11 / 18
第四章 外なる神々
2
しおりを挟む
翌朝、アステリウスが目覚めると、いつものようにライルはすでに起きていて、出発の準備をしていた。
開口一番、おはようございますと挨拶され、宿屋ではないので裏の井戸で顔を洗ってきてくださいと手拭を押しつけられる。
朝の陽光の下で見るライルの髪は、常と変わらず濡羽色をしていた。やはり、昨晩のあれは光の加減のせいだったようだ。
まだ酔いが抜け切れていない様子の村長たちは、もう少しゆっくりされていかれてはと、建前か本音かはわからないがアステリウスたちを引き止めてくれた。
しかし、彼は先を急ぐ旅なのでと断り、一宿二飯(朝飯ももらったので)の礼として、以前から邪魔になっていたという大木を剣で一薙ぎにした。
そのときの村人たちの拍手喝采から、もし金に困ったらこれを見せ物にして稼ごうかと彼はひそかに考えた。
「鏡がなくなっても、あの村の人間はまったく気にしていなかったな」
村を出てから言うと、元副官はしたり顔をした。
「それは当然のことでしょう。探しても誰にも見つけられなかった鏡なら、あってもなくても同じことです。むしろ、これからは安心して、あの丘にも登ることができるようになるのではないですか?」
「あの神には、他にも泣く場所があるのかな」
ふと漏らした彼の呟きに、元副官は面白くなさそうに眉をひそめる。
「あの神殿の神にずいぶんとご執心ですね。いったい何がそれほど気に入ったんですか? 惚れた男を鏡を映して泣く神など、情けないこと極まりないと思いますが」
「床がすり減っていたんだ」
「床?」
「ああ。たぶん、鏡を見るとき座っていただろうと思われる場所の床が、かなりすり減っていた。きっと、何度も何度もあそこに通ったんだろうな。いったいどんな男に惚れればああも泣きつづけることができるのか。私には見当もつかん」
「そうですね。アステリウス様にはわからないでしょう」
そう言う元副官の顔は、彼ではなく前方を向いていた。
「きっと一生かかっても、あなたにはわからない」
「まるでおまえにはわかるような言い方だな、ライル」
彼がからかうと、元副官は彼を振り返ってかすかに笑った。
「いいえ。私にもわかりません。私はその神ではありませんから」
その後、彼と元副官は三日間は順調に旅を続けることができた。
だが、四日目の午後。街道で野盗と見まがうものと出くわした。
全力疾走する三騎の騎馬。街道を歩いていた人々は驚いて道を空けていた。
「いったい何事だ」
彼は独りごちたが、面倒を避けて、元副官と共に馬を路肩へ寄せた。しかし、そのまま通り過ぎると思われた三騎は、彼らの前で急停止した。
「閣下!」
三騎の中で主将格らしい金髪の男が、悲鳴のような声を上げる。
「よかった、間に合った! まだご無事でしたか!」
「ということは、これから無事ではなくなるのか。――何者だ?」
男は無言で袖口をまくり、服の下に隠れていた革製の手甲を見せた。
腕の中ほどに、双葉を図案化した緑色の紋章が描かれている。
「それはミシャンドラの……ということは、貴公らはミシャンドラ直属の者か」
やはり無言でうなずくと、男はすぐに紋章を隠した。
「目立たず騒がず迅速にとのことでしたので、この紋章を人目にさらすことはできませんでした。急ぎ閣下にお伝えしなければならないことがございます。どこか人目につかない場所まで移動していただけますでしょうか?」
「すでに充分目立っているような気がするが。とにかく、いったん街道を離れて脇道に入ろう。話は移動しながら聞く」
彼は馬首を巡らせ、適当な脇道に入った。男はすばやく馬を寄せ、声を潜めて彼に告げる。
「閣下。まずは我が主からの言付けをお伝えします。……〝逃げろ、俺はおまえを信じている〟」
思わず、彼は元副官と顔を見合わせた。
「それだけではさっぱりわからん。いったい何が起こった?」
「閣下。落ち着いてお聞きください」
真剣な面持ちで、男はそう前置きした。
「今、閣下に謀反の疑いがかけられております」
一拍おいて、冷静に男に問い返す。
「謀反? 私が? 何でまた?」
「我らも何かの間違いではないかと何度も思いました。……主によると、今から一週間ほど前、閣下のお屋敷からサイスの有力貴族からの密書が発見されたのだそうです。その密書の中で、閣下は将軍職を辞した後、折を見てサイスへと入国し、今後はエルカシア征服に寄与することになっていたとのこと。密書を発見したのは閣下のお屋敷を借り受けていた商人で、それらをグシオン将軍に届け出た後、自ら命を絶って果てました」
「イポスが? ありえん!」
とうとう耐えきれなくなって、彼は緋色の髪を掻きむしった。
「そもそも、そんなものがうちにあること自体ありえない! なぜこの私がよりにもよってサイスと? 私はサイスの人間を山ほど殺した男だぞ!」
「お怒りはごもっともです。しかし、内容が内容だけに、サイスに直接問いただすわけにもまいりません。将軍様方をはじめ、宰相様も国王様も、たいそう困惑されたそうですが、まずは閣下をランティスへ呼び戻し、事の真偽を確かめようということになりました。ですが、そのとき、グシオン将軍がこうおっしゃったのだそうです。――もしもこの密書が本物であったなら、誰があの男を捕らえられるのか?」
「……いかにもあの男が言いそうなことだが、密書を偽物だと断じてくれなかったのは実に残念だな」
平常心を取り戻した彼は、淡々と言った。
「それで? 結局、私をどうすることになったんだ?」
「閣下、どうかお許しを。――閣下を発見次第、四将軍麾下の精鋭部隊で包囲し、閣下がおとなしく投降すればよし。もし少しでも逆らうそぶりを見せれば、そのまま攻撃せよと」
「私一人に四将軍か。ずいぶん高く買われたものだ」
彼は失笑したが、男と元副官は両脇から彼を睨みつけた。
「笑いごとじゃありません。真面目に考えてください」
「真面目に考えろと言われてもな。私にはまったく身に覚えのないことだし。投降しろと言うのなら、いつでも素直に投降するぞ。何なら、今から貴公らと一緒にランティスへ戻ってもいい。ちょうど大学に用があった」
「閣下なら、きっとそうおっしゃるだろうと主も申しておりました。ですが、それはできかねます」
一転して、男の表情が暗くなる。
「そのために、主は我らに閣下の行方を探らせ、いち早く接触するよう命じたのです。他の者が閣下を発見する前に」
「……投降しても、私は殺されるのか」
重々しく男は首肯する。
「正確には、そのように主張されているのはお一方だけです。謀反の意があったのはもはや明白なのだから、投降してきたとしても処刑すべきだと。誠に残念ながら、国王陛下がその言葉に最もお心を揺り動かされておられます。これまでサイスに向けられてきた閣下の剣先が、今度はこのエルカシアに向けられるのではないかと恐れていらっしゃるのです」
「誰がそんなたわけたことを」
「グシオン将軍です」
彼は緋色の瞳を大きく見張った。先ほど謀反の疑いをかけられていると言われたときでさえ、これほど驚きはしなかった。
「グシオンがそんなことを? 本当か?」
「はい。主だけでなく、他の二将軍様方もたいへん驚かれたそうです。何があってもグシオン将軍だけは、閣下をかばうだろうと思っていたと。とにかく、そのようなわけですので、今、閣下が投降されたとしても、お命の保障はできかねます。何とか密書が偽造である証拠をつかみ、陛下にご納得いただけるよう活動を続けておりますが、今日明日中に解決することはないでしょう。――閣下、これを」
男は自分の懐から白い封書を取り出すと、それを恭しく彼に手渡した。封蝋には、男の手甲にあったのと同じミシャンドラの紋章の印が押してある。
「これは?」
「主が書いた信書です。ここから南東にあるシレムという村に、主の別荘がございます。そこの別荘番にその信書をお渡しください。閣下の身の安全が保障されるまで、その別荘にお隠しするよう指示してございます。軍も将軍の別荘にいきなり踏みこむような真似はしないでしょう」
「ここからそのシレムまで、どれくらいかかる?」
「馬で早駆けすれば、三日で着くでしょう。しかし、閣下の捜索命令が下されてから、すでに二日経っております。道中くれぐれもお気をつけください。できればこのまま我らが護衛におつきしたいのですが、万が一の場合、主に累が及ばないとも限りません。閣下、どうかご容赦を」
「とんでもない。ここまでしてもらえたら身に過ぎるほどだ。貴公らの主にここまでされるほど、私は何かをしたことがあったかな。まあ、とりあえずは恩に着ると伝えておいてくれ」
「はい。承知しました。確かにお伝えいたします」
ミシャンドラの信書を懐に収めると、彼は馬を止めた。それに合わせて、周りの四人も馬を停止させる。
「それにしても、たった二日でよく私を見つけ出したな。いくら〝疾風〟とはいえ、早すぎないか?」
「いえ、それはその……」
男とその仲間二人は、ばつが悪そうに苦笑いを浮かべる。
「実は、閣下の後任の将軍がなかなか決まらないので、いっそ閣下に指名してもらったほうが早かろうと、主は今回の騒ぎが起こる前から、極秘で我らに閣下の行方を探らせていたのです。まさか、それがこのような形で幸いするとは、我らも思ってもみませんでした」
「後任の将軍? 何だ、まだ決まっていなかったのか。簡単なことだ。適当な人間が現れるまで、フルカス爺さんに復帰してもらえばいい。どうしても爺さんが復帰したくないと言うなら、爺さんに次の将軍を指名してもらったらいいだろう」
男たちは目を丸くすると、ぽんと両手を打った。
「そうか、フルカス様がいらっしゃった!」
「まだ死んでも呆けてもいないだろう、あの爺さんは。何をそれほど悩む必要がある?」
彼は顔をしかめて首をかしげた。とりあえず五人にしておきたいなら、前々任者を再任させておくのがいちばん手っ取り早いだろうに。
「ご提案ありがとうございます。そちらも合わせて、主にお伝えいたします。……ところで、あの……」
言いよどんだ男は、初めてまともにライルを見た。
「ライル殿は……これからも閣下とご一緒に?」
「追われているのは、あくまで私一人なのだな?」
ライルが答える前にそう確認する。だが、一を聞いて十を知る彼の元副官は、声を低めてさらに先回りした。
「もし、今からあなたがこの人たちに私を一緒に連れていってほしいと頼んだりしたら、街道まであなたを引きずっていって、紅蓮のアステリウスはここにいると喚き散らしてやりますよ」
彼は瞑目して深い溜め息をつき、男たちはなぜか赤面してうつむいた。
「というわけだ。――察してくれ」
「はい……失礼いたしました……」
男たちは一礼すると、それではご無事を祈りますと言い残し、逃げるようにその場を立ち去っていった。
「さすが、ミシャンドラ親衛隊。風のように現れて、風のように去るな」
「親衛隊? 正規の軍人ではないのですか?」
「もちろん正規の軍人だ。だが、奴らはミシャンドラだけに絶対の忠誠を誓っている。奴の異名が〝疾風〟なのは、ああいったいつでも自分の思うままに動かせる手駒がいくらでもあるからだ。口は悪いが人徳はあるんだ。……私とは違って」
「できたら否定して差し上げたいのですが、嘘はつけません」
「ああ。私もわかりきった嘘は聞きたくない。つくなら微妙な嘘にしてくれ」
どこまでも本気で応じると、改めて周囲を見渡す。
左方には森。右方には草原。街道をはずれた小道には、彼ら以外に人の姿はない。
「さて、ライル。今度は予定外の目的地変更だ。道はわかるか?」
彼が振り返ると、元副官はすでに地図を広げていた。馬を寄せて、彼にも見せる。
「多少遠回りになりますが、街道は避けていかれますか?」
「そのほうがいいだろう。向こうはまだ、こちらは知らないと思って捜しているだろうからな」
「では、この道をまっすぐ進んでいきましょうか」
地図をしまいながら、ふと元副官は彼の顔を見、軽く笑んだ。
「アステリウス様。どうしてそんなに楽しそうな顔をしていらっしゃるんですか?」
その指摘に驚いて、彼は元副官を見つめ返す。
「楽しそうな顔をしている? 私が?」
「ええ。とても」
「……そうか。ならば、私はきっと、宿業として支配者とは相容れないのだな」
彼は苦笑いを漏らすと、新たな目的地シレムへ向けて馬を走らせた。
開口一番、おはようございますと挨拶され、宿屋ではないので裏の井戸で顔を洗ってきてくださいと手拭を押しつけられる。
朝の陽光の下で見るライルの髪は、常と変わらず濡羽色をしていた。やはり、昨晩のあれは光の加減のせいだったようだ。
まだ酔いが抜け切れていない様子の村長たちは、もう少しゆっくりされていかれてはと、建前か本音かはわからないがアステリウスたちを引き止めてくれた。
しかし、彼は先を急ぐ旅なのでと断り、一宿二飯(朝飯ももらったので)の礼として、以前から邪魔になっていたという大木を剣で一薙ぎにした。
そのときの村人たちの拍手喝采から、もし金に困ったらこれを見せ物にして稼ごうかと彼はひそかに考えた。
「鏡がなくなっても、あの村の人間はまったく気にしていなかったな」
村を出てから言うと、元副官はしたり顔をした。
「それは当然のことでしょう。探しても誰にも見つけられなかった鏡なら、あってもなくても同じことです。むしろ、これからは安心して、あの丘にも登ることができるようになるのではないですか?」
「あの神には、他にも泣く場所があるのかな」
ふと漏らした彼の呟きに、元副官は面白くなさそうに眉をひそめる。
「あの神殿の神にずいぶんとご執心ですね。いったい何がそれほど気に入ったんですか? 惚れた男を鏡を映して泣く神など、情けないこと極まりないと思いますが」
「床がすり減っていたんだ」
「床?」
「ああ。たぶん、鏡を見るとき座っていただろうと思われる場所の床が、かなりすり減っていた。きっと、何度も何度もあそこに通ったんだろうな。いったいどんな男に惚れればああも泣きつづけることができるのか。私には見当もつかん」
「そうですね。アステリウス様にはわからないでしょう」
そう言う元副官の顔は、彼ではなく前方を向いていた。
「きっと一生かかっても、あなたにはわからない」
「まるでおまえにはわかるような言い方だな、ライル」
彼がからかうと、元副官は彼を振り返ってかすかに笑った。
「いいえ。私にもわかりません。私はその神ではありませんから」
その後、彼と元副官は三日間は順調に旅を続けることができた。
だが、四日目の午後。街道で野盗と見まがうものと出くわした。
全力疾走する三騎の騎馬。街道を歩いていた人々は驚いて道を空けていた。
「いったい何事だ」
彼は独りごちたが、面倒を避けて、元副官と共に馬を路肩へ寄せた。しかし、そのまま通り過ぎると思われた三騎は、彼らの前で急停止した。
「閣下!」
三騎の中で主将格らしい金髪の男が、悲鳴のような声を上げる。
「よかった、間に合った! まだご無事でしたか!」
「ということは、これから無事ではなくなるのか。――何者だ?」
男は無言で袖口をまくり、服の下に隠れていた革製の手甲を見せた。
腕の中ほどに、双葉を図案化した緑色の紋章が描かれている。
「それはミシャンドラの……ということは、貴公らはミシャンドラ直属の者か」
やはり無言でうなずくと、男はすぐに紋章を隠した。
「目立たず騒がず迅速にとのことでしたので、この紋章を人目にさらすことはできませんでした。急ぎ閣下にお伝えしなければならないことがございます。どこか人目につかない場所まで移動していただけますでしょうか?」
「すでに充分目立っているような気がするが。とにかく、いったん街道を離れて脇道に入ろう。話は移動しながら聞く」
彼は馬首を巡らせ、適当な脇道に入った。男はすばやく馬を寄せ、声を潜めて彼に告げる。
「閣下。まずは我が主からの言付けをお伝えします。……〝逃げろ、俺はおまえを信じている〟」
思わず、彼は元副官と顔を見合わせた。
「それだけではさっぱりわからん。いったい何が起こった?」
「閣下。落ち着いてお聞きください」
真剣な面持ちで、男はそう前置きした。
「今、閣下に謀反の疑いがかけられております」
一拍おいて、冷静に男に問い返す。
「謀反? 私が? 何でまた?」
「我らも何かの間違いではないかと何度も思いました。……主によると、今から一週間ほど前、閣下のお屋敷からサイスの有力貴族からの密書が発見されたのだそうです。その密書の中で、閣下は将軍職を辞した後、折を見てサイスへと入国し、今後はエルカシア征服に寄与することになっていたとのこと。密書を発見したのは閣下のお屋敷を借り受けていた商人で、それらをグシオン将軍に届け出た後、自ら命を絶って果てました」
「イポスが? ありえん!」
とうとう耐えきれなくなって、彼は緋色の髪を掻きむしった。
「そもそも、そんなものがうちにあること自体ありえない! なぜこの私がよりにもよってサイスと? 私はサイスの人間を山ほど殺した男だぞ!」
「お怒りはごもっともです。しかし、内容が内容だけに、サイスに直接問いただすわけにもまいりません。将軍様方をはじめ、宰相様も国王様も、たいそう困惑されたそうですが、まずは閣下をランティスへ呼び戻し、事の真偽を確かめようということになりました。ですが、そのとき、グシオン将軍がこうおっしゃったのだそうです。――もしもこの密書が本物であったなら、誰があの男を捕らえられるのか?」
「……いかにもあの男が言いそうなことだが、密書を偽物だと断じてくれなかったのは実に残念だな」
平常心を取り戻した彼は、淡々と言った。
「それで? 結局、私をどうすることになったんだ?」
「閣下、どうかお許しを。――閣下を発見次第、四将軍麾下の精鋭部隊で包囲し、閣下がおとなしく投降すればよし。もし少しでも逆らうそぶりを見せれば、そのまま攻撃せよと」
「私一人に四将軍か。ずいぶん高く買われたものだ」
彼は失笑したが、男と元副官は両脇から彼を睨みつけた。
「笑いごとじゃありません。真面目に考えてください」
「真面目に考えろと言われてもな。私にはまったく身に覚えのないことだし。投降しろと言うのなら、いつでも素直に投降するぞ。何なら、今から貴公らと一緒にランティスへ戻ってもいい。ちょうど大学に用があった」
「閣下なら、きっとそうおっしゃるだろうと主も申しておりました。ですが、それはできかねます」
一転して、男の表情が暗くなる。
「そのために、主は我らに閣下の行方を探らせ、いち早く接触するよう命じたのです。他の者が閣下を発見する前に」
「……投降しても、私は殺されるのか」
重々しく男は首肯する。
「正確には、そのように主張されているのはお一方だけです。謀反の意があったのはもはや明白なのだから、投降してきたとしても処刑すべきだと。誠に残念ながら、国王陛下がその言葉に最もお心を揺り動かされておられます。これまでサイスに向けられてきた閣下の剣先が、今度はこのエルカシアに向けられるのではないかと恐れていらっしゃるのです」
「誰がそんなたわけたことを」
「グシオン将軍です」
彼は緋色の瞳を大きく見張った。先ほど謀反の疑いをかけられていると言われたときでさえ、これほど驚きはしなかった。
「グシオンがそんなことを? 本当か?」
「はい。主だけでなく、他の二将軍様方もたいへん驚かれたそうです。何があってもグシオン将軍だけは、閣下をかばうだろうと思っていたと。とにかく、そのようなわけですので、今、閣下が投降されたとしても、お命の保障はできかねます。何とか密書が偽造である証拠をつかみ、陛下にご納得いただけるよう活動を続けておりますが、今日明日中に解決することはないでしょう。――閣下、これを」
男は自分の懐から白い封書を取り出すと、それを恭しく彼に手渡した。封蝋には、男の手甲にあったのと同じミシャンドラの紋章の印が押してある。
「これは?」
「主が書いた信書です。ここから南東にあるシレムという村に、主の別荘がございます。そこの別荘番にその信書をお渡しください。閣下の身の安全が保障されるまで、その別荘にお隠しするよう指示してございます。軍も将軍の別荘にいきなり踏みこむような真似はしないでしょう」
「ここからそのシレムまで、どれくらいかかる?」
「馬で早駆けすれば、三日で着くでしょう。しかし、閣下の捜索命令が下されてから、すでに二日経っております。道中くれぐれもお気をつけください。できればこのまま我らが護衛におつきしたいのですが、万が一の場合、主に累が及ばないとも限りません。閣下、どうかご容赦を」
「とんでもない。ここまでしてもらえたら身に過ぎるほどだ。貴公らの主にここまでされるほど、私は何かをしたことがあったかな。まあ、とりあえずは恩に着ると伝えておいてくれ」
「はい。承知しました。確かにお伝えいたします」
ミシャンドラの信書を懐に収めると、彼は馬を止めた。それに合わせて、周りの四人も馬を停止させる。
「それにしても、たった二日でよく私を見つけ出したな。いくら〝疾風〟とはいえ、早すぎないか?」
「いえ、それはその……」
男とその仲間二人は、ばつが悪そうに苦笑いを浮かべる。
「実は、閣下の後任の将軍がなかなか決まらないので、いっそ閣下に指名してもらったほうが早かろうと、主は今回の騒ぎが起こる前から、極秘で我らに閣下の行方を探らせていたのです。まさか、それがこのような形で幸いするとは、我らも思ってもみませんでした」
「後任の将軍? 何だ、まだ決まっていなかったのか。簡単なことだ。適当な人間が現れるまで、フルカス爺さんに復帰してもらえばいい。どうしても爺さんが復帰したくないと言うなら、爺さんに次の将軍を指名してもらったらいいだろう」
男たちは目を丸くすると、ぽんと両手を打った。
「そうか、フルカス様がいらっしゃった!」
「まだ死んでも呆けてもいないだろう、あの爺さんは。何をそれほど悩む必要がある?」
彼は顔をしかめて首をかしげた。とりあえず五人にしておきたいなら、前々任者を再任させておくのがいちばん手っ取り早いだろうに。
「ご提案ありがとうございます。そちらも合わせて、主にお伝えいたします。……ところで、あの……」
言いよどんだ男は、初めてまともにライルを見た。
「ライル殿は……これからも閣下とご一緒に?」
「追われているのは、あくまで私一人なのだな?」
ライルが答える前にそう確認する。だが、一を聞いて十を知る彼の元副官は、声を低めてさらに先回りした。
「もし、今からあなたがこの人たちに私を一緒に連れていってほしいと頼んだりしたら、街道まであなたを引きずっていって、紅蓮のアステリウスはここにいると喚き散らしてやりますよ」
彼は瞑目して深い溜め息をつき、男たちはなぜか赤面してうつむいた。
「というわけだ。――察してくれ」
「はい……失礼いたしました……」
男たちは一礼すると、それではご無事を祈りますと言い残し、逃げるようにその場を立ち去っていった。
「さすが、ミシャンドラ親衛隊。風のように現れて、風のように去るな」
「親衛隊? 正規の軍人ではないのですか?」
「もちろん正規の軍人だ。だが、奴らはミシャンドラだけに絶対の忠誠を誓っている。奴の異名が〝疾風〟なのは、ああいったいつでも自分の思うままに動かせる手駒がいくらでもあるからだ。口は悪いが人徳はあるんだ。……私とは違って」
「できたら否定して差し上げたいのですが、嘘はつけません」
「ああ。私もわかりきった嘘は聞きたくない。つくなら微妙な嘘にしてくれ」
どこまでも本気で応じると、改めて周囲を見渡す。
左方には森。右方には草原。街道をはずれた小道には、彼ら以外に人の姿はない。
「さて、ライル。今度は予定外の目的地変更だ。道はわかるか?」
彼が振り返ると、元副官はすでに地図を広げていた。馬を寄せて、彼にも見せる。
「多少遠回りになりますが、街道は避けていかれますか?」
「そのほうがいいだろう。向こうはまだ、こちらは知らないと思って捜しているだろうからな」
「では、この道をまっすぐ進んでいきましょうか」
地図をしまいながら、ふと元副官は彼の顔を見、軽く笑んだ。
「アステリウス様。どうしてそんなに楽しそうな顔をしていらっしゃるんですか?」
その指摘に驚いて、彼は元副官を見つめ返す。
「楽しそうな顔をしている? 私が?」
「ええ。とても」
「……そうか。ならば、私はきっと、宿業として支配者とは相容れないのだな」
彼は苦笑いを漏らすと、新たな目的地シレムへ向けて馬を走らせた。
0
お気に入りに追加
4
あなたにおすすめの小説
【完結】伴侶がいるので、溺愛ご遠慮いたします
*
BL
3歳のノィユが、カビの生えてないご飯を求めて結ばれることになったのは、北の最果ての領主のおじいちゃん……え、おじいちゃん……!?
しあわせの絶頂にいるのを知らない王子たちが吃驚して憐れんで溺愛してくれそうなのですが、結構です!
めちゃくちゃかっこよくて可愛い伴侶がいますので!
本編完結しました!
時々おまけを更新しています。
元おっさんの俺、公爵家嫡男に転生~普通にしてるだけなのに、次々と問題が降りかかってくる~
おとら@ 書籍発売中
ファンタジー
アルカディア王国の公爵家嫡男であるアレク(十六歳)はある日突然、前触れもなく前世の記憶を蘇らせる。
どうやら、それまでの自分はグータラ生活を送っていて、ろくでもない評判のようだ。
そんな中、アラフォー社畜だった前世の記憶が蘇り混乱しつつも、今の生活に慣れようとするが……。
その行動は以前とは違く見え、色々と勘違いをされる羽目に。
その結果、様々な女性に迫られることになる。
元婚約者にしてツンデレ王女、専属メイドのお調子者エルフ、決闘を仕掛けてくるクーデレ竜人姫、世話をすることなったドジっ子犬耳娘など……。
「ハーレムは嫌だァァァァ! どうしてこうなった!?」
今日も、そんな彼の悲鳴が響き渡る。
【完結】虚無の王
邦幸恵紀
キャラ文芸
【現代ファンタジー/クトゥルー神話/這い寄る混沌×大学生】
大学生・沼田恭司は、ラヴクラフト以外の人間によって歪められた今の「クトゥルー神話」を正し、自分たちを自由に動けるようにしろと「クトゥルー神話」中の邪神の一柱ナイアーラトテップに迫られる。しかし、それはあくまで建前だった。
◆『偽神伝』のパラレルです。そのため、内容がかなり被っています。
辺境伯家ののんびり発明家 ~異世界でマイペースに魔道具開発を楽しむ日々~
雪月 夜狐
ファンタジー
壮年まで生きた前世の記憶を持ちながら、気がつくと辺境伯家の三男坊として5歳の姿で異世界に転生していたエルヴィン。彼はもともと物作りが大好きな性格で、前世の知識とこの世界の魔道具技術を組み合わせて、次々とユニークな発明を生み出していく。
辺境の地で、家族や使用人たちに役立つ便利な道具や、妹のための可愛いおもちゃ、さらには人々の生活を豊かにする新しい魔道具を作り上げていくエルヴィン。やがてその才能は周囲の人々にも認められ、彼は王都や商会での取引を通じて新しい人々と出会い、仲間とともに成長していく。
しかし、彼の心にはただの「発明家」以上の夢があった。この世界で、誰も見たことがないような道具を作り、貴族としての責任を果たしながら、人々に笑顔と便利さを届けたい——そんな野望が、彼を新たな冒険へと誘う。
他作品の詳細はこちら:
『転生特典:錬金術師スキルを習得しました!』
【https://www.alphapolis.co.jp/novel/297545791/906915890】
『テイマーのんびり生活!スライムと始めるVRMMOスローライフ』 【https://www.alphapolis.co.jp/novel/297545791/515916186】
『ゆるり冒険VR日和 ~のんびり異世界と現実のあいだで~』
【https://www.alphapolis.co.jp/novel/297545791/166917524】
【取り下げ予定】愛されない妃ですので。
ごろごろみかん。
恋愛
王妃になんて、望んでなったわけではない。
国王夫妻のリュシアンとミレーゼの関係は冷えきっていた。
「僕はきみを愛していない」
はっきりそう告げた彼は、ミレーゼ以外の女性を抱き、愛を囁いた。
『お飾り王妃』の名を戴くミレーゼだが、ある日彼女は側妃たちの諍いに巻き込まれ、命を落としてしまう。
(ああ、私の人生ってなんだったんだろう──?)
そう思って人生に終止符を打ったミレーゼだったが、気がつくと結婚前に戻っていた。
しかも、別の人間になっている?
なぜか見知らぬ伯爵令嬢になってしまったミレーゼだが、彼女は決意する。新たな人生、今度はリュシアンに関わることなく、平凡で優しい幸せを掴もう、と。
*年齢制限を18→15に変更しました。
システムバグで輪廻の輪から外れましたが、便利グッズ詰め合わせ付きで他の星に転生しました。
大国 鹿児
ファンタジー
輪廻転生のシステムのバグで輪廻の輪から外れちゃった!
でも神様から便利なチートグッズ(笑)の詰め合わせをもらって、
他の星に転生しました!特に使命も無いなら自由気ままに生きてみよう!
主人公はチート無双するのか!? それともハーレムか!?
はたまた、壮大なファンタジーが始まるのか!?
いえ、実は単なる趣味全開の主人公です。
色々な秘密がだんだん明らかになりますので、ゆっくりとお楽しみください。
*** 作品について ***
この作品は、真面目なチート物ではありません。
コメディーやギャグ要素やネタの多い作品となっております
重厚な世界観や派手な戦闘描写、ざまあ展開などをお求めの方は、
この作品をスルーして下さい。
*カクヨム様,小説家になろう様でも、別PNで先行して投稿しております。
【完結】電脳探偵Y
邦幸恵紀
現代文学
【SF(すこしふしぎ)/人捜し専門探偵事務所/ホラー?】
人捜し専門の探偵事務所「MSS」。しかし、その業務のほとんどは所長の渡辺由貴ではなく、彼の大学時代からの友人・吉野拓己が一手に引き受けている。吉野はどんな人間でもまたたくまに見つけ出す。そこに電脳空間へと通じる扉があるかぎり。
※表紙のロゴは遠野まさみ様(@masami_h1115)に作成していただきました。ありがとうございました。
私を幽閉した王子がこちらを気にしているのはなぜですか?
水谷繭
恋愛
婚約者である王太子リュシアンから日々疎まれながら過ごしてきたジスレーヌ。ある日のお茶会で、リュシアンが何者かに毒を盛られ倒れてしまう。
日ごろからジスレーヌをよく思っていなかった令嬢たちは、揃ってジスレーヌが毒を入れるところを見たと証言。令嬢たちの嘘を信じたリュシアンは、ジスレーヌを「裁きの家」というお屋敷に幽閉するよう指示する。
そこは二十年前に魔女と呼ばれた女が幽閉されて死んだ、いわくつきの屋敷だった。何とか幽閉期間を耐えようと怯えながら過ごすジスレーヌ。
一方、ジスレーヌを閉じ込めた張本人の王子はジスレーヌを気にしているようで……。
◇小説家になろうにも掲載中です!
◆表紙はGilry Drop様からお借りした画像を加工して使用しています
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる