【完結】虚無の王

邦幸恵紀

文字の大きさ
上 下
18 / 22
第六章 痴王残夢《ちおうざんむ》

2 魔王

しおりを挟む
 〝夜護洲古書〟は、変わらずそこにあった。
 ただ、以前は開けっ放しになっていた入り口の扉が今は閉ざされ、店の周りには空虚な闇しかないことを除けば。
 〈這い寄る混沌〉は性急に扉を開けた。店内は変わっていなかった。整然と並ぶ古書の背表紙。店主はおらず、客も見当たらない。蕃神はかすかに顔をしかめたが、奥へ向かって歩き出した。
 迷いはなかった。間違えるはずがなかった。だが。
 奥まった書棚の一角に、それはあった。

「……馬鹿な」

 呆然と、〈這い寄る混沌〉は呟いた。
 その視線の先にあったのは、金の五芒星の箔押しのある黒い背表紙。
 蕃神は戸惑いながらも、その本を書棚から引き出した。やはり黒い表紙にも金の五芒星がある。
 と、本は〈這い寄る混沌〉の手を離れて空中高くに浮き上がった。つられて見上げると、本は本にあるまじき振る舞いをした。
 しゃべったのだ。

『伝言だ。遺言でもいいけど』

 本は恭司の声で楽しげに告げた。

『一回飛んで、そこでまたこれを飛ばしたんだ。そうしたら、おまえはもう俺を見つけ出せない。おまえのルールに従えば、そうなるだろ? おまえにはあえて言わなかったけど』

 黒い本を見つめたまま、蕃神は動かなかった。

「恭司……」

 唇だけは、そう動いた。

『さよならだけが人生だ。約束どおり本は返すぜ。ちゃんとあの男に渡せよ』

 それきり。
 本は沈黙した。

「……恭司……」

 震えながら――そう、震えていた――〈這い寄る混沌〉は本に手を伸ばし、自分の懐深くに抱えこんだ。まるでそれが恭司自身であるかのように。

「どうして……恭司……恭…司……キョ…ジ……」

 呟くはしから、それまで完全な人型をとっていた蕃神は崩れていき、闇に埋もれていく。
 もう、その姿も意識も保つ必要がなかった。
 恭司がいない。恭司を見失った。恭司に……拒まれた。

(何ガ魔王ダ……何ガ支配者ダ……本当ニ欲シイタッタ一ツヲ手ニ入レラレヌノカ……)

 それは他者への怒りであり、自己への嘲りであった。

(〝我〟ハモウ動カヌ……何モ見ヌ……何モ聞カヌ……ソノママイツマデモ餓エテ齧リツヅケテイレバイイ……)
(ソレハ困ル)
(困ル)
(ル)
(知リタイ)
(知リタイ知リタイ)
(……リタイ)
(…………)
(シカトシカト)
(ドウスル?)
(スル?)
(探ス探ス……作ル?)
(探セ探セ探セ)
(呼ベ呼ベ呼ベ)

 闇の玉座から発せられた勅命に、何かが応え、身動ぎした。
 ――門の鑰にして門の守護者。ただちにあれを探し出し、ここへ導け。……おまえも、あれを気に入っているだろう?

 ***

 眼前に広がっていたのは、地平線まで続く草原だった。その上を、清涼な風が吹き渡る。
 緑は好きだった。澄みきった青い空も。流れる白い雲も。
 だから、それらに不満はなかったのだが、ここがどこで、どうして自分がいるのかは、恭司には皆目わからなかった。

(たぶん、これは夢だな)

 簡単にそう片づけて、それなら少し歩き回ってみようと一歩踏み出そうとしたとき。
 誰かに呼び止められたような気がして、恭司は足を止めた。

(誰だ?)

 だが、振り返ってみても誰もいない。気のせいかとも思ったが、夢の中で〝気のせい〟というのも妙な話だ。しょせんは自分の意識の中でのことだろうに。
 苦笑いして前に向き直った彼は、しかし、何かを感じて空を見上げた。
 気のせいではなかった。
 空を突き破って、あの白い触手が蠢いていた。

 ――見ツケタゾ。〝沼田恭司〟。

 それは音声ではなかったが、頭の中に直接響いた。

 ――我ラガ王ガ呼ンデイル。来タレ。来タレ。来タレ。

(しゃべれたのか、エロオヤジ)

 恭司がそう思ったとき、足元が傾いた。
 反射的に下を向くと、やわらかな青草は闇に蝕まれていた。

 ――心配ない。、おまえの精神を害することはない。

 それもまた音声によるものではなかったが、〝エロオヤジ〟とは別の存在であることはなぜか恭司にもわかった。
 闇は瞬く間に疫病のように緑や空を食んでいき、ついには世界すべてを呑みこんだ。
 闇だった。小さな星の光一つない、圧倒的な闇。
 だが、そこで巨大な何かがたゆたっているのを恭司は感じていた。

 ――初めまして、と言うべきか。我はすでにおまえを知っているが。

 不可視のそれは、おどけたように恭司に挨拶した。

(待てよ。何であんたとまともに会話できるんだ?)

 恭司は思わずそう返した。

(〝白痴の魔王〟であるあんたと?)

 ――〝使者〟が役目を放棄したからだ。その間だけ、我の意識は一つに統合される。もっとも、今回のようなケースはこれが初めてだが。

(役目を放棄。……人間風に言うと、辞職した?)

 ――いや、〝死んだ〟と言ったほうが近いな。おまえに会った、あの〝使者〟は滅した。

(……でも、必要とあれば、あんたは何度でも、何人でも作り出せるんだろ? いっそずっとそのままでいればいいのに。何でわざわざ白痴になるんだ?)

 窮極の混沌の中心から、時空のすべてを支配する〝盲目にして痴愚の神〟。
 〈這い寄る混沌〉を使者とする、ラヴクラフトの〝神話〟の真の主神アザトースは、さも当然のことのように答えた。

 ――つまらないだろう。……最初から、わかるなんて。

(そりゃそうだ)

 恭司は感慨深くうなずく。

(そりゃつまらない。狂ったほうが楽だ。魔王様。あんたにとっては正気と狂気、どちらが夢だ?)

 ――どちらも夢だ。だが、夢見ることをやめたいと思ったことはない。おまえはどうだ? 沼田恭司。

(正直……俺にはどこからどこまでが夢なのかわからない。あんたに訊けば、全部わかるんだろうが……あえて訊きたくないな)

 ――それがよい。もともと夢も現実も大差はない。どこであれ、おまえはそこにある。

(慰めありがとう。でも、もう俺に完璧な〝終わり〟をくれないか。あんたなら、俺の気持ちはよくわかるはずだろ?)

 ――わかる。だが、我にはまだ見残した夢がある。虚無より生まれ、虚無に還る者よ。今しばし、に付き合え。

(付き合えって……)

 そう言いかけた恭司の手の下で、ふと硬い感触がした。
 平らで革のような。どこかで何度も触れたような。
 恭司は顔をしかめながら、嫌々自分の手の下にある物を見た。

 ――今一度、それをおまえに渡す。だが、今度はどこへ飛ばしても、すぐにおまえのところへ戻ってくる。不満だろうが、今はそれを手放さぬがよいぞ。に呑まれたくなければな。

「裏切り者……」

 恭司が声に出して罵ったとき、凪いだ闇の海が小波を立てはじめた。

 ――何を言う。おまえが望んだのではないか。作り出せると。さらばだ。虚無の王。またまみえる日を楽しみにしている……

 海はしだいに荒さを増し、恭司は苦々しく思いながらも、手の下にある平らで黒くて硬い物――魔道書『死霊秘法』を拾い上げようとした。

「呼んだな。〝私〟を」

 闇の渦の下から伸ばされた浅黒い大きな手が、恭司の右手をしっかりとつかんでいた。聞こえないはずの声は歓喜に満ちあふれている。

「呼んじゃいないが……滅ぼそうとは思ってなかった」

 ふてくされてそう答える恭司を、波間から姿を現したものは両腕で強く抱きしめた。

「恭司恭司恭司恭司恭司……」
「寿限無かよ」

 呆れた恭司の体が急に浮き上がった。あわてて本をつかみ直す。持ちにくいなと思った瞬間、本はもう鍵の形に変わっていた。
 改めて気づく。今、自分が相手の肩に担ぎ上げられていることに。

「何だよ、これは」
「もう触れぬほうがよい」

 元の人型を取り戻した〈這い寄る混沌〉は、恭司を担いだまま宙に浮いていた。

「鍵がなければ、目にしただけでも気が狂う。今のおまえには、あれは渦としか認識できないだろうが」
「自分の主にあれはないだろ、あれは」

 狂える魔王の肩をつい持つと、蕃神はかすかに首をかしげた。

「主? あれが?」

 蕃神は笑っているようだった。

「違うのか?」
「違うな」
「そりゃ失敬。じゃあ、誰に仕えてるんだ?」
「おまえだ」
「……何だって?」
「おまえだ。沼田恭司。おまえだけが私の主。私の〝神〟だ」
「何言って……」

 しかし、〈這い寄る混沌〉はもう何も答えず、恭司を担ぎ上げたまま、どこかへ向かって歩き出した。
 ほんの数歩で狂気の渦が遠くなる。同時に、どこからかフルートに似た不快な調べと、人を苛つかせる太鼓の連打が聞こえてきた。
 あれは魔王を慰めるものだというが、とてもそのようには思えない。むしろ狂った状態を維持するためのものではないか。
 銀の鍵を握りしめながら、恭司はそんなことを思った。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

【完結】永遠の旅人

邦幸恵紀
SF
高校生・椎名達也は、未来人が創設した〈時間旅行者協会〉の職員ライアンに腕時計型タイム・マシンを使われ、強引に〈協会〉本部へと連れてこられる。実は達也はマシンなしで時空間移動ができる〝時間跳躍者〟で、ライアンはかつて別時空の達也と偶然会っていた。以来、執念深く達也を捜しつづけたライアンの目的とは。

MIDNIGHT

邦幸恵紀
キャラ文芸
【現代ファンタジー/外面のいい会社員×ツンデレ一見美少年/友人以上恋人未満】 「真夜中にはあまり出歩かないほうがいい」。 三月のある深夜、会社員・鬼頭和臣は、黒ずくめの美少年・霧河雅美にそう忠告される。 未成年に説教される筋合いはないと鬼頭は反発するが、その出会いが、その後の彼の人生を大きく変えてしまうのだった。 ◆「第6回キャラ文芸大賞」で奨励賞をいただきました。ありがとうございました。

熱砂のシャザール

春川桜
キャラ文芸
日本の大学生・瞳が、異国の地で貴人・シャザールと出会って始まる物語

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

後宮の裏絵師〜しんねりの美術師〜

あきゅう
キャラ文芸
【女絵師×理系官吏が、後宮に隠された謎を解く!】  姫棋(キキ)は、小さな頃から絵師になることを夢みてきた。彼女は絵さえ描けるなら、たとえ後宮だろうと地獄だろうとどこへだって行くし、友人も恋人もいらないと、ずっとそう思って生きてきた。  だが人生とは、まったくもって何が起こるか分からないものである。  夏后国の後宮へ来たことで、姫棋の運命は百八十度変わってしまったのだった。

おにぎり屋さんの裏稼業 〜お祓い請け賜わります〜

瀬崎由美
キャラ文芸
高校2年生の八神美琴は、幼い頃に両親を亡くしてからは祖母の真知子と、親戚のツバキと一緒に暮らしている。 大学通りにある屋敷の片隅で営んでいるオニギリ屋さん『おにひめ』は、気まぐれの営業ながらも学生達に人気のお店だ。でも、真知子の本業は人ならざるものを対処するお祓い屋。霊やあやかしにまつわる相談に訪れて来る人が後を絶たない。 そんなある日、祓いの仕事から戻って来た真知子が家の中で倒れてしまう。加齢による力の限界を感じた祖母から、美琴は祓いの力の継承を受ける。と、美琴はこれまで視えなかったモノが視えるようになり……。 第8回キャラ文芸大賞にて奨励賞をいただきました。

追憶の剣聖姫〜剣導部外伝〜

九重死処/shiori
キャラ文芸
脅威の戦跡を刻む神住の原点のお話 本編では語られない神住の秘密が明らかに――

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

処理中です...