【完結】逆神伝(ぎゃくしんでん)

邦幸恵紀

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第六章 沈む神

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 世界の底というので、アステリウスは無意識に暗い地下室のようなものを想像していたのだが、実際に沈んでみると、まったく様相を異にしていた。
 光る湖に似ているかもしれない。侵入したときにはこのまま落下して底に叩きつけられるのではないかと恐怖を覚えたが、全身が沈みきると落下速度は弱まり、彼が余裕を持って周囲を見回せる程度には遅くなった。
 呼吸はできたが、空気に粘度のようなものを感じた。しかも、それは下へ行けば行くほど強まっていくようだった。ただ一つ幸いだったのは、中へ入ってからは左腕に留まっているノルトの重さを感じなくなったことだった。爪の痛みもしなくなったので不思議に思ってよく見てみると、足が彼の腕に溶けこんで一体化していた。正直、いい気持ちはしなかったが、おそらくこの中だけの一時的なものなのだろうと考えることにした。ノルトもきっと不本意だろう。
 ただ光だけがあった。目印になるようなものもない。もうだいぶ下ったような気がしたが、落ちていく先には相変わらず光しか見えなかった。

「いつもだったら、このへんにいるんだが」

 突然、ノルトが口を開いた。眠っていたわけではなかったようだ。

「今回はずいぶん下まで沈んじまったようだ。おまえに正体を知られたのがよっぽど応えたんだな。そういや、今まで正体がばれたことはなかったんだった」
「本当に人間なのかと疑ったことはがな」

 ノルトは紺碧の瞳で彼を凝視すると、急に羽をばたつかせた。

「アステリウス! アステリウス! アステリウス!」
「な、何だ?」

 驚いた彼はとっさにノルトを自分から遠ざけたが、ノルトはかまわず騒ぎつづけた。

「おまえ、また俺が言ったことを忘れているな! 常に自分がアステリウスだと言い聞かせていろと言っただろうが! 今の俺以上の鳥頭だな、おまえは!」
「あ、ああ……すまない」

 確かにノルトの言うとおりだったので、彼は素直に謝った。姿も声も言葉遣いもまったく違うが、何だか自分の元副官に叱られているような気がした。

「私の名前はアステリウス。ここへ来た目的はライルに会うため。――これでいいか?」
「いっそ口に出して唱えていろ。ここから先は、人間には危険領域だ。まさか、最下層まで沈んでいないだろうな」

 最後の一言には思わしげな響きがあった。だが、彼の頼りはこの鳥の姿をした神だけだ。とりあえず、今はできるだけのことをしようと、その神に言われたとおり、自分の名前を呪文のように口の中で呟いた。
 空気の粘度はさらに高まっていた。息はできるが、まるで水中にいるときのような圧力を感じる。
 気がつくと、いま自分が口にしている言葉が何を意味しているのかもあやふやになってきていた。あわてて彼は修正しなおす。――アステリウスは私の名前。私はアステリウス、紅蓮のアステリウス、私は……
 このまま永遠に下りつづけるのではないかと思った。
 自分に正体を知られるだけのことが、どうしてこれほど嫌だったのだろう。過去を知られたことが恥ずかしかったのか。それとも、本当に神であることをやめようとしていたのか。それこそ、が執着しつづけた最大の理由であったのに。
 終わりは唐突にやってきた。いつの日かノルトが見るだろう世界の終わりも、そのようにして訪れるのかもしれない。彼の目にはこれまでと何ら変わったところがあるようには見えなかったが、爪先が硬い床のようなものに触れ、ここへ入りこんでから初めて平らかなところに両足で立った。そのとたん、空気の重みをまともに感じ、彼はかすかに呻きを漏らした。

「最下層だ」

 そう告げるノルトの声は、開き直ったのか、妙に明るかった。

「むしろ、よくここまで進ませてくれたよ。ここから先は俺でも無理だ。聞こえるかどうかはわからないが、とにかく呼びかけてみろ。紅蓮のアステリウス」

 こうして見下ろしてもみても、何もあるようには見えなかった。この下に、本当にあの存在はいるのだろうか。

「ライル」

 口に出しては唱えなかったはずの、その名前のほうを彼は強く覚えていた。

「どこまででもついていくと、おまえは私に言っただろう。あの言葉は嘘だったのか。いつでも破るつもりで、おまえはそう言ったのか。おまえは、私を一人にするのか」

 記憶が混濁しだしていた。暗い牢屋の格子の向こうで、無念そうに涙を流していた、美しい白い顔を思い出す。

「おまえの見つからない三百年は、それまでの二千七百年より長かったよ。――私の唯一の敵。唯一の神よ」

 一見、何の変化も起こったように見えなかった。しかし、彼は身を屈めると、ノルトが留まっていない右腕を、下へ向かって伸ばした。――すると。
 何もないと思えた場所から、白い右手がゆっくりと、彼に応じるように現れた。
 それはまるで名工が雪花石膏アラバスタから彫り出したかと思われるような、完璧なまでに美しい右手だった。一指でも触れられたら、すぐに引っこめてしまいそうなほど不安げに伸ばされたその手の細い手首を、彼は大きな手で一気に捕らえた。その瞬間。

「アステリウス!」

 今まで沈黙を守っていた左腕のノルトが叫び、両翼を大きく広げた。

「その手を決して離すな! このまま上まで引っ張り上げる!」
「何?」

 あわてて左腕を見ようとしたときには、ノルトは翼だけを巨大化させ、上へ向かって飛び立っていた。それに引っ張られる形で、彼の体も吊り上げられる。その勢いで、せっかくつかんだ右手がはずれそうになったが、彼は渾身の力を振り絞って耐え抜き、その手の主を最下層から強引に引きずり出した。
 ノルトの飛ぶ速度が速すぎて、下を向くことはできなかった。だが、自分の右手にもう一本の手がそっと添えられたのは感じることができた。
 滑らかで、柔らかで、ごく普通に温かい手だった。
 下降するより上昇するほうが大変なのは、世間でもこの世界の底でも同じらしい。ことに今は行きより一人――いや、一柱増えている分、ノルトの負担は大きそうだった。
 何とかならないものかと彼が考えたとき、ノルトが飛びながら彼に命じた。

「アステリウス! おまえの剣を呼べ! もう一度その手に握りたいと願え!」

 理屈はさっぱりわからなかったが、彼は目を閉じ、今はこの世ならぬ者をつかんでいる右手に、この世界が作り直されても手放すことがなかった、あの剣を握ることを考えた。

「いいぞ、そのまま願ってろ! 出口が!」

 ノルトの歓喜の声に興味を引かれて目を開けたとき、彼の視界に飛びこんできたのは、見慣れすぎた光ではなく闇だった。同時に左腕からノルトの足が離れる。
 落ちると思った瞬間、彼が右手でつかんでいる相手が彼を引っ張った。一瞬、世界の底にいたときのように体が浮き、彼の両足は静かに黒い大地の上に着地した。

(私の剣!)

 反射的に左手を動かすと、その手が何か硬いものをつかんだ。
 もしやと思い見てみれば、それは彼が地上に突き刺していった彼の大剣、彼と共に流血を浴びつづけた彼の分身の握り慣れた柄だった。

「戻れたのか」

 そう呟いてから、彼はようやく――本当にようやく、自分の右手が今もしっかりと握りしめつづけている右手の持ち主を見た。

「……ライル?」

 思わず疑問形になってしまったのは、その持ち主の肩にかかるほどの長さのある髪の色が、彼の元副官の漆黒とは真逆の純白だったからだ。
 夜闇の中でもその姿がはっきりと見てとれるのは、わずかながら自ら発光しているからだろう。グノス教の宗教画に描かれた天使のように白い長衣を着ていたが、その背中に翼はなかった。そして、その顔は深く伏せられていて、彼には瞳の色を確認することもできなかった。

「ライル」

 もう一度、今度は確信を持って名前を呼べば、その人物は違うとでも言うように黙って首を横に振る。

「では、おまえは誰なんだ? 私はライルに会いたくてあそこに行った。おまえはライルだから、この手を私に伸ばしたのだろう?」

 彼がそう言うと、相手は右手を振り払おうとしたが、彼は力を強めてそれを阻止した。

「ライル、なぜ」
「君は、思い出したのではなかったのか?」

 くぐもったその声は――普通に話せば心地よく響くはずのその声だけは、彼の元副官のそれとまったく同じだった。

「思い出したから、私にあのようなことを言ったのではなかったのか?」
「ああ、あれは――」

 そのまま彼は絶句し、剣から離した左手で、緋色の髪を掻き乱した。

「すまん。あそこを出たら、また何も思い出せなくなってしまった。だが、おまえがこの世界を作った神で、私の〝殺せない敵〟だったということはわかっている」
「それで?」

 姿さえ見なければ、その冷ややかな言い方は、あの元副官そのものだった。

「君は私に君の従者に戻れと言うのか? それとも、また今までと同じように、敵として君を殺しつづけろとでも?」
「それは……」
「私は三千年経っても、まだ君にとって敵でしかないのか?」

 元副官よりも華奢に見える肩が、小刻みに震えていた。この神は、あの神殿でいつもこんなふうに泣いていたのだろうか。あの鏡に自分が殺した男たちを映しながら。

「君はかつて私に言った。自分が忘れた何かをどうしても知りたいと。知らないままでは、もうどこへも進めないと。君はもうわかっただろう。さあ、これから何をしたい?」

 そういえば、そんなことを言ったこともあった。すでに自分のそばに捜し求める者はいたのに、こともあろうにその当人に捜し方を訊ねたりもした。あれからまだ三月も経っていないのに、もう遠い昔の話のようだ。

「おまえも、いつだったか私に言ったな。私には一生かかっても、おまえが泣きつづける理由はわからないと。……そのとおりだ。私にはわからない。神たるおまえが、なぜ私などのために涙を流しつづけなければならないのか。たぶん、どの私もおまえを泣かせたくはなかった。……おまえが泣くとは思わなかった」

 彼はそっと左手を伸ばして、いまだにこちらを見ようとしない神の頬に触れた。その指先が触れたとたん、神はひどく驚いて彼を見た。
 面差しに彼の元副官を思わせるものがあったが、元副官よりもさらに繊細で、さらに端麗だった。ただ、長い前髪の間から覗くその瞳の色だけは、元副官であったときと同じ透き通るような菫色をしていた。しかし、その瞳は今にも涙がこぼれ落ちそうなくらい潤んでいて、これが自分を殺しつづけた敵だとは、彼にはとても思えなかった。

「もう泣くな」

 これ以上怯えさせないように気遣いながら、彼は繻子のような手触りのする神の髪を撫でた。

「きっと、ずっとおまえにそう言ってやりたかった。――おまえはもうこれ以上、私のせいで泣かなくていい」

 だが、逆に神の目からは涙があふれ出し、染みや黒子一つない滑らかな頬を濡らした。
 いったい何を言ったらこの神は泣くのをやめてくれるのだろう。彼は困惑して、顔を覆って泣く神を見下ろした。
 世界を作ったからといって、その世界をすべて自分の思いどおりにできるとは限らないとこの神は言った。ならば、この喜劇的な回り道もこの神の意図したものではないのか。神とはもっと超然としていて、人間のために涙を流したり、命を落としたりすることなどないと思っていた。
 そのとき、彼は地上にこの神を連れ戻してくれたもう一人の神の存在を思い出し、あわてて周囲を見回した。
 しかし、あの美しい白い鳥の姿も、あの快活な銀髪の青年の姿も、もうどこにもありはしなかった。

 ***

「ねえ、それから? それから男と神様はどうなったの?」

 目の覚めるような赤い髪をした少女が、髪と同じ色をした瞳を輝かせて、ノルトに先をせがむ。ノルトはにやりと笑って、そうだなと言った。

「それからまた二人で仲よく旅を続けたかもしれないし、喧嘩別れをして二度と会わなくなったかもしれない。やっぱり敵が欲しくて殺し合いをするようになったかもしれないし、どこか平和なところに腰を落ち着けて、子供を作って暮らしているかもしれない」
「えー、そんなのずるーい。どれが正解?」
「正解なんてないさ。どれもありうる。ただ一つ確かなのは、まだ神様は世界の夢を見つづけてるってこと。男とはどうなっているかわからないけど、神様は世界を終わらせたくはないんだよ」
「でも、最後のはないと思う。男同士なんでしょ?」

 娘の隣に座って、じっとノルトの話を聞いていた同い年の少年が、冷静に口を挟んだ。こちらは雪のように白い髪とやや赤みの強い紫色の瞳をしている。
 まったく似ていないが、眉目秀麗なこの幼い男女は双子なのだ。少年のほうが兄、少女のほうが妹だった。

「そこはまあ、神様だからさ。たいていのことはできるんだよ。我慢さえすれば」
「神様、我慢したの?」

 なぜか妹が痛そうに小さな顔をしかめる。

「うん、したね。すごくした。これ以上はないってくらい我慢した。本当のことだったら、たぶんね」
「嘘? 本当? どっち?」
「嘘だと思えば嘘。本当だと思えば本当。たとえ嘘でも本当だと信じれば本当になるし、本当のことでも嘘だと思えば嘘になる。世の中、そんなものさ」
「……よくわかんない」

 そろって難しい顔をしてしまった双子の頭を、ノルトは笑いながら撫でた。

「おまえたちも大人になったらわかるよ。案外、おまえたちの近くに神様も男もいるかもしれない」
「え、いるの?」
「いるかもしれない、だ。先のことは誰にもわからない。人間にも、神様にも」
「神様でもわからないの?」
「先のことがわかったら、神様は世界を夢見ないよ。わからないから夢を見る。永遠の終わりに至るまで」

 ノルトが静かにそう答えたとき、どこか遠くから双子の名を呼ぶ若い女の声が聞こえた。双子は顔を見合わせ、同時に呟いた。

「母様だ」
「もう夕飯の時間か? じゃあ、俺はそろそろ帰らないとな。あっとそれから、いつも言ってるが、俺のことは誰にも話すなよ。母様にも、父様にも、誰にもだ」
「わかってるよ」

 双子は笑って立ち上がり、自然に手をつなぎ合わせた。
「じゃあね、ノルト。会えたらまた明日ね」
「会えたらな」

 ノルトも笑って手を振ったが、どうしたことか、双子はすぐに立ち去らずに、妙な含み笑いを浮かべて互いの顔を見ている。

「どうした? 帰らないのか? 母様に叱られるぞ」
「ノルト、すごいこと教えてあげようか?」

 もったいぶった調子でそう切り出したのは兄。

「でも、ノルトも絶対誰にも言っちゃ駄目だよ?」

 可愛らしく念を押したのは妹。

「ああ、いいよ。何だ?」
「うちの母様ね……僕らやみんなの前では女の人なんだけどね……」

 にやにや笑う兄を、無邪気に笑う妹が受けた。

「父様と二人っきりでいるときには、男の人なんだよ!」

 ノルトがあっけにとられている間に、双子は歓声を上げながら走り去ってしまった。

「これだから、子供は油断ならない」

 ノルトは目を閉じて首を左右に振り、切株に座った体勢のままその場から消えた。
 誰もいなくなった水車小屋の前では、淡い黄色の花弁をつけた花たちが、夕刻の風を受けて揺れていた。

  ―了―
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