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第六章 痴王残夢《ちおうざんむ》
2 魔王
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〝夜護洲古書〟は、変わらずそこにあった。
ただ、以前は開けっ放しになっていた入り口の扉が今は閉ざされ、店の周りには空虚な闇しかないことを除けば。
〈這い寄る混沌〉は性急に扉を開けた。店内は変わっていなかった。整然と並ぶ古書の背表紙。店主はおらず、客も見当たらない。蕃神はかすかに顔をしかめたが、奥へ向かって歩き出した。
迷いはなかった。間違えるはずがなかった。だが。
奥まった書棚の一角に、それはあった。
「……馬鹿な」
呆然と、〈這い寄る混沌〉は呟いた。
その視線の先にあったのは、金の五芒星の箔押しのある黒い背表紙。
蕃神は戸惑いながらも、その本を書棚から引き出した。やはり黒い表紙にも金の五芒星がある。
と、本は〈這い寄る混沌〉の手を離れて空中高くに浮き上がった。つられて見上げると、本は本にあるまじき振る舞いをした。
しゃべったのだ。
『伝言だ。遺言でもいいけど』
本は恭司の声で楽しげに告げた。
『一回飛んで、そこでまたこれを飛ばしたんだ。そうしたら、おまえはもう俺を見つけ出せない。おまえのルールに従えば、そうなるだろ? おまえにはあえて言わなかったけど』
黒い本を見つめたまま、蕃神は動かなかった。
「恭司……」
唇だけは、そう動いた。
『さよならだけが人生だ。約束どおり本は返すぜ。今度はちゃんとあの男に渡せよ』
それきり。
本は沈黙した。
「……恭司……」
震えながら――そう、震えていた――〈這い寄る混沌〉は本に手を伸ばし、自分の懐深くに抱えこんだ。まるでそれが恭司自身であるかのように。
「どうして……恭司……恭…司……キョ…ジ……」
呟くはしから、それまで完全な人型をとっていた蕃神は崩れていき、闇に埋もれていく。
もう、その姿も意識も保つ必要がなかった。
恭司がいない。恭司を見失った。恭司に……拒まれた。
(何ガ魔王ダ……何ガ支配者ダ……本当ニ欲シイタッタ一ツヲ手ニ入レラレヌノカ……)
それは他者への怒りであり、自己への嘲りであった。
(〝我〟ハモウ動カヌ……何モ見ヌ……何モ聞カヌ……ソノママイツマデモ餓エテ齧リツヅケテイレバイイ……)
(ソレハ困ル)
(困ル)
(ル)
(知リタイ)
(知リタイ知リタイ)
(……リタイ)
(…………)
(シカトシカト)
(ドウスル?)
(スル?)
(探ス探ス……作ル?)
(探セ探セ探セ)
(呼ベ呼ベ呼ベ)
闇の玉座から発せられた勅命に、何かが応え、身動ぎした。
――門の鑰にして門の守護者。ただちにあれを探し出し、ここへ導け。……おまえも、あれを気に入っているだろう?
***
眼前に広がっていたのは、地平線まで続く草原だった。その上を、清涼な風が吹き渡る。
緑は好きだった。澄みきった青い空も。流れる白い雲も。
だから、それらに不満はなかったのだが、ここがどこで、どうして自分がいるのかは、恭司には皆目わからなかった。
(たぶん、これは夢だな)
簡単にそう片づけて、それなら少し歩き回ってみようと一歩踏み出そうとしたとき。
誰かに呼び止められたような気がして、恭司は足を止めた。
(誰だ?)
だが、振り返ってみても誰もいない。気のせいかとも思ったが、夢の中で〝気のせい〟というのも妙な話だ。しょせんは自分の意識の中でのことだろうに。
苦笑いして前に向き直った彼は、しかし、何かを感じて空を見上げた。
気のせいではなかった。
空を突き破って、あの白い触手が蠢いていた。
――見ツケタゾ。〝沼田恭司〟。
それは音声ではなかったが、頭の中に直接響いた。
――我ラガ王ガ呼ンデイル。来タレ。来タレ。来タレ。
(しゃべれたのか、エロオヤジ)
恭司がそう思ったとき、足元が傾いた。
反射的に下を向くと、やわらかな青草は闇に蝕まれていた。
――心配ない。今ならば、おまえの精神を害することはない。
それもまた音声によるものではなかったが、〝エロオヤジ〟とは別の存在であることはなぜか恭司にもわかった。
闇は瞬く間に疫病のように緑や空を食んでいき、ついには世界すべてを呑みこんだ。
闇だった。小さな星の光一つない、圧倒的な闇。
だが、そこで巨大な何かがたゆたっているのを恭司は感じていた。
――初めまして、と言うべきか。我はすでにおまえを知っているが。
不可視のそれは、おどけたように恭司に挨拶した。
(待てよ。何であんたとまともに会話できるんだ?)
恭司は思わずそう返した。
(〝白痴の魔王〟であるあんたと?)
――〝使者〟が役目を放棄したからだ。その間だけ、我の意識は一つに統合される。もっとも、今回のようなケースはこれが初めてだが。
(役目を放棄。……人間風に言うと、辞職した?)
――いや、〝死んだ〟と言ったほうが近いな。おまえに会った、あの〝使者〟は滅した。
(……でも、必要とあれば、あんたは何度でも、何人でも作り出せるんだろ? いっそずっとそのままでいればいいのに。何でわざわざ白痴になるんだ?)
窮極の混沌の中心から、時空のすべてを支配する〝盲目にして痴愚の神〟。
〈這い寄る混沌〉を使者とする、ラヴクラフトの〝神話〟の真の主神アザトースは、さも当然のことのように答えた。
――つまらないだろう。……最初から、すべてわかるなんて。
(そりゃそうだ)
恭司は感慨深くうなずく。
(そりゃつまらない。狂ったほうが楽だ。魔王様。あんたにとっては正気と狂気、どちらが夢だ?)
――どちらも夢だ。だが、夢見ることをやめたいと思ったことはない。おまえはどうだ? 沼田恭司。
(正直……俺にはどこからどこまでが夢なのかわからない。あんたに訊けば、全部わかるんだろうが……あえて訊きたくないな)
――それがよい。もともと夢も現実も大差はない。どこであれ、おまえはそこにある。
(慰めありがとう。でも、もう俺に完璧な〝終わり〟をくれないか。あんたなら、俺の気持ちはよくわかるはずだろ?)
――わかる。だが、我にはまだ見残した夢がある。虚無より生まれ、虚無に還る者よ。今しばし、我らに付き合え。
(付き合えって……)
そう言いかけた恭司の手の下で、ふと硬い感触がした。
平らで革のような。どこかで何度も触れたような。
恭司は顔をしかめながら、嫌々自分の手の下にある物を見た。
――今一度、それをおまえに渡す。だが、今度はどこへ飛ばしても、すぐにおまえのところへ戻ってくる。不満だろうが、今はそれを手放さぬがよいぞ。もう一つの我に呑まれたくなければな。
「裏切り者……」
恭司が声に出して罵ったとき、凪いだ闇の海が小波を立てはじめた。
――何を言う。おまえが望んだのではないか。何度でも作り出せると。さらばだ。虚無の王。また見える日を楽しみにしている……
海はしだいに荒さを増し、恭司は苦々しく思いながらも、手の下にある平らで黒くて硬い物――魔道書『死霊秘法』を拾い上げようとした。
「呼んだな。〝私〟を」
闇の渦の下から伸ばされた浅黒い大きな手が、恭司の右手をしっかりとつかんでいた。聞こえないはずの声は歓喜に満ちあふれている。
「呼んじゃいないが……滅ぼそうとは思ってなかった」
ふてくされてそう答える恭司を、波間から姿を現したものは両腕で強く抱きしめた。
「恭司恭司恭司恭司恭司……」
「寿限無かよ」
呆れた恭司の体が急に浮き上がった。あわてて本をつかみ直す。持ちにくいなと思った瞬間、本はもう鍵の形に変わっていた。
改めて気づく。今、自分が相手の肩に担ぎ上げられていることに。
「何だよ、これは」
「もう触れぬほうがよい」
元の人型を取り戻した〈這い寄る混沌〉は、恭司を担いだまま宙に浮いていた。
「鍵がなければ、目にしただけでも気が狂う。今のおまえには、あれは渦としか認識できないだろうが」
「自分の主にあれはないだろ、あれは」
狂える魔王の肩をつい持つと、蕃神はかすかに首をかしげた。
「主? あれが?」
蕃神は笑っているようだった。
「違うのか?」
「違うな」
「そりゃ失敬。じゃあ、誰に仕えてるんだ?」
「おまえだ」
「……何だって?」
「おまえだ。沼田恭司。おまえだけが私の主。私の〝神〟だ」
「何言って……」
しかし、〈這い寄る混沌〉はもう何も答えず、恭司を担ぎ上げたまま、どこかへ向かって歩き出した。
ほんの数歩で狂気の渦が遠くなる。同時に、どこからかフルートに似た不快な調べと、人を苛つかせる太鼓の連打が聞こえてきた。
あれは魔王を慰めるものだというが、とてもそのようには思えない。むしろ狂った状態を維持するためのものではないか。
銀の鍵を握りしめながら、恭司はそんなことを思った。
ただ、以前は開けっ放しになっていた入り口の扉が今は閉ざされ、店の周りには空虚な闇しかないことを除けば。
〈這い寄る混沌〉は性急に扉を開けた。店内は変わっていなかった。整然と並ぶ古書の背表紙。店主はおらず、客も見当たらない。蕃神はかすかに顔をしかめたが、奥へ向かって歩き出した。
迷いはなかった。間違えるはずがなかった。だが。
奥まった書棚の一角に、それはあった。
「……馬鹿な」
呆然と、〈這い寄る混沌〉は呟いた。
その視線の先にあったのは、金の五芒星の箔押しのある黒い背表紙。
蕃神は戸惑いながらも、その本を書棚から引き出した。やはり黒い表紙にも金の五芒星がある。
と、本は〈這い寄る混沌〉の手を離れて空中高くに浮き上がった。つられて見上げると、本は本にあるまじき振る舞いをした。
しゃべったのだ。
『伝言だ。遺言でもいいけど』
本は恭司の声で楽しげに告げた。
『一回飛んで、そこでまたこれを飛ばしたんだ。そうしたら、おまえはもう俺を見つけ出せない。おまえのルールに従えば、そうなるだろ? おまえにはあえて言わなかったけど』
黒い本を見つめたまま、蕃神は動かなかった。
「恭司……」
唇だけは、そう動いた。
『さよならだけが人生だ。約束どおり本は返すぜ。今度はちゃんとあの男に渡せよ』
それきり。
本は沈黙した。
「……恭司……」
震えながら――そう、震えていた――〈這い寄る混沌〉は本に手を伸ばし、自分の懐深くに抱えこんだ。まるでそれが恭司自身であるかのように。
「どうして……恭司……恭…司……キョ…ジ……」
呟くはしから、それまで完全な人型をとっていた蕃神は崩れていき、闇に埋もれていく。
もう、その姿も意識も保つ必要がなかった。
恭司がいない。恭司を見失った。恭司に……拒まれた。
(何ガ魔王ダ……何ガ支配者ダ……本当ニ欲シイタッタ一ツヲ手ニ入レラレヌノカ……)
それは他者への怒りであり、自己への嘲りであった。
(〝我〟ハモウ動カヌ……何モ見ヌ……何モ聞カヌ……ソノママイツマデモ餓エテ齧リツヅケテイレバイイ……)
(ソレハ困ル)
(困ル)
(ル)
(知リタイ)
(知リタイ知リタイ)
(……リタイ)
(…………)
(シカトシカト)
(ドウスル?)
(スル?)
(探ス探ス……作ル?)
(探セ探セ探セ)
(呼ベ呼ベ呼ベ)
闇の玉座から発せられた勅命に、何かが応え、身動ぎした。
――門の鑰にして門の守護者。ただちにあれを探し出し、ここへ導け。……おまえも、あれを気に入っているだろう?
***
眼前に広がっていたのは、地平線まで続く草原だった。その上を、清涼な風が吹き渡る。
緑は好きだった。澄みきった青い空も。流れる白い雲も。
だから、それらに不満はなかったのだが、ここがどこで、どうして自分がいるのかは、恭司には皆目わからなかった。
(たぶん、これは夢だな)
簡単にそう片づけて、それなら少し歩き回ってみようと一歩踏み出そうとしたとき。
誰かに呼び止められたような気がして、恭司は足を止めた。
(誰だ?)
だが、振り返ってみても誰もいない。気のせいかとも思ったが、夢の中で〝気のせい〟というのも妙な話だ。しょせんは自分の意識の中でのことだろうに。
苦笑いして前に向き直った彼は、しかし、何かを感じて空を見上げた。
気のせいではなかった。
空を突き破って、あの白い触手が蠢いていた。
――見ツケタゾ。〝沼田恭司〟。
それは音声ではなかったが、頭の中に直接響いた。
――我ラガ王ガ呼ンデイル。来タレ。来タレ。来タレ。
(しゃべれたのか、エロオヤジ)
恭司がそう思ったとき、足元が傾いた。
反射的に下を向くと、やわらかな青草は闇に蝕まれていた。
――心配ない。今ならば、おまえの精神を害することはない。
それもまた音声によるものではなかったが、〝エロオヤジ〟とは別の存在であることはなぜか恭司にもわかった。
闇は瞬く間に疫病のように緑や空を食んでいき、ついには世界すべてを呑みこんだ。
闇だった。小さな星の光一つない、圧倒的な闇。
だが、そこで巨大な何かがたゆたっているのを恭司は感じていた。
――初めまして、と言うべきか。我はすでにおまえを知っているが。
不可視のそれは、おどけたように恭司に挨拶した。
(待てよ。何であんたとまともに会話できるんだ?)
恭司は思わずそう返した。
(〝白痴の魔王〟であるあんたと?)
――〝使者〟が役目を放棄したからだ。その間だけ、我の意識は一つに統合される。もっとも、今回のようなケースはこれが初めてだが。
(役目を放棄。……人間風に言うと、辞職した?)
――いや、〝死んだ〟と言ったほうが近いな。おまえに会った、あの〝使者〟は滅した。
(……でも、必要とあれば、あんたは何度でも、何人でも作り出せるんだろ? いっそずっとそのままでいればいいのに。何でわざわざ白痴になるんだ?)
窮極の混沌の中心から、時空のすべてを支配する〝盲目にして痴愚の神〟。
〈這い寄る混沌〉を使者とする、ラヴクラフトの〝神話〟の真の主神アザトースは、さも当然のことのように答えた。
――つまらないだろう。……最初から、すべてわかるなんて。
(そりゃそうだ)
恭司は感慨深くうなずく。
(そりゃつまらない。狂ったほうが楽だ。魔王様。あんたにとっては正気と狂気、どちらが夢だ?)
――どちらも夢だ。だが、夢見ることをやめたいと思ったことはない。おまえはどうだ? 沼田恭司。
(正直……俺にはどこからどこまでが夢なのかわからない。あんたに訊けば、全部わかるんだろうが……あえて訊きたくないな)
――それがよい。もともと夢も現実も大差はない。どこであれ、おまえはそこにある。
(慰めありがとう。でも、もう俺に完璧な〝終わり〟をくれないか。あんたなら、俺の気持ちはよくわかるはずだろ?)
――わかる。だが、我にはまだ見残した夢がある。虚無より生まれ、虚無に還る者よ。今しばし、我らに付き合え。
(付き合えって……)
そう言いかけた恭司の手の下で、ふと硬い感触がした。
平らで革のような。どこかで何度も触れたような。
恭司は顔をしかめながら、嫌々自分の手の下にある物を見た。
――今一度、それをおまえに渡す。だが、今度はどこへ飛ばしても、すぐにおまえのところへ戻ってくる。不満だろうが、今はそれを手放さぬがよいぞ。もう一つの我に呑まれたくなければな。
「裏切り者……」
恭司が声に出して罵ったとき、凪いだ闇の海が小波を立てはじめた。
――何を言う。おまえが望んだのではないか。何度でも作り出せると。さらばだ。虚無の王。また見える日を楽しみにしている……
海はしだいに荒さを増し、恭司は苦々しく思いながらも、手の下にある平らで黒くて硬い物――魔道書『死霊秘法』を拾い上げようとした。
「呼んだな。〝私〟を」
闇の渦の下から伸ばされた浅黒い大きな手が、恭司の右手をしっかりとつかんでいた。聞こえないはずの声は歓喜に満ちあふれている。
「呼んじゃいないが……滅ぼそうとは思ってなかった」
ふてくされてそう答える恭司を、波間から姿を現したものは両腕で強く抱きしめた。
「恭司恭司恭司恭司恭司……」
「寿限無かよ」
呆れた恭司の体が急に浮き上がった。あわてて本をつかみ直す。持ちにくいなと思った瞬間、本はもう鍵の形に変わっていた。
改めて気づく。今、自分が相手の肩に担ぎ上げられていることに。
「何だよ、これは」
「もう触れぬほうがよい」
元の人型を取り戻した〈這い寄る混沌〉は、恭司を担いだまま宙に浮いていた。
「鍵がなければ、目にしただけでも気が狂う。今のおまえには、あれは渦としか認識できないだろうが」
「自分の主にあれはないだろ、あれは」
狂える魔王の肩をつい持つと、蕃神はかすかに首をかしげた。
「主? あれが?」
蕃神は笑っているようだった。
「違うのか?」
「違うな」
「そりゃ失敬。じゃあ、誰に仕えてるんだ?」
「おまえだ」
「……何だって?」
「おまえだ。沼田恭司。おまえだけが私の主。私の〝神〟だ」
「何言って……」
しかし、〈這い寄る混沌〉はもう何も答えず、恭司を担ぎ上げたまま、どこかへ向かって歩き出した。
ほんの数歩で狂気の渦が遠くなる。同時に、どこからかフルートに似た不快な調べと、人を苛つかせる太鼓の連打が聞こえてきた。
あれは魔王を慰めるものだというが、とてもそのようには思えない。むしろ狂った状態を維持するためのものではないか。
銀の鍵を握りしめながら、恭司はそんなことを思った。
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