17 / 22
第六章 痴王残夢《ちおうざんむ》
1 夢現
しおりを挟む「実を言うと、これ以上おまえらに付き合うのが面倒になってきた。俺には最初から〈旧支配者〉なんてどうでもよかったしな。ただ、こいつがどうにも外れなくて困ってた。でも、こうして指輪以外のものになってくれれば」
恭司は黒い本から手を離した。タオルは落ちたが、本は落下せずに空中で消えた。
「ほら。僕にもできた」
「どこへ飛ばした?」
〈這い寄る混沌〉が秀麗な顔を歪めて低く問う。おそらく今、彼が激しく呪っているのは、恭司の狡猾さではなく、恭司の要求を〝承認〟してしまった自分の迂闊さのほうだろう。
「さあ……どこかな。特に何も考えなかったけど。でも、おまえはすぐに探し出せるんだろ? どうして探しにいかない?」
蕃神は恭司から目をそらせた。それを見て呆れたように恭司が笑う。
「本がないと〝俺〟を見つけられなくなるからか? 妙なルールだな。誰がそんなの作ったんだ?」
「恭司……」
すがるように何事かを言いかける。が、恭司に睨まれ、すぐに口を閉じた。
「俺は常々不思議に思ってたんだよ、ナイアーラトテップ。〈旧支配者〉のほとんどが何らかの制約を受けてるのに、何でおまえだけは自由に動けるんだろうと。俺だったら、真っ先におまえを封じてやるのに」
「…………」
「結局、何のことはない。おまえだけが自由に動けるのは、おまえが最初に神話のルールを作らせた張本人だからだ。自分に不利なルールを認めるバカはいない。政治家が自分たちに都合のいい法律しか作らないように」
「…………」
「でも、ラヴクラフト師匠は、おまえに言わせりゃ、自分一人で神話を作らなかった。……まあ、もともと神話ってのはそうしたもんだが。矛盾や食い違いが出てくるのは必然だ。それでも、師匠が〝これは駄目、あれはよし〟って言ってくれれば、少しは整理できた。ところが、師匠はそれをしないまま――たぶん、あえてしなかったんだろうが――この世を去っちまった。さらに困ったことには、師匠の死後も、不肖の弟子どもによって勝手にルールは増えつづけた。……なあ、ナイア。確か、俺の役目は、おまえたちを自由に動けるようにすることだったよな?」
それまで沈黙しつづけていた〈這い寄る混沌〉は、このときようやく口を開いた。
「そうだ」
「でも、おまえは最初からわかってたな。俺はもちろん、誰にもそんなことは不可能だって」
蕃神は再び返す言葉を失った。薄く笑っている恭司をただひたすら見つめつづける。
「〝神〟というフィクションは、それを信じる人間がいなければ存在できない。だからこそおまえたちは、神話の布教者として、作家ラヴクラフトを必要とした。でも、おまえがどれだけ否定しようが、生き残るのは大多数の人間にそうあってほしいと望まれたものだけだ。おまえたちが自由に動けないなら、それがおまえたちを支持する人間たちの望みだ。奴らはおまえたちがどこかに実在していて、今は自由に動けないことを望んでいる。おまえたちにしてみれば生殺しだな。そして、それこそがおまえたちを縛るもの――ラヴクラフトが仕掛けた〝封印〟だ。――どうする? それとも、試してみるか? 誰か作家をつかまえて、ラヴクラフトの書いたことは全部嘘っぱちだって小説でも書かせてみる?」
「そんなことはすでに何度もやった」
吐き出すように〈這い寄る混沌〉は言った。
「今さら試すつもりもない。それにもう……」
「そう。あの古本屋で、あの眼鏡の男を殺したときから、おまえの目的は変わってたな」
にっこり笑い、蕃神の顔を覗きこむ。
「〈這い寄る混沌〉。〈大いなる使者〉。〈無貌の神〉。……おまえはいったい、何がしたい?」
「恭……」
蕃神は恭司に手を伸ばしたが、それから逃れるように恭司は立ち上がった。
「最終的に、俺をどこに連れてくつもりだった?」
「恭司!」
〈這い寄る混沌〉も立ち上がり、恭司を抱き寄せようとした。
しかし、彼の長い腕は、恭司の細い体を捕らえることはできなかった。
「……馬鹿な」
「俺もびっくりだ。まさか、おまえにも有効だとは思わなかった」
軽く目を見張った恭司の手の中には、再びあの『死霊秘法』があり。
蕃神の両腕は、何者かに掻き消されたようになくなっていた。
「恭司……」
「恨むなら、この本を恨め。そして、これを俺に押しつけた、おまえ自身を恨め」
それでも、多少は申し訳なさそうな顔をして恭司は本を叩いた。
そんな恭司を見すえたまま、〈這い寄る混沌〉は両肩を揺すった。両腕がビデオを巻き戻したように出現する。その間、傷口からは一滴の血も落ちなかった。
「それを持っている限り、私はおまえがどこへ逃げても必ず見つけ出す」
淡々と蕃神は宣言する。
「〈夢の国〉でも、〈窮極の門〉の彼方でも」
「俺を見つけ出したら……その後はどうする? 罰として殺してくれるか?」
笑いながら恭司はもう一度本を叩いた。本は銀の鍵となり、恭司の左手の中に収まった。
「やっぱ本は重いわ。腕が疲れる」
〈這い寄る混沌〉は一瞬ためらった。が。
「言ったはずだ。約束を果たさないうちは、何があっても死なせはしないと」
「絶対に果たすことのできない約束でもか? ほんとにひでえな。だから嫌だって言ったんだよ」
「おまえがいらない命なら、私にくれてもいいだろう」
切なげに眉根を寄せて蕃神は乞う。
「カダスの城に来い。おまえが嫌う面倒はいっさいかけさせない。あそこなら、他の奴らの手下どもも手出しできぬ」
「何だおまえ、知ってたのか。性格悪いな」
「おまえほどではない」
「ごもっとも。でも、俺はおまえほど悪趣味じゃない」
恭司はにやりと笑うと、〈這い寄る混沌〉に銀の鍵を突き出した。
「なあ、ナイアルラトホテップ。夢でも永劫に続けば現実になるんなら、一瞬の現実は夢みたいなものだと思わないか? 生まれてすぐに死んだ赤ん坊にとっては、羊水の中と空気の中と、どっちのほうが現実だ?」
「恭司!」
蕃神が恭司に手を伸ばした、その瞬間にはもう恭司は消えていた。
最初から、誰もそこには存在していなかったかのように。
***
自分がまったく行ったことのない場所への移動は難しいと〈這い寄る混沌〉は言っていた。
それは恭司も自分で試してよく知っていた。実は未知の場所に移動できたことは一度としてない。
もっかのところ、いちばん移動しやすい場所は自分のアパートだった。が、今回はそこがスタート地点なのだから、どこか別の場所を選択しなければならない。しかし、そのときふと恭司は思いついた。
――鍵を使えば時空間を移動できる。ならば、時間だけを移動することもできるのではないか?
わずか五分後の自分の部屋の中に、幸い、蕃神はもういなかった。だが、いつ見つけられるかわからない。一刻の猶予もならなかった。
「カエサルのものはカエサルに。古本屋のものは古本屋に」
恭司が呪文のようにそう呟いたとき、彼の手の中からあの銀の鍵は消えていた。
「やれやれ。これでやっと眠れる」
恭司は大きく背伸びすると、いそいそとコタツに潜りこみかけた。が、それを邪魔するかのように呼び鈴が鳴った。
「……留守だよ」
聞こえないように小さな声で答えてみたが、訪問者はいっこうにあきらめず、今度はドアを叩き出す。
「すいません、下の階の者なんですが、天井から水漏れしてるんですよ……」
恭司は溜め息をついてから、立ち上がってドアの前へ行った。
返事をする前にドアについている魚眼レンズから外を窺うと、魚顔の若い男が瞬きをしない目でじっとこちらを見つめていた。一応隠れているつもりらしいが、その両脇には何人か立っている。
(へえ。下には深きものどもが住んでたんだ。知らなかったな)
他人事のように感心しながら、恭司は苦笑いした。
さて、どうするか。
おそらく、恭司がこのドアを開けた瞬間に、彼らは力ずくで中へ侵入してくるだろう。いや、このまま居留守を使っていても、強引に押し入ってくるかもしれない。
今までは、あの指輪――銀の鍵があったから、恭司は自分の身を守ることができた。呼べば今でもあれは戻ってくるだろう。だが、すぐにあの蕃神もやってくる。
「沼田さん。……いるんでしょ?」
恭司が考えている間にも、魚男のドアを叩く音はいよいよ激しくなってきている。彼らの目当てはもちろん銀の鍵だろう。では、その鍵を自ら放棄した大学生を彼らはどう扱うのだろうか。そうか、わかった、邪魔したなと帰ってくれればいいが、たぶん、それでは済まないだろうということは恭司にもわかる。
(是非もなし)
心中でそう呟いてから、声に出してはこう答える。
「はいはい。今開けます」
魚男はようやくドアを叩くのをやめた。恐ろしい力だ。ドアが少しへこみだしている。
――もしも、これから先、おまえが何か嫌な目にあいそうになったら……
かつて、恭司があの道場主に悪戯されそうになったと知ったとき、恭司の兄は泣きながら彼に言った。
――この呪文を唱えろ。そうすれば、絶対逃げられる。
皮肉なものだ。あまりに恭司を愛した兄は、その愛ゆえに不用意にも彼にそれを教えてしまった。
――これは〝夢〟だ。すべて〝夢〟なんだ。
恭司はドアのチェーンを外し、解錠した。
目を閉じて、静かにドアノブを回す。
再び目を開けたとき、そこには魚男とその仲間が立っているはずだ。恭司が否定しただけで消えるはずがない。
ここが本当に現実であるならば。
0
お気に入りに追加
5
あなたにおすすめの小説
MIDNIGHT
邦幸恵紀
キャラ文芸
【現代ファンタジー/外面のいい会社員×ツンデレ一見美少年/友人以上恋人未満】
「真夜中にはあまり出歩かないほうがいい」。
三月のある深夜、会社員・鬼頭和臣は、黒ずくめの美少年・霧河雅美にそう忠告される。
未成年に説教される筋合いはないと鬼頭は反発するが、その出会いが、その後の彼の人生を大きく変えてしまうのだった。
◆「第6回キャラ文芸大賞」で奨励賞をいただきました。ありがとうございました。
【完結】電脳探偵Y
邦幸恵紀
現代文学
【SF(すこしふしぎ)/人捜し専門探偵事務所/ホラー?】
人捜し専門の探偵事務所「MSS」。しかし、その業務のほとんどは所長の渡辺由貴ではなく、彼の大学時代からの友人・吉野拓己が一手に引き受けている。吉野はどんな人間でもまたたくまに見つけ出す。そこに電脳空間へと通じる扉があるかぎり。
※表紙のロゴは遠野まさみ様(@masami_h1115)に作成していただきました。ありがとうございました。
隣の家に住むイクメンの正体は龍神様でした~社無しの神とちびっ子神使候補たち
鳴澤うた
キャラ文芸
失恋にストーカー。
心身ともにボロボロになった姉崎菜緒は、とうとう道端で倒れるように寝てしまって……。
悪夢にうなされる菜緒を夢の中で救ってくれたのはなんとお隣のイクメン、藤村辰巳だった。
辰巳と辰巳が世話する子供たちとなんだかんだと交流を深めていくけれど、子供たちはどこか不可思議だ。
それもそのはず、人の姿をとっているけれど辰巳も子供たちも人じゃない。
社を持たない龍神様とこれから神使となるため勉強中の動物たちだったのだ!
食に対し、こだわりの強い辰巳に神使候補の子供たちや見守っている神様たちはご不満で、今の現状を打破しようと菜緒を仲間に入れようと画策していて……
神様と作る二十四節気ごはんを召し上がれ!
百合系サキュバス達に一目惚れされた
釧路太郎
キャラ文芸
名門零楼館高校はもともと女子高であったのだが、様々な要因で共学になって数年が経つ。
文武両道を掲げる零楼館高校はスポーツ分野だけではなく進学実績も全国レベルで見ても上位に食い込んでいるのであった。
そんな零楼館高校の歴史において今まで誰一人として選ばれたことのない“特別指名推薦”に選ばれたのが工藤珠希なのである。
工藤珠希は身長こそ平均を超えていたが、運動や学力はいたって平均クラスであり性格の良さはあるものの特筆すべき才能も無いように見られていた。
むしろ、彼女の幼馴染である工藤太郎は様々な部活の助っ人として活躍し、中学生でありながら様々な競技のプロ団体からスカウトが来るほどであった。更に、学力面においても優秀であり国内のみならず海外への進学も不可能ではないと言われるほどであった。
“特別指名推薦”の話が学校に来た時は誰もが相手を間違えているのではないかと疑ったほどであったが、零楼館高校関係者は工藤珠希で間違いないという。
工藤珠希と工藤太郎は血縁関係はなく、複雑な家庭環境であった工藤太郎が幼いころに両親を亡くしたこともあって彼は工藤家の養子として迎えられていた。
兄妹同然に育った二人ではあったが、お互いが相手の事を守ろうとする良き関係であり、恋人ではないがそれ以上に信頼しあっている。二人の関係性は苗字が同じという事もあって夫婦と揶揄されることも多々あったのだ。
工藤太郎は県外にあるスポーツ名門校からの推薦も来ていてほぼ内定していたのだが、工藤珠希が零楼館高校に入学することを決めたことを受けて彼も零楼館高校を受験することとなった。
スポーツ分野でも名をはせている零楼館高校に工藤太郎が入学すること自体は何の違和感もないのだが、本来入学する予定であった高校関係者は落胆の声をあげていたのだ。だが、彼の出自も相まって彼の意志を否定する者は誰もいなかったのである。
二人が入学する零楼館高校には外に出ていない秘密があるのだ。
零楼館高校に通う生徒のみならず、教員職員運営者の多くがサキュバスでありそのサキュバスも一般的に知られているサキュバスと違い女性を対象とした変異種なのである。
かつては“秘密の花園”と呼ばれた零楼館女子高等学校もそういった意味を持っていたのだった。
ちなみに、工藤珠希は工藤太郎の事を好きなのだが、それは誰にも言えない秘密なのである。
この作品は「小説家になろう」「カクヨム」「ノベルアッププラス」「ノベルバ」「ノベルピア」にも掲載しております。
想妖匣-ソウヨウハコ-
桜桃-サクランボ-
キャラ文芸
深い闇が広がる林の奥には、"ハコ"を持った者しか辿り着けない、古びた小屋がある。
そこには、紳士的な男性、筺鍵明人《きょうがいあきと》が依頼人として来る人を待ち続けていた。
「貴方の匣、開けてみませんか?」
匣とは何か、開けた先に何が待ち受けているのか。
「俺に記憶の為に、お前の"ハコ"を頂くぞ」
※小説家になろう・エブリスタ・カクヨムでも連載しております

【完結】仰る通り、貴方の子ではありません
ユユ
恋愛
辛い悪阻と難産を経て産まれたのは
私に似た待望の男児だった。
なのに認められず、
不貞の濡れ衣を着せられ、
追い出されてしまった。
実家からも勘当され
息子と2人で生きていくことにした。
* 作り話です
* 暇つぶしにどうぞ
* 4万文字未満
* 完結保証付き
* 少し大人表現あり
後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~
菱沼あゆ
キャラ文芸
突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。
洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。
天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。
洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。
中華後宮ラブコメディ。
独身寮のふるさとごはん まかないさんの美味しい献立
水縞しま
ライト文芸
旧題:独身寮のまかないさん ~おいしい故郷の味こしらえます~
第7回ライト文芸大賞【料理・グルメ賞】作品です。
◇◇◇◇
飛騨高山に本社を置く株式会社ワカミヤの独身寮『杉野館』。まかない担当として働く有村千影(ありむらちかげ)は、決まった予算の中で献立を考え、食材を調達し、調理してと日々奮闘していた。そんなある日、社員のひとりが失恋して落ち込んでしまう。食欲もないらしい。千影は彼の出身地、富山の郷土料理「ほたるいかの酢味噌和え」をこしらえて励まそうとする。
仕事に追われる社員には、熱々がおいしい「味噌煮込みうどん(愛知)」。
退職しようか思い悩む社員には、じんわりと出汁が沁みる「聖護院かぶと鯛の煮物(京都)」。
他にも飛騨高山の「赤かぶ漬け」「みだらしだんご」、大阪の「モダン焼き」など、故郷の味が盛りだくさん。
おいしい故郷の味に励まされたり、癒されたり、背中を押されたりするお話です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる