかわりに苦笑いを浮かべた。
「おまえはスクラップにされたいのか?」
「先生がそうなさりたいのなら」
そう〝模範解答〟をしてから、彰は川路が想像もしなかったことを言った。
「でも、〝私〟はまた作っていただけるのでしょう? そうしたら、今度は先生の気に入るように〝人間らしく〟なります。彩や夕夜のようなロボットになります」
「彰……」
――今度生まれてくるときは、絶対健康な体に生まれてくるからね。そしたら、また兄さんの弟にしてね。一緒にロボット作ろうね。
「行こう」
涙を隠して、川路は立ち上がった。
「彩が待っているよ」
これまでの経緯をかいつまんで話した後、正木はそう締めくくった。
「あのお姉ちゃん――彩は、若林の控室に置きっ放しにしてある。これがその部屋のカードキーだ。あとで自分で取りに行ってくれ。カードキーはあんたが受付に返せよ」
正木は青い綿シャツの胸ポケットから、若林から預かってきたカードキーを取り出すと、川路の前に差し出した。
「おっと。あと、これもな」
思い出したように正木は言い、今度はジーンズのポケットから彩のナイフを引っ張り出して、テーブルの上に無造作に転がした。
明らかに嫌がらせである。さすがに川路も苦い表情になったが、正木が差し出した品々を、自分の背広のポケットにぎごちなく収めた。
「ああ、それと、一応訊いとくが」
正木は綺麗な小顔に、意地の悪い笑みを浮かべた。
「あの彩には、俺のプログラムは使ってないな?」
「……ああ」
これだけ答えるのに、川路はかなりためらった。
「だろうな。俺のプログラムだったら、ああなるはずがない」
正木は簡単に言ってのけた。
それがきっかけになって、川路は先ほどから気になっていたことをついに口にした。
「若林は……できたのか?」
「ああ?」
意味がわからなかったのか、正木が怪訝そうに眉をひそめる。
「若林は、おまえのプログラムを組みこめたのか?」
正木はにやりと笑った。いかにも嬉しそうに。誇らしそうに。
「でなきゃ、あいつも今日棄権してただろうさ。ま、優勝するかどうかはわかんねえけどな」
口ではそう言っていたが、正木が若林の優勝を疑っていないのはその表情を見るだけでわかる。川路はまたいつもの嫉妬を覚えたが、正木のプログラムを組みこんだ若林のロボットを一目見てみたい衝動にも駆られた。今度のロボットも、この夕夜のように美しいだろうか。
「若林で思い出したが、あんた、あとで若林に謝っとけよ。理由はどうあれ、あんたの作ったロボットが若林を殺そうとしたのは事実だからな。若林にはあんたを訴えるつもりは全然ないそうだから、ややこしいことにはなんねえだろ……と、もひとつ重要な話があったんだ」
それまでソファに深く腰かけていた正木は、急に身を起こして、隣の彰を親指でさした。
「あんた、こいつに家の外に出たらスクラップにするって言ってたんだって?」
まったく不意を突かれて、川路はとっさには何も言えなかった。
「言ってたんだろ?」
冷ややかに正木が確認する。
「ああ。確かに、そんなことは言っていた。しかし、それは彰を外に出さないための――」
「ああ、わかってる、わかってる」
正木はうるさそうに手を振って、川路を遮った。
「まあ、そんなこったろうと俺らも思ってたけどよ。でも、彩ちゃんによると、あんたはこいつを気に入ってなかったそうじゃねえか。そこでだ」
今度は何を言われても動揺しないようにと川路は身構えたが、結局、それは無駄な抵抗に終わった。
「どうせスクラップにするんなら、こいつ、俺にくれないか?」
人はあまりに驚くと、声が出なくなるのはもちろん、思考そのものが止まってしまうものらしい。
川路は細い目を限界まで見開いて、しばらく彫像と化していた。
それは夕夜も同じだった。正木がこんなことを言い出すとは夢にも思わなかった。もちろん、事前に聞かされてもいない。
今、表面上だけでも平静を保っているのは、言い出しっぺの正木と、そして、いついかなるときでも無表情な彰だけだった。
「もちろん、ただでとは言わねえぜ」
機能停止状態の川路にかまわず、正木は勝手に話を進めた。
「とりあえず、これでどうだ?」
そう言って、正木は人差指を一本立てた。
「百万か?」
自分でも驚くほど冷静な声が出た。ある一定ラインを超えると、感情は鈍化するようだ。
「バーカ。そんな端金でこのタイプのロボットが買えるかよ。――一千万だ」
川路は酸欠の金魚のように、何度も口をぱくぱくさせた。
「いっ……一千万ッ!?」
「何だよ。別にそんなに驚くほどの額じゃねえだろうが。それとも、これじゃまだ足りねえか? じゃあ、これでどうだ?」
正木はさらに、中指も立てた。
「そんな……彰に二千万? 第一、どうしておまえがこんな失敗作のロボットを欲しがる? こいつより彩のほうがずっと出来がいいはずだ」
正木は答えず、薬指を追加した。
「三千万」
「正木……」
「何だ、これでも駄目か? じゃあ、一気に増やして」
正木はニッと笑い、再び人差指だけにした。
「一億。これでどうだ?」
もう、何も言えなかった。
なぜ正木がこんな法外な額を提示してまで出来損ないの彰を欲しがるのか、川路にはさっぱりわからなかった。
夕夜もまた茫然としていた。いったいこの人は突然何を言い出すのか。よりにもよって、川路のロボットをそんな大金で買い取るなんて。それほどこの彰を気に入ったのだろうか。
あまり人の悪口は言いたくないが、彰はお世辞にも〝優秀な〟ロボットとは言えない。現に、自分が売り買いされようとしているのに、やはり無表情のままである。
だが、本当に彼は何も感じていないのだろうか。運動性が悪くて、表情に出せないだけなのではないだろうか。隣の彰を覗き見ながら、夕夜はふとそう思った。
「どうして」
喉から絞り出すようにして、川路はようやく声を発することができた。
「見てのとおり、彰は欠陥品だ。こんなものを、どうしておまえが欲しがる?」
「欠陥品なら、どうして今まで、改良するなり処分するなりしなかったんだ?」
間髪を入れず切り返されて、川路は口ごもった。
「そ、それは……」
「俺はこいつの頭ん中に興味がある」
正木は腕組みして、ソファの背もたれに寄りかかった。
「あんたはこいつを欠陥品って言うが、俺にしてみれば彩のほうが欠陥品だ。あいつはロボットとして正しくない。俺は人間みたいなロボットは好きじゃないんだ。彩は一万円だって欲しくないな」
「そんな……じゃあ、その夕夜はどうなるんだ? 夕夜は人間そのものじゃないか」
思わず、川路はそう言い返していた。
製作者である自分に反抗的な彩は、確かに〝ロボットとして正しくない〟のかもしれない。しかし、夕夜も若林に対して批判的な態度をとるではないか。外見の美しさは別として(彩も充分美しい範疇に入っていたが、やはり夕夜には及ばなかった)、彩と夕夜との間にいったいどんな差があるというのか。
「夕夜?」
正木はきょとんとした顔をして、彰の向こうの夕夜を見やると、すぐに、がははと笑った。
「こいつか? こいつは別だ。何たってこいつは、ロボットのふりしてる人間なんだからよ」
「えッ?」
「博士、なに馬鹿なこと言ってるんですか。私が正真正銘ロボットなことは、博士がいちばんよくご存じでしょう?」
またとんでもないことを言い出した正木に、夕夜はあせりまくった。
実は夕夜はロボット工学関係者に人間ではないのかと疑われたこともある。若林が夕夜を公式の場に出したがらないため(そのくせ、買い物には平気で行かせる)、その疑いは今でも完全に晴れてはいない。
正木にしてみれば、これは彼流のほめ言葉なのかもしれないが、川路相手では冗談になっていない。その証拠に、川路は妙に納得したような顔をしているではないか。
「まあ、こいつのことは置いといて、川路先生(これはもちろん嫌味である)、さっきの返事はどうなんだ? こっちももうそんなに時間がない。結局、彰を譲ってくれるのかくれないのか。一億で足りないって言うんなら、こっちはいくらでも出す用意がある。何だったらキャッシュでもいいぜ。さあ、どうなんだ?」
「どうって……」
再び選択を迫られて、川路は困惑した。
金のことはこの際、どうでもよかった。川路の実家は資産家で、金には不自由していない。問題は、自分が彰をどうしたいのか、その一点だけだった。結果は同じ自分の前からいなくなることでも、自分の手で壊すのと人の手に委ねるのとでは、まったく意味合いが違う。ましてや、それが失敗作ならば、人にやるのは恥というものだろう。
だが、失敗作だからと断ろうとしても、正木は引き下がらなかった。他に断る理由を見つけなければと考えて、川路はそんなことを考えている自分に愕然とした。
(俺は、こいつを嫌っていたはずじゃなかったのか?)
自分の正面に座っている彰を、川路はまじまじと見つめた。
彰は無表情だ。いつだってそうだ。だから、彰は無感情なのだと思っていた。もし感情があるのなら、あれだけ毎日頭ごなしに怒鳴られていたら、自分に反抗しようとするのではないか。彩がそうであったように。
「彰……おまえはどうなんだ?」
おそらく、川路は初めて彰の意志というものを確かめようとしていた。本当に、彰は何も感じていないのか、どうなのか。
「おまえは正木に引き取られたほうがいいのか? 正木なら、きっと俺よりずっと大事にしてもらえるぞ。少なくとも、おまえを出来損ないと罵りはしないだろう。……どうなんだ?」
我知らず、苦笑が漏れた。いったい自分はどんな答えを期待しているのだろう。〝先生の元を離れたくありません〟とでも? 今までにもそんな答えを期待してきて、ことごとく裏切られてきたではないか。
今回、初めて川路の言いつけに背いたのも、彩と同じ反抗の精神が芽生えたからではないのか。スクラップにされてでも、川路の支配から逃れたかっただけではないのか。
「先生が、そうされたいなら、そうします」
ゆっくりと彰は答えた。また裏切られた。瞬間、川路はそう思った。
「俺のことはどうでもいい。おまえだ。おまえはどうしたいんだ?」
彰は黙りこんだ。考えている。表情のほうはさして変わらなかったのだが、夕夜には何となく、困惑しているように見えた。
「私は、先生の決定に従います」
前と表現は違うが、同じことを彰は言った。
やはりこいつはこうなのだ。〝自我〟というものがないのだ。半ば予想していたことだったので、もう怒りさえも起こらなかった。
「じゃあ、俺がおまえを売ると言ったら、おまえはそれに従うのか?」
「先生がそうしたいとおっしゃるなら、そうします」
「それで……おまえは何も感じないのか?」
これ以上、彰の無表情を見るのが嫌になって、川路はテーブルの上で額を覆った。
「俺が憎いとか、やっと自由になれるとか。そんなことは、おまえは思わないのか?」
「おっしゃる意味がよくわかりません」
「……そうか。わからないか。そうだろうな。やっぱりおまえは――」
出来損ないのロボットだと続けようとした。が。
「彰は正しい」
心底感心したような声で正木が言った。
「正しい?」
川路は額に当てていた手をはずして顔を上げた。
「ああ。ロボットとして、これ以上はないくらい正しい」
そう言いながら、正木は彰の黒髪を軽く引っ張った。
「ロボットってのはそういうもんだ。主人の命令が絶対。それに逆らったり、主人自身に批判的感情を持ったりするのは、人間にとっては普通でも、ロボットにとってはタブーだ。その意味で彰は正しい。彰はあんたの命令なら何でも黙って従うし、そのことであんたを恨んだりもしないだろう。でも、そこがあんたには不満なわけだな?」
まさに図星を突かれて、川路はぐうの音も出なかった。
そんな川路を見て正木はにやりと笑い、彰の髪から手を離した。
「でも、考えてもみろよ。今回、こいつはあんたの命令破って、わざわざここに来たんだぜ。スクラップにされるの覚悟でさ。それもこれも、みんなあんたのためだ。あんたの名前もこいつは最後まで出さなかった。まったく、健気なもんじゃないか。結局、すべてはあんたしだいってことだ。あんたが彰を手放したいのか、手放したくないのか。どっちでも、彰はそれに従うだけだ。そうだろう? 彰」
「はい」
正木のほうは見ずに、彰はうなずいた。
「先生が、私をいらないとおっしゃるなら、私はいりません。先生、先生は私がいりませんか?」
まるで喉元に彩のナイフを突きつけられたような心地がした。
いったい自分は彰をどうしたいのか。
――そんなに気に入らないなら、壊しちゃえばいいのに。
いつか、彩はそう言って川路を責めた。
――彰は人間じゃないんだから、いくらだって作り直せるのよ。っていうか、あんたが作り直さなきゃ、彰はいつまでたってもあのままなのよ。いくらあんたが願ったって、彰は人間にはならない。人形が人間になれるのはお話の中だけよ。あんたの勝手な願望を彰に押しつけないで。
「俺は……」
川路の呟きは、扉の向こうの観客の拍手にかき消された。
たった一人の弟だった。
生まれつき体が弱くて、二十歳まではとても生きられまいと言われていた。
金でどうにかできるものなら、両親も川路も迷わずそうしただろう。だが、彼らにできたことは、考え得る限りの最高の治療を弟に施すことと、せめてその短い一生を幸福なものにしてやることだけだった。
生まれてからほとんど寝たきりの弟は、数あるおもちゃの中でも動くもの、特にロボットが大好きだった。もともとロボット好きだった川路は、一回り年下の弟のために、次々とロボットを買い与え、時には自分で作ったりもした。たとえそれがどんなに稚拙なものであっても、弟は青白い顔をほころばせて、きゃっときゃっと喜んでくれた。
あの笑顔を見るためになら、川路は何でもしただろう。ロボット工学者になろうと思ったのも弟のためだ。将来ロボット工学者になるつもりだと半ば冗談で口にしたら、絶対なってね、僕のためにロボット作ってね、そしたら僕にいちばんに見せてねと、あどけない瞳を輝かした。川路は、ああもちろんと答えたが、その内心は暗かった。たぶん、この弟はそれを目にすることはできないだろうから。
弟には頑張ればいつかは健康になれると言い聞かせていた。だが、その見込みはほとんどないことを、弟はそれとなく知っていたらしい。年ふるごとに悪くなる病状と共に、弟の表情は曇りがちになっていった。
――ロボットはいいね。
病院以上の設備を備えた自宅の自室で、弟はぽつりと言った。
――壊れたら、直してもらえばいいんだもの。電池が切れたら、入れ換えればいいんだもの。僕ね、人間にも電池があると思うんだ。人間は、それが切れたときに死ぬんだよ。で、その電池の電力量は、人によって違ってて、僕のはきっと、みんなよりも少ないんだ。みんなと同じように動いてたら、あっというまになくなっちゃうくらい。
そう言って、力なく笑う弟に、川路は何も言ってやれなかった。そんなことはないと言って慰められるほど、弟はもう幼くはなかった。
そして――あの日。
例年のように、クリスマス・プレゼントを持って実家に戻ったあの日。川路が到着するその直前に、弟の容体は急変して、あっというまに逝ってしまった。
あともう少し早かったら。川路は幾度そう悔やんだかしれない。
たった一人の弟。満足に動くこともできず、家の中以外の世界を知らず、たった十三で死んだ弟。生きていたら、今年で二十四。二年前には二十二。
――彰の設定年齢。
たった一人の弟の名は、〝成彰〟といった。
そうだった。
彰は成彰をモデルに作った。十三までしか生きられなかった弟の、成長した姿を思い描いて。
だが、完成した彰は、姿形は同じでも、あの弟とは似ても似つかなかった。熱があっても苦しくても、心配をかけまいとして、川路に大丈夫と儚げに微笑んだ、あの弟とは。
だから苛立って、彰に八つ当たりに近い怒りをぶつけてきた。おまえは失敗作だ、出来損ないだと。
――ごめんね。
昔、弟はよくそう口にした。
――こんなに弱い体で、みんなに迷惑をかけて。僕なんか、生まれてこないほうがよかったんだ。僕は出来損ないなんだよ。不良品なんだ。
――そんなことはない。
弟がそう言うたび、川路は必死になって否定した。
――お父さんもお母さんも俺も、そんなことは全然思ってない。みんなおまえが生まれてきてよかったと思ってる。成彰、おまえはこの世に生きて存在してるだけでいいんだ。それだけで兄さんたちは嬉しいんだよ。
「すまないが、彰はやれない」
川路は深く頭を垂れた。今は罪悪感から、彰の顔は見られなかった。
「いくら大金を積まれても、俺には彰を手放すことはできない。勝負のことも、もうどうでもいい。若林が優勝してもしなくても、あのことをバラすつもりはない。だから、彰だけは勘弁してくれ。このとおりだ」
川路はさらに頭を下げて、テーブルに額をこすりつけた。
「なら、こいつをスクラップにするってのは?」
「しない。できるわけがない。彰はもう、この世に〝生きて〟いるんだ」
その答えを聞いて、正木は満足そうに笑った。おそらく、今まで川路の前でそんな表情をしたことはなかったし、これからもないだろう。だが、そのせっかくの笑顔も、川路は下を向いていたために見ることはできなかった。
「なら、あきらめよう」
あっさり正木はそう言った。川路は驚いて顔を上げたが、そのときにはもう正木の顔にあの笑みはなかった。
「ちょうどそろそろ若林の出番だ。俺はこれで失礼するぜ。おい、夕夜、行くぞ」
「あ、はい……」
さっさと立ち上がった正木に倣って夕夜もソファから立ち上がりかけたが、思い直して腰を下ろした。
「すみませんが、先に行っててもらえませんか? 少し、川路先生にお話したいことがあるんです」
「お話だあー?」
正木は露骨に不審そうに眉をひそめたが、何を言ってもきかないと判断したのか、「んじゃ、先行ってるわ。変なこと言うなよな」と言い残して場内に入っていった。案外、彼は物わかりがいいところもある。
「話というのは?」
川路にはまったく見当がつかなかった。正木があっけなく引き下がっていったのにも困惑している。いったい正木は何のつもりであんなことを言い出してきたのだろうか。
「内緒話ですよ」
夕夜は微笑んだ。天使の笑み。夕夜を見た誰もがそう言うだろう。顔は正木と似ていても、作る表情はずいぶん違う。その隣の彰とつい見比べてしまい、川路は彰もこんなふうに笑ってくれたらなと思ってしまった。これも若林と自分との才能の差というものだろうか。
「正当防衛とはいえ、正木博士が彩さんを壊してしまったお詫びに、一つ、秘密をお教えしましょう。正木博士が僕のことを、〝ロボットのふりをしている人間〟なんて言う理由です」
「理由?」
夕夜の笑みに引きこまれて、川路はつい身を乗り出した。彰は夕夜のほうは見向きもせずに、川路をじっと見つめている。
「ええ。あれはもちろん言葉のあやであって、僕自身は本当にロボットなんですが……」
そう前置きして、夕夜は笑みを潜めた。
「そういうふうに、正木博士が〝僕〟を作ったからですよ」
「……え?」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。
正木が、夕夜を作った?
「正確には、僕のプログラムを。この体のほうは、若林博士が作りました。もっとも、設計は〝桜〟のときと同じように、二人でしたそうですが」
にっこり夕夜は笑った。まるで何でもないことのように。
「そんな……じゃあ、おまえは……」
川路は混乱して額を押さえた。
夕夜が、若林と正木の共同製作?
だが、そう考えれば、明らかに自分をモデルに夕夜を作った若林に対して、正木が何も言わなかったのも納得がいく。正木と夕夜が妙に親密なのも。夕夜がこれほど〝優秀〟なのも。
彼のプログラムは、『感情論』で世界を席巻した正木が作り上げたものだったのだ。
「一つだけ、誤解のないようにつけくわえておきますが」
〝人間型ロボットの最高傑作〟は、相変わらず穏やかに微笑みつづける。
「若林博士には、僕を自分一人で作ったことにするつもりはありませんでした。そうするように言ったのは、正木博士です。何でも、それが正木博士が出した共同製作の条件だったそうです。いったいどうしてそんなことをしたのかは、本人に訊いてみないとわかりませんが」
最後には苦笑になった。本当は夕夜にはわかっている。正木は若林に〝名誉〟を与えてやりたかったのだ。
「それでは、僕もこれで失礼します。〝妹〟の応援をしなくてはなりませんので」
夕夜は丁寧に頭を下げて、ソファから立ち上がった。
「待ってくれ!」
とっさにそう呼び止めた。夕夜は小首をかしげて川路を見下ろす。
「なぜ、俺にそんなことを言う?」
夕夜はくすりと笑った。
「言ったでしょう? お詫びですよ。……と言いたいところですが。本当のところは、〝王様の耳はロバの耳〟です」
「は?」
「誰でもいいから、本当のことを言いたかっただけです。僕も若林博士と正木博士に作られたんだって」
あっけにとられる川路を尻目に、夕夜はテーブルを離れて、扉の向こうへと消えてしまった。
やはりあれは〝ロボットのふりをしている人間〟なのかもしれない。従順なようでしたたかで、理性的なようで感情的。あんなことを言って、自分が世間にバラすとは考えなかったのだろうか。それとも、他言はすまいと踏んだ上でのことか。いずれにしろ、川路には正木と同じくらい凶悪に思えた。
「先生」
突然、彰が川路を呼んだ。茫然と夕夜を見送っていた川路は、それで我に返った。
「何だ? 彰」
「先生は、本当に私をスクラップになさらないのですか?」
その声音は相変わらず平坦だったが、以前ほどは川路を苛つかせなかった。
「ああ、しない。そう言っただろ?」
「なぜですか?」
昨日までなら、ここでくどいと怒鳴っていたかもしれない。だが、川路はそうするかわりに苦笑いを浮かべた。
「おまえはスクラップにされたいのか?」
「先生がそうなさりたいのなら」
そう〝模範解答〟をしてから、彰は川路が想像もしなかったことを言った。
「でも、〝私〟はまた作っていただけるのでしょう? そうしたら、今度は先生の気に入るように〝人間らしく〟なります。彩や夕夜のようなロボットになります」
「彰……」
――今度生まれてくるときは、絶対健康な体に生まれてくるからね。そしたら、また兄さんの弟にしてね。一緒にロボット作ろうね。
「行こう」
涙を隠して、川路は立ち上がった。
「彩が待っているよ」
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