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ウラ

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「いるか?」

 その声を聞いたとき、彼は飛び上がるほど驚いた。
 部屋の外の気配も感じ取れないほど、別のことに気を取られていた。

「いるよ」

 何とか気を静めて、そう返した。
 許可を出しても、魔物はすぐには入ってこなかった。
 様子を窺うように、ゆっくりと扉を開け、静かに姿を現す。
 何も変わっていなかった。
 もっとも、会わなかったのはほんの二月ほどなのだから、変わるはずもない。だが、彼は強い懐かしさを覚えた。

「もう、来ないかと思ったよ」

 自分の思いをそのまま言葉にしただけで、魔物を責めるつもりはまったくなかったのだが、魔物にはそう聞こえなかったようだ。決まり悪げに顔をそむけると、テーブルの上に音を立てて酒瓶を置いた。手土産は相変わらずのようだ。
 これまでだったら、すぐに彼がグラスの用意をするのだが、今夜はそういう気分になれなくて、椅子に座ったままでいた。

「どうかしたか?」

 低く魔物が問う。魔物にも、彼の異状がわかったのだろう。

「医者に言われた。おそらく、今夜が最後だろうと」

 誰が、とは言わない。
 そこまで言わなくても、それでこの魔物には伝わると思った。
 案の定、魔物は何も訊かずに、彼の代わりにグラスを持ち出し、酒を注いで彼に差し出してきた。
 彼はそれを受け取りはしたが、口には運ばなかった。
 きっと、どんなにいい酒を飲んでもうまく思えない。
 魔物とはこうして再び会えたけれど。
 今度は、彼女がいなくなる。

「そばについていなくてもいいのか?」

 もっともなことを魔物は言った。
 わけもなくほっとして、一口だけ酒を飲んだ。
 思いのほか、うまいと感じることができた。

「まだ、しばらくは。でも……今度ばかりは医者の言うとおりだと俺も思う」

 それで、終わりにすればよかった。
 魔物は、魔物なりに遠慮して、すぐに帰るつもりだったのだろう。
 自分の分のグラスは持ち出していなかったし、いつもの自分の席に腰かけてもいなかった。
 ただ、何気なく。
 本当に何気なく、自分の横に立っている魔物を見上げたとき。
 整いすぎたその顔が。
 不機嫌な表情を浮かべているはずのその顔が。
 明らかに。
 ――笑っていた。
 すぐにそれはいつもの無表情に戻ってしまったけれど。
 確かに、魔物は笑っていた。
 見なかったことにすればよかった。
 そうすれば、彼女の願いどおり、〝仲直り〟できた。
 どうして、そんなことを言ってしまったのだろう。
 自覚はなかったが、やはり自分は苛立っていたのだろうか。

「おまえは、楽しそうだな」

 一瞬にして魔物が固くなる。初めて見る魔物だった。

「何を馬鹿な」

 魔物は何事か言いかけたが、彼自身、馬鹿なことを言っていると思った。だから、否定するつもりで言った。

「そうだな。馬鹿なことだ」

 彼はかすかに笑った。

「おまえが、楽しいだなんて。それでは、まるで……」

 ――完全に惚れてるわよ、あんたに。

 魔物の顔を見た瞬間。
 彼は凍りついた。
 もう、気のせいではない。
 魔物は、笑っている。
 美しいのに、恐ろしい。
 そのくせ、目が離せない。

「そうだ。俺は今、とても楽しい。あと少しで、おまえには特定のものがなくなる。おまえは一人になる」

 今まで何も言わなかったくせに。ただ黙って一緒に酒を飲んでいただけのくせに。

「なぜ、おまえが一人になると楽しいのか、わかるか?」

 笑いながら囁く魔物を、彼は茫然と見つめ返すことしかできなかった。
 彼から何の返答もないことをどう判断したのか、魔物は今までの笑みとはまた違う暗い笑いを漏らすと、彼の白い手を取ってその甲に口づけた。
 思いもしなかった行為。
 しかし、魔物の口から出たその言葉に、彼の体は震えた。

「愛している」

 魔物は彼の手を強く握りしめた。

「だから、特定の人間と親しくしてほしくないのだ」

 ああ、もう。――逃げられない。
 彼はきつく目を閉じた。
 ずっと、こうなることを恐れていた。
 たぶん、彼は拒めない。この無愛想で不器用な魔物を。
 この魔物なら、自分を残して死ぬことはないだろう。
 文字どおり、永遠に自分を愛してくれるだろう。
 それは彼にとって、恐ろしく魅力的なこと。
 もしも、自分以外誰も見るなと言われたら、彼は言われるままうなずいていただろう。
 あと一言。
 たとえば、もう一度愛していると繰り返すだけでも、魔物は彼を手にすることができた。
 だが、魔物はやはり不器用で。
 彼は戸惑っていただけだったのに、嫌がっているように見えたのだろうか。
 魔物は彼から手を離すと、弁解するように口早に言った。

「だからといって、おまえから何かを求めようとは思わない。ただ、おまえのそばにいられるだけでいい。それ以上のことは望まない」

 望もうと思えば、望めたのだ。
 しかし、それに気づかないところが本当に魔物らしくて、彼は小さく笑った。
 魔物は彼から顔をそむけていてわからなかったようだ。

「悪かった」

 そう呟いたときには、彼に背を向けていた。

「今日はもう帰る。……すまない」
「あ……」

 呼び止めようと思った。
 すぐに名前を呼べば、呼ばなくとも立ち上がって魔物の手を引けば、彼は魔物を引き止めることができた。
 それができなかったのは。
 別室にいる彼女の命が、今まさに、消え失せようとしていたから。

 ――自分だけが、幸福になるわけにはいかない。

 足早に部屋を出て行く魔物の背中を、彼は黙って見送った。

 ――魂を食らって生きる自分に、幸福になる権利はない。

 そう自分に言い聞かせながら、心のどこかで逆恨みしていた。
 強引に自分を抱きしめられない、臆病な魔物を。          
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