【完結】逆神伝(ぎゃくしんでん)

邦幸恵紀

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第一章 紅蓮と呼ばれた男

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 その男は、店に入ってきた瞬間から、人々の目を引きつけた。
 大柄な男だった。燃えるような緋色の長い髪を束ねもせずに背中へと流し、普通なら持てあましそうな大剣を収めた剣帯を外して左手に提げている。まだ若いが、所作は堂々としており、悠然と店内を見回すと、カウンターの空席に腰を下ろした。

「いらっしゃい。何にします?」

 初老の店主は、他の客に対するのと同じように淡々と赤毛の男に訊ねた。

「麦酒とつまみを適当に」

 店主に答える声は低く、決して静かとは言えない店の中でもよく響いた。店主は黙ってうなずき、彼が注文したものを用意しはじめる。
 この男がこの近辺の者ではないことだけは確かだった。あの大剣とそれを扱うにふさわしい鍛え上げられた体から推して、各地を流れ歩いている剣士くずれといったところか。
 ほどなくつまみと一緒に出された麦酒の杯を見ると、彼は実に嬉しそうに口元をゆるめた。根っからの酒好きであるらしい。
 常連がほとんどを占める客たちは、この見慣れぬ赤毛の男に興味は持ったが、自ら話しかけようとはしなかった。彼の隣にこれ見よがしに立てかけられている大剣が、そのような気持ちを萎えさせたのだった。
 しかし、テーブル席にいたその男だけは違った。赤毛の男よりもさらに背丈も横幅もあるその男は、彼の背後に歩み寄ると、胴間声を張り上げた。

「あんた、紅蓮のアステリウスだよな?」

 だが、その名に反応したのは、当の赤毛の男より、その周囲にいた客のほうが先だった。

「紅蓮のって……あの将軍の?」
「まさか、何でこんなところに?」

 人々が驚愕した顔で囁きあうのも無理はない。王都ランティスから遠く離れたこの街でもその名はよく知られていたが、その名の持ち主の顔を知っている者はほとんどいなかった。
 紅蓮のアステリウス。それはこのエルカシアの国軍の頂点に立つ五人の将軍のうちの一人につけられた異名であり、この名を口にするとき、人々は憧憬と畏怖とを同時に覚える。
 〝紅蓮〟とは、無論、その一目見たら忘れられないほど印象的な髪の色に由来するが、もう一つ、体に浴びた返り血の色をも意味していた。
 特に三年前、エルカシアに匹敵する隣国の一つサイスが攻めこんできた際、当時まだ師団長の一人だった彼は、自ら前線に立って敵兵を斬り、死体の山を築いた。その功績が認められ、史上最年少で将軍職を拝命したのだったが、その殺戮の苛烈さに、自国兵でさえ、あの男の髪があれほど赤いのは、返り血を吸っているせいだと陰口を叩いた。
 しかし、今現在、紅蓮のアステリウスは将軍ではない。一月ほど前、突然将軍を辞したばかりか、軍そのものを辞めてしまったのである。その理由は一般国民には明らかにされておらず、まだ後任の将軍も発表されてはいない。
 赤毛の男はゆっくり麦酒を飲んでから、さらにゆっくりと男を振り返った。

「なぜ私を知っているんだ? 私はおまえの顔に見覚えはないが」

 近くで見ると元将軍の目は、髪と同じ緋色をしていた。奔放に乱れるままにしている髪のせいでわかりにくいが、顔立ち自体は意外なほど端整だった。
 だが、その顔を向けられた男は見とれるどころか逆上し、熊のような顔を紅潮させた。

「何を寝ぼけたことを言ってやがる! これを忘れたか!」

 男は怒鳴り、自分の左腕を元将軍の前に突き出した。太いその腕の先に手は存在せず、薄汚れた布が包帯のようにきつく巻かれている。

「三年前、てめえが俺の左手を切り飛ばしやがったんだ! あのときの痛み恨み、俺は今日まで一日だって忘れたことはなかったぜ! それがまさか、こんな田舎の酒場でてめえに出会えるとはな! 今日はツキ日だ!」

 月並みな科白を得意げに吐く男の顔を、元将軍は探るような目で見つめていたが、男がようやく口を閉じたところで太い眉をひそめた。

「本当に私がやったのか? なぜ?」
「てめえ、それすら覚えていねえのか! それは――」

 と男は答えようとしたが、なぜか急に口ごもった。

「……知らねえよ。てめえの虫の居所が悪かったんだろ」

 実はこの男が永遠に自分の左手を失う羽目になったのは、国軍に傭兵として雇われていた当時、事前に一般人にはいっさいの手出しをしてはならぬと厳しく言い渡されていたのにもかかわらず、サイスの娘を強姦しようとしていたからだった。
 男の狼藉をたまたま目撃した元将軍は、問答無用で男の左手を切り落とし、その場で解雇を通告した。
 つまり、非は完全に男のほうにあったのだが、それをわざわざ自分から明かす必要はないだろうと男は考えた。原因はともかく、自分の左手を切り落としたのはこの赤毛の男なのだから。

「それで? おまえはどうしたいんだ?」

 面倒くさそうに元将軍は麦酒を飲んだ。彼が何より嫌うのは、酒を飲むのを邪魔されることだと知っている人間は、まだここには来ていなかった。

「てめえの左手も切り落としてやる」

 下卑た笑いに顔を歪め、片手の男は左腰に吊した剣を鳴らす。

「それと三年分の利息として、てめえの首も刎ね飛ばしてやる」
「ずいぶん高い利率だな。ランティスの高利貸しだってもっと低いぞ」

 飄々と元将軍は答えてから、ようするにおまえと剣で戦えばいいんだなと男に問い直した。

「そういうことだ。てめえと違って、いきなり斬りつけないだけ、俺のほうがましだと思いな」
「ああ、そこは大いに評価してやろう。おまえのことは相変わらず思い出せないが、戦いたいというのならいくらでも付き合ってやる。だが、その前にもう少し待ってくれないか。私はここで連れと待ち合わせをしているんだ」
「連れ? 女か?」
「さっき別れたときには男だったな」

 麦酒を飲みながら、元将軍は人を食った言葉を返す。

「もうそろそろ来てもよさそうなものだが。追加を頼もうとすると、それを見透かしたように必ず来るんだ。あれは絶対嫌がらせだ」

 元将軍がぼそぼそと呟いたとき、店の入口に新たな客が現れた。人々は反射的に目をやり、そして息を呑んだ。
 この客もまた元将軍と同様、人の目を引く容姿をしていた。しかし、その種類は大いに異なっていた。
 元将軍より頭半分ほど低いが、この客もまた長身といえた。外套を着ているために服装ははっきり見えなかったが、身長からすると男に違いない。だが、唯一外套に覆われていないその顔は、その判断が間違っていたのではないかと思わせるほど、繊細で美しかった。
 血管が透けて見えるくらい肌は白い。首の後ろでゆるく一つに束ねられた髪は不自然なまでに黒いので、その白さがより際立って見える。菫色をした涼やかな目は、店に入った瞬間からカウンターの一点、元将軍が座を占めているところを見すえていた。足早にそちらに向かって歩いていくと、その足音で気づいたのか、元将軍は背後を振り返り、もうほとんど空に近い杯を掲げてみせる。

「今日こそは二杯目を飲めると思っていたのに」
「今日も阻止できて、嬉しいかぎりです」

 よく通るその声は、彼ほど低くはないものの、明らかに若い男のものだった。元将軍の横で惚けたように自分を眺めている片手の男に目を留め、やや呆れたように口を開く。

「また絡まれているんですか? 今度は何です?」
「うーん。どうも私が三年前に、この男の左手を切り飛ばしたらしいんだが、まったく覚えがないんだ。……ライル。覚えているか?」
「私があなたの副官になったのは二年前ですから、それ以前のことは知りようがありません。何でも私に訊いたらわかると思わないでください」
「そうか。おまえも知らないか。すると、私が思い出す手立ては完全に絶たれたな」

 元将軍は残っていた麦酒を一気に飲み干すと、立ち上がって剣帯を手に取った。

「ライル」
「はい」
「おまえが来るまで待っていたんだ。ここの酒代、私の財布から払っておいてくれ」

 このとき、何があっても表情を動かさなかった店主が、目を剥いて元将軍を見た。
 この男が紅蓮のアステリウスであったことよりも、無銭で酒を飲んでいたことのほうが店主には脅威であったらしかった。

「もういいんですか?」
「今度は私に絡む人間がいない酒場で飲み直す」
「そんな酒場は、この世のどこにもなさそうですが」
「おまえといるときには絡まれないのにな。なぜ私一人だとこうなるのだろう。私は静かにおとなしく酒を飲みたいだけなのに」
「日頃の行いが悪いからでしょう」

 元将軍はもう何も言わずに肩をすくめると、ほったらかしにされていた片手の男に向き直った。

「待たせたな。連れが来たから外へ出ようか。これでもし私が勝ったら、もう二度と私に絡んでくれるな」
「心配するな。もう二度と絡まねえよ。絡もうにもそいつは今からいなくなるからな」

 男は黄色い歯を剥き出して笑い、先に店を出た。その後を、元将軍が大股に歩いていく。さらにその後を、他の客たちが先を争うようにして追っていった。
 そうして店内に残ったのは、店主とライルと呼ばれた美青年だけになった。

「あんたはあの人の部下なのかね?」

 元将軍が残した空の杯とつまみのチーズ――結局、こちらにはまったく手をつけなかった――を片づけながら、店主は信じられないようにライルを見やる。

「ええ、元ですが。やっていることは、辞める前も辞めた後もあまり変わりません。――おいくらですか?」

 そのとき、店外で大きなどよめきが湧き起こった。
 店主は思わず外に目を向けたが、ライルはまったく見向きもせずに懐から財布を取り出すと、店主にもう一度金額を訊ね、言われたとおりの額を支払った。

「ライル、済んだぞ」

 元将軍が入口の前に立って元部下を呼んだ。あの大剣は背に負っている。見るかぎり、首も左手も切り離されてはいないようだった。

「はい、そうですか。今行きます」

 静かにライルは答え、店主に一礼してから店の外へ出た。
 店の前の通りでは、まだ興奮冷めやらない様子で人々が奇声を上げていた。その人垣の中心で、先ほどの片手の男が腹を押さえてうずくまっている。それを横目で見ながら、ライルは元将軍に訊ねた。

「今度はどうしました?」
「右手を切ってはさらに不自由になるだろうから、皮一枚で腹を切ってやった」

 平然とそう答えた元将軍に、元副官は冷然と言い放つ。

「いっそ腹を断ち切ってしまわれたほうが、一生何にも不自由しなくて済みますのに」

 かつて敵にも味方にも赤い悪魔と恐れられた男は、自分の隣に立つ美しい青年を心底不気味そうに見た。

「おまえが恐ろしいのは、それを冗談ではなく本気で言っているところだな」
「そう聞こえるように言っているだけです」
「おまえにしてはうまい冗談だ、ライル」

 元将軍は一笑すると、冗談下手な元副官と共にその場を去った。
 また一つ、血生臭い伝説を残して。
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