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第四章 外なる神々

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 翌朝、アステリウスが目覚めると、いつものようにライルはすでに起きていて、出発の準備をしていた。
 開口一番、おはようございますと挨拶され、宿屋ではないので裏の井戸で顔を洗ってきてくださいと手拭を押しつけられる。
 朝の陽光の下で見るライルの髪は、常と変わらず濡羽色をしていた。やはり、昨晩のあれは光の加減のせいだったようだ。
 まだ酔いが抜け切れていない様子の村長たちは、もう少しゆっくりされていかれてはと、建前か本音かはわからないがアステリウスたちを引き止めてくれた。
 しかし、彼は先を急ぐ旅なのでと断り、一宿二飯(朝飯ももらったので)の礼として、以前から邪魔になっていたという大木を剣で一薙ぎにした。
 そのときの村人たちの拍手喝采から、もし金に困ったらこれを見せ物にして稼ごうかと彼はひそかに考えた。

「鏡がなくなっても、あの村の人間はまったく気にしていなかったな」

 村を出てから言うと、元副官はしたり顔をした。

「それは当然のことでしょう。探しても誰にも見つけられなかった鏡なら、あってもなくても同じことです。むしろ、これからは安心して、あの丘にも登ることができるようになるのではないですか?」
「あの神には、他にも泣く場所があるのかな」

 ふと漏らした彼の呟きに、元副官は面白くなさそうに眉をひそめる。

「あの神殿の神にずいぶんとご執心ですね。いったい何がそれほど気に入ったんですか? 惚れた男を鏡を映して泣く神など、情けないこと極まりないと思いますが」
「床がすり減っていたんだ」
「床?」
「ああ。たぶん、鏡を見るとき座っていただろうと思われる場所の床が、かなりすり減っていた。きっと、何度も何度もあそこに通ったんだろうな。いったいどんな男に惚れればああも泣きつづけることができるのか。私には見当もつかん」
「そうですね。アステリウス様にはわからないでしょう」

 そう言う元副官の顔は、彼ではなく前方を向いていた。

「きっと一生かかっても、あなたにはわからない」
「まるでおまえにはわかるような言い方だな、ライル」

 彼がからかうと、元副官は彼を振り返ってかすかに笑った。

「いいえ。私にもわかりません。私はその神ではありませんから」

 その後、彼と元副官は三日間は順調に旅を続けることができた。
 だが、四日目の午後。街道で野盗と見まがうものと出くわした。
 全力疾走する三騎の騎馬。街道を歩いていた人々は驚いて道を空けていた。

「いったい何事だ」

 彼は独りごちたが、面倒を避けて、元副官と共に馬を路肩へ寄せた。しかし、そのまま通り過ぎると思われた三騎は、彼らの前で急停止した。

「閣下!」

 三騎の中で主将格らしい金髪の男が、悲鳴のような声を上げる。

「よかった、間に合った! まだご無事でしたか!」
「ということは、これから無事ではなくなるのか。――何者だ?」

 男は無言で袖口をまくり、服の下に隠れていた革製の手甲を見せた。
 腕の中ほどに、双葉を図案化した緑色の紋章が描かれている。

「それはミシャンドラの……ということは、貴公らはミシャンドラ直属の者か」

 やはり無言でうなずくと、男はすぐに紋章を隠した。

「目立たず騒がず迅速にとのことでしたので、この紋章を人目にさらすことはできませんでした。急ぎ閣下にお伝えしなければならないことがございます。どこか人目につかない場所まで移動していただけますでしょうか?」
「すでに充分目立っているような気がするが。とにかく、いったん街道を離れて脇道に入ろう。話は移動しながら聞く」

 彼は馬首を巡らせ、適当な脇道に入った。男はすばやく馬を寄せ、声を潜めて彼に告げる。

「閣下。まずは我が主からの言付けをお伝えします。……〝逃げろ、俺はおまえを信じている〟」

 思わず、彼は元副官と顔を見合わせた。

「それだけではさっぱりわからん。いったい何が起こった?」
「閣下。落ち着いてお聞きください」

 真剣な面持ちで、男はそう前置きした。

「今、閣下に謀反の疑いがかけられております」

 一拍おいて、冷静に男に問い返す。

「謀反? 私が? 何でまた?」
「我らも何かの間違いではないかと何度も思いました。……主によると、今から一週間ほど前、閣下のお屋敷からサイスの有力貴族からの密書が発見されたのだそうです。その密書の中で、閣下は将軍職を辞した後、折を見てサイスへと入国し、今後はエルカシア征服に寄与することになっていたとのこと。密書を発見したのは閣下のお屋敷を借り受けていた商人で、それらをグシオン将軍に届け出た後、自ら命を絶って果てました」
「イポスが? ありえん!」

 とうとう耐えきれなくなって、彼は緋色の髪を掻きむしった。

「そもそも、そんなものがうちにあること自体ありえない! なぜこの私がよりにもよってサイスと? 私はサイスの人間を山ほど殺した男だぞ!」
「お怒りはごもっともです。しかし、内容が内容だけに、サイスに直接問いただすわけにもまいりません。将軍様方をはじめ、宰相様も国王様も、たいそう困惑されたそうですが、まずは閣下をランティスへ呼び戻し、事の真偽を確かめようということになりました。ですが、そのとき、グシオン将軍がこうおっしゃったのだそうです。――もしもこの密書が本物であったなら、誰があの男を捕らえられるのか?」
「……いかにもあの男が言いそうなことだが、密書を偽物だと断じてくれなかったのは実に残念だな」

 平常心を取り戻した彼は、淡々と言った。

「それで? 結局、私をどうすることになったんだ?」
「閣下、どうかお許しを。――閣下を発見次第、四将軍麾下きかの精鋭部隊で包囲し、閣下がおとなしく投降すればよし。もし少しでも逆らうそぶりを見せれば、そのまま攻撃せよと」
「私一人に四将軍か。ずいぶん高く買われたものだ」

 彼は失笑したが、男と元副官は両脇から彼を睨みつけた。

「笑いごとじゃありません。真面目に考えてください」
「真面目に考えろと言われてもな。私にはまったく身に覚えのないことだし。投降しろと言うのなら、いつでも素直に投降するぞ。何なら、今から貴公らと一緒にランティスへ戻ってもいい。ちょうど大学に用があった」
「閣下なら、きっとそうおっしゃるだろうと主も申しておりました。ですが、それはできかねます」

 一転して、男の表情が暗くなる。

「そのために、主は我らに閣下の行方を探らせ、いち早く接触するよう命じたのです。他の者が閣下を発見する前に」
「……投降しても、私は殺されるのか」

 重々しく男は首肯する。

「正確には、そのように主張されているのはお一方だけです。謀反の意があったのはもはや明白なのだから、投降してきたとしても処刑すべきだと。誠に残念ながら、国王陛下がその言葉に最もお心を揺り動かされておられます。これまでサイスに向けられてきた閣下の剣先が、今度はこのエルカシアに向けられるのではないかと恐れていらっしゃるのです」
「誰がそんなたわけたことを」
「グシオン将軍です」

 彼は緋色の瞳を大きく見張った。先ほど謀反の疑いをかけられていると言われたときでさえ、これほど驚きはしなかった。

「グシオンがそんなことを? 本当か?」
「はい。主だけでなく、他の二将軍様方もたいへん驚かれたそうです。何があってもグシオン将軍だけは、閣下をかばうだろうと思っていたと。とにかく、そのようなわけですので、今、閣下が投降されたとしても、お命の保障はできかねます。何とか密書が偽造である証拠をつかみ、陛下にご納得いただけるよう活動を続けておりますが、今日明日中に解決することはないでしょう。――閣下、これを」

 男は自分の懐から白い封書を取り出すと、それを恭しく彼に手渡した。封蝋には、男の手甲にあったのと同じミシャンドラの紋章の印が押してある。

「これは?」
「主が書いた信書です。ここから南東にあるシレムという村に、主の別荘がございます。そこの別荘番にその信書をお渡しください。閣下の身の安全が保障されるまで、その別荘にお隠しするよう指示してございます。軍も将軍の別荘にいきなり踏みこむような真似はしないでしょう」
「ここからそのシレムまで、どれくらいかかる?」
「馬で早駆けすれば、三日で着くでしょう。しかし、閣下の捜索命令が下されてから、すでに二日経っております。道中くれぐれもお気をつけください。できればこのまま我らが護衛におつきしたいのですが、万が一の場合、主に累が及ばないとも限りません。閣下、どうかご容赦を」
「とんでもない。ここまでしてもらえたら身に過ぎるほどだ。貴公らの主にここまでされるほど、私は何かをしたことがあったかな。まあ、とりあえずは恩に着ると伝えておいてくれ」
「はい。承知しました。確かにお伝えいたします」

 ミシャンドラの信書を懐に収めると、彼は馬を止めた。それに合わせて、周りの四人も馬を停止させる。

「それにしても、たった二日でよく私を見つけ出したな。いくら〝疾風〟とはいえ、早すぎないか?」
「いえ、それはその……」

 男とその仲間二人は、ばつが悪そうに苦笑いを浮かべる。

「実は、閣下の後任の将軍がなかなか決まらないので、いっそ閣下に指名してもらったほうが早かろうと、主は今回の騒ぎが起こる前から、極秘で我らに閣下の行方を探らせていたのです。まさか、それがこのような形で幸いするとは、我らも思ってもみませんでした」
「後任の将軍? 何だ、まだ決まっていなかったのか。簡単なことだ。適当な人間が現れるまで、フルカス爺さんに復帰してもらえばいい。どうしても爺さんが復帰したくないと言うなら、爺さんに次の将軍を指名してもらったらいいだろう」

 男たちは目を丸くすると、ぽんと両手を打った。

「そうか、フルカス様がいらっしゃった!」
「まだ死んでも呆けてもいないだろう、あの爺さんは。何をそれほど悩む必要がある?」

 彼は顔をしかめて首をかしげた。とりあえず五人にしておきたいなら、前々任者を再任させておくのがいちばん手っ取り早いだろうに。

「ご提案ありがとうございます。そちらも合わせて、主にお伝えいたします。……ところで、あの……」

 言いよどんだ男は、初めてまともにライルを見た。

「ライル殿は……これからも閣下とご一緒に?」
「追われているのは、あくまで私一人なのだな?」

 ライルが答える前にそう確認する。だが、一を聞いて十を知る彼の元副官は、声を低めてさらに先回りした。

「もし、今からあなたがこの人たちに私を一緒に連れていってほしいと頼んだりしたら、街道まであなたを引きずっていって、紅蓮のアステリウスはここにいると喚き散らしてやりますよ」

 彼は瞑目して深い溜め息をつき、男たちはなぜか赤面してうつむいた。

「というわけだ。――察してくれ」
「はい……失礼いたしました……」

 男たちは一礼すると、それではご無事を祈りますと言い残し、逃げるようにその場を立ち去っていった。

「さすが、ミシャンドラ親衛隊。風のように現れて、風のように去るな」
「親衛隊? 正規の軍人ではないのですか?」
「もちろん正規の軍人だ。だが、奴らはミシャンドラだけに絶対の忠誠を誓っている。奴の異名が〝疾風〟なのは、ああいったいつでも自分の思うままに動かせる手駒がいくらでもあるからだ。口は悪いが人徳はあるんだ。……私とは違って」
「できたら否定して差し上げたいのですが、嘘はつけません」
「ああ。私もわかりきった嘘は聞きたくない。つくなら微妙な嘘にしてくれ」

 どこまでも本気で応じると、改めて周囲を見渡す。
 左方には森。右方には草原。街道をはずれた小道には、彼ら以外に人の姿はない。

「さて、ライル。今度は予定外の目的地変更だ。道はわかるか?」

 彼が振り返ると、元副官はすでに地図を広げていた。馬を寄せて、彼にも見せる。

「多少遠回りになりますが、街道は避けていかれますか?」
「そのほうがいいだろう。向こうはまだ、こちらは知らないと思って捜しているだろうからな」
「では、この道をまっすぐ進んでいきましょうか」

 地図をしまいながら、ふと元副官は彼の顔を見、軽く笑んだ。

「アステリウス様。どうしてそんなに楽しそうな顔をしていらっしゃるんですか?」

 その指摘に驚いて、彼は元副官を見つめ返す。

「楽しそうな顔をしている? 私が?」
「ええ。とても」
「……そうか。ならば、私はきっと、宿業として支配者とは相容れないのだな」

 彼は苦笑いを漏らすと、新たな目的地シレムへ向けて馬を走らせた。
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