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オモテ

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「今度、この家に病人を連れてくるよ」

 ある夜、唐突に使者は言った。
 白銀の髪と紺碧の瞳をしたこの使者に、いま親しくしている人間がいることは配下の報告から彼も知っていた。魔族に襲われそうになったところを、助けてやったのがきっかけらしい。
 そういうことは珍しくなかった。使者にとって、魂を消すことは食事も意味していたから、わざと魔族に人間を襲わせることもあった。
 だが、嫉妬を感じないわけではない。機会さえあれば、ためらうことなくその人間を引き裂いて、使者のいた世界にさっさと送ってやっていただろう。
 彼をすんでのところで押し止めていたのは、人間はいつかは死ぬという、ただその一点のみ。
 その人間が死ねば、使者はまた一人になる。元どおりになる。
 苦しいのは一時だけだ。本心を殺すのは、もう慣れている。
 殺セ。殺セ。殺セ。心ヲ、殺セ。

「末期の癌患者で、もう余命三ヶ月もない。医者には入院していてもできることはないと言われた。この家なら部屋も余っているし、周りも静かだから……」
「そんなことはどうでもいい」

 そう。どうでもいい。彼が知りたいのは一つだけだ。

「その人間と、おまえはどう関わりがある?」
「関わりって……散歩の途中で会っただけだけど……」

 彼の語調の荒さに、使者はひるんだように肩をすくませた。

「散歩の途中で会っただけなのに、引きとって面倒まで見てやるのか」
「でも……一人で死ぬのは嫌だろう?」

 声は小さかったが、使者はそう反論してきた。いかにも使者らしい答え。しかし、彼はかっとなって席を立った。

「誰でも死ぬときは一人だ」

 そのまま、使者に背中を向けて部屋を出てしまった。
 だから、そのとき使者がどんな表情をしていたかはわからない。
 でも。きっと。
 傷ついた顔をしていたのではないかと思う。
 昔、精霊族に、もう二度と会わないと言われたときのように。
 そして――
 彼はもう、使者には会えない。

 ***

 次の新月の夜は、何とか耐えられた。
 だが、その次の新月の夜、彼の我慢はとうとう限界を超えた。

 ――あのとき、使者はもう来るなとは言わなかったのだから。

 まったく自分に都合のいい言い訳をしながら、彼は何事もなかったような顔をして使者を訪ねた。無論、いつもの手土産も忘れない。
 憔悴していても、使者は美しかった。
 いや、憔悴しているから、以前よりも美しく見えるのか。
 おそらく今夜が最後だろう。医者にそう言われたと使者は言った。

 ――ならば、明日には俺は楽になれるのか。

 心中で彼は笑った。
 表情には出ていなかったはずだった。
 しかし、使者は彼を見やると、淡々とこう言った。

「おまえは、楽しそうだな」

 これほど驚いたことも、彼にはかつてなかった。
 使者が相手だと、初めてのことばかりだ。

「何を馬鹿な」

 おまえは今、神経質になっているだけだ。だから、そのような被害妄想的なことを言うのだ。
 いつもの自分らしく、そう言ってやり過ごそうとした。

「そうだな。馬鹿なことだ」

 使者はかすかに苦笑した。
 そのせいで、彼は続きが言えなくなった。

「おまえが、楽しいだなんて。それでは、まるで……」

 おまえが、俺に、恋しているようだと――
 使者は言わなかった。
 そうは言わなかった。
 だが、彼の顔を見た瞬間、使者の顔から笑みが消えた。
 そのとき。
 彼は、笑っていた。
 やっと――やっと、気づいてくれたのかと。
 そして、呪っていた。
 なぜ、あと少しで終わるというこのときに、気づいてしまったのか。

「そうだ。俺は今、とても楽しい。あと少しで、おまえには特定のものがなくなる。おまえは一人になる」

 自分でも不思議に思うほど、言葉は勝手に口からこぼれ出た。

「なぜ、おまえが一人になると楽しいのか、わかるか?」

 使者は何も答えなかった。ただ茫然と彼を見つめ返すばかり。
 その様子にまた暗い笑いを漏らすと、彼は使者の白い手を取り、その甲にそっと口づけた。
 初めて触れた使者の手は、まるで死体のように冷たかった。

「愛している」

 使者の手が一瞬震えた。
 彼は逃れられないよう、使者の手を強く握りしめた。

「だから、特定の人間と親しくしてほしくないのだ」

 しかし、使者が使者であるかぎり、それが叶わぬことだということも彼は知っている。
 使者は人間が好きなのだ。魔族よりも、何よりも。
 もしもこのとき、彼が正直に自分の本心を明かしていたなら、運命はまた違った方向へ向かっていったのかもしれない。
 使者は彼の手を振り払いはしなかったのだから。
 だが、彼は自分からその手を離してしまった。もう二度と触れることはできないだろうと思いながら。名残惜しいと思いながら。

「だからといって、おまえから何かを求めようとは思わない。ただ、おまえのそばにいられるだけでいい。それ以上のことは望まない」

 本当は、何もかもが欲しかった。
 使者のあの手に連なる体も。今は人間のことでいっぱいのはずの心も。
 しかし、それは魔族である自分には手に入れられないものなのだと、最初からあきらめきっていた。
 幸い、使者の美しい顔には、嫌悪や軽蔑といった表情は浮かんでいなかったが、かといって、喜びも羞恥もない。使者にとってこの告白は、まったく予想外のことであり、ただただ困惑するしかない種類のものなのだ。
 彼は口元に苦笑を刻んだ。そんなことは最初からわかりきっていたことではないか。だからこれまでずっと、決してこの想いは明かすまいと隠しつづけてきたのではないか。何を今さら落胆する必要がある?

「悪かった」

 口早に彼は言った。
 本当なら、ずっと言わずにいようと思っていたことなのだ。その上、使者の手に許しもなく接吻までしてしまった。柄にもないことをしてしてしまったと、彼は自分を恥じていた。

「今日はもう帰る。……すまない」
「あ……」

 何事か使者は言いかけたが、かまわず彼はその場を立ち去った。
 何も聞きたくなかった。
 慰めも、同情も――拒絶も。     
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