1 / 18
第一章 紅蓮と呼ばれた男
1
しおりを挟む
その男は、店に入ってきた瞬間から、人々の目を引きつけた。
大柄な男だった。燃えるような緋色の長い髪を束ねもせずに背中へと流し、普通なら持てあましそうな大剣を収めた剣帯を外して左手に提げている。まだ若いが、所作は堂々としており、悠然と店内を見回すと、カウンターの空席に腰を下ろした。
「いらっしゃい。何にします?」
初老の店主は、他の客に対するのと同じように淡々と赤毛の男に訊ねた。
「麦酒とつまみを適当に」
店主に答える声は低く、決して静かとは言えない店の中でもよく響いた。店主は黙ってうなずき、彼が注文したものを用意しはじめる。
この男がこの近辺の者ではないことだけは確かだった。あの大剣とそれを扱うにふさわしい鍛え上げられた体から推して、各地を流れ歩いている剣士くずれといったところか。
ほどなくつまみと一緒に出された麦酒の杯を見ると、彼は実に嬉しそうに口元をゆるめた。根っからの酒好きであるらしい。
常連がほとんどを占める客たちは、この見慣れぬ赤毛の男に興味は持ったが、自ら話しかけようとはしなかった。彼の隣にこれ見よがしに立てかけられている大剣が、そのような気持ちを萎えさせたのだった。
しかし、テーブル席にいたその男だけは違った。赤毛の男よりもさらに背丈も横幅もあるその男は、彼の背後に歩み寄ると、胴間声を張り上げた。
「あんた、紅蓮のアステリウスだよな?」
だが、その名に反応したのは、当の赤毛の男より、その周囲にいた客のほうが先だった。
「紅蓮のって……あの将軍の?」
「まさか、何でこんなところに?」
人々が驚愕した顔で囁きあうのも無理はない。王都ランティスから遠く離れたこの街でもその名はよく知られていたが、その名の持ち主の顔を知っている者はほとんどいなかった。
紅蓮のアステリウス。それはこのエルカシアの国軍の頂点に立つ五人の将軍のうちの一人につけられた異名であり、この名を口にするとき、人々は憧憬と畏怖とを同時に覚える。
〝紅蓮〟とは、無論、その一目見たら忘れられないほど印象的な髪の色に由来するが、もう一つ、体に浴びた返り血の色をも意味していた。
特に三年前、エルカシアに匹敵する隣国の一つサイスが攻めこんできた際、当時まだ師団長の一人だった彼は、自ら前線に立って敵兵を斬り、死体の山を築いた。その功績が認められ、史上最年少で将軍職を拝命したのだったが、その殺戮の苛烈さに、自国兵でさえ、あの男の髪があれほど赤いのは、返り血を吸っているせいだと陰口を叩いた。
しかし、今現在、紅蓮のアステリウスは将軍ではない。一月ほど前、突然将軍を辞したばかりか、軍そのものを辞めてしまったのである。その理由は一般国民には明らかにされておらず、まだ後任の将軍も発表されてはいない。
赤毛の男はゆっくり麦酒を飲んでから、さらにゆっくりと男を振り返った。
「なぜ私を知っているんだ? 私はおまえの顔に見覚えはないが」
近くで見ると元将軍の目は、髪と同じ緋色をしていた。奔放に乱れるままにしている髪のせいでわかりにくいが、顔立ち自体は意外なほど端整だった。
だが、その顔を向けられた男は見とれるどころか逆上し、熊のような顔を紅潮させた。
「何を寝ぼけたことを言ってやがる! これを忘れたか!」
男は怒鳴り、自分の左腕を元将軍の前に突き出した。太いその腕の先に手は存在せず、薄汚れた布が包帯のようにきつく巻かれている。
「三年前、てめえが俺の左手を切り飛ばしやがったんだ! あのときの痛み恨み、俺は今日まで一日だって忘れたことはなかったぜ! それがまさか、こんな田舎の酒場でてめえに出会えるとはな! 今日はツキ日だ!」
月並みな科白を得意げに吐く男の顔を、元将軍は探るような目で見つめていたが、男がようやく口を閉じたところで太い眉をひそめた。
「本当に私がやったのか? なぜ?」
「てめえ、それすら覚えていねえのか! それは――」
と男は答えようとしたが、なぜか急に口ごもった。
「……知らねえよ。てめえの虫の居所が悪かったんだろ」
実はこの男が永遠に自分の左手を失う羽目になったのは、国軍に傭兵として雇われていた当時、事前に一般人にはいっさいの手出しをしてはならぬと厳しく言い渡されていたのにもかかわらず、サイスの娘を強姦しようとしていたからだった。
男の狼藉をたまたま目撃した元将軍は、問答無用で男の左手を切り落とし、その場で解雇を通告した。
つまり、非は完全に男のほうにあったのだが、それをわざわざ自分から明かす必要はないだろうと男は考えた。原因はともかく、自分の左手を切り落としたのはこの赤毛の男なのだから。
「それで? おまえはどうしたいんだ?」
面倒くさそうに元将軍は麦酒を飲んだ。彼が何より嫌うのは、酒を飲むのを邪魔されることだと知っている人間は、まだここには来ていなかった。
「てめえの左手も切り落としてやる」
下卑た笑いに顔を歪め、片手の男は左腰に吊した剣を鳴らす。
「それと三年分の利息として、てめえの首も刎ね飛ばしてやる」
「ずいぶん高い利率だな。ランティスの高利貸しだってもっと低いぞ」
飄々と元将軍は答えてから、ようするにおまえと剣で戦えばいいんだなと男に問い直した。
「そういうことだ。てめえと違って、いきなり斬りつけないだけ、俺のほうがましだと思いな」
「ああ、そこは大いに評価してやろう。おまえのことは相変わらず思い出せないが、戦いたいというのならいくらでも付き合ってやる。だが、その前にもう少し待ってくれないか。私はここで連れと待ち合わせをしているんだ」
「連れ? 女か?」
「さっき別れたときには男だったな」
麦酒を飲みながら、元将軍は人を食った言葉を返す。
「もうそろそろ来てもよさそうなものだが。追加を頼もうとすると、それを見透かしたように必ず来るんだ。あれは絶対嫌がらせだ」
元将軍がぼそぼそと呟いたとき、店の入口に新たな客が現れた。人々は反射的に目をやり、そして息を呑んだ。
この客もまた元将軍と同様、人の目を引く容姿をしていた。しかし、その種類は大いに異なっていた。
元将軍より頭半分ほど低いが、この客もまた長身といえた。外套を着ているために服装ははっきり見えなかったが、身長からすると男に違いない。だが、唯一外套に覆われていないその顔は、その判断が間違っていたのではないかと思わせるほど、繊細で美しかった。
血管が透けて見えるくらい肌は白い。首の後ろでゆるく一つに束ねられた髪は不自然なまでに黒いので、その白さがより際立って見える。菫色をした涼やかな目は、店に入った瞬間からカウンターの一点、元将軍が座を占めているところを見すえていた。足早にそちらに向かって歩いていくと、その足音で気づいたのか、元将軍は背後を振り返り、もうほとんど空に近い杯を掲げてみせる。
「今日こそは二杯目を飲めると思っていたのに」
「今日も阻止できて、嬉しいかぎりです」
よく通るその声は、彼ほど低くはないものの、明らかに若い男のものだった。元将軍の横で惚けたように自分を眺めている片手の男に目を留め、やや呆れたように口を開く。
「また絡まれているんですか? 今度は何です?」
「うーん。どうも私が三年前に、この男の左手を切り飛ばしたらしいんだが、まったく覚えがないんだ。……ライル。覚えているか?」
「私があなたの副官になったのは二年前ですから、それ以前のことは知りようがありません。何でも私に訊いたらわかると思わないでください」
「そうか。おまえも知らないか。すると、私が思い出す手立ては完全に絶たれたな」
元将軍は残っていた麦酒を一気に飲み干すと、立ち上がって剣帯を手に取った。
「ライル」
「はい」
「おまえが来るまで待っていたんだ。ここの酒代、私の財布から払っておいてくれ」
このとき、何があっても表情を動かさなかった店主が、目を剥いて元将軍を見た。
この男が紅蓮のアステリウスであったことよりも、無銭で酒を飲んでいたことのほうが店主には脅威であったらしかった。
「もういいんですか?」
「今度は私に絡む人間がいない酒場で飲み直す」
「そんな酒場は、この世のどこにもなさそうですが」
「おまえといるときには絡まれないのにな。なぜ私一人だとこうなるのだろう。私は静かにおとなしく酒を飲みたいだけなのに」
「日頃の行いが悪いからでしょう」
元将軍はもう何も言わずに肩をすくめると、ほったらかしにされていた片手の男に向き直った。
「待たせたな。連れが来たから外へ出ようか。これでもし私が勝ったら、もう二度と私に絡んでくれるな」
「心配するな。もう二度と絡まねえよ。絡もうにもそいつは今からいなくなるからな」
男は黄色い歯を剥き出して笑い、先に店を出た。その後を、元将軍が大股に歩いていく。さらにその後を、他の客たちが先を争うようにして追っていった。
そうして店内に残ったのは、店主とライルと呼ばれた美青年だけになった。
「あんたはあの人の部下なのかね?」
元将軍が残した空の杯とつまみのチーズ――結局、こちらにはまったく手をつけなかった――を片づけながら、店主は信じられないようにライルを見やる。
「ええ、元ですが。やっていることは、辞める前も辞めた後もあまり変わりません。――おいくらですか?」
そのとき、店外で大きなどよめきが湧き起こった。
店主は思わず外に目を向けたが、ライルはまったく見向きもせずに懐から財布を取り出すと、店主にもう一度金額を訊ね、言われたとおりの額を支払った。
「ライル、済んだぞ」
元将軍が入口の前に立って元部下を呼んだ。あの大剣は背に負っている。見るかぎり、首も左手も切り離されてはいないようだった。
「はい、そうですか。今行きます」
静かにライルは答え、店主に一礼してから店の外へ出た。
店の前の通りでは、まだ興奮冷めやらない様子で人々が奇声を上げていた。その人垣の中心で、先ほどの片手の男が腹を押さえてうずくまっている。それを横目で見ながら、ライルは元将軍に訊ねた。
「今度はどうしました?」
「右手を切ってはさらに不自由になるだろうから、皮一枚で腹を切ってやった」
平然とそう答えた元将軍に、元副官は冷然と言い放つ。
「いっそ腹を断ち切ってしまわれたほうが、一生何にも不自由しなくて済みますのに」
かつて敵にも味方にも赤い悪魔と恐れられた男は、自分の隣に立つ美しい青年を心底不気味そうに見た。
「おまえが恐ろしいのは、それを冗談ではなく本気で言っているところだな」
「そう聞こえるように言っているだけです」
「おまえにしてはうまい冗談だ、ライル」
元将軍は一笑すると、冗談下手な元副官と共にその場を去った。
また一つ、血生臭い伝説を残して。
大柄な男だった。燃えるような緋色の長い髪を束ねもせずに背中へと流し、普通なら持てあましそうな大剣を収めた剣帯を外して左手に提げている。まだ若いが、所作は堂々としており、悠然と店内を見回すと、カウンターの空席に腰を下ろした。
「いらっしゃい。何にします?」
初老の店主は、他の客に対するのと同じように淡々と赤毛の男に訊ねた。
「麦酒とつまみを適当に」
店主に答える声は低く、決して静かとは言えない店の中でもよく響いた。店主は黙ってうなずき、彼が注文したものを用意しはじめる。
この男がこの近辺の者ではないことだけは確かだった。あの大剣とそれを扱うにふさわしい鍛え上げられた体から推して、各地を流れ歩いている剣士くずれといったところか。
ほどなくつまみと一緒に出された麦酒の杯を見ると、彼は実に嬉しそうに口元をゆるめた。根っからの酒好きであるらしい。
常連がほとんどを占める客たちは、この見慣れぬ赤毛の男に興味は持ったが、自ら話しかけようとはしなかった。彼の隣にこれ見よがしに立てかけられている大剣が、そのような気持ちを萎えさせたのだった。
しかし、テーブル席にいたその男だけは違った。赤毛の男よりもさらに背丈も横幅もあるその男は、彼の背後に歩み寄ると、胴間声を張り上げた。
「あんた、紅蓮のアステリウスだよな?」
だが、その名に反応したのは、当の赤毛の男より、その周囲にいた客のほうが先だった。
「紅蓮のって……あの将軍の?」
「まさか、何でこんなところに?」
人々が驚愕した顔で囁きあうのも無理はない。王都ランティスから遠く離れたこの街でもその名はよく知られていたが、その名の持ち主の顔を知っている者はほとんどいなかった。
紅蓮のアステリウス。それはこのエルカシアの国軍の頂点に立つ五人の将軍のうちの一人につけられた異名であり、この名を口にするとき、人々は憧憬と畏怖とを同時に覚える。
〝紅蓮〟とは、無論、その一目見たら忘れられないほど印象的な髪の色に由来するが、もう一つ、体に浴びた返り血の色をも意味していた。
特に三年前、エルカシアに匹敵する隣国の一つサイスが攻めこんできた際、当時まだ師団長の一人だった彼は、自ら前線に立って敵兵を斬り、死体の山を築いた。その功績が認められ、史上最年少で将軍職を拝命したのだったが、その殺戮の苛烈さに、自国兵でさえ、あの男の髪があれほど赤いのは、返り血を吸っているせいだと陰口を叩いた。
しかし、今現在、紅蓮のアステリウスは将軍ではない。一月ほど前、突然将軍を辞したばかりか、軍そのものを辞めてしまったのである。その理由は一般国民には明らかにされておらず、まだ後任の将軍も発表されてはいない。
赤毛の男はゆっくり麦酒を飲んでから、さらにゆっくりと男を振り返った。
「なぜ私を知っているんだ? 私はおまえの顔に見覚えはないが」
近くで見ると元将軍の目は、髪と同じ緋色をしていた。奔放に乱れるままにしている髪のせいでわかりにくいが、顔立ち自体は意外なほど端整だった。
だが、その顔を向けられた男は見とれるどころか逆上し、熊のような顔を紅潮させた。
「何を寝ぼけたことを言ってやがる! これを忘れたか!」
男は怒鳴り、自分の左腕を元将軍の前に突き出した。太いその腕の先に手は存在せず、薄汚れた布が包帯のようにきつく巻かれている。
「三年前、てめえが俺の左手を切り飛ばしやがったんだ! あのときの痛み恨み、俺は今日まで一日だって忘れたことはなかったぜ! それがまさか、こんな田舎の酒場でてめえに出会えるとはな! 今日はツキ日だ!」
月並みな科白を得意げに吐く男の顔を、元将軍は探るような目で見つめていたが、男がようやく口を閉じたところで太い眉をひそめた。
「本当に私がやったのか? なぜ?」
「てめえ、それすら覚えていねえのか! それは――」
と男は答えようとしたが、なぜか急に口ごもった。
「……知らねえよ。てめえの虫の居所が悪かったんだろ」
実はこの男が永遠に自分の左手を失う羽目になったのは、国軍に傭兵として雇われていた当時、事前に一般人にはいっさいの手出しをしてはならぬと厳しく言い渡されていたのにもかかわらず、サイスの娘を強姦しようとしていたからだった。
男の狼藉をたまたま目撃した元将軍は、問答無用で男の左手を切り落とし、その場で解雇を通告した。
つまり、非は完全に男のほうにあったのだが、それをわざわざ自分から明かす必要はないだろうと男は考えた。原因はともかく、自分の左手を切り落としたのはこの赤毛の男なのだから。
「それで? おまえはどうしたいんだ?」
面倒くさそうに元将軍は麦酒を飲んだ。彼が何より嫌うのは、酒を飲むのを邪魔されることだと知っている人間は、まだここには来ていなかった。
「てめえの左手も切り落としてやる」
下卑た笑いに顔を歪め、片手の男は左腰に吊した剣を鳴らす。
「それと三年分の利息として、てめえの首も刎ね飛ばしてやる」
「ずいぶん高い利率だな。ランティスの高利貸しだってもっと低いぞ」
飄々と元将軍は答えてから、ようするにおまえと剣で戦えばいいんだなと男に問い直した。
「そういうことだ。てめえと違って、いきなり斬りつけないだけ、俺のほうがましだと思いな」
「ああ、そこは大いに評価してやろう。おまえのことは相変わらず思い出せないが、戦いたいというのならいくらでも付き合ってやる。だが、その前にもう少し待ってくれないか。私はここで連れと待ち合わせをしているんだ」
「連れ? 女か?」
「さっき別れたときには男だったな」
麦酒を飲みながら、元将軍は人を食った言葉を返す。
「もうそろそろ来てもよさそうなものだが。追加を頼もうとすると、それを見透かしたように必ず来るんだ。あれは絶対嫌がらせだ」
元将軍がぼそぼそと呟いたとき、店の入口に新たな客が現れた。人々は反射的に目をやり、そして息を呑んだ。
この客もまた元将軍と同様、人の目を引く容姿をしていた。しかし、その種類は大いに異なっていた。
元将軍より頭半分ほど低いが、この客もまた長身といえた。外套を着ているために服装ははっきり見えなかったが、身長からすると男に違いない。だが、唯一外套に覆われていないその顔は、その判断が間違っていたのではないかと思わせるほど、繊細で美しかった。
血管が透けて見えるくらい肌は白い。首の後ろでゆるく一つに束ねられた髪は不自然なまでに黒いので、その白さがより際立って見える。菫色をした涼やかな目は、店に入った瞬間からカウンターの一点、元将軍が座を占めているところを見すえていた。足早にそちらに向かって歩いていくと、その足音で気づいたのか、元将軍は背後を振り返り、もうほとんど空に近い杯を掲げてみせる。
「今日こそは二杯目を飲めると思っていたのに」
「今日も阻止できて、嬉しいかぎりです」
よく通るその声は、彼ほど低くはないものの、明らかに若い男のものだった。元将軍の横で惚けたように自分を眺めている片手の男に目を留め、やや呆れたように口を開く。
「また絡まれているんですか? 今度は何です?」
「うーん。どうも私が三年前に、この男の左手を切り飛ばしたらしいんだが、まったく覚えがないんだ。……ライル。覚えているか?」
「私があなたの副官になったのは二年前ですから、それ以前のことは知りようがありません。何でも私に訊いたらわかると思わないでください」
「そうか。おまえも知らないか。すると、私が思い出す手立ては完全に絶たれたな」
元将軍は残っていた麦酒を一気に飲み干すと、立ち上がって剣帯を手に取った。
「ライル」
「はい」
「おまえが来るまで待っていたんだ。ここの酒代、私の財布から払っておいてくれ」
このとき、何があっても表情を動かさなかった店主が、目を剥いて元将軍を見た。
この男が紅蓮のアステリウスであったことよりも、無銭で酒を飲んでいたことのほうが店主には脅威であったらしかった。
「もういいんですか?」
「今度は私に絡む人間がいない酒場で飲み直す」
「そんな酒場は、この世のどこにもなさそうですが」
「おまえといるときには絡まれないのにな。なぜ私一人だとこうなるのだろう。私は静かにおとなしく酒を飲みたいだけなのに」
「日頃の行いが悪いからでしょう」
元将軍はもう何も言わずに肩をすくめると、ほったらかしにされていた片手の男に向き直った。
「待たせたな。連れが来たから外へ出ようか。これでもし私が勝ったら、もう二度と私に絡んでくれるな」
「心配するな。もう二度と絡まねえよ。絡もうにもそいつは今からいなくなるからな」
男は黄色い歯を剥き出して笑い、先に店を出た。その後を、元将軍が大股に歩いていく。さらにその後を、他の客たちが先を争うようにして追っていった。
そうして店内に残ったのは、店主とライルと呼ばれた美青年だけになった。
「あんたはあの人の部下なのかね?」
元将軍が残した空の杯とつまみのチーズ――結局、こちらにはまったく手をつけなかった――を片づけながら、店主は信じられないようにライルを見やる。
「ええ、元ですが。やっていることは、辞める前も辞めた後もあまり変わりません。――おいくらですか?」
そのとき、店外で大きなどよめきが湧き起こった。
店主は思わず外に目を向けたが、ライルはまったく見向きもせずに懐から財布を取り出すと、店主にもう一度金額を訊ね、言われたとおりの額を支払った。
「ライル、済んだぞ」
元将軍が入口の前に立って元部下を呼んだ。あの大剣は背に負っている。見るかぎり、首も左手も切り離されてはいないようだった。
「はい、そうですか。今行きます」
静かにライルは答え、店主に一礼してから店の外へ出た。
店の前の通りでは、まだ興奮冷めやらない様子で人々が奇声を上げていた。その人垣の中心で、先ほどの片手の男が腹を押さえてうずくまっている。それを横目で見ながら、ライルは元将軍に訊ねた。
「今度はどうしました?」
「右手を切ってはさらに不自由になるだろうから、皮一枚で腹を切ってやった」
平然とそう答えた元将軍に、元副官は冷然と言い放つ。
「いっそ腹を断ち切ってしまわれたほうが、一生何にも不自由しなくて済みますのに」
かつて敵にも味方にも赤い悪魔と恐れられた男は、自分の隣に立つ美しい青年を心底不気味そうに見た。
「おまえが恐ろしいのは、それを冗談ではなく本気で言っているところだな」
「そう聞こえるように言っているだけです」
「おまえにしてはうまい冗談だ、ライル」
元将軍は一笑すると、冗談下手な元副官と共にその場を去った。
また一つ、血生臭い伝説を残して。
0
お気に入りに追加
4
あなたにおすすめの小説
【完結】永遠の旅人
邦幸恵紀
SF
高校生・椎名達也は、未来人が創設した〈時間旅行者協会〉の職員ライアンに腕時計型タイム・マシンを使われ、強引に〈協会〉本部へと連れてこられる。実は達也はマシンなしで時空間移動ができる〝時間跳躍者〟で、ライアンはかつて別時空の達也と偶然会っていた。以来、執念深く達也を捜しつづけたライアンの目的とは。
【完結】虚無の王
邦幸恵紀
キャラ文芸
【現代ファンタジー/クトゥルー神話/這い寄る混沌×大学生】
大学生・沼田恭司は、ラヴクラフト以外の人間によって歪められた今の「クトゥルー神話」を正し、自分たちを自由に動けるようにしろと「クトゥルー神話」中の邪神の一柱ナイアーラトテップに迫られる。しかし、それはあくまで建前だった。
◆『偽神伝』のパラレルです。そのため、内容がかなり被っています。

もう死んでしまった私へ
ツカノ
恋愛
私には前世の記憶がある。
幼い頃に母と死別すれば最愛の妻が短命になった原因だとして父から厭われ、婚約者には初対面から冷遇された挙げ句に彼の最愛の聖女を虐げたと断罪されて塵のように捨てられてしまった彼女の悲しい記憶。それなのに、今世の世界で聖女も元婚約者も存在が煙のように消えているのは、何故なのでしょうか?
今世で幸せに暮らしているのに、聖女のそっくりさんや謎の婚約者候補が現れて大変です!!
ゆるゆる設定です。

オバサンが転生しましたが何も持ってないので何もできません!
みさちぃ
恋愛
50歳近くのおばさんが異世界転生した!
転生したら普通チートじゃない?何もありませんがっ!!
前世で苦しい思いをしたのでもう一人で生きて行こうかと思います。
とにかく目指すは自由気ままなスローライフ。
森で調合師して暮らすこと!
ひとまず読み漁った小説に沿って悪役令嬢から国外追放を目指しますが…
無理そうです……
更に隣で笑う幼なじみが気になります…
完結済みです。
なろう様にも掲載しています。
副題に*がついているものはアルファポリス様のみになります。
エピローグで完結です。
番外編になります。
※完結設定してしまい新しい話が追加できませんので、以後番外編載せる場合は別に設けるかなろう様のみになります。
5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?
gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。
そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて
「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」
もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね?
3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。
4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。
1章が書籍になりました。
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
転生の水神様ーー使える魔法は水属性のみだが最強ですーー
芍薬甘草湯
ファンタジー
水道局職員が異世界に転生、水神様の加護を受けて活躍する異世界転生テンプレ的なストーリーです。
42歳のパッとしない水道局職員が死亡したのち水神様から加護を約束される。
下級貴族の三男ネロ=ヴァッサーに転生し12歳の祝福の儀で水神様に再会する。
約束通り祝福をもらったが使えるのは水属性魔法のみ。
それでもネロは水魔法を工夫しながら活躍していく。
一話当たりは短いです。
通勤通学の合間などにどうぞ。
あまり深く考えずに、気楽に読んでいただければ幸いです。
完結しました。

魔喰のゴブリン~最弱から始まる復讐譚~
岡本剛也
ファンタジー
駆け出しの冒険者であるシルヴァ・ベルハイスは、ダンジョン都市フェルミでダンジョン攻略を生業としていた。
順風満帆とはいかないものの、着実に力をつけてシルバーランク昇格。
そしてついに一つの壁とも言われる十階層の突破を成し遂げた。
仲間との絆も深まり、ここから冒険者としての明るい未来が待っていると確信した矢先——とある依頼が舞い込んできた。
その依頼とは勇者パーティの荷物持ちの依頼。
勇者の戦闘を近くで見られることができ、高い報酬ということもあって引き受けたのだが、この一回の依頼がシルヴァを地獄の底に叩き落されることとなった。
ダンジョン内で勇者達からゴミのような扱いを受け、信頼していた仲間にからも見放され……ダンジョンの奥地に放置されたシルヴァは、匂いに釣られてやってきた魔物に襲われた。
魔物に食われながら、シルヴァが心の底から願ったのは勇者への復讐。
そんな願いが叶ったのか、それとも叶わなかったのか。
事実のほどは神のみぞ知るが、シルヴァは記憶を持ったままとある魔物に転生した。
その魔物とは、最弱と名高いゴブリン。
追い打ちをかけるような最悪な状況に常人なら心が折れてもおかしくない中、シルヴァは折れることなく勇者への復讐を掲げた。
これは最弱のゴブリンに転生したシルヴァが、最強である勇者への復讐を果たす物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる